思う - みる会図書館


検索対象: 東京奇譚集
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1. 東京奇譚集

「わたしの申し上げたことは、みずきさんの心を傷つけましたでしようか ? 」 「そうね」とみずきは言った。「傷つけたと思う。とても深く」 「申し訳ありませんでした。わたしも本当は申し上げたくなかったのです」 「いいのよ。私だってたぶん心の底ではわかっていたんだから。私はいっかはその事実と、正面 から向き合わなくてはならなかったのよ」 「そう言っていただけると、わたしとしてもほっとしますーと猿は言った。 「さよなら」とみずきは猿に言った。「もうたぶん会うこともないと思うけれど」 「みずきさんもお元気で」と猿は言った。「わたしごときものの命を助けていただいて、ありが とうございました」 「二度と品川区に戻ってくるんじゃないぞ」と桜田が警棒を手のひらにうちつけながら言った。 「今日は課長のご配慮もあり、とくべつに勘弁してやるが、次にこのあたりで見かけたら、俺の 一存できっと生きては帰さないからなー それがただの脅しでないことは、猿にもよくわかったようだった。 「さて、来週はどうする ? 」と面談室に戻って、坂木哲子はみずきに尋ねた。「まだ私に相談し たいことはあるかしら ? 」 猿 209 ロロ

2. 東京奇譚集

「もしそのことを正直に私に教えてくれたら、この猿を許してやってくださいますか」とみずき は坂木課長に言った。「それほど根性の悪い猿でもないようです。こうして痛い目にもあったこ とですし、よく言い聞かせて、高尾の山にでも連れていって放してやれば、もう悪いことはしな いでしよう。いかがでしよう ? 「もしあなたがそれでかまわないというのであれば、私には異存はありません」と坂木課長は言 った。そして猿に向かって声をかけた。「おい、お前、そうすればもう二十三区内には戻ってこ ないと誓うか ? 「はい、坂木課長。私はもう二十三区内には戻って参りません。これ以上みなさんにご迷惑をお かけすることはありません。下水道を俳徊したりもしません。私ももう若くはありませんし、こ れは生き方を変える良い機会かもしれません」、猿は神妙な顔をしてそう約束した。 「念のために、こいつだと一目で見分けがつくように、焼き印を尻に押しておきましよう」と桜 田は言った。「品川区のマークをつけられる工事用の電気ごてが、どこかそのあたりにあったと 思います」 「どうかそれだけは許して下さい」と猿は涙を流さんばかりに懇願した。「お尻に妙なしるしが ついていたりしますと、警戒されて、猿の仲間にはなかなか迎えてもらえないのです。何でも包 み隠さず正直に申し上げますので、焼き印だけはなにとぞご勘弁ねがいますー 東京奇譚集

3. 東京奇譚集

不思議なくらい生き生きとして、新鮮に見えた。額は広く、考え事をするときに、横に三本、平 行にしわがよった。考え事が終わると、そのしわがばっと消えた。 淳平は彼女に心を惹かれていることに気づいた。彼女の中にある何かが、彼の心をとりとめも なく、しかし執拗にそそった。アドレナリンを得た心臓が、こっそり信号を送るように小さな音 を立てていた。急に喉の渇きを感じて、淳平は通りかかったウェイターにペリエを頼んだ。この 女は自分にとって意味を持っ相手なのだろうか、彼はいつものようにそう考えた。残された二人 のうちの一人なのだろうか ? 二球めのストライクなのか ? 見逃すべきか、あるいはスイング するべきか ? 「昔から作家になりたいと思っていたの ? ーとキリエが質問した。 「そうだね。というか、ほかの何かになりたいと思ったことがなかった。ほかの選択肢を思いっ けなかった」 「要するに夢がかなったんだ」 「どうだろう。僕は優れた作家になりたいと思っていたんだよ」、淳平は両手を広げて、セン チほどの空間を作った。「そのあいだにはかなりの距離があるような気がするー 「誰にでも出発点というものはあるのよ。まだ先は長いでしよう。最初から完全なものなんてあ り得ないもの」と彼女は言った。「あなたは今いくっ ? 東京奇譚集

4. 東京奇譚集

「それは、たとえばどんなことで ? 」とみずきは尋ねてみた。 「あまり具体的に話したくはないんです。できればーと松中優子は慎重に言葉を選びながら言っ た。「それに具体的なことをここでいちいち並べてみても、あまり意味はないような気がします。 ただ私としては、みずきさんに以前から一度うかがいたいと思っていたんです。嫉妬の感情みた いなものを体験したことがあるかどうかー 「私に前からそれを尋ねたいと思っていたわけ ? 」 「そうです」 みずきにはさつばりわけがわからなかったが、とりあえず質問に対して正直に答えることにし た。「その手の体験って、私にはたぶんなかったと思うな」と彼女は言った。「理由はよくわから ないんだけど、でも変と言えば変かもしれないわね。だって私の場合、べつに自分に自信がある ってわけじゃないし、ほしいものがなんでも手に人っているってわけでもないし、むしろあちこ ち不満だらけみたいなものなんだけど、でもだからほかの誰かをうらやましいと思うかっていう と、そういうことはとくになかったみたい。どうしてだろう ? 」 松中優子は小さな徴笑みのようなものを口元に浮かべた。「嫉妬の気持ちというのは、現実的 な、客観的な条件みたいなものとはあまり関係ないんじゃないかという気がするんです。つまり 恵まれているから誰かに嫉妬しないとか、恵まれていないから嫉妬するとか、そういうことでも ロロ 179

5. 東京奇譚集

みずきは肯いた。 「いずれにせよ、私があなたに言いたいのは」と坂木カウンセラーは言った。「行きっ戻りつで はあるけれど、ものごとは着実に解決の方向に進んでいるってことなの。ほら、よく言うじゃな い、人生は三歩進んで二歩下がるって。心配することないわよ。大丈夫だから、坂木のおばさん の言うことを信用しなさい。だからまた来週ね。受付に予約を人れておくのを忘れないように ね」 カウンセラーはそう言ってウインクをした。 翌週、午後の一時にみずきが「心の悩み相談室」に行くと、坂木哲子はいつも以上に大きな微 笑みを顔に浮かべながら、机の前に座って彼女を待っていた。 「私はあなたの名前忘れの原因をみつけたと思うわ」と彼女は誇らしげに言った。「そしてそれ を解決できたと思う」 「それは、もう私は自分の名前を忘れたりしなくなるってことなのでしようか ? 」とみずきは尋 ねた。 「そのとおり。あなたはもう自分の名前を忘れたりはしない。原因は解明され、それは正しく処 理されたのだから」 東京奇譚集 190

6. 東京奇譚集

みずきは首を振った。「いいえ、先生のおかげで問題はすっかり解決したと思います。いろい ろとありがとうございました。とても感謝しています」 「さっきのお猿があなたについて言ったことについて、とくに私と話をする必要はないわね ? 」 「はい。そのことについては自分でなんとかやっていけると思います。それは、私が自分でまず 考えなくちゃならないことだと思うんです」 坂木哲子は肯いた。「そうね、あなたならやっていけると思う。あなたは決心さえすれば、き っと強くなれるはずだから」 みずきは言った。「でも、もしどうしようもなくなったら、またここに来てかまいませんか ? 」 「もちろん」と坂木哲子は言った。そして柔軟性のある顔を大きく横に広げ、につこりと徴笑ん だ。「そのときはまた二人で、何かをひっ捕まえましよう」 そして二人は握手をして別れた。 家に戻り、みずきは猿から返してもらった「大沢みずき」の古い名札と、「安藤 ( 大沢 ) みず き」という名前が刻まれた銀のプレスレットを、茶色い事務封筒に人れて封をし、それを押人の 段ボール箱に人れた。ようやく自分の名前が手もとに戻ってきたのだ。彼女はこれから再びその 名前とともに生活していくことになる。ものごとはうまく運ぶかもしれないし、運ばないかもし れない。しかしとにかくそれがほかならぬ彼女の名前であり、ほかに名前はないのだ。 東京奇譚集 210

7. 東京奇譚集

「いったい何が原因だったのでしようか ? ーと半信半疑でみずきは尋ねた。 坂木哲子は傍らに置いてあった黒いエナメルのハンドバッグの中から何かを取りだして、机の 上に並べた。 「これはあなたのものだと思うけれど」 みずきはソフアから立ち上がって、その机の前に行った。机の上に置いてあるのは二枚の名札 だった。一枚には「大沢みずき」と書いてあり、もう一枚には「松中優子」と書いてあった。み ずきの顔から血の気が引いた。彼女はソフアに戻って、そこに沈み込んだ。しばらくのあいだロ をきくことができなかった。彼女は両手の手のひらでロをじっと押さえていた。まるでそこから 言葉がこぼれ落ちてくるのを阻止するみたいなかっこうで。 「驚くのも無理はないと思うけど」と坂木哲子は言った。「でもゆっくり説明してあげるから、 大丈夫。安心して。何も怖がることはないから」 「でもどうして とみずきは言った。 「どうしてあなたの寮時代の名札が私の手元にあるのか ? 」 「そうです。私には 「理解できないのね ? 」 みずきは頷いた。 ロロ 191

8. 東京奇譚集

をした。仕事の具合はどうか ? 子供たちは元気か ? 共通の知人の消息、両親の健康状態。 部屋に人ると、彼はキッチンに行って湯を沸かした。 「まだピアノを弾いているの ? 」と彼女は居間に置いてあるアップライト・ピアノに目をとめて 言った。 「趣味で弾いてるよ。やさしい曲だけね。むずかしいものはとても指がまわらない 姉はピアノの蓋を開け、使い込まれて変色した鍵盤に指を置いた。「あなたはゆくゆく、コン ト・ピアニストとして名を成すだろうと思っていたんだけど」 「音楽の世界というのは、神童の墓場なんだよーと彼はコーヒー豆を挽きながら言った。「もち ろん僕にとっても、それはすごく残念なことだったよ。ピアニストになるのをあきらめるのはね。 そりや、 がっかりしたさ。それまで積み上げてきたことが何もかも無駄に終わったんだ、という 気がした。どこかに消え失せてしまいたいような気持ちにもなった。でもどう考えても、僕の耳 は僕の腕より遥かに優秀だった。僕より腕のたつやつはけっこういるけれど、僕より耳の鋭いや つはいない。大学に人ってしばらくして、そのことに気づいた。そしてこう思った。二流のピア ニストになるよりは、一流の調律師になった方が僕自身のためだって」 彼は冷蔵庫からコーヒー用のクリームを出して、小さな瀬一尸物のピッチャーに移した。 「不思議な話だけど、調律を専門に勉強するようになってから、逆にピアノを弾くことが楽しく 東京奇譚集

9. 東京奇譚集

「ねえ、おじさんはここで何をしているの ? たしか昨日もここにいたよね。ちらっと見かけた んだ」と女の子は尋ねた。 「このあたりで捜しものをしているんだよ 「どんなものを ? 」 「わからない」と私は正直に言った。「たぶんドアみたいなものだと思うけど」 「ドア ? 」と女の子は言った。「どんなドア ? ドアにだっていろんなかたちや色があるよね」 私は考え込んだ。どんなかたちと色 ? そういえばこれまで、ドアのかたちや色について考え たことはなかった。不思議な話だ。「わからないな。いったいどんなかたちや色をしているんだ ろう。ひょっとしたら、それはドアでさえないかもしれない」 「ひょっとしたら、雨傘みたいなものかもしれない ? 」 「雨傘 ? 」と私は言った。「そうだね、それが雨傘であってはならないという理由もないような 気がするねー 「雨傘とドアとじゃ、かたちも大きさもやくめもずいぶん違うよね」 「違うね、たしかに。でも一目見れば、その場でばっとわかるはずなんだ。ああ、そうだ、これ ナツツであ が捜していたものだって。たとえそれが雨傘であるにせよ、ドアであるにせよ、ドー るにせよ」 東京奇譚集 114

10. 東京奇譚集

「ルール ? ・ 「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かた ちのないものを選べ。それが僕のルールです。壁に突きあたったときにはいつもそのルールに従 ってきたし、長い目で見ればそれが良い結果を生んだと思う。そのときはきっかったとしても 「そのルールはあなたが自分で作ったの ? 」 「そう、と彼はプジョーの計器。ハネルに向かって言った。「ひとつの経験則として」 「かたちのあるものと、かたちのないものと、どちらかを選ばなくちゃならないとしたら、かた ちのないものを選べーと彼女はくり返した。 「そのとおり」 彼女はひとしきり考えた。「そう言われても、今の私にはよくわからない。いったい何にかた ちがあって、何にかたちがないのか」 「そうかもしれない。でもそれはたぶん、どこかで選ばなくちゃならないことなんです」 「あなたにはそれがわかるの ? 」 彼は静かに頷いた。「僕みたいなべテランのゲイにはいろんなとくべつな能力が身についてく るんですー 東京奇譚集