: もう戦争は敗けだ。敗ければ、さしずめ賀屋クンなどは戦犯で捕まって、唐丸カゴで横 浜からアメリカにつれていかれるよ。そのときは、賀屋クンの好きな浪花節語りにうたわせて、 送ってやるよ、と」 そこで、ひとしきり戦犯談義がおこなわれたが、賀屋は、「内田さん、あんたは農林大臣もや という以上、腹ごしらえの係をやったのだから、あんたも った。腹がへっては戦さはできない、 捕まりますよ」と逆襲したあと、吉田茂にむかって、いった。 「しかし、まっさきに殺されるのは吉田さん、あんたでしような。あんたは、陸軍ににらまれて いる。だから、本土決戦の前にまず吉田さんが陸軍に殺され、米軍の上陸、敗戦。そしてボクら がアメリカに連れていかれる、という順番ですよ」 本土決戦はおこなわれず、日本は敗北した。内田信也がいう " 唐丸カゴ〃ならぬジー・フの迎え がいっ来るか。兢々とすることはないにしても、賀屋は不安な日をすごしていた。だが、意外に 平穏な日がつづいた。というよりは、マッカーサー司令部も米軍も、日本進駐につづく行事や体 制の整備におわれ、戦犯問題にたいする作業の能率も低下せざるを得なかった。 」で降伏調印式がおこなわれた。調印は無事 九月二日には、東京湾に碇泊した戦艦「ミズーリ にすみ、最後に署名したマッカーサー元帥は、六本のペンを使用して、フィリ。ヒンで日本軍に降 伏したウェインライト中将、シンガポールの敗将パーシル英中将、トルーマン大統領、戦艦 リ」、ホイットニー准将、そして自分自身の記念用にそれそれふりわけたが、ホイットニ
もまばらで、弁護人の中には、床にあぐらをかき、炊事場から汲んできた水をすすりながら、持 参の代用食弁当をつつく者もいた。 その点では、被告たちのほうが、弁護人よりは厚遇をうけていた。タスコ付きの米軍食を支給 され、食後は、メモを整理したり、備えつけのトラン。フでひと勝負を楽しむ余裕もあった。 法廷の憲兵隊長ケンワージー中佐は、フィリ。ヒンの山下裁判でも警備隊長をつとめ、山下大将 に示した温情によって、日本人被告への同情者として知られていた。もっとも、その同情は、自 室に山下大将を絞首したロー。フの切れ端を飾る形のものでもあったが、中佐は被告たちに、葉巻 をすすめたり、コーヒーのお代りをたずねたり、親切にいたわった。 ウ = ツ・フ裁判長の開廷の辞は、その冷静な語調はともかく、内容については評判が悪かった。 とくに、被告にたいして、「日本人一兵卒、朝鮮人番兵よりも良い待遇はしない」と述べたくだ 日 三りは、不評であった。 五「最初にえこひいきはしないと いいながら、なにもわざわざ朝鮮人番兵をもちたすのは、明らか 六に裁判長が憎悪と復讐の感情で裁判にのそんでいる証拠だ」 九滝川弁護人が控室で不快そうに批判すると、外人記者席では、ロイター通信社の・スミス記 者が、声高に論じたてた。 章 「いかなる裁判でも、被告は有罪の判決があるまでは無罪だ。ウ = ツブ裁判長は元首相を一兵卒 なみに扱うと宣言したが、これは非礼であると同時に、さっさと一兵卒なみに処刑しようとの意 145
工事を担当したのは、鴻池組である。建築業界の慣習として、ある建物を最初に施行した業者 が、その後の仕事もうけもつ。鴻池組は、士官学校校舎の建築を請け負った。戦時中は、④工事 と名づけられた参謀本部用工事も担当したので、法廷作りもおこなうことになったのである。 最初は、しかし、法廷作りとは知らなかった。たしか一月下旬のある寒い日た、と当時の購買 主任紀藤従清は思いだすが、突然、東京都庁から呼びだされた。工事部長霜出邑二と一緒に行く と、 ( マッカーサー総司令部 ) の仕事だ、場所はあなたたちが建てた市ヶ谷の士官学校た、 という。ジー。フにのせられて現場に行くと、一人の大尉があらわれ、「明日から人夫百人をだし て改修工事をやってもらいたい」といった。 「最初は、トイレを洋式に直せ、ガラスをいれろ、 e をまいて掃除しろ、ドアをつけろ、と いった小さな仕事だったが、大ざっぱな話で、資材もない。それで、ガラスはヤミ市で買え、じ ゅうたんは外務省からはがしてこ い、などと、ひどく苦労したものです。だけど、なにせ当時の 達ことだ、相手は進駐軍なので、びくびくして仕事をしたものですー の仕事は、講堂がある中央ビルだけでなく、周囲の生徒舎にもおよび、十月に終ったときにはエ 諏費は九千六百七十三万二千七十一円に達したが、大講堂の法廷作りを命ぜられたのは、霜出の記 憶では二月にはいってからであった。 章 「ドイツの ( = = ールンベルク ) 裁判の写真を見せられましてね。こんなのを設備するんだ、とい 第 われたけれど、写真一枚見せられてもどうしようもない。結局は、ここに判事用の長い机を高さ
しかし、法廷は、田中少将の姿が消えると、小台風が過ぎたあとのように、再びけだるい静け さに戻った。 七月十三日、米国代表判事ジョン・ヒギンスがマサチ = ーセッツ州高等裁判所裁判長に就任す るために帰国し、後任にマイロン・クレイマ 1 陸軍法務少将が任命された旨、発表された。 法廷は、外界の暑熱に応じてますます暑くなり、ついに七月十五日、ウ = ツブ裁判長は、法廷 は「井戸の底のような位置のうえに、 ハリウッド以外にみられぬ多数の照明をうけているので、 冷房装置が完備するまで休廷する」と、宣言した。 暑いのは、巣鴨も同じであった。「昨今、暑サ烈シク読書モ進マズ」と、鈴木貞一元企画院総 裁が嘆けば、級未起訴組の児玉誉士夫も、 「頭がぐらぐらするような温気の中で : : : 老人連中はだいぶん参 0 たか元気がない。一一階にいる 〈太田正孝氏など、人がちが 0 たほどやせている。『読売新聞』の正カ松太郎氏も骨と皮ばかりに 言な 0 た。配食のとき一階の廊下に悄然とならぶ級の老人の中では、アドミラル ( 海軍大将 ) 高 儀橋三吉氏だけがいぜんとして肥「ている。誰かが、監獄向きにできた大将た、とカゲ口をたたい 帝ていたが、巣鴨のワンダフルの一つである」 未起訴組は、起訴されていないだけに不安がっきまと い、かえって暑さがこたえるのかもしれ 六ない。級被告たちは、先に隔離された大川周明、肺炎で入院中の平沼騏一郎両被告を除き、 ずれも元気であった。なかでも、気力満々としているのは、荒木貞夫大将である。 21 1
報国会理事長鹿子木員信である。 このうち、元関東軍司令官本庄繁大将は、一一十日午前十時三十分ごろ、東京・青山の陸軍輔導 会理事長室で、自決した。松岡元外相は、疎開先の長野県会染村花見農場で、肺結核にともなう 全身硬化症で病床に臥し、南次郎大将もカゼと急性胃腸カタルを病み、最も早く巣鴨拘置所に出 頭したのは、荒木、鹿子木両氏であった。 巣鴨拘置所は、カーベンター大佐の督促でその二日前に整備を終えていた。荒木、鹿子木両氏 の入所は、だから、巣鴨拘置所が迎える最初の " 政治的戦争犯罪人〃になったわけだが、偶然に も、その儀式であるかのごとく、十一月二十二日、荒木大将はモーニング、鹿子木氏は紋付の羽 織ハカマ姿であらわれた。米人記者をはじめ、米兵まで大喜びで両氏にカメラをむけた。 その一週間後、十一月二十九日、ソー。フ准将はマッカーサ 1 元帥に呼ばれた。 「ソ 1 プ、近衛公爵の件は片づいたよ。検事団は十二月二日にワシントンを出発する。次の指名 リストに含めていい」 「おお、ノー、閣下。次回のぶんは印刷ずみです。その次にまわします。しかし、よく中国が納 得したものですー 近衛公爵にたいする指名がおくれたのは、中国側からの強い引渡し要求があったためである。 近衛公爵が芝浦の砲艦で査問された十一月九日、『読売報知』に次のような小記事が掲載された。 「 ( 濠州放送七日午後十一時 ) ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン東京特派員報道によれば、中
つづいて広田元首相 : : : 畑元帥 : : : 土肥原大将 : : : 小磯元首相 : : : 橋本欣五郎大佐 : : : 永野元 帥 : : : 松井大将・ : 撮影のため、ゆっくり歩くよう指示されていたので、大将も大臣も、玄関までの十数メ 1 トル を、静まりかえった記者団に見守られながら、一人すっ玄関にすいこまれて行った。 法廷も静かであった。天井につるされたシャンデリア群に照らされて、法廷内はどこにも影が なかった。正面に、ニュージーランド、フランス、ソ連、中国、オーストラリア、米国、英国、 カナダ、オランダ九カ国の国旗を背にして一段高い裁判官席が設けられている。インド、フィリ 。ヒン判事は、まだ来日していない。その対面に、同じく一段高く、二列に座席をならべた被告席 があり、裁判官席の下は書記席、被告席の下は弁護団席になっていた。 裁判官席と被告席の間の床には、通訳席、主席検事席、主席弁護人席、陳述台、証人台がなら 日 三び、左右の隅には、被告席にむかって左側に来賓席と補助検事席、弁護人席、右側に外人、日本 五人記者席が配置され、記者席の上の中二階が一般傍聴席である。 六午前十時半が、開廷予定時刻であったが、被告も判事も姿を見せなかった。傍聴席、来賓席は 九すでに満員で、来賓席には、アイケルバーガー米第八軍司令官、対日理事会のアチソン、シーポ ルト米代表、中国代表朱世明中将の顔も見えた。金髪、銀髪、あるいは赤毛の婦人も少なくない。 章 四東京裁判法廷の第一の特徴は、その静かさにあるが、この日は、開幕の緊張も手伝って、とく に静かであった。私語する者も、相手の耳に口をよせてささやき、法廷執行官、警備のも、 141