思っ - みる会図書館


検索対象: 海辺のカフカ 下
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1. 海辺のカフカ 下

第 32 章 「誰にも欠点はあるよ」 「ホシノさん」 「なんだい ? 」 「もしナカタが普通のナカタであったなら、ナカタはもっとぜんぜんべつの人生を送っていただ ろうと思います。ナカタの二人の弟と同じように、たぶん大学を出て、会社につとめて、結婚し て子どもをつくって、大きな車に乗って、休みの日にはゴルフをしていたのではないでしようか しかしナカタは普通のナカタではなかったので、今のようなナカタとして生きてまいりました。 やりなおすにはもう遅すぎます。それはよくわかっております。それでも、たとえほんの短いあ いだでもかまいませんから、ナカタは普通のナカタになりたいと思います。ナカタは、正直に申 し上げまして、これまで何かをやりたいと思ったことはありません。まわりからやれと一言われた ことをそのまま一生懸命やってきただけです。あるいはたまたまそうなったことを、そうである ようにやってきただけです。でも今は違います。ナカタははっきりと普通のナカタに戻りたいと 願うのです。自分の考えと自分の意味を持ったナカタになりたいのです」 ためいき 星野青年は溜息をついた。「もしそれがナカタさんの望みなら、そうすれば、 しいさ。普通に戻 ( ししもっとも普通のナカタさんになったナカタさんというのかいったいどうい、つナカタさ んなのか、俺っちにはちょっと見当もっかねえけどさ」 「はい。 ナカタにも見当がっきません」 「でもうまくいくといい。俺も及ばずながら、ナカタさんが普通の人になれるように祈っている 137

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しえ、大丈夫なようです。もう具合の悪いところはひとつも見あたりません。骨もずいぶん 良いかたちに復しております」とナカタさんは言った。 「それはよかった。正直言って、もう一一度とあんなひどい目にあいたくねえものな」と青年は言 った。 「はい。申し訳ありませんでした。しかしホシノさんは痛いのは平気だとおっしやったものです から、それで、ナカタはカの限り思い切りやりました」 「そりやまあたしかにそう言ったよ。言ったけどさ、しかしね、おじさん、ものごとにはやつば し程度ってものがあるんだよ。世間には常識ってものがある。まあ、腰を治してもらったからあ れこれ文句は一言えないんだけどさ、いや、あの痛さはとくべつだったね。とんでもねえものだっ た。ちょっと思いっかないくらいの痛みだった。身体がばらばらになっちまった。なんかもう、 いったん死んでからあらためて生き返ったみてえな気がするくらいだ」 「ナカタは 3 週間ばかり死んでいたことがあります [ 「ふうん」と青年は言った。そしてうつぶせになったままお茶をひとくち飲み、コンビニエン かき ス・ストアで買ってきた柿の種をほりほりと食べた。「そうか、おじさんは 3 週間死んでたんだ」 「はい 「で、そのあいだどこにいたの ? 「それが、ナカタもよく覚えておらんのです。どこかずっと遠いところにいて、べつのことをし ていたような気がします。しかし頭がふわふわしまして、何を思い出すこともできません。それ からた

3. 海辺のカフカ 下

、ついう考えかたをするものなの。あなたの場合はどう ? 「僕はそんなふうに田 5 ったことはありません。どこかべつのところに行けば、なにかべつの興味 深いものがある、というふうには思わなかった。ただ僕はよそに行きたかっただけです。ただそ こにいたくなかっただけです 「そこ ? 「中野区野方です。僕が生まれて育った場所ですー ひとみ その地名を耳にしたときに、彼女の瞳の中をなにかが横切ったような気配がある。でも僕には 確信がもてない 「そこを出てからどこに行くかというのは、とくに大きな問題ではなかったのねーと佐伯さんは 「そうです」と僕は一言う。「それはとくに問題じゃなかった。とにかくそこを離れないことには だめになってしまうと思った。だから出てきたんです 彼女は机の上に置かれた自分の両手を眺める。とても客観的な目つきで。それから静かに言う。 「私もあなたと同じようなことを思ったわ。歳のとき、ここを出ていくときにはねと彼女は 言う。「ここを出ていかなければ、とても生きのびてはいけないと思った。そして二度とこの土 地を目にすることはないとかたく信じていた。戻ることなんて考えもしなかった。でもいろんな ことか起こって、やはりここに帰ってこないわけによ、、 ( し力なかった。ふりだしに戻るみたいに」 佐伯さんは後ろを振り向いて、開いた窓の外に目をやる。空を覆う雲のトーンにはまったく変

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第 35 章 どうくっ 朝の 7 時に電話のベルが鳴ったとき、僕は深く眠っていた。夢の中で僕は洞窟の奥のほうにい て、懐中電灯を手に身をかがめて、暗がりの中でなにかを探している。そのとき洞窟の入り口の あたりから、誰かが名前を呼ぶ声が聞こえる。僕の名前だ。遠く、かすかに。大きな声でそちら にむかって返事をする。しかしその誰かには僕の声は聞こえないみたいだ。 ) しつまでもしつこく 名前を呼びつづけている。しかたなく僕は立ちあがり、洞窟の入り口に向けて歩きはじめる。そ して「もう少しでみつかるところだったのにな」と思う。でも同時に、それがみつからなかった ことに内、いほっとしてもいる。そこで目が覚める。僕はあたりを見まわし、ばらばらになった意 識をゆっくりと回収する。電話のベルが鳴っていることがわかる。図書館のデスクにある電話が 鳴っているのだ。窓のカーテン越しに朝の鮮やかな光が部屋に差しこみ、となりにはもう佐伯さ んの姿はない。僕はひとりでべッドの中にいる。 E-«シャッとボクサーショーツとい、つかっこ、つでべッドから出て、電話のあるところまで行く。 ずいぶん時間をかけて歩いたのだが、電話のベルはあきらめることなく鳴りつづけている。 177

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もうひとつ、ナカタさんの遺体をどう始末するかという問題があった。もちろんここからすぐ に警察なり病院なりに電話をかけて、遺体を病院に運んでもらうというのが正統的なやり方だ。 世間の人々の四ヾ ーセントまでがそのように行動することだろう。できることなら青年だってそ うしたかった。しかしナカタさんはいちおう、殺人事件に関連して警察が探している重要参考人 である。そんな人間と川日も行動をともにしていたとわかったら、青年自身かなり微妙な立場に 立たされることになる。警察につれていかれて、長い尋問を受けることになるだろう。それだけ はなんとしても避けたかった。いちいちこれまでの事情を説明するのが面倒だし、だいたいにお いて警察が苦手なのだ。そんなものとはできるだけかかわり合いになりたくない。 「それにだねーと青年は思う、「このマンションの部屋のことは、、 しったいどう説明すればいい んだ ? 」 カーネル・サンダーズのかっこうをした老人が、この部屋を俺たちに貸してくれたんです。君 たちのためにわざわざ用意した部屋だから、いつまででも好きなだけ使ってくれていいよって、 そのおじさんが言ってくれたんです。ーー警察がそんな話をすんなりと信用してくれるだろうか ? まさか。カーネル・サンダーズって誰だ ? 米軍関係者か ? いや、ほら、あの、ケンタッキ ・フライド・チキンの看板のおじさんですよ。刑事さんだって知ってるでしよう。ええ、そう ひげ です、眼鏡をかけて白い髭をはやして : : : その人が高松の裏通りでポンビキをしていたんです。 そこで知り合ったんです。女を世話してくれたんです。そんなことを言ったら、「鹿やろう、 ふざけるんじゃねえ」って、ぶん殴られるのがおちだ。あいつら国から給料をもらってるヤクザ

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「そんなものがどうしてマンションの部屋を借りたりできるんだい。ねえ、おじさん、おじさん は人間じゃないんだから、戸籍だって、住民票だって、所得証明だって、実印だって、印鑑証明 だって持ってないんだろう。そういうのがないと部屋は借りられないんだよ。なんかズルしたん じゃないの ? 木の葉を印鑑証明に変えて人をだましたとか。これ以上ややこしいことに巻き込 まれるのはいやだよ」 「わからんやつだな」とカーネル・サンダーズは舌打ちして言った。「とことんとろい奴だな。 のうみそ ひょっとしてお前の脳味噌は寒天でできてるんじゃないのか。このふぬけういろう野郎が。和か 木の葉だ。私はタヌキじゃないんだ。私は観念だ。観念とタヌキじゃぜんぜん成り立ちが違うん だ。まったく、何をくだらんことを一言うか。あのな、私がわざわざ不動産屋に出向いていちいち そんなくだらん手続きをすると思うか ? 『どうでしよう、家賃もうちょっとまかりませんかね』 なんて言うと思うか ? 馬鹿ぬかせ。そういう現世的なことはぜんぶ秘書にやらせる。必要な書 類は秘書が全部用意する。当たり前じゃないかー 「そうか、おじさんにも秘書がいるんだ」 「当たり前だ。ひとのことをいったい何だと思っているんだ。馬鹿にするにもほどがある。私だ ってにしい。秘書の一人くらいいて何がおかしいー 「まあいいや、わかったよ。そう興奮しないでよ。ちょっとからかっただけだから。でもさ、お じさん、なんでまたそんなに急いでここを出なくちゃならないわけ ? 朝飯くらいゆっくり食っ てったっていいじゃないか。けっこう腹が減ってるんだ。それにナカタさんだってぐっすり眠り やっ

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の黒猫に指示されてやるんだぜ。ホシノくんの身にもなってもらいたいよ、まったくの話」 しかしもちろん石は返事をかえさなかった。 「そいつはたぶん危険なものじゃないって黒猫トロくんは言ってたけどさ、それもあくまでたぶ んだ。ただの楽観的な予測に過ぎねえわけだよ。もしなんかの間違いで『ジュラシック・ ク』みたいなやつがひょいと出てきたら、ホシノくんはいったいどうすりやいいんだよ ? かんの終わりじゃねえか 無言。 星野さんは金槌を手に取り、何度か空中で振ってみた。 「でも考えてみりや、これもすべて行きがかりだ。だいたい俺が富士川サービスエリアでナカタ さんを車に乗せてやったときから、最後にこうなるってことは運命として既に決まっていたんだ ろうね。知らないのはホシノくんばかりなりってさ。まったく運命ってのは変てこりんなもんだ よ」と星野さんは言った。「なあ、石くん。石くんだってそう思うだろう ? 無言。 「まあ、しようがねえよ。なんのかんの言ったって、俺が自分で選んじまった道だもんな。最後 ホ までつきあうしかない。どんな気色の悪いやつが出てくるか見当もっかねえけど、まあいい、 ときどきは・楽しい思いもした。 、、。豆、人生だったが、 シノくんとしても全力をつくそうじゃなしカまし 面白い目にもあった。黒猫トロくんの一言うところによれば、これは千年に一度のチャンスってこ とだ。ここでホシノくん華と散るってのもなかなか悪くないかもしれない。すべてはナカタのお

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第 47 章 「それで」と僕はたずねる。「僕がそれを呑みこんだとき、いったいなにが起こるんだろう ? 」 少女は少しだけ首を傾けて考える。とても自然な傾けかただ。それにあわせて彼女のまっすぐ な前髪もかすかに傾く。 「たぶんあなたはすっかりあなたになるの」と彼女は言う。 「つまり、僕は今のところまだすっかり僕ではないんだねー 「あなたは今でもじゅうぶんにあなたよと彼女は言う。それから少し考えこむ。「でも、私の 言ってるのはそれとは少しちがうの。うまくことばで説明することができないんだけど」 「実際にそうなってみないと本当のことはわからない ? 彼女はうなずく。 彼女を見ているのがつらくなると、僕は目を閉じる。そしてまたすぐに開ける。彼女がまだそ こにいることを確かめるために。 「ここではみんなは共同生活のようなことをしているの ? 彼女はまた少し考える。「そうね、みんなはこの場所で一緒に暮らしているし、たしかにいく つかのものは共同で使っている。たとえばシャワー場や発電所、交易所ーーーそういうものについ ては、簡単な取りきめのようなものはたぶんいくらかあると思う。でもそれはたいしたことじゃ ないの。いちいち考えなくてもわかるよ、つなこと。いちいちことばがなくても伝えられるよ、つな こと。だから私があなたに『これはこうやればいいのよ』とか『ここではこうしなくちゃいけな いのよ』とか、そういうふうに教えるようなことはほとんどなにもないの。いちばん大事なのは、

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第 46 章 生き方だと思っていた。 「なあ石くん、もし俺が女でさ、そして俺みたいな身勝手な男とっきあっていたとしたらだね、 そりや頭に来るだろうぜ」と青年は石に語りかけた。「今になってみると、自分でもそう思うよ。 それなのになんでみんな、けっこう長く俺のことを我していたんだろうね。まったく我がこと ながらよくわからねえよな」 彼はマールボロに火をつけ、煙をゆっくりと吐き出しながら、片手で石を撫でた。 「だってそうだろ ? ごらんの通り、ホシノくんはべつにハンサムなわけでもねえし、セックス かとくべつうまいわけでもない。金があるわけでもない。性格がいいわけでもない。豆がいいわ けでもない どっちかといえばかなり問題があるほうだ。岐阜の田舎の貧乏百姓の息子、自衛 隊あがりのしがねえ長距離トラック運転手だ。それなのに思い返してみると、俺はこれまでけっ こう女には恵まれていた。とくにもてるってほどでもないけどさ、女に不自由したという記億も ねえんだな。やらせてくれて、飯をつくってくれて、金まで貸してくれた。でもね、石くん。良 いことはいつまでも続かないかもしれない。ここんところ、だんだんそういう気がしてきたんだ。 おい、ホシノくん、そのうちにツケがまわってくるぞってさ」 青年はそんな風に石を相手に過去の女性関係について語りつづけ、そのあいだずっと石を撫で ていた。石を撫でるのに馴れると、だんだんそれをやめることができなくなってきた。正午にな わぎ ると、近くの学校のチャイムが聞こえた。彼は台所に行って、うどんをつくって食べた。葱をき ざみ、卵を割って入れた。 め 9

10. 海辺のカフカ 下

第 33 章 僕は彼女が言葉をみつけるのを待っている。 「私のまわりでなにかが変わりはじめているような気がする」と佐伯さんは一言う。 「どんなことが ? 「うまく一言えない。でも私にはそれがわかるの。気圧や、音の響きかたや、光の反映や、身体の 動きや、時間の移りかたが少しずつ変化している。小さな変化のしたたりがちょっとずつ集まっ て、ひとつの流れができあがっていくみたいに」 佐伯さんはモンプランの黒い万年筆を手にとり、それを眺め、またもとの場所に置く。そして 僕の顔を正面から見る。 「昨夜あなたの部屋で、私たちのあいだに起こったことも、たぶんそういう動きの中のひとつだ ったと思うの。昨夜私たちがやったことが、正しいことだったのかどうか、私にはわからない。 でもそのとき、私はもうむりになにかを判断するのはよそうと心をきめたの。もしそこに流れが あるのなら、その流れが導くままにどんどん流されていこうと田 5 ったの」 「佐伯さんについて、僕の思っていることを言ってかまいませんか ? 「いいわよ、もちろん」 「佐伯さんがやろうとしているのは、たぶん失われた時間を埋めることです」 彼女はそれについてしばらく考えている。「そうかもしれない と彼女は言う。「でも、あなた にはどうしてそれがわかるの ? 「僕もたぶんそれと同じことをしているから」 巧 9