場所 - みる会図書館


検索対象: 海辺のカフカ 下
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1. 海辺のカフカ 下

第 31 章 化がない。風も吹いていない。そこに見えるものは映画撮影用の背景画みたいにびくりとも動か 「人生にはいろんな思いもよらないことが起こるのよ」と佐伯さんは一一一一口、つ。 「だからいっか僕もまたもとの場所に戻るかもしれない、 「それはもちろんわからない。それはあなたのことだし、たぶんもっと先のことだから。でも私 は思うんだけど、生まれる場所と死ぬ場所は人にとってとても大事なものよ。もちろん生まれる 場所は自分では選べない。でも死ぬ場所はある程度まで選ぶことができる」 彼女は顔を窓の外に向けたまま静かに話す。まるで外にいる架空の誰かに語りかけているみた いに。それから思いだしたように僕のほうに向きなおる。 「どうして私はあなたにこんなことをうちあけているのかしら ? 「僕がこの土地とは関係のない人間で、歳も離れているから」と僕は言う。 「そうね、たぶん」と彼女は認める。 それから少し沈黙がおりる。秒か秒くらい。そのあいだ僕らはたぶんべつべつのことを考 えている。彼女はカップを手にとってコーヒーをひとくち飲む。 僕は田 5 いきって口を開く。「佐伯さん、僕のほうにもあなたにうちあけなくてはならないこと があると思うんです ほほえ 彼女は僕の顔を見る。そして微笑む。「つまり私たちはそれぞれの秘密を交換しているわけ ね ? 」 とし

2. 海辺のカフカ 下

たた などを詳しく調べています。また田村さんの生前の芸術的功績を讃えて、東京国立近代美術館で 「よう、おじさん」と青年は台所に立っているナカタさんに声をかけた。 しなんでしよ、つ ? 「は : 新歳なんだそうだ 「おじさん、ひょっとして中野区で殺された人の息子って知っているかい ? けどさ」 「ナカタはその息子さんのことは知りません。ナカタが知っておりますのは、このあいだも申し 上げましたとおり、ジョニー・ウォーカーさんと、大さんだけです 「ふうん」と青年は言った。「警察はおじさんとはべつに、その息子の行方も探しているらしい。 一人息子で兄弟はいない。母親もいない。息子は事件の前に家出をして、行方不明になっている んだって」 「そうでありますか 「よくわからん事件だ」と青年は言った。「でも警察はもっと多くをつかんでいるね。あいつら は情報を小出しにしかしない。カーネル・サンダーズの情報によれば、あいつらはおじさんが高 松にいることを知っている。そしてこのホシノくんらしきハンサムな青年が、おじさんと連れだ って行動していることもっかんでいる。でもそこまではマスコミに公表しない。俺たちが高松に いることがわかっていると世間に公表しちまうと、俺たちがどっかべつの場所に逃げちまうと思 っているからだ。だから表向きは俺たちかどこにいるかわからないということにしているんだ。 232

3. 海辺のカフカ 下

、ついう考えかたをするものなの。あなたの場合はどう ? 「僕はそんなふうに田 5 ったことはありません。どこかべつのところに行けば、なにかべつの興味 深いものがある、というふうには思わなかった。ただ僕はよそに行きたかっただけです。ただそ こにいたくなかっただけです 「そこ ? 「中野区野方です。僕が生まれて育った場所ですー ひとみ その地名を耳にしたときに、彼女の瞳の中をなにかが横切ったような気配がある。でも僕には 確信がもてない 「そこを出てからどこに行くかというのは、とくに大きな問題ではなかったのねーと佐伯さんは 「そうです」と僕は一言う。「それはとくに問題じゃなかった。とにかくそこを離れないことには だめになってしまうと思った。だから出てきたんです 彼女は机の上に置かれた自分の両手を眺める。とても客観的な目つきで。それから静かに言う。 「私もあなたと同じようなことを思ったわ。歳のとき、ここを出ていくときにはねと彼女は 言う。「ここを出ていかなければ、とても生きのびてはいけないと思った。そして二度とこの土 地を目にすることはないとかたく信じていた。戻ることなんて考えもしなかった。でもいろんな ことか起こって、やはりここに帰ってこないわけによ、、 ( し力なかった。ふりだしに戻るみたいに」 佐伯さんは後ろを振り向いて、開いた窓の外に目をやる。空を覆う雲のトーンにはまったく変

4. 海辺のカフカ 下

第 43 章 になっているはずだ。かまわない、閉ざされたままにしておけばいい、と僕は思う。しみこんだ 血はしみこんだままにしておけばいいんだ。僕の知ったことじゃない。もう一一度とそこに戻るつ もりはない。その家は、つい最近の流血事件が起こる前からすでに、多くのものごとが死んでし まった場所だった。、 しや、多くのものごとが殺されてしまった場所だった。 森はときには頭上から、ときには足もとから僕を脅そうとする。首筋に冷たい息を吐きかける。 千の目の針とな 0 て肌を刺す。様々なやりかたで、僕を異物としては」きだそ、「とする。でも僕 はそんな脅しをだんだんうまくやりすごせるようになる。ここにある森は結局のところ、僕自身 の一部なんじゃないかーーー僕はあるときからそういう見かたをするようになる。僕は自分自身の 内側を旅しているのだ。血液が血管をたどって旅するのと同じように。僕がこうして目にしてい るのは僕自身の内側であり、威嚇のように見えるのは、僕の心の中にある恐怖のこだまなんだ。 そこに張られた蜘蛛の巣は僕の心が張った蜘蛛の巣だし、頭上で鳴く鳥たちは僕自身が育んだ鳥 たちなんだ。そんなイメージが僕の中に生まれ、根をおろしていく。 巨大な心臓の鼓動にうしろから押し出されるように、森の中の通路を進みつづける。その道は 僕自身のとくべつな場所に向かっている。それは暗闇を紡ぎ出す光源であり、無音の響きを生み 出す場所だ。僕はそこになにがあるのかを見とどけようとしている。僕はかたく封をされた重要 な親書をたずさえた、自らのための密使なのだ。 どうして彼女は僕を愛してくれなかったのだろう。 301

5. 海辺のカフカ 下

僕は彼女と一緒に海岸まで歩く。松林を抜け、夜の砂浜を歩く。雲が割れて、半分残った月の 光が波を照らしている。かすかに持ちあがり、かすかに砕ける小さな波だ。砂浜のある場所に彼 女は腰をおろす。僕もそのとなりに座る。砂はまだかすかな温かみを残している。彼女はそこか ら角度をはかるようにして波打ち際のある場所を指さす。 「あそこよ」と彼女は一一一一口う。「この角度から、あの場所を描いたの。デッキチェアを置いて、男 の子を座らせて。このあたりにイーゼルを立てて。よく覚えているわ。島の位置も絵の構図にあ っているでしよ、つワ・ 僕は彼女の指の先を見る。たしかに島の位置はあっているようだ。でもどれだけ眺めても、そ れは絵に描かれた場所のようには見えない。僕はそう一一一一口う。 「すっかり変わってしまったのよ」と佐伯さんは一一一一口う。「なにしろもう鬨年も昔のことだもの。 地形だって当然変わってしまう。波や風や台風や、いろんなものが海岸のかたちを変えてしまう。 砂を削ったり、砂を運びこんだり。でもまちがいない。ここよ。私はそのときのことを今でもは つきりと覚えているの。それからその年の夏には初潮があった」 僕も佐伯さんもなにも言わずに風景を見つめている。雲がかたちを変え、月の光をまだらなも のにする。松林をときおり風が抜け、たくさんの人がほうきで地面を掃いているような音をたて る。僕は手に砂をすくい、それを指のあいだからゆっくりとこほす。砂は下に落ちて、見失われ てしまった時間のように、ほかの砂とひとつに混じりあう。僕は何度もそれを繰りかえす。 「あなたは今なにを考えているの ? 」と佐伯さんは僕に尋ねる。 122

6. 海辺のカフカ 下

第 45 章 よい水音が聞こえてくる。美しく澄んだ水だ。あらゆるものがここでは簡素で、こぢんまりとし ている。ところどころに細い電柱がたって、そのあいだに電線が張られている。ということは、 電気はここまで来ているらしい。電気 ? それは僕に違和感のようなものをいだかせる。 その場所は四方を高い緑の尾根に囲まれている。空はまだ一面の灰色の雲に覆われている。僕 と兵隊たちは通りを歩いていくのだが、そのあいだ僕らは誰ともすれ違わない。あたりはしんと 静まりかえり、もの音ひとつない。人々は家の中にこもって息をひそめ、僕らが通り過ぎてしま うのを待っているのかもしれない。 二人の兵隊は僕を、建物のひとつにつれていく。それは大島さんのキャビンに大きさもかたち も不思議なくらい似ている。まるでどちらかをモデルにしてもうひとつがつくられたみたいに田 5 えるくらいだ。正面にポーチがあり、そこに椅子が置かれている。平屋建てで、屋根からは暖炉 の煙突が出ている。ちがうのは、寝室が居間とはべつになっていることと、中に洗面所がついて いること、そして電気が使えることだ。台所には電気冷蔵庫がある。東芝製の、それほど大きく ない古い型の電気冷蔵庫だ。天井からは電灯も下がっている。テレビもある。テレビ ? 寝室には飾りのないシングル・べッドがひとっ置かれ、べッドには寝支度がととのえられてい 「とりあえず落ちつくまでここにいることになる」とがっしりしたほうが一一一一口う。「そんなに長い あいだじゃないだろう。とりあえずだ」 ここでは時間はそれほど大事な問題にはならないんだ」と背の高いほ 「さっきも一言ったよ、つに、 337

7. 海辺のカフカ 下

第 25 章 「あなたは歳になったばかりにしてはとても筋がとおったしゃべりかたをするのね」 どう返事をすればいいのか僕にはわからない。僕は黙っている。 「私も新歳のころは、どこかべつの世界に行ってしまいたいといつも思っていた」と佐伯さんは 微笑んで一一一一口う。「誰の手も届かないところに。時の流れのないところに」 「でもこの世界にはそんな場所はありません」 「そのとおりね。だから私はこうして生きているのよ。ものごとが損なわれつづけ、心が移ろい つづけ、時が休みなく流れていく世界で」、彼女は時の流れを暗示するように、ひとしきり口を つぐむ。それからまたつづける。「でも歳のときには、そういう場所が世界のどこかにきっと あるように私には思えたの。そういうべつの世界に入るための入り口を、どこかで見つけること ができるんじゃないかって」 「佐伯さんは孤独だったんですか。歳のときに ? 「ある意味では、そう。私は孤独だった。ひとりほっちではなかったけれど、それでもひどく孤 独だった。どうしてかといえば、自分がこれ以上幸福になれつこないということがわかっていた から。それだけははっきりわかっていたの。だからそのときのかたちのまま、私は時の流れのな い場所に入ってしまいたかった」 「僕は少しでも早く歳をとりたいと思っています」 佐伯さんは少し距離を置いて僕の表情を読む。「あなたはきっと私より強いし、独立心がある のよ。そのころの私はただ現実逃避の幻想を抱いているだけだった。でもあなたは現実に立ち向

8. 海辺のカフカ 下

んだけど : それで、もっと具体的に一一一一口うとどういうことなのかしら。あなたの一一 = ロう損なわれ るってことは ? ・ 僕は言葉を探す。僕はまずカラスと呼ばれる少年の姿を求める。でも彼はどこにもいない。僕 は自分で言葉を探す。それには時間がかかる。でも佐伯さんはじっと待っている。稲妻が光り、 それからしばらくあって遠い雷鳴が聞こえてくる。 こ変えられてしまう、とい、つことです 「自分があるべきではない姿。 , 佐伯さんは興味深そうに僕を見る。「でも時間というものがあるかぎり、誰もが結局は損なわ れて、姿を変えられていくものじゃないかしら。遅かれ早かれ」 「たとえいっかは損なわれてしまうにせよ、引き返すことのできる場所は必要です 「引き返すことのできる場所 ? 「引き返す価値のある場所のことですー 佐伯さんは正面から僕の顔をじっと見ている。 僕は赤くなる。でも勇気を出して顔をあげる。佐伯さんはネイビープルーの半袖のワンピース を着ている。彼女は様々な色合いのプルーのワンピースをもっているようだ。銀の細いネックレ スと、黒い革の小さな腕時計、それだけが装身具だ。僕は彼女の中に歳の少女の姿を探しもと める。その姿はすぐに見つかる。少女はその心の森の中にだまし絵みたいにみ、こっそりと眠 っている。でも目をこらせばその姿が見える。僕の心臓がまた乾いた音をたてる。誰かがハンマ くぎ ーを使って、僕の心の壁に長い釘を打ちつけている。

9. 海辺のカフカ 下

「はい。完全にひっくり返さなくてはなりません」 「ホットケーキをひっくり返すみたいに」 「そのとおりですーとナカタさんはうなずいて言った。「ホットケーキはナカタの好物でありま 「そりやよかった。地獄でホットケーキ、という一言葉もある。もう一度がんばってやってみよう。 なんとかこいつをベろんときれいにひっくり返してやろうじゃないかー 星野青年は目を閉じて意識を深く集中した。身体じゅうの気力をまんべんなくかき集め、出ど ころを一カ所に定めた。この一回だ、と彼は田 5 った。この一回でなんとか決めるしかない。これ でばしっと決めないと、もうあとはないんだ。 彼は石の手頃な場所に両手をあて、注意深くグリップを固定し、息づかいを整えた。最後にひ とつ大きく息をして、腹の底から絞り出すようなかけ声とともに、一気に石を持ち上げた。度 の角度で、それは空中に持ち上がった。それが限度だった。しかし彼はその位置になんとか石を 保持した。石を支えたまま大きく息を吐くと、全身がみしみしと痛んだ。すべての骨と筋肉と神 ーし ( し力ない。も、つ一度大きくを吸 経が悲鳴をあげているようだった。でもそこでやめるわナこよ、ゝ い込み、ときの声をあげる。しかしその声はもう自分の耳には届かない。何を言っているのかも わからない彳ー 皮よ目を閉じたまま、限度を超えた力をどこかから引っぱり出してきた。それはも ともとは彼の中にあるはずのない力だった。頭の中が酸欠状態になり、真っ白になった。ヒュー ズが飛ぶみたいに、いくつかの神経が次々に溶解していった。何も見えない。何も聞こえない。

10. 海辺のカフカ 下

「あのままでいれば、どうせ兵隊として外地につれていかれたんだ」とがっしりとしたほうが言 う。「そして人を殺したり、人に殺されたりしなくちゃならなかった。俺たちはそんなところに 行きたくはなかった。俺はもともと百姓で、この人は大学を出たばかりだった。どっちにしても 人なんて殺したくなかったし、殺されるのはもっと嫌だった。あたりまえの話だけどな」 人を殺したり、人に殺されたりしたいかい ? ーと背の高い兵隊が僕に質問す 「君はどうだい ? 僕は首を振る。僕は誰も殺したくない。誰にも殺されたくない。 「誰だってそうだよ」と背の高いほうが一一一一口う。「まあ、ほとんど誰だって、ということだけどね。 でも戦争に行きたくないと言ったところで、『そうか、君は戦争に行きたくないのか。わかった 、。逃げることだってできない 行かなくてよろしい』なんてお国が親切に言ってくれるわけがなし 、 0 ヾ とこに行ったってすぐにみつかっちま、つ。 この日本には、逃げられる場所なんてどこにもなし なにしろ狭い島国だからね。だから僕らはここにとどまった。ここがただひとっ身を隠せる場所 だった」 彼は首を振り、話をつづける。 「そしてそのまますっとここにとどまっている。君が一言うようにずっと昔からね。でもさっきも 言ったように、時間というのはここでは大事な問題ではないんだ。今とずっと昔とのあいだにほ とんどちがいはない」 「ぜんぜんちがいはないんだ」とがっしりしたほうが一言う。そして手でひゆっとなにかをはねの 310