五、病死、自殺其他ノ 病死 変死、中毒ノ別 肺結核症兼慢性腎臓炎 六、病名 昭和十六年七月日 七、発病ノ年月日 八、死亡ノ年月日時昭和二十一年六月二十七日午前二時四〇分 東京都本郷区本富士町壱番地東京帝国大学医学部付属病院 九、死亡場所 右証明候也 東京帝国大学副手医学士医師鴫谷亨一 昭和二十一年六月二十七日 死の床での洗礼 死松岡元外相は、六月四日から東大病院に移っていたが、一日ごとに衰弱して、その死は、生命 人が枯れはてるように自然に訪れた。 毅米陸軍第三六一野戦病院を出るとき、つきそった医師井上泰代は、あまりにうすい松岡の身体 田におどろき、シーツにふれるのさえ痛いのではないか、と両手を背の下にいれて体をささえた。 西日が照りつける小部屋で、入口には大きなマスクをかけたが常駐している環境である。病 章 五勢悪化の原因になっていたのではないか。 東大病院に入院したあとは、龍子夫人、長男謙一郎をはじめ近親者の顔もまちかにあり、松岡 193
判による被害を少なくするためである。そして、級戦犯については、天皇の責任および国家に およぼす影響が大きいので、次の方針をきめた。 C 天皇に責任をおよ・ほさないようにする。 ( 裁判にあたっては ) 国家を弁護すること。 Ü前二項の範囲内において極力個人を弁護すること。 この最高方針にもとづき、まず陸軍省は昭和二十年九月十七日、級戦犯を対象にして、陸 軍大臣名で、連合軍の調査について、次のような応対法を示達した。 「 ( 第一 ) 方針 連合軍側ノ俘虜取扱ニ関スル訊問ニ対シテハ、 アリノママヲ率直ニ披瀝シ一切ノ秘匿修飾ヲ許 サズ : : : 清風朗月淡々タル日本軍人ノ態度ト覚悟ヲ以テ対応ス : ついで、同十一月、終戦連絡中央事務局に戦犯関係事務を担当する中村豊一公使室が設けられ 達た。また陸海軍省が廃止 ( 昭和二十年十二月一日 ) されて、それそれ第一、第二復員省となったあ のと、第一復員省に俘虜関係調査部、第二復員省に大臣官房臨時調査部が設置された。さらに、中 諏村豊一公使室は、昭和二十一年一月十二日、戦犯調査室ならびに戦犯事務室となったが、日本政 府としての活動は少なかった。 章 ひとつには、連合軍側が、個人を訴追の対象にしているように、戦犯裁判にたいする日本政府 第 の関与を厳禁したためであり、一方、日本政府は、こと戦犯にかんしては、できるたけふれない IOI
起訴状の内容 起訴状は、次のような書きだしではじまっていた。 「以下本起訴状の言及せる期間に於て、日本の対内対外政策は、犯罪的軍閥に依り支配せられ、 且指導せられたり。斯る政策は重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因たると共に、平和愛好諸 国民の利益並に日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり : : : 」 つづいて、一九二八年 ( 昭和三年 ) 一月一日から一九四五年 ( 昭和二十年 ) 九月二日、すなわち 満州事変前から降伏文書調印の日まで、十七年八カ月にわたって、いかに日本が国際的非道の限 りをつくしたか、を述べている。 起訴状によれば、日本人は「亜細亜否全世界ーの他の民族よりもすぐれている、と教えこまれ、 第四章一九四六年五月三日 116
その日記提出については、いきさつがある。「木戸日記」に次の記載がある。 「 ( 昭和二十年 ) 十二月十日 ( 月 ) 晴 : : : 都留君より米国の考へ方は内大臣が罪を被れば陛下が無罪 とならるゝと云ふにあらす、内大臣が無罪なれば陛下も無罪、内大臣が有罪なれば陛下も有罪と 云ふ考へ方なる故、充分弁護等につき考ふるの要ある旨話あり。何か腹の決まりたる様な感を得 たり : : : 」 「十二月十五日 ( 土 ) 晴 : : : 都留君来訪、キ 1 ナン等と会食せしことにつき話ありたり : : : 」 文中にある「都留君」は、現一橋大教授都留重人で、木戸侯爵次男孝彦によれば、都留教授と サケット中佐とは、米国ハ ド大学の同窓生である。都留教授がサケット中佐、あるいはキ 1 ナン検事からどのような情報を得たかは明らかでないが、検事側は、侯爵の日記についてはな にも知らなかった。木戸侯爵は、戦争末期は、焼失を恐れて日記を天皇の防空壕内に置き、終戦 後、侯爵細川護貞に保管を依頼していた。 達戦犯の指名をうけると、まっさきに想いあたったのが、この日記である。日記は学生時代から の記述してあるが、政治的に重要なのは、昭和五年十月二十八日、内大臣秘書官長に就任してから 訴である。いらい、その職責上知り得た政治の最高場面の数々が、そのときどきの政、財、軍関係 者の動きとともに克明に記録されている。そして、重要事件にさいしての天皇の言動、重臣の活 三躍も描写している。まさに、昭和政治史の核心を知る貴重な資料である。 だが、同時に、日記という体裁から叙述はときに簡略にすぎ、もし法廷に提出したとき、解釈
うならば、これは世界的にも明らかで良し。責任者はここに居って、敵の出方を待っている。極 めて軽い気持ちで居る。自分は皇徳を傷つけぬ。日本の重臣を敵に売らぬ。国威を損しない。ゅ えに敵の裁判はうけない」 そして、東条大将は美山大佐を見送りながら、「戦犯の発表があったらすぐ知らせてくれ」と いった。これは、やるな と、美山大佐は大将の自決覚悟を感得したが、同時に、困った想い でもあった。大佐としては、東条大将に裁判をうけてもらいたかった。終戦直後、大佐は南次郎 大将と会談する機会があったが、南大将は「こんどの戦争は道義の戦争であった、自衛のための 戦争であった。このことを後世に伝えるため、戦争責任者はいさぎよく戦争裁判、をうけて、裁判 記録にそのことを留めるようにすべきだ」と強調した。この南大将の提言を実現するためには、 そして天皇に裁判の手がのびないようにするためには、内外から最高の責任者とみられている東 条大将が、裁判法廷で陳述するのが、最適である。たが、大将は、裁判はうけぬ、自決する、と ほのめかしている : ″首の座〃に坐るのは誰か 東条大将の脳中には、イタリア、ドイツの降伏の状況が去来していたのかもしれない。 イタリアは、昭和十八年九月八日に降伏した。ファシスト党統帥べニト・ムソリーニは、ドイ ツ軍に救出されて抗戦継続を叫んでいたが、昭和一一十年四月二十八日、北部イタリアで愛人とと
「自分は満州事変を予期しておって : : : 南 ( 次郎 ) 陸軍大臣は関東軍の行動を中止せしめるよう : という話だったが、自分は止める意思はさらになかった : 自分は ( 昭和六年九月 ) 十八日の夕刻奉天についたが : : : 料理屋に行った。そのうちに大きな大 砲の音がすると芸者がぶるぶるふるえだした。自分は、なにオレがここにいる。 : ・フルブル亠丿 るなといっても、一晩じゅう芸者ならびに家の者はふるえあがっておった。朝までぐっすり寝た ら花谷少佐が迎えにきた。それからはじめて関東軍に行ったが、もう事件ははじまっておって、 自分の使命ははたされなかった」 その大砲というのは、当時の陸軍省軍事課長永田鉄山大佐が関東軍に送った二十四センチ砲二 門で、板垣大佐は、その音と威力で支那兵は逃げた、「戦いというものは敵の不意に出なければ だめだーと語った、と田中少将はいう。しかし、建川少将は昭和二十年に死亡している。 要するに、田中少将の証言の根拠は、存在しない文書と死人であり、確かめようがないものば かりではないか。 荒木被告弁護人口ーレンス・マクマナスがその旨をウェッ・フ裁判長に指摘したが、裁判長は、 「どうでもよろしいではないかーと答えて、反対を却下した。 憤然、唖然の被告席 田中少将の証言は、翌六日、土曜日もつづいた。土曜日は法廷は午前中だけだが、田中少将は 202
義 定 の 罪紛糾する戦争犯罪の定義 争ャルタ会談で、ナチス戦争犯罪人について、最も強硬な態度を示したのは、チャーチル英首相 であった。米国務長官エドワード・ステチニャスによれば、チャーチル首相は、会議で主要な戦 二犯リストを作成することを提案したあと、「ただし、それら犯罪人を確認したら、その場で射殺 すべきだ」と述べた。すると、スターリン・ソ連首相が、「では、ヘスの場合はどうなる」と反 ドイツ戦犯をさばく「ニュールンベルク裁判」であるが、戦勝国が敗戦国の指導者をさばく考え は、第一次大戦にさかの・ほる。 第一次大戦終結後、日本を含む連合国は、ドイツ皇帝ウイルヘルム二世を、国際道義に反し条 約の神聖をおかしたという理由で、米英仏伊日の五カ国の裁判官による裁判にかけることをきめ た。しかし、ウイルヘルム二世が亡命した中立国オランダは、ドイツ皇帝の引渡しを拒絶したの で、裁判は不発に終った。 第二次大戦がはじまると、連合国側はしばしばドイツの残虐行為を非難し、責任者の処罰を強 調した。一九四三年 ( 昭和十八年 ) 十月、米英ソ中の四国によって発せられた「モスクワ宣言」で も、ナチス戦争犯罪人の処罰が言明されたが、具体的に国際裁判所設置の動きがあらわれたのは、 一九四五年 ( 昭和二十年 ) 二月、ソ連領クリミャ半島ャルタで開かれた米英ソ首脳会談からであっ こ 0
「田中は、武藤章中将にたいする私憤から進んで証人を買って出たといわれる。ね らいは、武藤中将にあるらしい 軍人とくに陸軍軍人被告たちの一致した推理は、米軍は戦犯者として憲兵に関心を持っている、 田中少将は憲兵を統轄する兵務局長だったので、あえて検事側に接近して延命をはかったのだろ 、つ、という。 そして、こういった情報、推理の多くは、あながちマトはずれではなかった、といえる。 田中少将は、昭和十七年九月に退役したあと、十一月中旬から十一一月下旬まで脳神経症のため 国府台陸軍病院に入院した。一説には、田中少将は日米開戦は日本敗北につながるとの信念を持 ち、その信念をある日、着流し姿で陸軍次官木村兵太郎中将に進言しに行った。敗戦思想者とみ なされ、狂人として病院におしこめられたのだ、ともいわれる。 その後、田中少将は山中湖畔の別荘にひきこもり、終戦後は伊豆長岡の旅館「大和館」に滞在 していた。 「大和館ーこ 冫いたころ、旧知の『東京新聞』記者江口航の求めに応じて「敗北の序幕」と題する 手記を書き、また昭和一一十一年一月『敗囚を衝くー軍閥専横の実相』 ( 山水社 ) という著書を出版 1 ) こ 0 この手記と著書は、いわば田中少将の体験をもとにした陸軍内幕話で、東条首相、武藤軍務局 長らを開戦ならびに敗戦責任者と指摘し、また日本軍隊内の軍紀の乱れ、軍人の非行などについ 204
とにかく、戦犯者リストを眺めれば、元首相の経歴を持っ文官は、平沼騏一郎男爵と広田元首 相だけである。同じく首相経験者といっても、平沼男爵は、むしろ、枢密院議長という非実権者 の地位が長い。広田元首相は、昭和八年 ( 一九三三年 ) から昭和十一年 ( 一九三六年 ) まで外相をつ とめ、二・二六事件のあと内閣を組織し、第一次近衛内閣でも外相の椅子を占めたことがある。 広田内閣時代に最高国策である国防方針が改定され、国策基準要綱が策定され、日独防共協定 も成立している。もし、支那事変前後から太平洋戦争まで、最も重要な文官の政策決定者を求め るならば、その筆頭は三次にわたって首相をつとめた近衛公爵であろうが、近衛公爵が死んだと なれば、次にねらいをつけられるのは、広田元首相ではないのか。 その述懐は、広田元首相の警戒心の披瀝でもあり、近衛公爵の 意外に大物視されている、 死は、その警戒心を刺激する警鐘とも感しられたはすである。それたけに、巣鴨に入所してから も、広田元首相は泰然とした姿勢をくずさない一方、被告仲間の一部が、「アンタは間違いだ、 いまに出られるよ」と散歩のおりに話しかけても、「さあ、どうでしようか」とほほ笑んでいた。 テクニックでやれ 広田元首相の予感は、のちに劇的な形で的中することになるが、広田元首相がそのころ体得し たお・ほろげな「油断ならす」の警戒も、裁判準備の進行にたいするマトを射抜いていた、といえ る。
いうべきである。戦争犯罪という聞き慣れない単語、そしてその戦争犯罪者をさばく裁判がおこ なわれることは、新聞によって日本国民にも知らされていた。ドイツでナチス幹部にたいする戦 犯裁判の開幕がせまっていることも、伝えられていた。ただ、戦争犯罪なるものについては、東 条大将がそうであったように、戦争指導の責任を強盗なみの犯罪とみなして敗者を処罰しようと するものだ、という解釈が一般的であった。 戦争犯罪、とくにナチス・ドイツに適用する戦犯の法理について、最初に一般国民が知ったの は、昭和二十年九月十八日付の『朝日新聞』が伝えた田口チューリッヒ特派員の電報による。田 ロ特派員は、ドイツでおこなわれようとしている戦犯裁判が、従来とはまったくちがう解釈を基 礎にしていることを指摘して、これまでの、戦争法規違反を問う「固有の戦争犯罪」のほかに、 「平和に対する戦争犯罪」「人道に対する戦争犯罪」という新しい二つが加えられている、と報じ た。そして、田口特派員は、この新しい戦争犯罪概念のあらわれとして、裁判にかけられるナチ ッペントロツ。フ外相その他政治・軍指導者のほか、シ ケーリング空軍元帥、リ ス戦犯の中には、・ ャハト元国立銀行総裁、クルップ軍需会社社長、ローゼンベルク・ナチス党外交政策部長など、 官僚、財閥、理論家まで含まれている点を、強調した。 田口特派員が伝えた三つの戦争犯罪は、正式には「平和に対する罪」「戦争犯罪」「人道に対す る罪」と呼ばれ、昭和二十年八月八日、ロンドンで米英仏ソ四カ国代表によって調印された " 戦 犯協定みにもとづく「国際軍事裁判所条例」に定められている。この国際軍事裁判が、ナチス・