巣鴨 - みる会図書館


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1. 東京裁判 上

する空気なども考え、まずはご迷惑をかけずにすむ。また、裁判にあたっては、あとに心残りが ないようにしたいと思って、日記を提出することにした むろん、日記提出については、もうひとつ、内大臣が無罪なれば陛下も無罪、と都留教授が指 摘したように、侯爵自身の心境の闡明に役立たせるねらいもあった。 巣鴨入所後、サケット中佐の審問をうけると、日記の存在とその提出を申し出たのだが、サケ ット中佐とネイサン次長は、米国のギャングの手口に想いをはせ、木戸侯爵は小さな不利を明ら かにして大きな不利をかくそうとしているのではないか、と疑ったのである。その疑いは、とく にネイサン次長に強く、ネイサン次長は、対策として、巣鴨入所の戦犯容疑者をできるだけ油断 させること、容疑者側にスパイ的人物を発見すること、の二点を提案した。 そして、「相手を油断させる最良の方法は、相手に優越感を抱かせることだ」との—テク ニックに従い、検事たちはできるだけ無知をよそおってほしい、とネイサン次長は進言した。 達もっとも、この最後の提案は不要だったともいえる。キーナン検事がソープ准将に総司令部内 のの資料提供を依頼したことからもわかるように、検事団の日本の政治事情にたいする知識は、ひ 訴どく劣っていた。小 磯大将の苦笑を招いた如く、訊問も稚拙にならざるを得なかった。たくます してネイサン次長の目的のひとつは達成されていたことになるが、いずれにしても、巣鴨に発生 章 三していた安楽ムー トの背景には、明確な意図がひそんでいたわけであり、裁判の準備もまた、急 速に進められていた。

2. 東京裁判 上

ン検事は三井 ( ウスに戻ると、待っていた田中少将にフランス語をささやき、そのまま少将をの せて、自動車を走らせた。午後四時半ごろーー・・秋晴れの空に、まだ陽は高い時間である。 有馬伯爵釈放に心躍る巣鴨 巣鴨では、平穏な好日がつづいていた。 皇帝溥儀の審理が終るころから、秋風が吹きはじめた。昭和二十一年は、夏がとくに暑かった 代りに、秋はかってなくさわやかであった。巣鴨の戦犯たちも、窓から吹きこむ涼風に眼を細め、 さしこむやわらかい陽差しに襟をくつろげた。夜になると、塀の外でたたく盆踊りの太鼓の音が、 風にのって流れてきた。未起訴級組の児玉誉士夫が、東京音頭とちがうようだ、と首をひねる と、 0 級戦犯者の一人が、「敗戦音頭」だそうです、と物知り顔に教えた。散歩時間も午前、午 後の二回となり、その散歩のときに、ふとんをかつぎだして乾す姿もふえた。元企画院総裁鈴木 貞一が、 秋の日はあはれと知れどなかなかに心落ちつくことにこそあれ と、詠むと、元外相重光葵は、無造作に俳句で応えた。 老囚も尻をからげて蒲団干し 秋風がはこんできたのは、しかし、澄んだ大気と太鼓の音だけでなく、戦犯者にとって心躍る ニ = 1 スもあった。八月三十一日に、伯爵有馬頼寧と元同盟通信社長古野伊之助が釈放されたが、 250

3. 東京裁判 上

正雄は、そう回想するが、正雄の知らせをうけた広田は、二度、三度とうなずき、ひとことも 感想は述べなかった。 マッカーサーの要請 ところで、 六月三日の法廷再開まで、弁護団、検事団、被告、判事団など、いずれも格別の動きはないま まにすぎた。 巣鴨の生活も、変化はなく、鈴木貞一元企画院総裁は、相変らず、異様なほえ声をたてて健康 維持につとめ、他の被告たちも思い思いに弁護人、家族の来訪のたびに相談、あるいは歓談を楽 しむ余裕も持っていた。 0 級容疑者の作詞ででもあろうか、重光元外相は隣室からひびく唱声に、耳をかたむけた。 世界平和の夢を見て戦敗れたお互だ 生くるも死ぬるも神さままかせ メリケン給与でほがらかに 前世の約東果たそじゃないか 巣鴨の兄弟元気で行こうよ 182

4. 東京裁判 上

報国会理事長鹿子木員信である。 このうち、元関東軍司令官本庄繁大将は、一一十日午前十時三十分ごろ、東京・青山の陸軍輔導 会理事長室で、自決した。松岡元外相は、疎開先の長野県会染村花見農場で、肺結核にともなう 全身硬化症で病床に臥し、南次郎大将もカゼと急性胃腸カタルを病み、最も早く巣鴨拘置所に出 頭したのは、荒木、鹿子木両氏であった。 巣鴨拘置所は、カーベンター大佐の督促でその二日前に整備を終えていた。荒木、鹿子木両氏 の入所は、だから、巣鴨拘置所が迎える最初の " 政治的戦争犯罪人〃になったわけだが、偶然に も、その儀式であるかのごとく、十一月二十二日、荒木大将はモーニング、鹿子木氏は紋付の羽 織ハカマ姿であらわれた。米人記者をはじめ、米兵まで大喜びで両氏にカメラをむけた。 その一週間後、十一月二十九日、ソー。フ准将はマッカーサ 1 元帥に呼ばれた。 「ソ 1 プ、近衛公爵の件は片づいたよ。検事団は十二月二日にワシントンを出発する。次の指名 リストに含めていい」 「おお、ノー、閣下。次回のぶんは印刷ずみです。その次にまわします。しかし、よく中国が納 得したものですー 近衛公爵にたいする指名がおくれたのは、中国側からの強い引渡し要求があったためである。 近衛公爵が芝浦の砲艦で査問された十一月九日、『読売報知』に次のような小記事が掲載された。 「 ( 濠州放送七日午後十一時 ) ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン東京特派員報道によれば、中

5. 東京裁判 上

ぎる。これでは、自決にたいする防止策もなく、場合によっては脱走の危険すらある。 ウィリアムズ中佐は、整備中の東京最大の刑務所、巣鴨拘置所の準備を急ぎ、できるだけ早く 戦犯容疑者を巣鴨に移す必要がある、とカーベンター大佐に進言した。 急ビッチの開廷準備 十月二十日、カーベンター大佐は通信記者に、日本の戦争裁判の見通しについて語った。 「東京における戦争犯罪人の裁判は、今後少なくとも一一年間はつづくだろう。皇室の人々といえ ども、この裁判から除外されない。天皇については、今までのところでは、個人としては調査さ れていないが、行きつくところまで調査は進められよう。調査は、真珠湾事件当時をはるかにさ 。準備は予想以上に進捗しており、 かの・ほり、支那事変またはパネー号事件当時にまで及・ほう : 裁判は一カ月以内に開始されるだろう」 義 定 という個所は、 このカーベンター大佐の言明、とくに天皇も戦犯に指名されるかもしれない、 の 罪あらためて日本国内に天皇の戦争責任、天皇匍についての論議をかきたてた。しかし、大佐の談 争話は、すべて大佐個人のあて推量で、根拠はなにもなかった。大佐は、記者会見に応ずるさい、 「これはまったくの個人的見解たが」と断ったが、電報には、その言葉がぬかされてしまった。 章 二天皇にかんするものは、ソー。フ准将のリストに皇族の名前がならんでいたので、あるいは天皇ま でおよぶのか、と想像しただけであり、〃一カ月以内〃の裁判開始は、「なにもかも準備が進まず、

6. 東京裁判 上

巣鴨ではビタミン剤を二錠ずつ配給するが、荒木大将に一錠しかくれなかったことがある。大 将は「ワン・モア」と要求したが、くれない。怒った大将は、ロ中の一錠をはきだした。米兵も幻 、まは囚人だ」と叫ぶと、大将もまけず 怒り、「なにをする、お前は大将だったかもしれぬが、し に大声をはりあげた。 「ブレイモノッ。囚人になっても大将は大将である」 その荒木大将を、米人弁護人口ーレンス・マクマナスが訪ねた。日本人弁護人菅原裕によれば、 マクマナス弁護人は「好人物というだけで、とても、国際問題とか日本の国体などわからなかっ た」とのことだが、マクマナス弁護人は、荒木大将に、天皇を大将の証人に呼ぶことを提案した。 大将が天皇に信頼されているなら、天皇こそ最も有利な証人になる、というのである。 むろん、菅原弁護人は、マクマナス弁護人の提案を聞いたとき、言下に反対した。 << 級被告た ちは一致して、天皇に迷惑がかからぬよう、その楯となって死ぬ覚悟をしている。それなのに天 しナカマクマナ 皇を法廷にひきだすなど、そんなことをすれば「荒木は舌をかんで死ぬ」と、つこ : 、 ス弁護人は、弁護人のっとめは被告の利益をはかることだ、とにかく本人の意向をきこう、と主 張して、巣鴨を訪ねたのである。 荒木大将は、マクマナス弁護人の言葉が終ると、首をふり、ひとこと「くどい」といって、背 をむけた。 菅原弁護人がみていると、「そこが好人物のゆえん」で、マクマナス弁護人は、荒木大将がそ

7. 東京裁判 上

また、嶋田元海相の副弁護人になった滝川政次郎法学博士の如く、むしろ、個人弁護に反発を 感ずるので、国家弁護方針を採用した弁護人もいた。滝川博士は、軍人被告に好感を持てなかっ た。もともと、巣鴨の元大将、元中将たちは、「世が世であれば、われわれ法律家を木の端とま でもみなかった人たち」であり、「陛下がわが赤子とまで愛重されたわれわれの子弟を、一銭五 厘の葉書と同じように取り扱った」ではないか。 しかし、「そんな不届きな将校でも、同邦人にたいしては罪万死に当る人間でも、敵国人によ って裁判せられ、処罰されるということは、いわれのないことである」と思うからこそ、弁護に 立った。だから、弁護には懸命の努力を捧げるが、「私としては個人弁護には、どうしても力が はいらない」ーーというのが、滝川博士の心境であった。 日 一一一弁護人の苦悩 月 五 いわば、人数もそろわず、弁護思想もそろわず、弁護団としては、被告が問われる罪の範囲は 年 六わかったものの、足どりも乱れがちに法廷にのそまねばならなかったわけだが、さらに弁護団に 九とって不利なのは、検事側の手のうちが、まったく不明であったことである。 たとえば、検事側がどの被告にどのようなねらいをつけているかは、事前の検事の訊間を知れ 章 四ば見当がつくが、キーナン検事団はその訊問録はいっさい公表せす、おまけに弁護人の巣鴨訪問 は厳重に制限されたので、被告に問、 し合せることもむずかしかった。 127

8. 東京裁判 上

元首相広田弘毅も、巣鴨内のふんい気には意外な感しをうけた。広田元首相は、十二月二日に 発表された五十九人の戦犯者リストに含まれ、同十二日に出頭を命ぜられていたが、心臓疾患の ため、一月十五日に巣鴨にはいった。広田元首相は、その朝、夫妻そろって仏間で亡き両親の位 牌に手を合せたのち、無言で夫人を抱きしめた。広田元首相の恋愛結婚は名高く、愛妻ぶりもよ く知られていた。 「大きな気持で行ってくるよ」 広田元首相は、見送る夫人と二人の令嬢に微笑すると、次男正雄とともに出迎えの警察官の車 にのった。 広田元首相は、ある種の予感を抱いていた。そのきっかけは、前年十一月の戦略爆撃調査団の っこ 0 「しュ / 審問をうけたときだが、帰宅すると、正雄に、 「大東亜戦争や支那事変について聞かれたが、どうも自分をよほど大物にみているらしいな。い 達ろいろ質問されたが、重臣しか知らないようなこともはいっていた。いろんなことを話した人が の いるらしい。おどろいたよ」 訴近衛公爵自決を知ると、「近衛も死んだかア」と、珍しく、感慨をこめてつぶやいた。広田元 首相は、論語に造詣が深く、また玄洋社につながる存在としても知られ、その剛毅さと着実さに 章 三は、定評がある。嘆息めいた言葉は、およそ口に出さない。それたけに、家人にとっては、この 嘆声は意想外であった。

9. 東京裁判 上

れた。静子夫人はすでに絶命していた。薬物による自決である。 「広田弘毅氏夫人広田静子さんは十八日午後七時四十五分藤沢市鵠沼藤ヶ谷の自宅で狭心症の ため死去、六十二、葬儀は近親のみで二十日午後一時自宅で営んた」 と、五月二十一日付『朝日新聞』に記載されているように、当時、夫人の死囚、時間は伏せら れたが、一部の関係者は知っていた。 木村兵太郎大将夫人可縫は、いう。 「わたくしが巣鴨へついて、面会時間を待っていると、突然、中国人らしい通訳官が、異様な叫 ミセス・ヒロ夕、という一言葉 び声をあげてとんで行くのが見えたのです。その叫び声の端々に、 が聞きとれました。間もなく、広田弘毅さんの奥さまが自殺なさったということがわかりました。 わたくしは何か胸をつきあげられる思いにかられました。すべてをあきらめてあの世へ先立たれ 死た気持がわかるようで、その立派なお覚悟には頭が下がりました」 人この可縫夫人の体験が何日かは不明たが、正雄は初七日の五月二十四日、巣鴨を訪ねて広田夫 毅人の死を報告した。 田「よく、武人の妻に似た覚悟とか、日本女性の婦徳の鑑とか、いろいろと母の死には賞讃の言葉 をいただきますが、私たちが母の死から感しとるのは、父にたいする信頼と愛情の深さ、強さで 章 五す。だから、遺書も不要だったのでしよう。母の遺体の前に坐ったとき、私たちは悲しみととも に、大きな安らぎも感したものです」 181

10. 東京裁判 上

法廷作戦の成否 この日の法廷の模様は、ラジオで伝えられ、また翌日の新聞で報道されて、関係者、市民の関 心を呼んだ。巣鴨拘置所では、二十七人の被告全員が無罪を主張したことにたいして、あれこれ と論議がかまびすしかった。認否が、いわば英米法の裁判所の儀式であり、裁判をつづける以上、 無罪といわねばならないものだ、と知る者は少なく、多くは指導者たちの責任意識と関連させて いった。「東 話題にした。児玉誉士夫が散歩していると、 o 級戦犯容疑の海軍士官が近づいて、 条さんたちが、全責任はわれわれにある、といって有罪を認めたら、少なくとも日本人だけにわ かるなにものかを、日本人の胸に永久に残したと思います。いまさら法廷で正邪を論じてみても、 それは要するに紙上に残す歴史でしかありません」 死児玉誉士夫は、今度の大戦では世界に誇れる武士道的美談はひとつも生れなかった、そんな指 人導者たちに、 いまさら「生死を超越し、利害を度外視して、人間の高くも美しき魂をひらめかせ 毅よ、といっても不可能だろうーと、首をふった。 田あるいは、こういった感慨が巣鴨の主流を占めていたためか、若い o 級容疑者たちの < 級被告 のお歴々にたいする視線は、やや遠慮がうすくなる傾向がみえはじめた。これも児玉誉士夫の体 章 験だが、ある日、入浴のあと、一人の o 級者が眼を輝かせて、児玉に報告した。 「センセイ、級のお偉がたのものは、さすがですな。さんは、おとしながら、相当なもので 165