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1. 東京裁判 上

この波乱のきっかけをつくったのは、ウ = ツブ裁判長であったといえるが、裁判長は、オネト 検事が英仏両国語を話すと聞いていたので、冒頭陳述だけをフランス語で読み、あとは英語でと おすものと、理解していた。 ところが、冒頭陳述の朗読が終って、オネト検事が話しだすと、その英語はフランスなまりが あるうえにひどいプロークンである。ウ = ツブ裁判長は、清瀬弁護人の異議を自信をもって却下 した手前、あわてた。オネト検事に、誰か英語堪能者を横において補佐してもらえと勧告したが、 オネト検事は、むっとした顔色で、聞えないふりをした。 「法廷は、私がフランス語で説明するほうを選ばれるか、英語でやるほうを選ばれるか」 立「あなたの英語をはじめにやってご覧なさいませ」 対 の ウ = ツ・フ裁判長は答え、オネト検事の英会話がつづいたが、二、三分間もすると、裁判長は、 尹オネト検事をさえぎり、検事の英語はわからない、英語のうまい代人をたてるべきだ、と主張し 言語問題を指摘できる。ニールン ・フ東京裁判をふりかえるとき、最も重大な障害のひとつに、 工 ベルク裁判が十カ月で審理を終えたのにたいして、東京裁判が結審までに二年半かかったのも、 ウ 主因は言葉にあったといえる。 七前述のごとく、東京裁判での公用語は日英語と定められているが、法廷通訳の能力には格差が あり、二世の場合は、とくにその日本語は生硬であった。裁判の和文速記録をいちべっすれば、

2. 東京裁判 上

顔で黙思した。当日は機嫌が悪かった。 ウ = ツブ裁判長は、法廷から宿舎帝国ホテルの自室「三八八」号室に帰ると、冷蔵庫にひやさ せておいたオーストラリア・ジンを一杯飲むのが慣習であった。ところが、休廷日がつづいて、 係のポーイ木村和雄がうつかりして、ジンのびんに水をいれた。同じく冷水用に酒びんを利用し ていたので、無色のジンを水の残りと思い、そのまま満たしてしまったのである。間違いとわか り、ウェップ裁判長は軽く木村に注意したたけたったが、その日は >< ( 米軍酒保 ) も休業なの で、禁酒を余儀なくされることになり、むしやくしやしていた。 「それは ( キーナン ) 主席検察官に伝えてほしい意見たと思う。法廷の運営は裁判長の責任では あるが、審理のス。ヒードアツ。フは、検事の有効かっ無駄のない証拠提出いかんにも依存してい る」 ウェッ・フ裁判長は、早口に答え、皇帝溥儀の証人喚間を例にとって、まったくの時間の空費で あった、とカーベンター大佐にもらした。 カーベンター大佐は、当惑した。じつは、大佐がウェップ裁判長を訪ねたのは、キーナン検事 っこ 0 の依頼による。キーナン検事は、 「ウェップ裁判長は、東京裁判がどのようなものか理解していないらしい。オーストラリアでは、 なにもかも裁判長がとりしきるかもしれぬが、東京裁判は日本の過去十五年を裁く世紀の大裁判 である。少なくとも検事側の立証段階に不必要な口出し、とりわけ弁護人との討論を楽しむのは

3. 東京裁判 上

こういった疑問は、私自身、裁判の途中で高校から大学法学部に進学して、基礎的な法律知識 を身につけたためとも思えるが、しかし、当時は、そのような疑問を感じながらも、東京裁判の 正当性にもうなずく心境であった。 東京裁判は、ニ = ールンベルク裁判と同じく、原告は「文明」だと叫ばれ、将来の戦争防止が 裁判実施の目的だと強調された。さらにまた、この裁判は新しい国際法概念を生みだすものだと いわれた。 原子爆弾まで含めた戦禍に苦しみ、戦争をいとう心情が強烈であった当時として、このように 指摘された裁判の意義は、平和を願う欲求にかなうものとして、日本人のほとんどにうけいれら れた。 処刑された五人の陸軍大将、一人の陸軍中将、一人の文官重臣の死も、そういった平和な新世 界の到来を求める祈りの〃象徴〃とみなされた、といえる。 ところが、その後、東京裁判の効果と反応は意外なほど、消極的であるとしか思えない。 新たな国際法概念を確立するものだと強調されたが、その後の国際紛争の経過をみれば、そこ に東京裁判の〃意思みが実現された事例は一度もない。「戦争を裁く」という法概念も、しよせ んは戦勝国対敗戦国という特殊関係でなければ執行できないことを、あらためて確認させられる 想いでもある。 日本人の反応にしても、ひたすら太平洋戦争をはしめ日本がおこなった戦争はすべて侵略戦争

4. 東京裁判 上

「世界の歴史がはじまって初めて、戦争製造者を罰する裁判がおこなわれつつある」ーーという ひとことである。だが、清瀬弁護人がいい終ると、ウェップ裁判長は、およそ関心を示し得ない という心情を露骨に顔にうかべて、さえぎった。 「トルーマン大統領がいったということは、本件についてなんらの関係がありませぬ」 「裁判長ツ」ーーと、さすがに温厚な清瀬弁護人も、がまんなりかねるとばかりに、ひたいの白 髪をふりあげて叫んた。関係がないとは、なんたることか。同じアメリカ大統領なのに、故人の ル 1 ズベルトの言葉は引用できても、現職のトルーマンの発言は無意味というのか。だいいち、 あらそう問題は裁判の法的根拠である。トル 1 マン大統領の言葉は、ニュールンベルク裁判を含 めて、戦犯裁判が未曽有のものであり、かって先例も、したがって、根拠となる法も存在しない ことを、明示したものではないか。たが トルーマン大統領はポッダム宣言を 死「裁判長は、内容を、お読みになったのでありましようか。 人 ・ : 」。訴え、せまる清瀬弁護人の言葉は、「討論は本件をもって終結致します」というウェップ 毅裁判長の声で、切り捨てられた。 田 広 父への目礼 章 五広田弘毅夫人静子は、五月十四日午後、巣鴨拘置所を訪ねた。 この日の法廷では、米人弁護人ブレイクニー少佐、ファーネス大尉、ジョージ山岡の三人が、 173

5. 東京裁判 上

ソ連判事を忌避しても、結果は同じであったかもしれない。大原弁護人が指摘する米ソ冷戦は、 当時はまだ格別の深刻さはなく、また対立が激しいとすれば、なおさら連合国がさばく法廷の分 裂を避けたい配慮が、はたらくであろうからである。しかし、その種の期待をふくめた作戦が考 えられたことからも、東京裁判の「政治性」がうかがわれるが、五月六日の法廷は、その「政治 性」をいっそう強く、見る者、聞く者に印象づけた。 聞く耳持たぬ裁判 広田弘毅夫人静子は、五月三日の開廷日につづいて六日も傍聴席に、三男正雄、次女美代子、 三女登代子とともに姿をみせていた。その日の裁判が終ると、仮寓先である練馬五丁目安部十二 造宅に帰った。子供たちが、清瀬弁護人の奮闘ぶり、罪状認否の様子、判・検事団の態度など、 死あれこれと話すのに耳を傾けていたが、静子夫人の胸には、とくに罪状認否のとき、荒木大将の 人発言をびしやりとはねつけたウェップ裁判長の態度が強い影をおとしたらしい。 毅「とにかく、この裁判は聞く耳持たないという裁判らしいわね」 田広田弘毅伝記刊行会の『広田弘毅』に、次の一節がある。 「広田が戦犯容疑で巣鴨に拘置された当初、静子は、広田が裁判を受けることになった以上、そ 五の成行きを最後まで見届けるべきだ、という気持をもっていたようであった。しかし、裁判の始 まるころには、広田が連合国側から強力な指導者とみられていることがほ・ほ明らかとなり、彼が 167

6. 東京裁判 上

とみなし、日本人自身がみずからを " 侵略者〃と規定したり、こと国家意識と軍事問題にかんし ては極度の萎縮作用を示す姿勢がうかがわれるだけである。 過去の日本の政治体制が一種の無責任体制であり、戦争を含めた政治行為の多くが、その無責 任体制の産物であったとは、しばしば指摘されるところである。東京裁判は、その点についても 深刻かっ明確な検討の機会を与えたはずである。 だが、そういった東京裁判の建設的な効果は、 いまほとんど見当らない。東京裁判で吹鳴され た理想の響きが高らかであっただけに、当時と現在との " 落差〃を感得せざるをえない。 さらにいえば、戦後の日本と国際社会にたいして、東京裁判はかえってゆがんだ方向づけをし たのではないか、とさえ感しられる。 東京裁判は、その意味で、太平洋戦争とともに、あらためて日本を考え直し、その進路を検討 するためにふりかえるべき原点とみなされるわけたが、では、 いったい東京裁判とはどのような ものであったのか それを具体的事実に即してさぐろうとするのが、前著『太平洋戦争』 ( 中公新書 ) および本書執 筆の動機である。 一九七一年三月 児島襄 111

7. 東京裁判 上

うならば、これは世界的にも明らかで良し。責任者はここに居って、敵の出方を待っている。極 めて軽い気持ちで居る。自分は皇徳を傷つけぬ。日本の重臣を敵に売らぬ。国威を損しない。ゅ えに敵の裁判はうけない」 そして、東条大将は美山大佐を見送りながら、「戦犯の発表があったらすぐ知らせてくれ」と いった。これは、やるな と、美山大佐は大将の自決覚悟を感得したが、同時に、困った想い でもあった。大佐としては、東条大将に裁判をうけてもらいたかった。終戦直後、大佐は南次郎 大将と会談する機会があったが、南大将は「こんどの戦争は道義の戦争であった、自衛のための 戦争であった。このことを後世に伝えるため、戦争責任者はいさぎよく戦争裁判、をうけて、裁判 記録にそのことを留めるようにすべきだ」と強調した。この南大将の提言を実現するためには、 そして天皇に裁判の手がのびないようにするためには、内外から最高の責任者とみられている東 条大将が、裁判法廷で陳述するのが、最適である。たが、大将は、裁判はうけぬ、自決する、と ほのめかしている : ″首の座〃に坐るのは誰か 東条大将の脳中には、イタリア、ドイツの降伏の状況が去来していたのかもしれない。 イタリアは、昭和十八年九月八日に降伏した。ファシスト党統帥べニト・ムソリーニは、ドイ ツ軍に救出されて抗戦継続を叫んでいたが、昭和一一十年四月二十八日、北部イタリアで愛人とと

8. 東京裁判 上

ば、質間することによってその疑いをはらすことは、簡単でありました。彼らは天皇の将来の地 位につき、実際に質間をしたのでありますー 「 ( 裁判に反対というなら ) 彼らが降伏したとき、戦争犯罪人はこの二十八人を含まない諒解をもっ ていたことを、証明せねばならぬ。また、もしこの二十八人が裁判にかけられるなら、降伏文書 に調印しなかったということも、証明しなければならぬ。もし、そうであれば、彼ら ( 日本国民 ) は、この二十八人が裁判されるよりは、 : ホッダム宣言第十三条の " 速かな、そして完全な破壊〃 のほうを好んでいたということになりましよう」 キーナン検事は、勝者が敗者に報復を加えるのは当然たといいたげであり、コミンズ・カー検 事は、嫌なら嫌と最初にいえ、いまさらいうのは手おくれだ、と冷笑するかのごときである。む ろん、清瀬弁護人は、憤然として裁判長に発言を求めた。清瀬弁護人は両検事の主張のひとつひ とつに反ばくして、 「キーナン検事も、コミンズ・カー検事も、ともに文明の擁護のために裁判をしなければならぬ とおっしやる。私も同意です。しかしながら、いわゆる文明の中には、条約の尊重、裁判の公正、 これは諸君のおっしやる文明のカテゴリーにはいっておらないのでしようか」 清瀬弁護人は、そのあと、両検事力ノ ; レーズベルト元大統領の言葉を引用したのにたいして、 ルーマン大統領が同年一月に発表した予算教書の中で、戦争裁判にふれた「一言」を引用したい、 と述べた。 っこ 0 172

9. 東京裁判 上

いまは勝者となり、かっての勝者をさばくのである。偏見を抜きにした裁判は不可能であり、ゆ えに裁判は無効だ、とファーネス大尉は主張した。この〃マッカーサー元帥が敗北した戦い〃と いう表現をみた上官は、あわてて大尉に訂正を命じた。 「ファーネス大尉、陸軍刑法を読んでみろ。指揮官にたいする不敬な言葉使いも処罰の対象にな る。マッカーサー将軍は、自分が敗けたという表現を不敬とみなすだろうよ」 「それしや、敗け戦さといわずに、〃マッカーサー将軍の作戦が不成功に終った戦い〃とします」 ファーネス大尉も、軍人である。軍人としての規律に従う意味で、そう譲歩したが、裁判の不 公正を指摘することは、やめなかった。 東京裁判についても、だから、ファーネス大尉は、まっさきに裁判の公正さが維持されるかど うかに注目し、ウ = ツ。フ裁判長の存在に眼を光らせたのである。そして、大尉はもうひとつ、裁 判官忌避の根拠を示唆して、清瀬弁護人をいっそう歓喜させた。 「ソ連およびフランスの判事は、法廷の公用語である英語、日本語のいずれも理解しません。こ この二人も攻撃の対象になりますよ、ドクタ れでは審理をたどり、公正な判断はくたせない。 開廷前夜 五月二日、 132

10. 東京裁判 上

は、ウェップ裁判長も知っていたが、ウェップ裁判長としては、法廷の運営がスム 1 ズにいくか どうかに、疑間を感じていた。 と強調したが、すでに弁護側が妨訴抗弁書を キーナン検事は、弁護側にはなんの切札もない、 用意していることを耳にしている。むろん、管轄権問題は、まっこうから却下すればよいが、厄 介な法律論議だけに時間がかかるのではないか。 キーナン検事は、裁判長の危惧を聞くと、もともと赤い顔をいちだんと紅潮させ、ウェップ裁 判長の回想によれば、「やや軽べっ感をまじえたような」口調で声をはりあげた。 「裁判長、すこし誤解がおありのようだ。裁判はニューヨ 1 クでも、シドニーでもなく、われわ れが敗北させた日本のトウキョウでおこなわれる。そして、裁判は貴国も含む連合国軍の最高司 令官の命令で、日本の降伏条件の遂行としておこなわれる。すなわち、戦争犯罪人の処罰のため 日 三であって、論議のためではないはずです」 月 五 年 法廷の被告たち 四 九五月三日、金曜日、曇り空であった。 起訴級被告は、他の戦犯容疑者よりも早目に朝食をすませ、一台の米軍大型・ハスで市ヶ谷法 章 四廷にむかった。 「久しぶりに浮世の様を眺む、春色は焼野の原にも訪ね来り、万目青々たり」 9