第 42 章 部屋の中に二人きりになると、佐伯さんはナカタさんに椅子を勧めた。ナカタさんは少し考え てから、そこに腰を下ろした。二人はしばらくのあいだ何も一言わずに、机越しに互いを見ていた。 そろ ひざ ナカタさんは揃えた膝の上に登山帽を置き、いつものように手のひらで短い髪をごしごしと撫で た。佐伯さんはテープルの上に両手を載せ、ナカタさんのそんな様子を静かに見ていた。 「もし思い違いでなければ、たぶん私は、あなたがいらっしやるのを待っていたのだと思いま す」と彼女は言った。 「はい。たぶんそうであろうとナカタも考えますーとナカタさんは言った。「しかし時間がかか りました。お待たせしすぎたのではないでしようか ? ナカタもナカタなりに急ぎはしたのです が、これが精いつばいでありました」 佐伯さんは首を振った。「いし え、そんなことはありません。これより早くても、これより遅 くても、私はもっと戸惑うことになったのではないかと思います。私にとっては、今がいちばん 正しい時間です - 第 4 章 28 ぅ
大島さんが来る前に、図書館を開ける準備を済ませておく。館内の床に掃除機をかけ、窓ガラ つや ぞうきん スを拭き、洗面所をきれいにし、ひとつひとつのテープルと椅子に雑巾をかける。艶出しのスプ レーを使って階段の手すりを磨く。踊り場にあるステンドグラスにそっとはたきをかける。庭を ほうきで掃いて、閲覧室のエアコンと、書庫の除湿器のスイッチをいれる。コーヒーをつくり、 鉛筆を削っておく。誰もいない朝の図書館には、なにかしら僕の心を打つものがある。すべての 言葉と思想がそこに静かにやすんでいる。僕はできるかぎりその場所を美しく清潔に静かに保つ ておきたいと思う。ときどき立ちどまって、書庫に並んでいる無言の本たちを眺める。そのいく つかの背中に手を触れてみる。川時半になると、いつものように駐車場にマッダ・ロードスター のエンジン音がきこえ、少しだけ眠そうな顔をした大島さんがあらわれる。開館時間が来るまで、 僕らは軽い話をする。 「もしよかったら、今からしばらく外に出て来たいんだけど」、図書館を開けたあとで僕は大島 さんに = 一一口、つ。 第 章 148
第 29 章 「なんとか生きのびている」と僕はつけくわえる。 また少し沈黙があり、それから彼女はあきらめたようにため息をつく。 「でもさ、あんなふうにばたばたと私のいないときに出ていくことはないんじゃない。私だって いちおう心配して、その日はいつもより早く帰ってきたんだからさ。余分な買い物なんかもし ( し力なかったん 「、つん。悪かったと田 5 、つよ、ほんと、つに。でもあのときは出ていかないわけによ ) ゝ ヾ、」 0 僕もずいぶん混乱していたし、体勢を立てなおすというか、ゆっくりものを考えたかったん ・ : ・ : 、つまく一一 = ロえないんたけど だ。でもさくらさんといっしょにいると、なんてい、つのかな 「刺激が強すぎる ? 」 「うん。僕はこれまで女の人のそばにいたことっていちどもなかったし」 「そうなんだ」 「女の人の匂いとか、そういうもの。ほかにもいろいろ : 「若いのっていろいろと大変なんだ」 「そうかもしれない」と僕は一言う。「さくらさん、仕事はにしい ? 「うん。すごい忙しいよ。ま、今は働いてお金を貯めようと思っているから、それはそれでべっ にいいんだけどね 僕は少し間を置く。それから言う。「ねえ、じつを言うと、ここの警察が僕の行方を捜してい るんだ」
大島さんは鉛筆の消しゴムの部分でこめかみを何度か軽く押す。電話のベルが鳴りはじめるが、 彼はそれを無視する。 「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける」、ベルが鳴りゃんだあとで彼は一言う。 「大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。で も僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記億としてとどめておく ための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心 の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。 掃除をしたり、空気を入れ換えたり、花の水をかえたりすることも必要だ。言い換えるなら、君 は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」 僕は大島さんの手の中にある鉛筆を見ている。それは僕をひどくつらい気持ちにさせる。しか し僕はまだあと少しは、世界でいちばんタフな新歳の少年でありつづけなくてはならなし 、。少な くともそのふりをしなくてはならない。一度大きく息を吸いこみ、肺を空気で充たし、感情のか たまりをなんとか奥のほうに押しやる。 「またいっかここに戻ってきていいですか ? 」と僕はたずねる。 「もちろん」と大島さんは一一一一口う。そして鉛筆をカウンターの上に戻す。頭のうしろで手を組み、 僕の顔を正面から見る。「話の感じでは、しばらくは僕がひとりでこの図書館を運営していくこ とになりそうだ。たぶん助手も必要になるんじゃないかな。警察やら学校やらから解放されて自 この町も、 由になったら、そして君がもしそうしたいと思ったら、またここに戻ってくればいい。 422
第 37 章 戻ってくる。もしなんらかの事情で来られないときには、兄に連絡して食料品の追加を持ってき てもらう。彼の住んでいるところからは 1 時間もあれば来られる。兄には君がここにいることを わかった ? 話してある。だから心配しなくていい 「わかった」と僕は言、つ。 「それからこの前も言ったように、森に入るときにはくれぐれも気をつけるようにね。いったん 迷、つと出られなくなる 「気をつけるよ」 「第一一次大戦の始まる少し前のことだけど、ちょうどこのあたりで帝国陸軍の部隊が大がかりな 演習をした。シベリアの森林でのソビエト軍との戦闘を想定しておこなわれた。その話はしなか ったつけ ? 」 「してないーと僕は一一一一口う。 「僕はしばしば大事なことを言い忘れるみたいだ」と大島さんはこめかみを指でつつきながら一言 、つ 「でもここはシベリアの森林みたいには見えないけど 「たしかに。このあたりは広葉樹林だし、シベリアの森は針葉樹林だ。まあ軍はそんな細かいこ とは気にしなかったんだろう。要は深い森の中を完全軍装で行軍し、戦闘訓練をすることにあっ 彼は魔法瓶から僕のつくったコーヒーをカップに注いで、砂糖を少しだけ入れ、うまそうに飲 217
第 32 章 数の耳がまわりの空中に浮かんで、じっと二人の気配をうかがっているように感じられた。一一人 くらやみ は真昼の暗闇に包まれ、何も言わずそのまま凍りついていた。やがて思い出したように突風がや ってきて、大きな雨粒を再び窓ガラスにたたきつけ、再び雷が鳴り始めたが、そこにはさっきの ような激しさはもうなかった。雷雲の中心は街を通り過ぎてしまったのだ。 星野青年は首を上げて、部屋の中を見渡した。部屋は妙によそよそしく、四方の壁は以前より ももっと無表情になったみたいだ。灰皿の中では吸いかけのマールポロが、そのままのかたちを つばの 残して灰になっていた。青年は唾を呑み込み、沈黙の重みを耳から払いのけた。 「よう、ナカタさん」 「なんでしよう、ホシノさん」 「なんだか悪い夢を見ているような気がする」 「はい。しかしもしそうだとしても、少なくとも私たちは同じ夢を見ていることになります 「なるほど」と星野さんは言った。そしてあきらめたように耳たぶを掻いた。「なるほど、なる へそ、へそのゴマ、ゴマをまぶしてタヌキ汁、ときたね。まったく心強いことだ」 青年はも、つ一度石を動かすべく立ち上がった。息を大きく吸い込み、止め、両手に力を集中し た。そして低いかけ声とともに石を持ち上げた。今度は石は数センチだけ動いた。 「少しだけ動きました」とナカタさんは言った。 「釘で打ちつけられてないことはこれでわかった。でも少し動いたくらいじゃ駄目なんだろう ねー 145
し大島さんはすべてを無視した。彼は椅子に座って佐伯さんの姿を見つづけていた。僕の名前を やが いくらでも呼べばいい。電話をかけたければいくらでもかけてくれば、 ) 。 呼びたければ、 て遠くに救急車のサイレンが聞こえた。それはだんだんこちらに近づいてくるようだった。もう 少ししたら人々がやってきて、彼女をどこかに連れていってしまうだろう。永遠に。彼は左腕を あげて、腕時計に目をやった。時刻は 4 時分だった。火曜日の午後の 4 時肪分。この時刻を記 億しなくてはならない、 と彼は田 5 った。この午後を、この日をいつまでも記億しなくてはならな ) 0 「田村カフカくん」と彼はすぐ横の壁に向かってささやくように言った。「僕はこのことを君に もちろん、もし君がまだそれを知らなかったら、ということだけど」 伝えなくてはならない。
「それで ? 」 大島さんはハンドルから少しのあいだ両手を離す。「それだけだよ」 僕はゆっくりと首を振る。「それで、僕は思うんだけど、大島さんはたぶんこう考えている 僕がその列車なんだって」 大島さんは長いあいだ黙っている。それからロを開く。「そのとおりだ」と彼は認める。「君の 一一一一口うとおりだ。僕はそう考えている」 「僕が佐伯さんに死をもたらそうとしている、ということだね 「でもと彼は一言う、「僕はそのことで君を責めているんじゃない。 だったと田 5 っている」 「どうして ? 大島さんはそれに対しては返事をしない。それは君が考えることだ、と彼の沈黙は語っている。 あるいはそれは考えるまでもないことだ。 からた 僕はシートに身を沈め、目を閉じる。身体の力を抜く。 「ねえ、大島さん」 「なんだい ? 」 「僕はどうすればいいのか、まったくわからなくなっている。自分がどっちを向いているのかも 、。リこ進めばいいのか、うしろに戻れば わからない。なにが正しく、なにがまちがっているのカ前し、 とい、つか、むしろ・艮いこと 188
第 26 章 前でもないが、とくに珍しいというほどでもない。だから振り向きもせずにそのまま歩き続けた。 しかしその誰かは、あとを追いかけるようなかっこうで、執拗に彼の背中に向かって呼びかけ つづけた。「ホシノちゃん、ホシノちゃん」 青年はやっと歩を止めて、後ろを振り向いた。そこには真っ白なスーツをきた小柄な老人が立 りちぎ ひげ っていた。白髪で、律儀そうな眼鏡をかけ、やはり白くなった髭をはやしている。ロ髭と小さな 顎髭。白いシャツに黒いストリング・タイを締めていた。顔立ちからすると日本人みたいだが、 かっこうはアメリカ南部の田舎紳士を思わせる。身長は 150 センチくらいしかなくて、全体の ハランスを見ると、小柄と一言うよりは、むしろ縮尺を計算してつくったミニチュア版の人間みた そろ いに見えた。両手はお盆でも持つみたいに揃えてまっすぐ前に差し出されていた。 なまり 「ホシノちゃん」とその老人は呼んだ。よくとおるきんきんとした声だった。少し訛がある。 ばうせん 星野青年は呆然としてその男の顔を見ていた。「あんたはーーー」 「そうだ。サンダーズ大佐だ」 「そっくりだ」と青年は感心して言った。 「そっくりではない。わしがカーネル・サンダーズだ」 「あのフライド・チキンの 老人は重々しくうなずいた。「そのとおり」 「よう、しかしあんた、どうして俺の名前を知ってんの ? 「わしは中日ドラゴンズのファンにはいつもホシノちゃんと呼びかけることにしている。たとえ しつよう
第 45 章 よそ ? 背の高いほうがうなずく。「そうだよ。ここは世界から孤立してあるわけじゃない。ちゃんと よそもある。君も少しすついろんなことを知るようになる」 「タ方になったら誰かが食事の用意をするはずだ」とがっしりした兵隊が言う。「それまでもし 退屈だったらテレビを見ていればいい」 テレビはなにか番組をやっているんですか ? 「さあ、なにをやっているのかなあーと背の高いほうが困ったように一一一一口う。そして首をひねり、 かっしりした兵隊のほうを見る。 がっしりした兵隊も首をひねる。そしてむずかしい顔をする。「実はテレビのことってよく知 らないんだ。いちども見たことないからな」 「来たばかりの人のために、役にたっかもしれないからということで、とにかくそこに置いてあ るんだ」と背の高いほうが言う。 「でもたぶんなにかは見られるはずだよーとがっしりしたほうが言う。 「とりあえずここで休んでいてくれ」、背の高いほうが言う。「我々はまたもち場に戻らなくちゃ ならないんだ」 つれてきてくれてありがとう。 「いや、簡単なものだった」、がっしりしたほうが一言う。「あんたはほかの人たちよりずっと足が 丈夫だったしね。うまくついてこれない人だっていつばいいるんだ。おぶってこなくちゃならな 339