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検索対象: 東京裁判 上
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1. 東京裁判 上

で約百五十人のオーストラリア人、現住民男女が日本軍によって虐殺された、というものである。 五百人の生存者の証言を集めたといわれる「報告」には、明らかに誇張された事実が発見でき るが、この「報告」で、ウェップ判事の名前は、日本の残虐行為の摘発者として、広く知られる ことになった。したがって、オーストラリア政府の反日観を背に、個人としても日本に敵意を持 っているとみられるウェップ判事を、東京裁判の裁判長にすることは、むしろ、逆効果と考える べきではないか。 だが、ホイットニー准将とアチソン顧問は、ウェップ判事を推薦した。おそらく、ウェップ判 事は、予想される判事団の中で最も激しい反日意見の持ち主たから、逆にウェッ。フ判事を裁判長 にして判事団をコントロールできれば、天皇問題は安心できる、というのが、その理由である。 マッカーサー元帥は、ウェップ判事と面識があった。戦争初期、パターン半島から脱出して、 オーストラリアで対日反攻の準備中、。 フリスペーン市でウェッ・フ判事の訪間をうけたことがある。 達「オーストラリアは、要するに日本占領について名誉ある地位を望んでいる。東京裁判の裁判長 のは名誉ある地位た。そして、たしか、ウェップ判事は好人物だった。たぶん、承知するだろう」 状 訴 ウェップ判事は二月一日、同じく東京裁判のオーストラリア検事をつとめる・マンスフィ 起 ルド判事、ニュージーランド代表の・ノースクロフト判事らと一緒に、・フリスペーン市のイー 三グル・ファーム飛行場を出発した。飛びたっとすぐ、エンジンが故障して、一晩じゅうプリス・ヘ 第 1 ン市上空を旋回する事故があったが、二月三日、ウェップ判事は東京に着いた。

2. 東京裁判 上

などを、明らかにした。このキーナン検事団の到着で、裁判準備は本格的段階にはいり、十二月 八日、東条大将ら大森捕虜収容所の戦犯容疑者も、巣鴨拘置所に移された。 東条大将は、身体検査と人定訊問をうけて独房に案内されたが、大将の記録カードには次のよ うに記載された。 「身長Ⅱ五四づ、体重Ⅱ百三十粤、眼の色Ⅱ茶、皮膚の色日やや赤、髪の色Ⅱ黒、年齢Ⅱ六十 三歳、宗教Ⅱ神道、外国語の知識Ⅱ無し、所持金Ⅱ九百七十円」 大将は、自分で手荷物を持って監房にむかったが、ドアに書かれた番号を見ると、眉をしかめ 〃良しとも音読できるが、〃死死〃でもある : た。「四四」 十二月十日、 木戸幸一侯爵は、天皇の夕食お相伴のために参内した。木戸侯爵は、感激していた。数日前、 連絡をうけたさいに聞いた話によると、天皇が木戸侯爵の相伴を提案されると、侍従長は、戦犯 定の指名をうけているので辞退するのではないか、と言上した。すると、天皇は「米国より見れば 罪犯罪人ならんも、我国にとりては功労者なり、若し遠慮する様なれば料理を届け遣わせ」といわ 争れた、というのである。 夕食は午後六時からだったが、木戸侯爵は午後五時少し前に参内して、天皇と話した。天皇は 二「今回のことは誠に気の毒ではあるが、どうか身体に気をつけて、私の心境はすっかり承知のこ と、述べられた。 とと思うから、充分説明して貰いたいー

3. 東京裁判 上

皇帝側からの提案で、しかも日本側が困惑していた事情がうかがえるが、当時の宮内省官房総 務課長大金益次郎の手記によれば、天照大神を満州国の主神にしたい、 と皇帝溥儀が申し入れた とき、首相米内光政はじめ政府幹部はいっせいに反対したほか、天皇も「中国には古来、祭天の 信仰があるなら、天を祀るのが妥当ではないか」と、いわれた。 しかし、たっての要望なので、天皇が皇帝に贈る品のうちから、皇帝が自主的に " 神宝〃とし て神廟に奉納する、ということになった。いわば、神器といし 、神廟といし 、まったく皇帝溥儀 の自発的申請の成果であったわけである。 皇帝溥儀が列挙した他の日本暴政にしても、あまりに無根の偽証が多すぎる。 「いまはなんの遠慮するところそ」ーー・と、滝川政次郎がトキの声をあげるまでもなく、弁護団 は反撃と反証の準備を進めた。 へ南次郎被告夫人嘉久子は、「辛未 ( 昭和六年、一九三一年 ) 九月一日」付で宣統帝溥儀から陸軍大 台 言臣南次郎あてに送られた親書を、木村兵太郎被告の弁護人である塩原時三郎に提供した。末尾に 既「今上御筆鄭孝胥甲戊一一月一一十日 , と、満州国国務総理鄭孝胥の親筆確認の " 裏書 , がある。 帝塩原弁護人はまた、神田の古書店で、皇帝溥儀の家庭教師レジナルド・ジョンストンが書いた 『紫禁城のたそがれ』を探し求め、その他の資料も合せて、かねて溥儀研究につとめている米人 章 六弁護人・べン。フルース・プレイクニー少佐に渡し、反対訊問の先陣にたたせた。 227

4. 東京裁判 上

日本の議会制度にはヒトラ】のナチス党、ムソリーニのファシスト党と「同様の組織ーが導入さ れた。 被告一一十八人が、まさにその元凶だが、二十八人はナチス・ドイツ、ファシスト・イタリアと 手を結び、世界の他の国の「支配と搾取」および「平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する 罪」をおかすことを「共同謀議」した。そして、二十八人は、「その権力、公職および個人的声 望および勢力」を利用して、米、英、仏、ソ、中国、カナダ、オランダ、オーストラリア、フィ リ。ヒン、インド、ニュージーランドその他の平和国家にたいして、「国際法並に神聖なる条約上 の誓約」をやぶって、「侵略戦争の計画、準備、開始乃至遂行」をした。 その計画の中には、俘虜の虐待、非人道的な強制労働、さらに広く「戦争法規、慣例の侵犯ー が含まれており、被占領国民にたいしては、「大量虐殺、凌辱、掠奪、劫掠、拷問其の他の野蛮 三行為」を加えた。国内的にも、「日本国政府の官吏並に機関に対する陸海軍の威令及び制圧を強 五め」、翼賛会なるものを組織して、世論を国家主義的膨張主義にリ】ドし、被占領国にも「傀儡」 とい一つ 0 六政権を樹立して、日本の武力進出を促進した そして、訴因は、「第一類、平和に対する罪」 ( 訴因第一 ~ 第三十六 ) 、「第二類、殺人及殺人共同 謀議の罪」 ( 第三十七 ~ 第五十一 I) 、「第三類、通例の戦争犯罪及人道に対する罪」 ( 第五十三 ~ 第五十 四五 ) の三種類にわけられた。このうち、訴因第一 ~ 第十七、第二十七 ~ 第三十一一、第三十四、第 四十四の二十五項目について全被告が責任あり、と主張された。つまり、三種類のうち、二種類 い 7

5. 東京裁判 上

の促進などをかねて、中国にむかった。 三月二十三日、東京裁判法廷は完成して報道陣に公開された。判事席、被告席、検事および弁 護人席、傍聴人席、貴賓席、記者席、映画および放送席が設けられ、傍聴人席は日本人二百人、 連合国一般人三百人を収容する。そして、被告席の椅子の数は二十五 : ・ 。被告席の椅子の数を かそえ終えた記者たちの間に、・ さわめきが起った。それでは、第一回に裁かれる < 級戦犯者は、 二十五人なのか ? 弁護団の勢そろいで、裁判の準備はほぼ完了している。あとは、法廷にならぶ戦犯容疑者の顔 ぶれと、具体的な罪状を示す起訴状の発表を待つだけだが、それにしても、第一次法廷で何人が 訴追されるかが、内外の記者たちの関心を集めていた。二十人 : : : 三十人 : : : ともいわれ、米人 記者の間では、カケの対象にさえなっていた。被告席の椅子は二十五だから、二十五人と思える 。記者た が、発表はなにもない。あるいは、ただ便宜的に椅子をならべただけではないのか : ちは、半信半疑の眼を見交したが、この三月一一十三日現在、東京裁判の被告数は、たしかに二十 五人が予定されていた。 マッカーサー元帥は、四日前、三月十九日、英米法と英語に慣れぬ日本人弁護人の補佐のため、 米人弁護士を容疑者一人に一人ずつつけて欲しい、というニュ 1 ジーランド代表判事・ノース クロフトの要請にたいして、すでに手配ずみだが、米法務省が用意した十五人を「二十五人に増 加するよう」要求した、と答えている。では、誰と誰かーーーその答えは、キーナン検事が帰日し、 104

6. 東京裁判 上

: ・遺族にひき渡さな 天皇陛下。ハンザイ : : : 畠山、水をくれ : : : 俺の死体はどうなってもいし くてもいし : しかし、見せ物ではないとマッカーサーにいってくれ : : : 」 大将が " 遺言〃を語っている間、米人記者たちは、電話を奪いあって記事を送っていた。大将 のひたいに一匹のハエがとまったままで動かない。記者の一人は、しきりに「まだハエは動かな また、いる : : : 」と、電話にわめいていた。 米軍救急車で到着したのは、軍医二人、衛生兵一人だったが、別に憲兵軍曹一人が人定調査を するために、派遣されてきた。軍曹はまったく予備知識を与えられていなかったとみえ、ノート をひろげると、至って気楽に周囲の者に質問していた。 「この男の名前は ? 」 「トウジョウ」 「誰かファースト・ネイムを知っているか」 「ヒデキ」 「綴りは ? いや、・トウジョウでいいだろう。階級は ? 」 「陸軍大将」 「大将 ? へ丁。それでいまも大将なのか。違う ? それじや現職は ? 」 「面倒くさいな。元独裁者としておけ」 新聞記者の一人がわめき、軍曹は肩をすくめて立ち去った。

7. 東京裁判 上

まえがき 東京裁判が開始されたのは、私が旧制高校三年生のときであった。友人の父君が弁護人であっ たので、傍聴券をねだり、ほとんど週に二、三回のわりで法廷にかよった。 警備のは、旧制高校の弊衣破帽に終戦直後の石けん不足を加えて極度に汚ない私の服に、 恐る恐る指をふれて、身体検査のまねをした。そのうちに顔なじみになると、その指さえものば さなくなったが、私はそういうの職務不熱心ぶりに乗じて、禁制品であるにぎり飯をポケッ トにしのばせ、せっせと傍聴をつづけた。 裁判の印象は強烈であった。かっては新聞の写真やニ = ース映画でしか見たことのない顕官た ちが、被告席にならんでいる。どの人も静かであり、いずれも好人物らしい老人としかみえなか った。大将の " 威容〃も、大臣の " 尊大さ〃も感じられなかった。 法廷は、ときに居眠りをさそう静寂に満ちていて、裁判は至って単調に進んでいる風情であっ たが、法廷通いが進むにつれ、裁判にたいする疑問は強くなった。 裁判は既存の法にもとづいておこなわれるべきであるが、戦争の手段にかんする国際法しかな いのに、戦争そのものを裁くのは無理ではないのか ? 戦争は国家行為であり個人行為ではない、 それなのに指導者という個人を裁くのでは、国家にたいする忠誠心はどうなるのか ?

8. 東京裁判 上

これくらい、幅これくらい、とむこうの指示にしたがって、そろえました」 紀藤の回想によれば、一種の突貫工事で、これは何時間、これは何日までといった調子であっ た。監督の米兵が非礼な態度をとることはなく、ときには食堂から残飯をはこんで労務者に提供 してくれたりしたが、机にイヤホーンをつける設備など、それまでに聞いたこともない仕事をい いつけられることが多いので、とまどった。 「戦犯裁判をやるためだ、ということはわかったが、だからといって特別の感想もなかった。と にかく、命令のままに夢中でやった」 だから、現場にいた紀藤も、被告席の数、工事完成の期日などの記憶はない。・ しっさいには、 当時、後述するように被告席は一一十五人分、工事完成日は三月十五日をメドとされていたが、裁 判開始はおくれた。 清瀬弁護人の決意 おくれた主な理由は、ソ連判・検事団の到着がのびたためだが、弁護団の結成もはかどらなか もともと、戦犯とくに << 級戦犯については、日本政府は一応の対処方針をきめていた。東久邇 宮内閣時代のことである。既述したように、東久邇宮内閣では、終戦直後の九月十二日、戦争犯 罪人は日本側で処罰する決定をした。連合国側の一方的な裁判を避けるとともに、できるだけ裁 っこ 0 8

9. 東京裁判 上

当然、手持ちのスタッフの中から適当な人材を選び、ワシントンからの供給は極度におさえるこ とになるが、ホイットニー准将は、自身が最重要な地位を得たいと望んでいたのである。 そこで、ホイットニー准将は、マッカーサー元帥の言葉を自己流に解釈して、 「同感であります、閣下。そのためには、一日も早く、わが司令部の体制を整備するのが、最善 の手段でありましよう」 と述べたが、元帥は、ちらと准将を眺めただけで、こんどは誰にともなくつぶやいた。 「師団が降伏するときは、師団長が自分の武器を持参して意思表示をするのが、慣習だ。日本も 同じだろう」 それ以上はなにもいわず、ひとしきり、ホイットニー准将の総司令部組織に関するおしゃべり がつづいて、昼食会は終った。そして、そのまま一同は車にむかって歩きだしたが、マッシ 1 、 ー大佐は、ソープ准将に近づいた。 定「将軍、マッカーサー元帥は天皇が挨拶にくることを期待しておられるようですがー 犯 争 ソー。フ准将は、けげんな表情で大佐を見つめたが、二、三秒後には、指をならして同意した。 戦 天皇は、日本人にとっては神である。この世の誰よりも偉い存在である。天皇のほうから他人 章 二を訪問したことは、一度もない。 日本人に敗北の認識が不足しているとしても、もし天皇がマッ カーサー元帥に敬意を表すれば、事情は一変するだろう。東久邇宮首相は皇族だから、より一段

10. 東京裁判 上

「木戸幸一日記」によれば、この日、木戸内大臣は、午前十時二十五分 ~ 十一時半、午後一時三 十五分 ~ 三時十五分と、二回にわたって拝謁している。第一回の拝謁のさい、天皇は開戦当時を 回想され、「開戦の詔書を発布するに当り、自分は東条に此の詔書を発するは実に断腸の思であ たとえ る、殊に多年親交ある英国の皇室と仮令一時たりとも敵対するは真に遺憾に堪えないとの意味を 1 、サ 1 を訪ねられて 話した」と、述べられた。木戸内大臣は、天皇の相談にたいしては、マッカ よいでしよう、と献言した。木戸内大臣は、また訪問にあたっては、「陛下の地でおあたりにな るのが一番よろしいと思う」旨を、申し述べた。 訪問には、外務省の奥村勝蔵が通訳を担当したが、奥村は次のように回想している。 「この第一回の会見についての当局の打合せでは、当日陛下がお着きになるときも、また辞去さ れるときも、お出迎え、お見送りは、二、三幕僚だけで、元帥は応接間の入口でお迎え、お送り するだけということになっていた」 義 定 この奥村の回想からも、マッカーサー元帥側の姿勢を感じとることができるが、マッシュバ の 罪大佐は、また別のエ。ヒソードを伝えている。 争「天皇と元帥との会見の打合せのさい、日本側は、宮城から天皇の車が通る道路を整備する必要 があると、提案してきた。しかし、マッカ 1 サ 1 は、 " 天皇にも交通難を味わわせろ〃といし 章 二それが嫌なら会見は延期する、といった」 天皇は、九月二十七日午前九時五十五分、宮城を出発して米大使館にむかわれ、午前十時すぎ