被告 - みる会図書館


検索対象: 東京裁判 上
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1. 東京裁判 上

七月二十六日には、前年十月十八日に開幕したニュールンベルク裁判の最終論告がおこなわれ、 そのニュースが伝えられた。米国主席検事ロバ ート・ジャクソンは、二万語の論告文をよみあげ て、ヘルマン・ゲーリング空軍元帥以下一一十二人の被告全員に有罪を要求し、英国代表検事サ ・ショークロスは、その有罪の刑は死刑以外にない、 と主張した。 このニュールンベルク裁判の論告は、巣鴨の被告たちにも、強い印象を与えた。重光元外相は、 論告を知った七月二十九日一句を詠んだ。 生き甲斐のなき身となりぬさらばとて死に甲斐もなき身にてありしか おそらく、 重光元外相が粛然として詠草をこころみた数日後、八月はじめと思われるが、土肥原賢一一被告 の弁護人・ウォーレンは、宿舎第一ホテルの。ハーで、ソ連人将校をさがしていた。 ウォーレン弁護人は、マクマナス弁護人が天皇を証人に呼びたいといって荒木大将に断られた 話を聞き、ヒントを得た。 「いや、勇気をかきたてられたというべきかもしれない」というのが、ウォーレン弁護人の述懐 だが、ウォーレン弁護人は、担任被告である土肥原大将が、 " 満州のローレンス〃の異名のもと に、検事側の注目をうけていることを知っていた。検事側は、土肥原大将が、中国にいた清朝の 若い王子溥儀を誘拐して、強制的に満州国皇帝にしたてあげ、満州国という中国侵略の記念塔を 建設した張本人だ、とみなしている。

2. 東京裁判 上

この言葉は、く ノミーター大尉の号令と同様、いつも判でおしたように変らなかった。大川 松岡両被告とも、片や発狂、片や結核の相違はあっても入院中であった。松岡元外相も、米陸軍 第三六一野戦病院から東大病院坂口内科に移っていた。 だが、六月二十七日午前九時三十五分、ン ミーター大尉の号令のあとをうけたウェップ裁判 : 松岡に関 長の開廷発言は様子を異にしていた。「全被告出席、ただし大川及び松岡を除く。 しましては報告があります」と裁判長がいうと、小林俊三、ウォーレン両弁護人が前に進み出た。 ▽小林弁護人被告松岡洋右の弁護人小林であります。被告松岡洋右は本日午前一一時四十分、東 京帝国大学病院において死亡致しましたことをご報告申しあげます。 ▽ウォーレン弁護人ただいま松岡の弁護人と致しまして書類提出の規則を省きまして、松岡被 告の死亡届を証拠として提出させていただきます。 検事側に異議ない旨が述べられ、ウォーレン弁護人は松岡元外相の死亡診断書を裁判長にさし 死亡診断書 一、氏名 二、男女ノ別 三、出生ノ年月日 四、職業 松岡洋右 男 明治十三年三月四日 死亡者ノ職業ナシ家計 / 主ナル職業ナシ 192

3. 東京裁判 上

第四章一九四六年五月三日 「ニ = ーギニアの問題、裁判長のなさった報告、あの中にはアトロシティ ( 残虐行為 ) 、マーダー ( 殺人 ) もあるのであります。それがやはり此の報告も被告の責任となって、此の法廷に出るので 亠めりましよう。 私は無関係とは信じませぬ。必ず関係があります。もし、この起訴状からニューギニアの問題 をはぶくというならば、別であります」 ウェップ裁判長のほおはひきつり、顔面はそう白になっていた。 ー、私は条件をだすことはできない。休憩を宣する。もし、私の同僚裁判官がその議論を聞 きたいと思うなら、休憩後にまたここに来るだろう。だが、私は出席しない」 そういい終ると、ウ = ツブ裁判長は、発言の翻訳訂正を提案する清瀬弁護人には答えず、息を のむ被告席、記者席、傍聴席の眼を背に、さっさと退廷した。

4. 東京裁判 上

意外な表情をした。キーナン検事の判定では、広田元首相も有罪にできるだろうが、極刑までの 根拠が見出せるとは思えなかったからである。 「急け、急け 四月十三日。 梨本宮と元三菱重工社長郷古潔が釈放された。 「厳重な取調べを行なった後、この両名が国際軍事法廷における被告とは認められないことが明 瞭となった」 キーナン検事は、そう発表したが、郷古はともかく、梨本宮については、もともと深い理由が ソー。フ准将が、日本人にたいする一種の警告の意味で指名したに あって逮捕したわけではない。 すぎない。裁判の開幕がせまり、できるだけ容疑者の数をへらしてス。ヒ 1 ディに終了させる方針 がたてられたので、釈放となったのである。 梨本宮は、「天子様の身代りですよ、やがて帰れますからご心配なく」と、荒木大将らに言葉 をかけておられたが、この日の釈放は、三日前にプリズン側に通告があったにもかかわらず、ま ったく宮殿下には知らされていなかった。梨本宮は、所内で製作したものらしい造花一枝を持ち ながら、に案内されて出てきたが、釈放とは気づかず、「どこへ行くんたね」と、不安げな 様子だった。門を出て、待ち構えた報道陣にそれと告げられたが、郷古には出迎えがいても、梨

5. 東京裁判 上

前日の清瀬弁論への補足の形で、管轄権問題について発言した。 なかでも、ブレイクニー少佐は、戦争はどんな戦争であれ犯罪ではない、まして戦争にともな う人命殺傷は犯罪者の殺人とはちがう、検事側は、あたかも「戦勝国の殺人は合法的だが、敗戦 国の殺人は非合法だ」というにひとしい、と強調した。 「もし真珠湾空襲による被害が殺人行為であるならば、われわれはヒロシマ上空に原爆を投下し た人物、この投下を計画した人物の名前を知っている。彼らも殺人者ではないか ? 」 ウェッ・フ裁判長は、弁護人側の異議申立てについては、後刻裁定する旨を述べ、清瀬弁護人の 発言にたいしても、なにかといえば「これでこの問題は終りでありますーといって先を急いだ。 法廷は、午後五時十七分に終り、被告たちが巣鴨に帰ってきたのは、すでに日暮れ後であった。 被告との面会は、弁護人も家族も一回に一人しか許されていない。広田夫人静子は、拘置所正門 に三男正雄を待たせ、のあとをとことこと歩いていった。面会はそれほど長くなかったとみ え、やがて正雄は行く時と変らぬ足どりで出てくる静子夫人を、迎えた。お元気でしたよ、と夫 人は正雄にいったが、そのほかは、夫とどのような話しあいがおこなわれたかは、なにも語らな っこ 0 、刀 / 正雄と二人の妹、美代子、登代子は、その翌日も、法廷に出かけた。傍聴席から審理を見守り、 休憩、退廷のときに、二階を見あげる父に目礼する。それだけのためだが、それで十分であった。 父と子との心の交流は、互いの存在を確認するだけでよかったからである。

6. 東京裁判 上

法廷作戦の成否 この日の法廷の模様は、ラジオで伝えられ、また翌日の新聞で報道されて、関係者、市民の関 心を呼んだ。巣鴨拘置所では、二十七人の被告全員が無罪を主張したことにたいして、あれこれ と論議がかまびすしかった。認否が、いわば英米法の裁判所の儀式であり、裁判をつづける以上、 無罪といわねばならないものだ、と知る者は少なく、多くは指導者たちの責任意識と関連させて いった。「東 話題にした。児玉誉士夫が散歩していると、 o 級戦犯容疑の海軍士官が近づいて、 条さんたちが、全責任はわれわれにある、といって有罪を認めたら、少なくとも日本人だけにわ かるなにものかを、日本人の胸に永久に残したと思います。いまさら法廷で正邪を論じてみても、 それは要するに紙上に残す歴史でしかありません」 死児玉誉士夫は、今度の大戦では世界に誇れる武士道的美談はひとつも生れなかった、そんな指 人導者たちに、 いまさら「生死を超越し、利害を度外視して、人間の高くも美しき魂をひらめかせ 毅よ、といっても不可能だろうーと、首をふった。 田あるいは、こういった感慨が巣鴨の主流を占めていたためか、若い o 級容疑者たちの < 級被告 のお歴々にたいする視線は、やや遠慮がうすくなる傾向がみえはじめた。これも児玉誉士夫の体 章 験だが、ある日、入浴のあと、一人の o 級者が眼を輝かせて、児玉に報告した。 「センセイ、級のお偉がたのものは、さすがですな。さんは、おとしながら、相当なもので 165

7. 東京裁判 上

マッカーサーの権限 一月二十二日、マッカーサー元帥は戦犯裁判をおこなう「極東国際軍事裁判所」条例を布告し た。法務部長カーベンター大佐によれば、この条例とニュ 1 ルンベルク法廷のための「国際軍事 裁判所」条例との「唯一、かっ最大の相違」は、裁判が完全にマッカーサー元帥の管轄下に置か れた点にある。 東京裁判においても、ニュールンベルク裁判と同様、裁かれるのは、「平和に対する罪ー「通例 の戦争犯罪ー「人道に対する罪」という″三つの大罪〃であるが、ニュールンベルク法廷が、米 英ソ仏四カ国の裁判官の互選で裁判長を選び、また各国が別々に被告を訴追するのにたいして、 東京法廷では、裁判長も主席検察官もマッカーサー元帥が任命し、参加各国は共同して被告を訴 追する。カーベンター大佐の法務部は、ほとんどニュ 1 ルンベルク条例と同じ条例を用意するも のと考え、日本降伏文書に署名した九カ国にたいする日本の " 侵略〃事実を基礎に、法廷構成の 条文を策定していた。 ところが、マッカーサー元帥は、前年十一一月二十七日、モスクワで開かれた米英ソ三国外相会 議が、極東諮問委員会をソ連も加えた「極東委員会」とすることを決定すると、条例の改革を命 じた。この「極東委員会」は、極東諮問委員会にくらべると、マッカーサー元帥の指令を審査す ることができ、また委員会の決定について米英ソ中国の四カ国は拒否権を与えられているなど、

8. 東京裁判 上

うしろにいたケンワージー中佐が、ボタンをかけてやると、大川被告は前の東条大将の禿頭を 軽くたたいた。手くびをちょっとふり動かしたようなたたきかただったので、あまり気がついた 者はいなかった。東条大将はふりむきかけたが、苦笑して正面にむき直った。大川被告は隣の平 沼騏一郎男爵に話しかけ、ケラケラと笑いだし、また。ハジャマのボタンをはずしだし、ケンワー ジー中佐からシャー。フペンシルを借りた。 このころになると、記者、カメラマンも大川被告に注目した。すると、午後三時三十七分、法 廷にワッと笑声まじりの喚声がこだました。大川被告が、ペタンと音が聞えるほど、東条大将の 頭をたたいたのである。東条大将は、やや斜めに身を傾けた独特の姿勢で裁判官席を注視してい たが、そのままゆっくり首をまわして、大川被告を見あげた。こんどは、笑っていない。 大川被告担任の大原弁護士はあわてた。被告席の前にいるので、大川被告の動作はわからない。 日 三ワッというどよめきで、なにごとかとふりかえると、大川被告がケンワージー中佐に両肩をおさ ン 五えられている。なにかやったな、と思ううちに、ウェッ。フ裁判長が休憩を告げた。・ハ 六大尉の「起立」の号令に立ちあがると、退席する裁判官にむかって叫ぶ大川被告の奇声が、とど 九ろいた。 「インディアンズ、コンメン・ジー」 ( インド人よ、こっちに来いーー・・英独語混合 ) 、「お前らツ、早 四く出て行けツー「シット・ダウン」 ( 坐れ ) 外人記者たちは、裁判官の姿が消えると、まっしぐらに被告控室にかけつけた。しかし、大川 147

9. 東京裁判 上

ソ連側に没収された、と伝えられる。 草場中将の死は、被告たち、とくに軍人たちに不安を与えた。ソ連側が「一服盛った」という 噂が流れたが、これは無根であろう。非協力とわかった場合でも、ソ連に返せばすむ。殺す必要 はないはずだからである。虜囚として法廷に身をさらすことを恥じたか。故国での死を企図して いたのか。あるいは法廷での追及またはソ連側の圧迫を避けようとしたのか 、中将の死といし ソ連の手 草場中将の死をめぐるナゾは深いが、皇帝溥儀の " 狂態〃といし 中にある証人が示す異常は、そのまま、やがて開始されるソ連関係の展開の無気味さを予告して いるように思えるのである。 立 この時期になると、弁護団の活動も軌道にのり、検事側の準備についても、しばしば事前に情 対 の報を得ることができるようになった。重光元外相が、駐英大使時代の外務省宛電報が提出される ナという知らせをファーネス弁護人から聞いたのは、その一例である。 キ また、鈴木貞一元企画院総裁は、東郷元外相が供述書の中で、「鈴木、星野が戦争を主張し、 A 」 ・フ永野軍令部総長の真珠湾攻撃に鈴木が同意した。大東亜省は鈴木、及川 ( 元海相 ) がつくった」 = などと述べていると聞き、散歩のさい、東郷元外相に問い訊している。 しかし、ことソ連側の立証準備にかんしては、かすかな気配さえも、かぎとれなかった。草場 章 七中将の死は、被告と同時に、弁護団にも漠然とした不吉感を与えた。清瀬弁護人は、とくにソ連 側の用意探知に嗅覚を働かせたが、効果はなかった。 255

10. 東京裁判 上

巣鴨に帰るバスの中では、さらに上機嫌で叫んだものである。 「おい、きようの昼食は新橋の新喜楽に席が用意してある。天皇ももう行っているから、みんな で一緒に行こう。カネは、これが払うんた」と、畑元帥の肩をたたいた。畑元帥は相手にならず、 他の被告も眼をそらした。 大川被告の精神鑑定 大川被告は、巣鴨に戻ったのち、米陸軍第三六一野戦病院に収容されて、東大教授内村祐之と 米軍医の診断をうけた。そのあと、六月に東大病院神経科に移され、さらに松沢病院に転院して 昭和二十一一年四月、免訴となって東京裁判から除外された。 大川被告の発狂については、弁護人、被告たちの間、また一般的にも偽装説が根強い。その根 日 三拠としては、松沢病院に入院して間もなく、大川被告は回教の聖典『コーラン』の翻訳にとりか かり、みごとに全訳した点があげられる。このような知的労作を完成できる者が、狂人であるは というのである。 六ずがない、 九松沢病院では、大川被告は、「月曜日英語、火曜日ドイツ語、水曜日フランス語、木曜日中国 語、金曜日インド語 ( ヒンヅー語 ) 、土曜日マレ 1 語、日曜日イタリア語」と、日によって話す国 章 四語を定め、誰にでもその言語しか使わなかった。大川被告の法廷での狂態を「名演技」とみなす 菅原裕弁護人 ( 荒木被告担任 ) などは、それも「語学の練習のためーと観測する。だが、大川被