広田弘毅元首相を担任する花井忠弁護人は、 いささか弱っていた。花井弁護人は、それまでに も広田元首相を訪ねて裁判についての意見を交換したが、広田元首相は、いち早く裁判の本質を 見極めているとみえ、およそ法廷闘争には興味を示さなかった。 「これは裁判ではない。裁判に出ても、誰がああいったなどということはいわんつもりだ。ただ 外務省の方針とそのやったことを明らかにするだけでよい」 いや、「弁護人は不要だと思う」とさえ、広田元首相は、覚悟を定めた心境を息子たちに披瀝 していた。花井弁護人は、広田元首相のつねに正々と動じない処世ぶりを敬慕し、そのゆえにこ そ弁護をひきうけただけに、そういう広田元首相の姿勢には当惑した。これでは裁判にならぬし、 無罪のものも有罪になりかねない : 花井弁護士は、罪状認否のさいは、決して有罪を認めてはならぬ、無罪といって下さい、とこ の日も広田元首相に進言した。 「そんなことがいえますか。私には責任があるのですー しかし、閣下、と花井弁護人は、それが英米法の手続きであり、無罪といわねば弁護ができな いといったが、広田元首相は首をふる。 「どうしても無罪と答えねばならぬものなら、弁護人がそのように答えて下さい」 「いや、代理は、おそらく許されないと思いますが」 「そうか、困ったなア」 134
とにかく、戦犯者リストを眺めれば、元首相の経歴を持っ文官は、平沼騏一郎男爵と広田元首 相だけである。同じく首相経験者といっても、平沼男爵は、むしろ、枢密院議長という非実権者 の地位が長い。広田元首相は、昭和八年 ( 一九三三年 ) から昭和十一年 ( 一九三六年 ) まで外相をつ とめ、二・二六事件のあと内閣を組織し、第一次近衛内閣でも外相の椅子を占めたことがある。 広田内閣時代に最高国策である国防方針が改定され、国策基準要綱が策定され、日独防共協定 も成立している。もし、支那事変前後から太平洋戦争まで、最も重要な文官の政策決定者を求め るならば、その筆頭は三次にわたって首相をつとめた近衛公爵であろうが、近衛公爵が死んだと なれば、次にねらいをつけられるのは、広田元首相ではないのか。 その述懐は、広田元首相の警戒心の披瀝でもあり、近衛公爵の 意外に大物視されている、 死は、その警戒心を刺激する警鐘とも感しられたはすである。それたけに、巣鴨に入所してから も、広田元首相は泰然とした姿勢をくずさない一方、被告仲間の一部が、「アンタは間違いだ、 いまに出られるよ」と散歩のおりに話しかけても、「さあ、どうでしようか」とほほ笑んでいた。 テクニックでやれ 広田元首相の予感は、のちに劇的な形で的中することになるが、広田元首相がそのころ体得し たお・ほろげな「油断ならす」の警戒も、裁判準備の進行にたいするマトを射抜いていた、といえ る。
元首相広田弘毅も、巣鴨内のふんい気には意外な感しをうけた。広田元首相は、十二月二日に 発表された五十九人の戦犯者リストに含まれ、同十二日に出頭を命ぜられていたが、心臓疾患の ため、一月十五日に巣鴨にはいった。広田元首相は、その朝、夫妻そろって仏間で亡き両親の位 牌に手を合せたのち、無言で夫人を抱きしめた。広田元首相の恋愛結婚は名高く、愛妻ぶりもよ く知られていた。 「大きな気持で行ってくるよ」 広田元首相は、見送る夫人と二人の令嬢に微笑すると、次男正雄とともに出迎えの警察官の車 にのった。 広田元首相は、ある種の予感を抱いていた。そのきっかけは、前年十一月の戦略爆撃調査団の っこ 0 「しュ / 審問をうけたときだが、帰宅すると、正雄に、 「大東亜戦争や支那事変について聞かれたが、どうも自分をよほど大物にみているらしいな。い 達ろいろ質問されたが、重臣しか知らないようなこともはいっていた。いろんなことを話した人が の いるらしい。おどろいたよ」 訴近衛公爵自決を知ると、「近衛も死んだかア」と、珍しく、感慨をこめてつぶやいた。広田元 首相は、論語に造詣が深く、また玄洋社につながる存在としても知られ、その剛毅さと着実さに 章 三は、定評がある。嘆息めいた言葉は、およそ口に出さない。それたけに、家人にとっては、この 嘆声は意想外であった。
冶町と極楽寺町という隣町同士で、広田が正雄たちに告白したところによれば、子供のころから 静子には注目していた、という。 静子も、広田の存在は意識し、父月成功太郎も、静子に寄せられる縁談は、「私に少し考えが ありますので : : : 」と、すべて断っていた。おそらく、互いに胸奥の想いを走る視線にのせて伝 えつつ、好機の訪れを待つのが、当時の恋愛作法でもあったろうか。だから、広田の縁談申込み は即座に承諾され、広田は自分たちは恋愛結婚たと子供たちに語っていた。 「わが最愛の妻静子 : : : 」 こんな呼びかけを耳にすれば、いささかキザにも聞え、まして沈 着、重厚な広田弘毅の口から、その種の優雅な単語がとびだすとは意想外に思えるが、広田は妻 静子あての手紙には、必ず「わが最愛の : : : 」と形容して欠かすことはなかった。 静子夫人は、ロかずも多いほうではなく、軽い「頭痛持ち」だった。いわゆる外交官夫人、さ らには首相夫人、重臣夫人として、静子夫人の前にはつねにきらびやかな栄誉が用意された。む ろん、戦時中は、やれ〇〇婦人会長、やれ△△会顧問になってほしい、と申出が多かったが、防 空班長さえも断った。ひたすら、夫と子供たちを見守り、その心をわが心とすることを喜びとす をオしが、母に接すると、いつもこちらの気持が通じき る : : : 具体的に「どうというェビソードよよ、 っているという安心感があったーと、弘雄、正雄が同音に述べるように、静子夫人は夫にとって も、子供たちにとっても、その前に立てば、いつも理解の光を反射する鏡にも似た存在であった。 練馬から鵠沼に帰るときも、夫人の言葉に、子供たちはためらいなく従い、さっさと移った。
ソ連判事を忌避しても、結果は同じであったかもしれない。大原弁護人が指摘する米ソ冷戦は、 当時はまだ格別の深刻さはなく、また対立が激しいとすれば、なおさら連合国がさばく法廷の分 裂を避けたい配慮が、はたらくであろうからである。しかし、その種の期待をふくめた作戦が考 えられたことからも、東京裁判の「政治性」がうかがわれるが、五月六日の法廷は、その「政治 性」をいっそう強く、見る者、聞く者に印象づけた。 聞く耳持たぬ裁判 広田弘毅夫人静子は、五月三日の開廷日につづいて六日も傍聴席に、三男正雄、次女美代子、 三女登代子とともに姿をみせていた。その日の裁判が終ると、仮寓先である練馬五丁目安部十二 造宅に帰った。子供たちが、清瀬弁護人の奮闘ぶり、罪状認否の様子、判・検事団の態度など、 死あれこれと話すのに耳を傾けていたが、静子夫人の胸には、とくに罪状認否のとき、荒木大将の 人発言をびしやりとはねつけたウェップ裁判長の態度が強い影をおとしたらしい。 毅「とにかく、この裁判は聞く耳持たないという裁判らしいわね」 田広田弘毅伝記刊行会の『広田弘毅』に、次の一節がある。 「広田が戦犯容疑で巣鴨に拘置された当初、静子は、広田が裁判を受けることになった以上、そ 五の成行きを最後まで見届けるべきだ、という気持をもっていたようであった。しかし、裁判の始 まるころには、広田が連合国側から強力な指導者とみられていることがほ・ほ明らかとなり、彼が 167
「パパを楽にしてあげる方法が、ひとつある 長男弘雄も、あとになって、これらの言葉が、なにかを告げていたのだ、と気づいたが、当時 は、さりげなく、さりげない会話の間にはさまれていただけに、子供たちには、母親の覚悟が直 截にはつかめなかった。だが、子供たちは、両親である広田夫妻は、一方が欠ければ必ず一方も 死ぬ、と推測できた。子供たちの眼からみて、自分の両親ほど理想的な夫婦はなかった。互いに 愛し、信頼しあう度合の深さは、「空気と風ーの間柄にも似ていた。広田弘毅が夫人静子と結婚 したのは、明治三十八年秋、弘毅一一十八歳、静子二十一歳であった。 そのころ、広田は東京帝国大学法科大学を卒業したあと、第十四回外交官・領事官試験に失敗 したが、次回にそなえて勉強しながら、小石川戸崎町の「浩々居」に住んでいた。 「浩々居」は、第一高等学校時代、友人とともに精神修養場もかねて下宿とした借家に広田がっ 死けた呼称である。そして、名前はさつばりしているが、内部は、一瞬でも油断するとブタ小屋な 人みになりかねぬこの「浩々居」の一隅に住み、炊事、掃除の世話をしていたのが、玄洋社幹部の 毅月成功太郎の次女静子であった。 田 月成は、女手がほしい、という「浩々居」からの頼みをきくと、即座に「永年わしがキチンと 広 仕込んであるから、大丈夫だーと、次女静子を送り届けた。静子は、毎日、未明に起きて水汲み、 章 江食事の用意をすますと、着物を着かえ、紫のカシミャの袴を胸高にしめて女子大学付属女学校に かよったが、その姿はいかにもさっそうとしていた。もともと、広田と静子は、生家が福岡の鍛
子がいるらしいと教えられたり、近くの松林にすえつけられた機関銃が発見されたこともある。 警察から極秘に移転を勧告され、藤沢から消防自動車に乗って、練馬の安部家に移った。すれ 違う軍人を乗せた自動車に顔をそむけ、カー・フするたびにカランカランと鳴る鐘におどろき、正 雄は、その都度、お父さま、もっと顔をお伏せになって下さい、といったが、広田はうなすくだ け、沿道につづく焼跡をながめていた。広田は練馬で終戦を迎え、練馬から巣鴨入りをしたわけ いつまで練馬にいるか、鵠沼に帰ろうか、という話は、おりにふれ だが、広田が去っていらい て家族の話題となっていた。 だから、鵠沼行きそれ自体は、静子夫人が言いだしても唐突とは感じられなかったが、静子夫 人は、どうしてもその日のうちに帰りたい、 といった。荷物といっても、それほどに持っていく 必要もないでしよう、あとで取りにきてもよいから、と静子夫人は、息子と娘をうながした。と いっても、せつつくわけではない。夫人は、ただ「ね、おねがいするわ」という風情で、首をか しげる。それだけで、子供たちにはノーをいう気持は消減する。 しくらか、それ あとになって気づけば、五月十四日に広田弘毅に会っていらい、静子夫人は、、 と思わせる言葉を子供たちにもらしていた。 「パパがいる時代に、日本がこんなことになってしまって、このような戦争を止めることができ なかったのは恥ずかしいことです」 「 ( 娘二人にむかって ) いままで楽しい生活をしてきたんですものね。もういいでしよう」 176
十五日の法廷は、午前九時四十分から午前十時三十五分まで、約一時間で終った。平沼騏一郎 元首相の弁護人クライマン大尉の管轄権異議の弁論があったが、とくに目新しい論点はなかった。 ウェッ・フ裁判長は、われ鐘のような大尉の声に閉ロし、「わめかないでほしい」と注意したのち、 大尉に法廷ではなく判事控室でしゃべる機会を与えると述べ、休廷した。 次回は一日おいて、五月十七日であったが、午前十時五分に開幕した法廷は、インド代表判事 ラタ・ビノード・ 。ハルの紹介と、それまでの弁護団側の動議全部の却下を言い渡して、わずか五 分間で、休廷となった。正雄と二人の妹は、着席したと思ったら、すぐ退場する気ぜわしい法廷 にびつくりしたが、帰宅して、六月三日まで裁判はない、 というと、広田夫人静子は、すぐ鵠沼 。し . しュ / ュ / に戻ろう、と、 死広田夫妻の愛情 の 人鵠沼の家は、海岸に近い。広田弘毅が外務省在勤時代に建てた別荘だが、戦争中は、疎開をす 夫 毅すめる者がいても、原宿の私邸から動かなかった。ただ、昭和二十年五月二十五日の東京空襲で 田原宿の邸が焼けてからは、やむを得ず鵠沼住いとなった。ところが、終戦間近になると、広田弘 毅は平和派と目されていたためか、海軍機らしい戦闘機が二階家の屋根すれすれに急降下したり、 章 五あるときは、数発の斉射ではあったが機銃弾をうちこまれ、いまでも二階海向きの部屋の柱に、 弾痕がのこっている。玄関わきの部屋に二十人ほどの刑事がたむろしていたが、その中に危険分 5
れた。静子夫人はすでに絶命していた。薬物による自決である。 「広田弘毅氏夫人広田静子さんは十八日午後七時四十五分藤沢市鵠沼藤ヶ谷の自宅で狭心症の ため死去、六十二、葬儀は近親のみで二十日午後一時自宅で営んた」 と、五月二十一日付『朝日新聞』に記載されているように、当時、夫人の死囚、時間は伏せら れたが、一部の関係者は知っていた。 木村兵太郎大将夫人可縫は、いう。 「わたくしが巣鴨へついて、面会時間を待っていると、突然、中国人らしい通訳官が、異様な叫 ミセス・ヒロ夕、という一言葉 び声をあげてとんで行くのが見えたのです。その叫び声の端々に、 が聞きとれました。間もなく、広田弘毅さんの奥さまが自殺なさったということがわかりました。 わたくしは何か胸をつきあげられる思いにかられました。すべてをあきらめてあの世へ先立たれ 死た気持がわかるようで、その立派なお覚悟には頭が下がりました」 人この可縫夫人の体験が何日かは不明たが、正雄は初七日の五月二十四日、巣鴨を訪ねて広田夫 毅人の死を報告した。 田「よく、武人の妻に似た覚悟とか、日本女性の婦徳の鑑とか、いろいろと母の死には賞讃の言葉 をいただきますが、私たちが母の死から感しとるのは、父にたいする信頼と愛情の深さ、強さで 章 五す。だから、遺書も不要だったのでしよう。母の遺体の前に坐ったとき、私たちは悲しみととも に、大きな安らぎも感したものです」 181
広田元首相は、ほんとに困惑した表情で、花井弁護人を見た。巣鴨拘置所の面会所は、金網ご しに話す。その金網のかなたに、広田元首相は、やや面やつれはしているが、相変らず引きしま った温顔をくもらせて黙思している。しかし、花井弁護人の提案を承知したとはいわぬ。 「とにかく、どうしても無罪とだけはいって下さい」 お願いします、と花井弁護人は、衛兵が面会時間終了を告げるのを聞き、気迫をこめて広田元 首相にいうと、立ちあがった。 大川周明被告担任の大原信一弁護人も、弱っていた。どうも、大川被告の発狂はほんものらし いからである。 大原弁護人は、五・一五事件のとき、清瀬一郎弁護人の助手として大川被告の弁護にたずさわ ったことがある。その関係で大川被告担任となり、四月三十日、はじめて巣鴨を訪ねたが、その 日 三とき、案内のは、右手の人さし指を自分の頭上にかざし、くるくると小さくまわしながら、 五「おお、オーカワ、ザ・マッド・ マン ? ( あの狂人か ) ーといっこ。 たしかに、会ってみると、どうも話がいくぶん誇大に走りがちである。が、語調は流ちょうで 四 九あるし、論旨も明確である。ただ、英語またはドイツ語でしか、しゃべらない。 「大原クン、この裁判は政治裁判だ。中世の宗教裁判と同じた。連合国人でない者は、そのこと 章 四 だけで有罪なのだ。したがって、弁護などほんとうにすることができるかどうか、疑問だよ」 第 二日も、大川被告は、明快にしゃべりまくった。同感である。大原弁護人は、高話拝聴の形で 5