そこで二人はお互いの年齢を教え合った。彼女は自分が年上であることをまったく気にしてい ないようだった。淳平も気にしなかった。彼はどちらかというと、若い娘よりは成熟した女性の 方が好みだった。それに多くの場合、別れるときも相手が年上である方が楽だった。 「どんな仕事をしているの ? ーと淳平は尋ねた。 キリエは唇を一直線に結び、はじめて生真面目な顔をした。「さて。私はどんな仕事をしてい るように見える ? 淳平はグラスを揺すって、赤ワインをひと巡りさせた。「ヒントは ? 」 「ヒントはなし。むずかしいかしら ? でも、観察して判断するのがあなたの仕事でしよう ? 」 「それは違うね。観察して、観察して、更に観察して、判断をできるだけあとまわしにするのが、 正しい小説家のあり方なんだ」 「なるほど」と彼女は言った。「じゃあ観察して、観察して、更に観察して、想像してみて。そ れならあなたの職業倫理に抵触しないでしよう」 淳平は顔を上げ、相手の顔をあらためて注意深く眺めた。そこに浮かんでいる秘密のサインを 読み取ろうとした。彼女は淳平の目をまっすぐにのぞき込み、彼も相手の目をまっすぐにのぞき 込んだ。 「根拠のない想像に過ぎないけれど、何か専門職のようなことをしているんじゃないかな」、少 日々移動する腎臓のかたちをした石川
の意思」 「なぜ腎臓石は彼女を揺さぶりたいんだろう ? 」 「さあ」と彼女は言った。そしてくすくす笑う。「医師を揺さぶる石の意思」 「冗談じゃなくてさ」と淳平はうんざりした声で言った。 「それはあなたが決めることじゃないかしら。だって淳平くんは小説家なんでしよう。そして私 は小説家じゃない。私はただの聞き手ー 淳平は顔をしかめた。集中して頭を働かせたおかげで、こめかみの奥が少しうずいていた。ワ インを飲み過ぎたのかもしれない。「うまく考えがまとまらないな。僕の場合、机に向かって実 際に手を動かして文章にしてみないと、筋書きが動いていかないんだ。もう少し待ってもらえな いかな。話しているうちになんとか先が書けそうな気がしてきた」 「いいわよ」とキリエは言った。手を伸ばして白ワインのグラスを取り、一口飲んだ。「待って るわ。でもそれって、すごく面白そうな話。その腎臓石がどうなるのか、私としては結末がとて も知りたい」 そして彼女は身体の向きを変え、かたちの良い乳房を、彼の脇腹に押しつけた。 「ねえ、淳平くん、この世界のあらゆるものは意思を持っているの」と彼女は小さな声で打ち明 けるように言った。淳平は眠りかけている。返事をすることはできない。彼女のロにする一一一口葉は、 東京奇譚集Ⅲ
「今は短編小説を書いている」と淳平は言う。 「どんな話 ? 」 「まだ最後まで書けていない。途中で一服したままになってるんだ」 「もしよかったら、その途中までの筋書きを聞きたいんだけど」 そう言われて淳平は黙り込んだ。彼は執筆途中の小説の内容は他人に話さないことに決めてい た。それはジンクスのようなものだ。いったん一言葉にして口に出してしまうと、ある種のものご とは、朝露のように消え失せてしまう。徴妙な意味あいは、薄っぺらな書き割りに変わってしま う。秘密はもう秘密ではなくなってしまう。しかしべッドの中でキリエの短い髪に指を這わせな がら、彼女になら話してもいいかもしれないと淳平は思う。どうせ何かにプロックされたまま、 この何日か一歩も前に進めないでいるんだ。 「三人称で書かれていて、主人公は女性なんだ。年齢は三十代前半」と彼は語り始めた。「腕の 良い内科医で、大きな病院に勤めている。独身だけど、同じ病院に勤める四十代後半の外科医と 秘密の関係を持っている。相手は妻帯者だ」 キリエはその人物を想像する。「彼女は魅力的なの ? 」 「じゅうぶん魅力的だと思う」と淳平は言った。「でも君ほどじゃない」 キリエは笑って、淳平の首にキスをした。「それって、正しい答えよね」 日々移動する腎臓のかたちをした石川
「それもヒントなんだ」 「たぶん」 ウェイターがシャン。ハン・グラスを載せた盆を持ってまわってきて、彼女はそのグラスをふた っとった。そして淳平にひとつを渡し、「乾杯」と言った。 「お互いの専門職にーと淳平は言った。 そして二人はグラスの縁をあわせた。軽やかな秘密めいた音がした。 「ところであなたは結婚している ? 」 淳平は首を振った。 「私も」とキリエは言った。 その夜、彼女は淳平の部屋に泊まった。店からおみやげにもらってきたワインを飲み、セック スをして、眠った。淳平が翌朝の十時過ぎに目を覚ましたとき、彼女の姿は既になかった。とな りの枕にくぼみがひとつ、まるで欠損した記憶のようなかたちに残っているだけだった。「仕事 があるので行きます。もしそのつもりがあるのなら、連絡して」というメモが枕元に残されてい た。そして携帯電話の番号が記されていた。 彼はその番号に電話をかけ、二人は土曜日の夕方に会った。レストランで食事をし、軽くワイ 東京奇譚集
述べるために連絡をくれるかもしれない。彼はその可能性に期待していた。しかしただ沈黙が新 たに積み重ねられただけだった。 生活の中から彼女の存在が消えてしまうと、淳平の心は前もって予想していたよりも、ずっと 激しい痛みを感じることになった。キリエの残していった欠落は彼を揺さぶった。一日のうちに 何度も、「彼女が今ここにいてくれたらな」と考えた。キリエの徴笑みや、彼女のロにする言葉 や、抱き合ったときの肌の感触を懐かしく思った。愛好する音楽も、気に人っている著者の新刊 書も、彼の心を慰めてはくれなかった。何もかもが遠いところにあるよそごととして感じられた。 「キリエが二人目の女だったのかもしれない」と淳平は思った。 淳平がキリエに再び巡りあったのは、春の初めの昼下がりだった。いや、正確に言えば巡りあ ったというのではない。彼はキリエの声を聞いたのだ。 淳平はタクシーに乗っていた。道路は渋滞していた。タクシーの若い運転手は放送の番組 をかけていた。そこから彼女の声が聞こえてきたのだ。淳平は最初のうちあまり確信が持てなか った。なんとなく声が似ているな、という程度のものだった。しかし聞けば聞くほど、それはキ リエの声であり、彼女のしゃべり方だった。抑揚が滑らかで、とてもリラックスしている。間の 置き方に特徴がある。 日々移動する腎臓のかたちをした石
「ねえ」とキリエは言った。 「うん ? 」 「淳平くんって、すごく好きな女の人がほかにいるんでしょ ? どうしても忘れられない人って いうか」 「いる」と彼は認めた。「それがわかるの ? 」 「もちろんーと彼女は言う。「女っていうのはね、そういうことに関してはとても鋭いの」 「女の人がみんな鋭いわけじゃないと思うけど」 「私も女の人みんなの話をしているわけじゃないんだけど 「なるほど」と淳平は言う。 「でもその人とは交際できないのね ? 」 「事情のようなものがあるから」 「その事情が解消する可能性みたいなのはまったくないの ? 」 淳平は短くきつばり首を振った。「ない」 「けっこう深い事情なのね ? 」 「深いかどうかはわからない。でもとにかく事情だよ」 キリエはワインを少し飲んだ。 東京奇譚集
いてそう尋ねた。 「いちおう、そういうことになっているみたいだけど」と彼は答えた。 「いちおう小説家なのね 淳平は頷いた。 「何冊くらい本を出しているの ? 」 「短編集が二冊に、翻訳書が一冊。どれもそんなに売れなかったけど」 彼女はあらためて淳平の外見を点検した。そしておおむね満足したように徴笑んだ。「いずれ にせよ、本物の小説家に会ったのは生まれて初めて」 「よろしく」 「よろしく」と彼女も言った。 「でも小説家に会っても、とくに面白いことはないんだよ」と淳平は言い訳するように言った。 「何かとくべつな芸ができるわけじゃないから。ピアニストならピアノが弾けるし、画家ならち よっとスケッチでも描けるし、手品師なら簡単な手品ができるし : : : でも小説家はとりあえず何 もできない」 「だけど、何かほら、芸術的オーラみたいなのが鑑賞できる、というようなことはないのかし ら ? 日々移動する腎臓のかたちをした石 127
不思議なくらい生き生きとして、新鮮に見えた。額は広く、考え事をするときに、横に三本、平 行にしわがよった。考え事が終わると、そのしわがばっと消えた。 淳平は彼女に心を惹かれていることに気づいた。彼女の中にある何かが、彼の心をとりとめも なく、しかし執拗にそそった。アドレナリンを得た心臓が、こっそり信号を送るように小さな音 を立てていた。急に喉の渇きを感じて、淳平は通りかかったウェイターにペリエを頼んだ。この 女は自分にとって意味を持っ相手なのだろうか、彼はいつものようにそう考えた。残された二人 のうちの一人なのだろうか ? 二球めのストライクなのか ? 見逃すべきか、あるいはスイング するべきか ? 「昔から作家になりたいと思っていたの ? ーとキリエが質問した。 「そうだね。というか、ほかの何かになりたいと思ったことがなかった。ほかの選択肢を思いっ けなかった」 「要するに夢がかなったんだ」 「どうだろう。僕は優れた作家になりたいと思っていたんだよ」、淳平は両手を広げて、セン チほどの空間を作った。「そのあいだにはかなりの距離があるような気がするー 「誰にでも出発点というものはあるのよ。まだ先は長いでしよう。最初から完全なものなんてあ り得ないもの」と彼女は言った。「あなたは今いくっ ? 東京奇譚集
彼は思った。半年後に決めることにしよう。 その半年のあいだに、彼は集中的に多くの短編小説を書いた。そして机に向かって文章を推敲 しながら、キリエは今ごろたぶん風と一緒に高いところにいるのだと思った。僕がこうして机に 向かって一人で小説を書いているあいだ、彼女は誰よりも高いところに一人きりでいるのだ。命 綱をはずして。一度その集中の中に人ってしまえば、そこには恐怖はありません。ただ私と風が あるだけです。淳平はよく彼女のその言葉を思い出した。そして淳平は自分がキリエに、ほかの 女性に対しては一度も感じたことのない、とくべつな感情を抱くようになっていることに気づい た。明瞭な輪郭を持ち、手応えをそなえた、奥行きの深い感情だった。その感情にどのような名 前をつければいいのか、淳平にはまだわからない。しかし少なくとも、ほかの何かと取り替える ことのできない思いだ。もう二度とキリエに会えないとしても、この思いはいつまでも彼の心に、 あるいは骨の髄のような場所に残ることだろう。彼は身体のどこかでキリエの欠落を感じ続ける ことだろう。 その年が終わりに近づくころ、淳平は心を決めた。彼女を二人目にしよう。キリエは彼にとっ て「本当に意味を持つ」女性の一人だったのだ。ストライク・ツー。残りはあと一人ということ になる。しかし彼の中にはもう恐怖はない。大事なのは数じゃない。カウントダウンには何の意 味もない。大事なのは誰か一人をそっくり受容しようという気持ちなんだ、と彼は理解する。そ 日々移動する腎臓のかたちをした石 155
たちは親密な空白の中にいます。私はそういう瞬間が何よりも好きなのです」 インタビュアーがキリエの語ったことを理解できたかどうか、淳平にはわからない。しかしい ーが終わったところで、淳平はタクシー ずれにせよ、キリエはそれを淡々と語った。インタビュ を停めて、降りた。そして目的地までの残りの道のりを歩いた。ときおり高いビルを見上げ、流 れていく雲を見上げた。風と彼女とのあいだには、誰も人ることはできないのだと彼は悟った。 そこで彼が感じたのは、激しい嫉妬の感情だった。でもいったい何に嫉妬をしているのだろう ? 風に ? いったい誰が風に嫉妬を覚えたりするだろう ? 淳平はそれから何ヶ月かのあいだ、キリエからの連絡を待っていた。彼女と会って、二人でい ろんな話をしたかった。腎臓のかたちをした石のことも話したかった。しかし電話はかかってこ なかった。彼女の携帯電話の番号も相変わらず「接続できないーままだった。夏が来るころには、 彼もさすがに希望を捨てた。キリエにはもう彼に会うつもりはないのだ。そうーー確執もなく、 言い合いもなく、二人の関係は穏やかに終わったのだ。考えてみればそれは、彼が長いあいだほ かの女たちに対しておこなってきたことそのままだった。いっか電話がかかってこなくなる。そ のようにしてすべては静かに、自然に終わってしまう。 彼女をカウントダウンに加えるべきだろうか ? 三人の意味を持っ女性の一人に人れるべき か ? 淳平はそれについてずいぶん悩んだ。しかし結論は出なかった。あと半年待ってみようと 東京奇譚集 154