第 25 章 に裸足で椅子から立ちあがり、音もたてずにドアのほうに移動し、ドアを開けることなくその向 こう側に消えてしまう。僕は同じ姿勢のまましばらく時間をやり過ごしてから、起きあがってべ ッドを出る。明かりはつけず、夜の暗闇の中で、少女がさっきまで座っていた椅子に腰をおろす。 机の上に両手を載せ、彼女が部屋に残していった余韻の中に身をひたす。目を閉じて、そこにあ る少女の心の震えをすくいとり、僕自身の心にしみこませる。僕は目を閉じる。 その少女と僕とのあいだには少なくともひとつの共通点がある。僕はそのことに思いあたる。 そう、僕らは二人ともこの世界からすでに失われてしまった相手に恋をしているのだ。 少しあとで僕は眠りにつく。しかしそれは安定を欠いた眠りだ。身体は深い眠りを求め、その 一方で意識は眠るまいとしている。僕はそのあいだを振り子のように揺れる。しかし夜が明ける か明けないかのうちに、庭の鳥たちがにぎやかに活動を始め、その声をきっかけに僕はすっかり 目覚めてしまう。 そで 僕はジーンズをはき、シャツの上に長袖のシャツを着て外に出る。朝の 5 時過ぎ、近所には まだ人どおりはない。古い町並みを抜け、防風林になっている松林を抜け、防潮堤をこえて海岸 おお に出る。風はほとんど肌に感じられない。空は一面の灰色の雲に覆われているが、雨が降りそう な気配は今のところない。静かな朝だ。雲が吸音材のようになって、地上の様々な音を吸いこん でしまっている。 しばらく海岸沿いの歩行者道路を歩きながら、あの絵の中の少年も、おそらくこの砂浜のどこ はだし
第 25 章 短く眠って目を覚まし、また短く眠って目を覚ます、というのを何度も繰りかえす。彼女のあ らわれる瞬間をとらえたいと僕は思う。でも気づいたときには、少女はすでに昨夜と同じ椅子の まくら 上にいる。枕もとに置いた時計の夜光針は 3 時少し過ぎをさしている。べッドに入る前にまちが いなく閉めたはずの窓のカーテンは、やはりいつのまにか開いている。昨夜と同じだ。でも月は 出ていない。それだけがちがっている。雲は厚く、雨も少し降っているかもしれない。部屋の中 は昨夜よりずっと暗く、遠くの庭園灯の光が、庭の木立のあいだを抜けてかすかに届くだけだ。 その暗さに目がなれるまでに時間がかかる。 ほおづえ 少女は机の上に頬杖をつき、壁にかかった油絵を見ている。着ている服も昨夜と同じだ。部屋 の暗さのせいで、目を凝らしても顔を見わけることはできない。しかしそのぶん、身体と顔の輪 うすやみ 郭が不思議なほどくつきり、奥ゆきをもって薄闇の中に浮かびあがっている。そこにいるのが少 女時代の佐伯さんであることに疑問の余地はない。 少女はなにかについて深く思いをめぐらせているように見える。それともただ長く深い夢を見 第 章 からだ
少女がやってきたことに気がついたのは 2 時町分だった。枕もとの時計に目をやって時間を記 億にとめる。昨夜より少し早い。今夜、僕はずっと眠らず彼女があらわれるのを待っていた。ま ばたきするほかには一度も目を閉じなかった。それなのに少女があらわれた正確な一瞬をとらえ ることはできない。気がついたとき、彼女はすでにそこにいる。僕の意識の死角になった場所を すりぬけるように、彼女はやってくる。 彼女はいつものように淡いプルーのワンピースを着ている。そして机に頬杖をついて『海辺の カフカ』の絵をひっそりと眺め、僕は息をひそめてじっとその姿を眺める。絵、少女、僕、その 三つの点が、部屋の中に静止した三角形をつくりあげる。少女が絵を見飽きることがないのと同 じように、僕も彼女の姿を見飽きることはない。三角形はそこに固定され揺らぐことはない。で もそのとき思いもよらないことが . 起 ~ きる。 「佐伯さん」と僕は知らないうちに声に出してしまう。僕には彼女の名前を呼ぶつもりはなかっ おも た。ただ心の中の想いがあふれ、こばれ出て、そのまま声になってしまっただけだ。それもとて 第 章 ほおづえ
居に手の影が落ちる。五本の指のかたちもはっきりと見える。蜂は飛びまわることをやめて、窓 ガラスの上に静かにとまっている。蜂は僕と同じようになにかについて真剣に考えこんでいるみ たいに見える。 太陽が中空をすぎて少したったころに彼女が僕の住居を訪れる。でもそれは少女としての佐伯 さんではない。彼女は小さくノックをして、入り口のドアを開ける。一瞬僕は少女と彼女をうま く識別することができなくなる。光のあたりかたのかすかな変化で、あるいは風の吹き具合の変 イで、ものごとは簡単に転換してしまうように田 5 える。彼女は次の瞬間に少女になったり、また 次の瞬間に佐伯さんに戻ったりするような気がする。しかしそんなことは起こらない。僕の前に いるのはあくまで佐伯さんであって、ほかの誰でもない。 「こんにちは」と佐伯さんは、とても自然な声で一言う。まるで図書館の廊下ですれちがったとき ひざ のように。彼女は紺色の長袖のプラウスに、やはり紺色の膝までのスカートをはいている。細い 銀のネックレスと、耳に真珠の小さなピアス。見慣れたかっこうだ。彼女のヒールがポーチの板 張りの床にこっこっという短く乾いた音をたてる。その音にはほんの少しだけ場所にそぐわない 響きがふくまれている。 佐伯さんは戸口に立ったまま、距離を置いて僕の姿を眺めている。僕がほんものの僕かどうか をたしかめるみたいに。でもそれはもちろんほんものの僕だ。彼女がほんものの佐伯さんである のと同じよ、つに。 3 フ 6
第 45 章 「君は突然どこか。彳 こ一丁ってしまったりしないの ? 」 彼女はなにも言わず、ただ不思議そうな目で僕を見る。だいたい私がどこに行くの、というみ 「僕は以前君に会ったことがある」と僕は思いきって一言う。「べつの土地で、べつの図書館で」 「もしあなたがそう一言うのなら」、少女は手を髪にやり、ピンがそこにあることをたしかめる。 少女の声にはほとんど感情がこめられていない。その話題にとくに興味が持てないことを僕にし めすみたいに。 「そして僕はたぶん君にもう一度会うためにここにやって来た。君と、それからもうひとりの女 性に会うために」 彼女は顔をあげてきまじめにうなずく。「深い森を抜けて」 「そう。僕は君とそのもうひとりの女の人に、どうしても会わなくちゃならなかったんだ」 「そしてここであなたは私に会った」 僕はうなずく。 「一言ったでしよう」と少女は僕に言う。「あなたが必要とすれば、私はそこにいるんだって」 彼女は洗い物を終えると、食品を入れてきた容器をズックの袋に入れ、肩にかける。 「また明日の朝」と彼女は僕に一言う。「早くここになれるといいわね」 僕は戸口に立ち、少女の姿が少し先にある暗闇に消えていくのを見まもっている。僕はまたひ 349
ているだけかもしれない。、 しや、彼女自身が佐伯さんの長く深い夢そのものなのかもしれない。 なににせよ、僕はその場所の均衡を乱すことがないようにじっと息をひそめている。身動きひと っしない。 ときどき時計に目をやって時刻をたしかめるだけだ。時間はゆっくりと、しかし均一 に確実に過ぎていく。 予告もなにもなく出し抜けに、僕の心臓が烈しく音をたてはじめる。誰かがたてつづけにドア よふ をノックしているような、硬く乾いた音だ。その音はある種の決意を持って静かな夜更けの部屋 にしつかりと響きわたる。誰よりもまず僕自身がその音に驚いて、あやうくべッドから飛び起き そ、つになる 少女の黒いシルエットがわずかに揺らぐ。彼女は顔をあげ、暗がりの中で耳を澄ませる。僕の 心臓がたてる音は彼女の耳に届いている。森の中の動物が聞き覚えのない物音に神経を集中する ように、少女は軽く首をかしげている。それから彼女は僕のいるべッドに顔をむける。でもその 目には僕の姿はうつっていない。僕にはそれがわかる。僕は彼女の夢の中には含まれていないの 僕とその少女は、目に見えない境界線によってふたつのべつべつの世界に分割されている。 やがて僕の激しい心臓の鼓動は、やってきたときと同じように急速におさまっていく。呼吸も もとどおりになる。僕は気配を殺した存在に戻る。そして少女は耳をそばだてるのをやめる。も ういちど『海辺のカフカ』に視線を戻す。前と同じように机の上に頬杖をつき、その心は絵の中 にいる夏の少年へと戻っていく。 おおよそ分ばかりそこにとどまったあとで、その美しい少女は去っていく。昨日と同じよう
第 47 章 「中に入ってお茶を飲みませんか ? 」と僕は一言う。 「ありがとう」と佐伯さんは言う。そしてやっと決心したように部屋の中に足を踏み入れる。 僕は台所に行って電熱器のスイッチを入れ、お湯をわかす。そしてそのあいだに呼吸を整える。 佐伯さんは食卓の椅子に座る。さっきまで少女が座っていたのとまったく同じ椅子に 「こうしていると、まるで図書館にいるみたいだわ」 「そうですねーと僕は同意する。「コーヒーがなくて、大島さんがいないだけで」 「そして本が一冊もないだけで」と佐伯さんは言う。 ープ茶をふたつつくり、カップに入れて食卓に持っていく。僕らは食卓をはさんで向かいあ う。開いた窓から鳥の声が聞こえてくる。蜂はまだガラス窓の上で眠っている。 「今ここに来るのも、ほんとうのことをいえば、そんなに簡単な 佐伯さんが最初に口を開く。 ことじゃなかった。でもどうしてもあなたと会って話をしたかったの」 僕はうなずく。「会いに来てくれてありがとう」 彼女はいつもの微笑みを口もとに浮かべる。「それは私があなたに言わなくてはならないこと よ」と彼女は言う。その微笑みは少女の微笑みとほとんど同じだ。でも佐伯さんの微笑みのほう が少しだけ深みがある。そのわずかな違いが僕の心を揺らせる。 佐伯さんは両手の手のひらでカップを包みこむようにして持っている。僕は彼女の耳の真珠の 白い小さなピアスを眺める。彼女は少し考えている。いつもに比べると、考えるのに時間がかか 377
やみ 目を覚ましたとき、あたりはまっ暗だ。僕は目を開け、見覚えのない闇の中で、自分が今どこ にいるかについて考える。僕は二人の兵隊にみちびかれて森を抜け、川のある小さな町にやって きたのだ。記億が少しすっ戻ってくる。情景が焦点を結んでいく。耳には聞き覚えのあるメロデ ィーが響いている。『エーデルワイス』だ。台所のほうでは鍋がかたかたと、 小さな親密な音を たてている。寝室のドアのすきまから電灯の光がこばれ、床にまっすぐな黄色い線を引いている。 光は古めかしく、粉つほい。 べッドから起きあがろうとするが、身体はしびれている。とても均等なしびれかただ。僕は大 きく息を吸いこみ、天井に目をやる。食器と食器のふれあう音がする。誰かが床の上を忙しそう に移動する音も聞こえる。たぶん僕のために食事の支度をしているのだろう。僕はようやくべッ ドを出て、床に立つ。時間をかけてズボンをはき、靴下と靴をはく。静かにドアノブをまわし、 ドアを開ける。 台所ではひとりの少女が料理をつくっている。背中を向けて鍋の上にかがみこみ、スプーンで 味見をしていたが、僕がドアを開けると顔をあげ、こちらを振りむく。甲村図書館で毎夜僕の部 屋を訪れ、壁の絵を見つめていた少女だ。そう、歳のときの佐伯さんだ。彼女はそのときと同 そで じ服を着ている。淡いプルーの長袖のワンピース。ピンで髪をまとめているところだけがちがっ ている。僕の顔を見ると、少女は小さく温かく微笑む。まわりの世界がそっくり入れかわってし まうようなはげしい揺れを僕は感じる。かたちあるものがいったんばらばらに分解されて、それ からまたかたちを取り戻していく 。でもそこにいる彼女は幻影じゃないし、幽霊でもない。彼女
第 47 章 「それで」と僕はたずねる。「僕がそれを呑みこんだとき、いったいなにが起こるんだろう ? 」 少女は少しだけ首を傾けて考える。とても自然な傾けかただ。それにあわせて彼女のまっすぐ な前髪もかすかに傾く。 「たぶんあなたはすっかりあなたになるの」と彼女は言う。 「つまり、僕は今のところまだすっかり僕ではないんだねー 「あなたは今でもじゅうぶんにあなたよと彼女は言う。それから少し考えこむ。「でも、私の 言ってるのはそれとは少しちがうの。うまくことばで説明することができないんだけど」 「実際にそうなってみないと本当のことはわからない ? 彼女はうなずく。 彼女を見ているのがつらくなると、僕は目を閉じる。そしてまたすぐに開ける。彼女がまだそ こにいることを確かめるために。 「ここではみんなは共同生活のようなことをしているの ? 彼女はまた少し考える。「そうね、みんなはこの場所で一緒に暮らしているし、たしかにいく つかのものは共同で使っている。たとえばシャワー場や発電所、交易所ーーーそういうものについ ては、簡単な取りきめのようなものはたぶんいくらかあると思う。でもそれはたいしたことじゃ ないの。いちいち考えなくてもわかるよ、つなこと。いちいちことばがなくても伝えられるよ、つな こと。だから私があなたに『これはこうやればいいのよ』とか『ここではこうしなくちゃいけな いのよ』とか、そういうふうに教えるようなことはほとんどなにもないの。いちばん大事なのは、
第 45 章 はほんものの肉体をそなえた少女として、触れることのできるものとしてそこにある。夕暮れに 現実の台所に立って、僕のために現実の食事をつくっている。彼女は小さな胸のふくらみを持ち、 その首筋はつくりたての陶器のように白い。 「起きたのね ? と彼女は言、つ。 声は出てこない。僕はまだ自分をひとつにまとめているところだ。 「ずいぶんぐっすり眠っていたみたいーと彼女は言う。それからまた背中をむけて味見のつづき をする。「もしずっと起きなかったら、食事だけ残していこうと思っていたんだけど 「こんなに深く眠るつもりはなかったんだ」と僕はやっと声を取り戻す。 「森を抜けてきたんだものと彼女は一言う。「おなかは減ってる ? 」 「よくわからない。でもたぶん減ってると思う」 彼女に手を触れてみたいと田 5 う。ほんとうに手を触れることができるものなのかどうかをただ たしかめるために。でもそんなことはできない。僕はそこに立って、ただじっと彼女を見ている。 彼女の身体の動きがたてる音に耳を澄ませている。 少女は鍋で温めたシチューを白い無地の皿に入れ、テープルに運んでくれる。深いボウルにト マトと青菜のサラダがついている。それから大きなパン。シチューにはじゃがいもと人参が入っ ている。なっかしい匂いがする。その匂いを肺に吸いこむと、ずいぶんおなかがすいていたこと に思いあたる。なにはともあれ、その空腹を埋めなくちゃならない。僕が傷だらけの古いフォー クとスプーンを使ってそれを食べているあいだ、彼女は少し離れたところに椅子を置いて座り、 34 ラ