桜田 - みる会図書館


検索対象: 東京奇譚集
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1. 東京奇譚集

屋のドアの前に立って、坂木哲子はドアをノックした。「どうぞ」という男の声がして、坂木哲 子はドアを開けた。 中には背の高いやせた五十歳前後の男と、大柄な二十代半ばの男がいた。どちらも淡いコーヒ ー色の作業着を着ていた。中年の男は「坂木」という名札を胸につけ、若い方の男は「桜田」と いう名札をつけていた。桜田は手に黒い警棒を持っていた。 「安藤みずきさんですね ? 」と坂木という男が言った。「私は坂木哲子の夫です。坂木義郎と申 します。ここ品川区役所の土木課長をしております。こっちは桜田くん。うちの課のものです」 「よろしく」とみずきは言った。 「どう、おとなしくしている ? 」と坂木哲子が夫に尋ねた。 「ああ、すっかり観念しておとなしくなったね」と坂木義郎は言った。「桜田くんが朝からここ でずっと見張っていたんだが、これといって迷惑をかけるようなこともなかったらしい」 「はい。おとなしいものですーと桜田はいくぶん残念そうに言った。「暴れたりしたら、ひとっ 思い知らせてやろうと思っていたんですが、そういうこともありませんでした」 「桜田くんは学生時代、明治大学で空手部の主将をしておりましてね、前途有為の青年です」と 坂木課長が言った。 「それでーーいったい誰が、なんのために、私のところから名札なんかを盗み出したのでしょ ロロ 193

2. 東京奇譚集

であなたのお住まいに盗みに人ったような次第です」 「でもどうして、私の名札までついでに持っていったのかしらーー松中優子の名札だけじゃなく て。それでずいぶん私は苦労したのよ。自分の名前がわからなくなってしまって」 「本当に申し訳ありません」と猿は恥ずかしそうに頭を垂れた。「心を惹かれる名前を目の前に すると、ついつい盗んでしまいたくなるのです。お恥ずかしい話ですが、大沢みずきさんの名札 も、わたしのささやかな胸を強く揺さぶりました。前にも申し上げましたように、これは病です。 自分でもその衝動を抑えることができないのです。いけないと思いながらも、ついふらっと手が 伸びてしまうのです。ご迷惑をおかけしたことについては、心からお詫びします」 「このお猿は品川区の下水道の中に潜伏していたのよーと坂木哲子は言った。「だからうちの夫 に頼んで、ここの若い人たちに捕まえてもらったわけ。ほら、彼は土木課の課長だし、下水道は 土木課の受け持ちのひとつだから、そういうことをするにはちょうど都合がよかったのよ」 「この猿を捕まえるにあたっては、ここにいる桜田くんがずいぶん活躍してくれました」と坂木 課長が一一一口った。 うろん 「区の下水道にこのような胡乱なものが潜んでいるというのは、土木課としまして、何があって も看過できないことであります」と桜田は得意そうに言った。「どうやらこいつは高輪あたりの 地下に仮住まいをつくり、そこを本拠にして、下水道づたいに都内各所に移動をしていたようで ロロ 199

3. 東京奇譚集

「わたしの申し上げたことは、みずきさんの心を傷つけましたでしようか ? 」 「そうね」とみずきは言った。「傷つけたと思う。とても深く」 「申し訳ありませんでした。わたしも本当は申し上げたくなかったのです」 「いいのよ。私だってたぶん心の底ではわかっていたんだから。私はいっかはその事実と、正面 から向き合わなくてはならなかったのよ」 「そう言っていただけると、わたしとしてもほっとしますーと猿は言った。 「さよなら」とみずきは猿に言った。「もうたぶん会うこともないと思うけれど」 「みずきさんもお元気で」と猿は言った。「わたしごときものの命を助けていただいて、ありが とうございました」 「二度と品川区に戻ってくるんじゃないぞ」と桜田が警棒を手のひらにうちつけながら言った。 「今日は課長のご配慮もあり、とくべつに勘弁してやるが、次にこのあたりで見かけたら、俺の 一存できっと生きては帰さないからなー それがただの脅しでないことは、猿にもよくわかったようだった。 「さて、来週はどうする ? 」と面談室に戻って、坂木哲子はみずきに尋ねた。「まだ私に相談し たいことはあるかしら ? 」 猿 209 ロロ

4. 東京奇譚集

「なんだか都合のいい理屈だな」と桜田は言った。「そういうのは、額面通りには受け取れませ んね。こいっ命がかかっているものだから、猿知恵を働かせて、必死に言い訳しているんです 「そうでもないかもよ。このお猿の言うことにも、ひょっとして一理あるかもしれない」、坂木 哲子は腕組みをしてしばらく考え込んでいたが、やがてそう言った。そして猿に向かって問いた だした。「あなたは名前を盗むことによって、善きものと同時に、そこにある悪いものをも引き 受けるっていうことなのね ? 」 「はい。そうです」と猿は言った。「選り好みはできません。そこに悪しきものごとが含まれて いれば、わたしたち猿はそれをも引き受けます。全部込みでそっくり引き受けるのです。お願い です。わたしを殺したりしないで下さい。わたしは悪癖をもったつまらない猿ですが、それはそ れとして、みなさんのお役に立っているところもなくはないのです」 「じゃあ私の名前には、どんな悪しきものごとがあったのかしら ? 」とみずきは猿に尋ねた。 「わたしとしてはそのことは、ご本人の前で語りたくありません」と猿は言った。 「言ってちょうだい」とみずきは言った。「もしちゃんとそのことを教えてくれたら、あなたの ことを許してあげます。許してもらえるように、ここにいるみなさんに頼んであげます」 「本当ですか ? 」 ロロ 203

5. 東京奇譚集

「まあ、焼きごては許してやりなさい」と坂木課長がとりなして言った。「とくに区のマークが 尻に押してあったりすると、あとあと責任問題になるかもしれないし」 「はい。課長がそうおっしやるなら」と桜田は残念そうに言った。 「それで、私の名前にはどんな悪いことが付帯していたのかしら ? 」、みずきは猿の小さな赤い 目をじっと見据えて尋ねた。 「わたしがそれを申し上げますと、みずきさんは傷つかれるかもしれませんが」 「かまわないから、言ってみて」 猿は困ったように少し考え込んだ。額のしわがいくらか深くなった。「でも、お聞きにならな いでいる方がいいかもしれません」 「いいのよ。私は本当のことが知りたいの」 「わかりました」と猿は言った。「それではありていに申し上げます。あなたのお母さんは、あ なたのことを愛してはいません。小さい頃から今にいたるまで、あなたを愛したことは一度もあ りません。どうしてかはわたしにもわかりません。でもそうなのです。お姉さんもそうです。お 姉さんもあなたのことを好きではありません。お母さんがあなたを横浜の学校にやったのは、い わば厄介払いをしたかったからです。あなたのお母さんと、あなたのお姉さんは、あなたのこと をできるだけ遠くに追いやってしまいたかったのです。あなたのお父さんはけっして悪い人では ロロ 205

6. 東京奇譚集

「そうです。たしかにちょうどその頃です」 「申し訳ありません」と猿が初めて口を開いた。張りのある低い声だった。そこにはある種の音 楽性を聴き取ることさえできた。 「言葉がしゃべれるんだ」とみずきは唖然として言った。 「はい、しゃべれます」と猿は表情をほとんど変えることなく言った。「ほかにもお詫びしてお かなくてはならないことがあります。おたくに名札を盗みに人ったときに、バナナを二本いただ いてしまいました。名札のほかには何もとらないつもりだったんですが、どうしてもお腹がすい ておりまして、いけないことだとは思いながら、テープルの上に置いてあったバナナを二本、つ い手にとって食べてしまいました。とてもおいしそうに見えたものですからー 「太いやつだ」と桜田が言って、黒い警棒を手のひらにとんとんとうちつけた。「もっとほかに 何かとったかもしれません。少し締め上げてやりますかー 「まあまあ」と坂木課長がとめた。「バナナのことは正直に自分から打ち明けているわけだし、 見たところそれほど凶悪な猿でもなさそうだ。事情がもう少しはっきりするまで手荒なことは控 えよう。区役所の中で動物に暴力をふるったことがわかったりしたら、いささかまずいことにな るかもしれんしね」 「なぜ名札をとったりしたの ? ーとみずきは猿に尋ねてみた。 東京奇譚集 196

7. 東京奇譚集

「猿の分際でとんでもないことを言うやつだ」と桜田が首を振って言った。「課長、私はもう我 慢できません。こっぴどい目にあわせてやりましよう」 「待って」とみずきは言った。「本当にそのとおりなんです。このお猿さんの言うとおりです。 そのことは私にもずっとわかっていました。でもそれを見ないようにして、今まで生きてきたん です。目をふさいで、耳をふさいで。お猿さんは正直に話をしているだけです。だから、許して あげて下さい。何も言わずに、このまま山に放してあげて下さい」 坂木哲子はみずきの肩にそっと手を置いた。「あなたはそれでいいのね ? 」 「はい、かまいません。私の名前が戻ってくれば、それでいいんです。私はそこにあるものごと と一緒に、これからの人生を生きていきます。それは私の名前であり、私の人生ですからー 坂木哲子は夫に言った。「じゃあ、あなた、今度の週末にうちの車で高尾山までドライプをし て、このお猿を適当なところで放してやりましようよ。いいわよね ? 」 「もちろん、かまわないよ」と坂木課長は言った。「車を買い換えたばかりだし、慣らし運転に はちょうどいい距離だ」 「ありがとうございます。なんとお礼を申し上げればいいものか」と猿は言った。 「乗り物酔いなんかはしない ? 」と坂木哲子は猿に聞いた。 「はい。大丈夫です。新しいシートの上で吐いたり、用便をしたりというようなことは、決して ロロ 207

8. 東京奇譚集

う ? 」とみずきは訊いた。 「じゃあ、実際に犯人と対面させてあげましようね」と坂木哲子は言った。 部屋の奥に、もうひとつのドアがあり、桜田はそのドアを開けた。そして壁のスイッチを人れ て、明かりをつけた。部屋の中をぐるりと点検し、一同に向かって頷いた。「問題ありません。 どうぞ、お人り下さい」 まず坂木課長が中に人り、それから坂木哲子が中に人り、最後にみずきが中に人った。小さな 倉庫のような部屋だった。家具はない。ただ小さな椅子がひとつあり、その椅子に猿が一匹座っ ていた。猿としてはかなり大柄な方だろう。成人した人間よりは小さいが、小学生よりは大きい。 毛は普通の日本猿よりも心持ち長く、ところどころに灰色の毛が混じっていた。年はわからない が、もう若くはなさそうだ。猿は前肢と後肢を、木製の椅子に細い紐で厳重に縛り付けられてい た。長い尻尾の先がカ無く床に垂れていた。みずきが部屋に人ると、猿はちらりと彼女を見て、 それから視線を足元に落とした。 「猿 ? 」とみずきは言った。 「そのとおりよ」と坂木哲子が言った。「猿があなたのところから名札を盗んでいったのよ」 いないあいだに猿にとられたりしないように、と松中優子は言った。あれは冗談じゃなかった んだ、とみずきは思った。松中優子にはこのことがわかっていたんだ。みずきの背筋が寒くなっ 東京奇譚集 194

9. 東京奇譚集

みずきはしばらくのあいだ言葉を失っていた。「しかしーーー私の話を聞いただけで、どうして そんなことまでわかってしまうのかしら ? 」 「身内である私が、こんなことを申し上げるのもいかがかと思いますが、家内には普通の人には ない、何かしらとくべつな能力が備わっているのです」と夫である坂木課長は神妙な顔つきで言 った。「結婚いたしましてかれこれ二十二年、私は幾度となくこういう不可思議なことを目にし て参りました。ですからこそ、この区役所内に『心の悩み相談室』を開設するように、ずいぶん 熱心に働きかけて参ったわけです。彼女の能力を発揮できる場所をこしらえてやれば、必ずや品 川区民のお役に立つに違いないと確信しておったからです。しかしこの名前盗難事件がひとまず 解決してよかった。本当によかった。私としてもこれで一安心ですー 「ところで、このつかまえた猿はどうするんですか ? 」とみずきは尋ねた。 「生かしておいてもためにはならんでしよう」と桜田はあっさりと言った。「一度ついた悪癖は なかなかとれません。ロで何と言おうと、必ずまたどこかで同じような悪さをするはずです。っ ぶしてしまいましよう。それが何よりです。濃縮した消毒液を血管に注射したら、こんな猿くら いあっという間に始末できますー 「まあまあ」と坂木課長は言った。「どのような理由であれ、動物を殺したことがわかると、必 ずどこかから苦情が来て、大きな問題になるんだ。ほら、この前捕まえたからすをまとめて処分 猿 201 ロロ