冶町と極楽寺町という隣町同士で、広田が正雄たちに告白したところによれば、子供のころから 静子には注目していた、という。 静子も、広田の存在は意識し、父月成功太郎も、静子に寄せられる縁談は、「私に少し考えが ありますので : : : 」と、すべて断っていた。おそらく、互いに胸奥の想いを走る視線にのせて伝 えつつ、好機の訪れを待つのが、当時の恋愛作法でもあったろうか。だから、広田の縁談申込み は即座に承諾され、広田は自分たちは恋愛結婚たと子供たちに語っていた。 「わが最愛の妻静子 : : : 」 こんな呼びかけを耳にすれば、いささかキザにも聞え、まして沈 着、重厚な広田弘毅の口から、その種の優雅な単語がとびだすとは意想外に思えるが、広田は妻 静子あての手紙には、必ず「わが最愛の : : : 」と形容して欠かすことはなかった。 静子夫人は、ロかずも多いほうではなく、軽い「頭痛持ち」だった。いわゆる外交官夫人、さ らには首相夫人、重臣夫人として、静子夫人の前にはつねにきらびやかな栄誉が用意された。む ろん、戦時中は、やれ〇〇婦人会長、やれ△△会顧問になってほしい、と申出が多かったが、防 空班長さえも断った。ひたすら、夫と子供たちを見守り、その心をわが心とすることを喜びとす をオしが、母に接すると、いつもこちらの気持が通じき る : : : 具体的に「どうというェビソードよよ、 っているという安心感があったーと、弘雄、正雄が同音に述べるように、静子夫人は夫にとって も、子供たちにとっても、その前に立てば、いつも理解の光を反射する鏡にも似た存在であった。 練馬から鵠沼に帰るときも、夫人の言葉に、子供たちはためらいなく従い、さっさと移った。
おそらく、夫人は五月十四日の面会で、広田から裁判の見通しにかんする的確な判断を伝えら れたのであろう。そして、夫人にとって夫の判断は、また自身の覚悟でもある。「パパを楽にし てあげる方法がある」と、夫人がロ走ったのは、そのあとであり、鵠沼に戻ったのも、他人の家 で死んで迷惑をかけてはならぬ、との配慮と理解できる。加えて、乃木大将殉死にかこつけて、 私なら先に、のひとことは、正雄によれば、「確かに母として私たちに決心を伝えていたのでし よう」が、およそ静子夫人にそれとうかがわせる気配はなかった。たが、正雄の眼底には、 なお焼きついて消えぬ母の姿がある。 寝巻姿で、まだ 「味のご飯ーの夕食と、デザート代りの歓談のあと、静子夫人はフロにはいり、 話しつづける子供たちの部屋にきた。静子夫人の姿に、子供たちは息をのんだ。 「きれいだア」・ーーむろん、六十二歳の年齢はかくしようもないが、湯あがりでかすかに。ヒカピ 力するほおに微笑をうかべて立っ静子夫人に、正雄は心から嘆声をあげた。 「お母さま、なにもかも忘れてゆっくりお休みなさい」「そうねー 静子夫人は、正雄の言葉に答え、正雄夫人いづみに、ヘアネットを貸してほしい、といった。 いづみに返した。 いづみが渡すと、ありがとう、と静子夫人は手にしたが数分後に、 「返せなくなるといけないから : : : 」。この言葉で、子供たちは、それまでの夫人の片言のはし ばしと思い合せ、不安な予感をお・ほえたが、静子夫人は、そのまま寝室にはいった。 翌日、五月十八日午前五時ごろ、正雄は、虫の知らせで様子を見にいった妹たちに、起さ 180
「パパを楽にしてあげる方法が、ひとつある 長男弘雄も、あとになって、これらの言葉が、なにかを告げていたのだ、と気づいたが、当時 は、さりげなく、さりげない会話の間にはさまれていただけに、子供たちには、母親の覚悟が直 截にはつかめなかった。だが、子供たちは、両親である広田夫妻は、一方が欠ければ必ず一方も 死ぬ、と推測できた。子供たちの眼からみて、自分の両親ほど理想的な夫婦はなかった。互いに 愛し、信頼しあう度合の深さは、「空気と風ーの間柄にも似ていた。広田弘毅が夫人静子と結婚 したのは、明治三十八年秋、弘毅一一十八歳、静子二十一歳であった。 そのころ、広田は東京帝国大学法科大学を卒業したあと、第十四回外交官・領事官試験に失敗 したが、次回にそなえて勉強しながら、小石川戸崎町の「浩々居」に住んでいた。 「浩々居」は、第一高等学校時代、友人とともに精神修養場もかねて下宿とした借家に広田がっ 死けた呼称である。そして、名前はさつばりしているが、内部は、一瞬でも油断するとブタ小屋な 人みになりかねぬこの「浩々居」の一隅に住み、炊事、掃除の世話をしていたのが、玄洋社幹部の 毅月成功太郎の次女静子であった。 田 月成は、女手がほしい、という「浩々居」からの頼みをきくと、即座に「永年わしがキチンと 広 仕込んであるから、大丈夫だーと、次女静子を送り届けた。静子は、毎日、未明に起きて水汲み、 章 江食事の用意をすますと、着物を着かえ、紫のカシミャの袴を胸高にしめて女子大学付属女学校に かよったが、その姿はいかにもさっそうとしていた。もともと、広田と静子は、生家が福岡の鍛
子がいるらしいと教えられたり、近くの松林にすえつけられた機関銃が発見されたこともある。 警察から極秘に移転を勧告され、藤沢から消防自動車に乗って、練馬の安部家に移った。すれ 違う軍人を乗せた自動車に顔をそむけ、カー・フするたびにカランカランと鳴る鐘におどろき、正 雄は、その都度、お父さま、もっと顔をお伏せになって下さい、といったが、広田はうなすくだ け、沿道につづく焼跡をながめていた。広田は練馬で終戦を迎え、練馬から巣鴨入りをしたわけ いつまで練馬にいるか、鵠沼に帰ろうか、という話は、おりにふれ だが、広田が去っていらい て家族の話題となっていた。 だから、鵠沼行きそれ自体は、静子夫人が言いだしても唐突とは感じられなかったが、静子夫 人は、どうしてもその日のうちに帰りたい、 といった。荷物といっても、それほどに持っていく 必要もないでしよう、あとで取りにきてもよいから、と静子夫人は、息子と娘をうながした。と いっても、せつつくわけではない。夫人は、ただ「ね、おねがいするわ」という風情で、首をか しげる。それだけで、子供たちにはノーをいう気持は消減する。 しくらか、それ あとになって気づけば、五月十四日に広田弘毅に会っていらい、静子夫人は、、 と思わせる言葉を子供たちにもらしていた。 「パパがいる時代に、日本がこんなことになってしまって、このような戦争を止めることができ なかったのは恥ずかしいことです」 「 ( 娘二人にむかって ) いままで楽しい生活をしてきたんですものね。もういいでしよう」 176
申し開きをしないといっている以上、その信念を貫くため、妻として何をなすべきか、また広田 が自由に進むべき道をとれるようにするには、どうしたらよいか、いろいろ思い悩んでいるよう に見受けられた」 夫人は、その名のごとく、つねにもの静かで、正雄夫人いづみは、「おそばにいるだけで春風 につつまれているような温かさを感じました」と回想する。そのころ、胸中にどのような思いと 悩みがあったにせよ、静子夫人の変らぬ温容と静かな挙動からは、なんの予感もくみとることは できなかった。ただ、五月六日の法廷見学は、あらためて静子夫人に東京裁判の本質を確認させ たものであろう。静子夫人は、またこの次の裁判にも行きますか、という正雄の 日円、こ、、もう ( 行 かなくてもいいですよ、とニッコリ微笑した。 ドイツ戦犯と日本戦犯の相違 五月十三日、午前九時四十分に開かれた東京裁判被告席には、二つの空席が目についた。大川 被告に加えて、松岡元外相の席である。松岡元外相は、五月九日、弁護団の申請で巣鴨から両国 の米陸軍第三六一野戦病院に収容されていた。終戦直後からっきそっていた医師寺尾殿次、井上 泰代の二人が米人医師モートンと診断にあたったが、結核症状が極度に悪化していることは、す ぐわかった。三人の医師は、一致して死期の間近を予測したが、身は動かせぬまま、松岡元外相 は、ときに米人看護婦、医師に話しかけ、得意の即妙のユーモアで笑わせたりした。裁判にはふ 168
ソ連判事を忌避しても、結果は同じであったかもしれない。大原弁護人が指摘する米ソ冷戦は、 当時はまだ格別の深刻さはなく、また対立が激しいとすれば、なおさら連合国がさばく法廷の分 裂を避けたい配慮が、はたらくであろうからである。しかし、その種の期待をふくめた作戦が考 えられたことからも、東京裁判の「政治性」がうかがわれるが、五月六日の法廷は、その「政治 性」をいっそう強く、見る者、聞く者に印象づけた。 聞く耳持たぬ裁判 広田弘毅夫人静子は、五月三日の開廷日につづいて六日も傍聴席に、三男正雄、次女美代子、 三女登代子とともに姿をみせていた。その日の裁判が終ると、仮寓先である練馬五丁目安部十二 造宅に帰った。子供たちが、清瀬弁護人の奮闘ぶり、罪状認否の様子、判・検事団の態度など、 死あれこれと話すのに耳を傾けていたが、静子夫人の胸には、とくに罪状認否のとき、荒木大将の 人発言をびしやりとはねつけたウェップ裁判長の態度が強い影をおとしたらしい。 毅「とにかく、この裁判は聞く耳持たないという裁判らしいわね」 田広田弘毅伝記刊行会の『広田弘毅』に、次の一節がある。 「広田が戦犯容疑で巣鴨に拘置された当初、静子は、広田が裁判を受けることになった以上、そ 五の成行きを最後まで見届けるべきだ、という気持をもっていたようであった。しかし、裁判の始 まるころには、広田が連合国側から強力な指導者とみられていることがほ・ほ明らかとなり、彼が 167
「きれいだ」った母親 さすがに手入れする者もなく、鵠沼海岸を吹きあげる潮風のおかげで、家の中はうすく砂ぼこ りにおおわれていた。が、なっかしいわが家である。荒れはてた感じで雑草がしげる庭も、 らか建てつけが悪くなったふすまも、ひとつを眺めるたびに、帰ってきてよかった、という思い が、子供たちの胸にこみあげた。静子夫人は、広田家で「味のご飯ーと呼んでいる五目飯、ある いは味付け飯 : : : つまり、野菜を炊きこみ醤油で味つけた、ごく一般的な調理の夕食を用意した。 食後、慣例のように、あれこれと会話がはずんたが、誰が言いだしたのか、正雄も妹も思いだ せないが、乃木大将夫妻の殉死が話題こよっこ。」 冫オナに殉死を批判するわけでも、その形式を論評 することでもなく、ただ、やつばりああいうときは、まず夫が自決し、次に妻が自害してあとを 死追うものでしようね、といった話であった。すると、静子夫人は、首をふって、 人「まあ、私なら自分が先に死ぬわー 毅そう、お母様ならそうかもしれぬ、と正雄たちは、うなずいた。理由は別にない。あるいは、 田もし自決を必要とするさい、夫の最後を見届けるのも妻のっとめかもしれぬが、夫に心おきなく 最後をとげさせるために、まず妻が世を去るのも妻のっとめといえるかもしれない。すでに、広 章 五田弘毅は、夫人のみるところでは " 問答無用みの法廷に立ち、深く責任を自覚するがゆえに、 " 返答無用〃とをかみしめている。 9
れた。静子夫人はすでに絶命していた。薬物による自決である。 「広田弘毅氏夫人広田静子さんは十八日午後七時四十五分藤沢市鵠沼藤ヶ谷の自宅で狭心症の ため死去、六十二、葬儀は近親のみで二十日午後一時自宅で営んた」 と、五月二十一日付『朝日新聞』に記載されているように、当時、夫人の死囚、時間は伏せら れたが、一部の関係者は知っていた。 木村兵太郎大将夫人可縫は、いう。 「わたくしが巣鴨へついて、面会時間を待っていると、突然、中国人らしい通訳官が、異様な叫 ミセス・ヒロ夕、という一言葉 び声をあげてとんで行くのが見えたのです。その叫び声の端々に、 が聞きとれました。間もなく、広田弘毅さんの奥さまが自殺なさったということがわかりました。 わたくしは何か胸をつきあげられる思いにかられました。すべてをあきらめてあの世へ先立たれ 死た気持がわかるようで、その立派なお覚悟には頭が下がりました」 人この可縫夫人の体験が何日かは不明たが、正雄は初七日の五月二十四日、巣鴨を訪ねて広田夫 毅人の死を報告した。 田「よく、武人の妻に似た覚悟とか、日本女性の婦徳の鑑とか、いろいろと母の死には賞讃の言葉 をいただきますが、私たちが母の死から感しとるのは、父にたいする信頼と愛情の深さ、強さで 章 五す。だから、遺書も不要だったのでしよう。母の遺体の前に坐ったとき、私たちは悲しみととも に、大きな安らぎも感したものです」 181
前日の清瀬弁論への補足の形で、管轄権問題について発言した。 なかでも、ブレイクニー少佐は、戦争はどんな戦争であれ犯罪ではない、まして戦争にともな う人命殺傷は犯罪者の殺人とはちがう、検事側は、あたかも「戦勝国の殺人は合法的だが、敗戦 国の殺人は非合法だ」というにひとしい、と強調した。 「もし真珠湾空襲による被害が殺人行為であるならば、われわれはヒロシマ上空に原爆を投下し た人物、この投下を計画した人物の名前を知っている。彼らも殺人者ではないか ? 」 ウェッ・フ裁判長は、弁護人側の異議申立てについては、後刻裁定する旨を述べ、清瀬弁護人の 発言にたいしても、なにかといえば「これでこの問題は終りでありますーといって先を急いだ。 法廷は、午後五時十七分に終り、被告たちが巣鴨に帰ってきたのは、すでに日暮れ後であった。 被告との面会は、弁護人も家族も一回に一人しか許されていない。広田夫人静子は、拘置所正門 に三男正雄を待たせ、のあとをとことこと歩いていった。面会はそれほど長くなかったとみ え、やがて正雄は行く時と変らぬ足どりで出てくる静子夫人を、迎えた。お元気でしたよ、と夫 人は正雄にいったが、そのほかは、夫とどのような話しあいがおこなわれたかは、なにも語らな っこ 0 、刀 / 正雄と二人の妹、美代子、登代子は、その翌日も、法廷に出かけた。傍聴席から審理を見守り、 休憩、退廷のときに、二階を見あげる父に目礼する。それだけのためだが、それで十分であった。 父と子との心の交流は、互いの存在を確認するだけでよかったからである。
「世界の歴史がはじまって初めて、戦争製造者を罰する裁判がおこなわれつつある」ーーという ひとことである。だが、清瀬弁護人がいい終ると、ウェップ裁判長は、およそ関心を示し得ない という心情を露骨に顔にうかべて、さえぎった。 「トルーマン大統領がいったということは、本件についてなんらの関係がありませぬ」 「裁判長ツ」ーーと、さすがに温厚な清瀬弁護人も、がまんなりかねるとばかりに、ひたいの白 髪をふりあげて叫んた。関係がないとは、なんたることか。同じアメリカ大統領なのに、故人の ル 1 ズベルトの言葉は引用できても、現職のトルーマンの発言は無意味というのか。だいいち、 あらそう問題は裁判の法的根拠である。トル 1 マン大統領の言葉は、ニュールンベルク裁判を含 めて、戦犯裁判が未曽有のものであり、かって先例も、したがって、根拠となる法も存在しない ことを、明示したものではないか。たが トルーマン大統領はポッダム宣言を 死「裁判長は、内容を、お読みになったのでありましようか。 人 ・ : 」。訴え、せまる清瀬弁護人の言葉は、「討論は本件をもって終結致します」というウェップ 毅裁判長の声で、切り捨てられた。 田 広 父への目礼 章 五広田弘毅夫人静子は、五月十四日午後、巣鴨拘置所を訪ねた。 この日の法廷では、米人弁護人ブレイクニー少佐、ファーネス大尉、ジョージ山岡の三人が、 173