ニュースがちょうど終わったところで、ナカタさんが便所から戻ってきた。 「あの、ホシノさん。ひとつうかがってよろしいでしようかー 「なんだよ ? 」 「ホシノさん。ひょっとして腰が痛くありませんか ? 「ああ、長いこと運転手やってるからな、そりや腰は痛えさ。長距離のドライバーで腰を痛めて ないやつはまずいねえよ。肩を痛めないピッチャーがいねえのと同じだ」と青年は言った。「で、 なんでとっぜんそんなこと訊くの ? 「ホシノさんの背中を見ておりますと、ふとそういう気がしたものですから」 「ふうん」 「ちょっとナカタがさわってみてもよろしいでしようか ? 「べつにいいけどさ」 ナカタさんはうつぶせになったままの青年の腰の上に馬乗りになった。両手を腰骨の少し上に あて、そのままじっとしていた。青年はそのあいだテレビのワイドショーの芸能ゴシップを見て いた。有名な女優が、それほど有名ではない若手の小説家と婚約していた。そんなニュースには 興味はなかったが、ほかに見るものもないので、彼はそれを見ていた。女優の収入は作家の収入 の十倍以上あるということだった。小「 = 説家はべつにハンサムでもないし、とくに頭がよさそ、つに も見えなかった。青年は首をひねった。 「よう、こういうのってまずうまくいかねえよな。たぶんなんか思い違いみてえなのかあるんだ
第 34 章 「ああ、そうだなあ」、星野さんは少し沈んだ声で言った。あまりにも立てつづけにいろんなこ とが起こったせいで、彼は仕事のことをすっかり忘れてしまっていた。 「そう言われてみれば、そのとおりだ。俺っちもそろそろ仕事に戻らなくちゃな。社長はきっと 怒っているだろう。用事があって 2 、 3 日休むからって電話を入れて、それつきりだもんね。帰 ったらえらい叱られるだろうな」 彼は新しいマールボロに火をつけた。ゆっくりと煙を吐きだした。そして電柱のてつべんにと まったカラスに向かって百面相をした。 「でもまあいいんだ。社長が何を言おうが、頭から湯気を出して怒ろうが、俺っちの知ったこと じゃない。だってさ、 いいかい、俺はこの何年かのあいだ他人のぶんまで引き受けて、アリさん のようにせっせと働いてきたんだ。おい星野、人がいねえんだ、今晩このまま広島まで行ってく れねえか、いし ) っすよ、社長、俺やりますよとかさ。文句ひとっ言わずにほいほいとやってきた。 おかげでごらんのとおり腰だって悪くしちまった。ナカタさんがこのあいだ治してくれたからよ かったけど、そうじゃなきや大変なことになっていたかもしれない。まだ代半ばだっていうの に、大した仕事でもないのに、こんなことで身体を壊してちゃしようがないじゃないか。たまに は休んだって罰は当たらねえよ。でもさ、ナカタさん そう言いかけたところで、ナカタさんがもう熟睡状態に入っていることに青年は気づいた。ナ カタさんは固く目を閉じ、顔をまっすぐ天井に向け、唇を真横に結び、気持ちよさそうに鼻で呼 まくら 吸をしていた。枕もとには裏返しになった石がそのままのかたちで転がっていた。 165
第 46 章 かってくるわ、親から文句は言われるわ、それで面倒くさくなり、ちょうど学校も卒業するとこ ちゅうとんち ろだったので、何もかも放り出して自衛隊に入った。入隊してすぐに山梨の駐屯地に連れていか れて、彼女とのあいだはそれでおしまい。二度と会っていない 「だからさ、面倒くさいというのがホシノくんの人生のキーワードなんだ」と青年は石に説明し た。「話がちょっと込みいってくるとすぐにすたこら逃げちまう。自漫じゃないが、逃げ足だけ は速い。だからこれまで、何かを最後までとことんっきつめたということがないんだね。それが ホシノくんの問題点だ」 二人目は山梨の駐屯地の近くで知り合った女の子。非番の日に道路わきでスズキ・アルトのタ イヤ交換を手伝ってやって、それがきっかけで仲良くなった。ひとっ歳上で、看護学校の生徒だ った。 「気だてのいい子だったねーと青年は石に向かって言った。「おつばいが大きくて情が深かった。 あれをするのも好きだった。俺もまだ四だったからさ、そりや、会ったら一日布団をかぶってや りまくったね。ところがこれがとんでもねえくらい焼きもちやきでね、非番の日に一日でも会わ ないとさ、どこへ行った、何をした、誰と会った、うるさくってしかたねえんだ。とにかく質問 責めだ。こっちが正直に答えても、なかなか信用してくれない。結局それが原因で別れちまった。 1 年くらいはっきあってたかなあ : 石くんはどうだか知らんけどさ、俺はさ、あれこれうる さく問いつめられるのって苦手なんだよ。息が詰まって気が滅入ってくる。で、逃げたんだな。 自衛隊に入っていてよかったのはね、何かあると中に逃げ込めたことだ。ほとばりが冷めるまで め め 7
たの ホシノちゃんがどこかのべッドで愉しく昇天しておるあいだ、何の因果か路地裏でこっこっと仕 事をしておったわい。さっきコトが終わったという連絡が入って、駆け足でここに戻ってきたん だ。どうだ、うちのセックス・マシンはなかなかのものだっただろう ? 「うん、よかったよ。文句ないよ。あれはたいしたもんだ。行為的に言って、三度もいっちまっ たよ。身体が 2 キロくらい軽くなったような気がするくらいだ」 「それはなにより。で、さっき話してた石のことだ」 「うん。それが大事なんだ」 「実はな、石はこの神社の林の中にある」 「〈入り口の石〉だよ」 「そうだ。〈入り口の石〉だ」 「おじさん、それってひょっとしていい加減なことを言っているんじゃないよね ? カーネル・サンダーズはそれを聞いて毅然と顔を上げた。「何を一言うか。たわけものが。わし うそ がこれまでひとつでも嘘をついたか ? 口からでまかせを言ったか ? びちびちのセックス・マ シンだと言ったら、たしかにびちびちのセックス・マシンだっただろうが。それも大出血サービ 1 円ほっきりで厚かましく三回も射精しやがって、それでもまだ人のことを ス料金、万 疑うか 「いや、もちろん信用してないわけじゃないよ。だからそんなに怒らないでよ。そうじゃなくて さ、あまりにも話がとんとんとはこびすぎるから、ちょっと首をひねっただけだよ。だってさ、
「なんだい ? 」 「申し訳ありません。そうすることかできたらどんなによかろうと思います。ナカタもやはり、 できうることであれば、先に入り口の開け閉めを済ませてしまいたいのです。しかし残念ながら、 ナカタはます眠らなくてはなりません。これ以上うまく目を開けてはいられないのです」 「それは電池切れみたいなものなのかな ? 」 「そうかもしれません。思ったより時間がかかりました。ナカタの力は今まさに尽きかけており ます。眠れるところに連れて帰っていただけませんか ? 「いいとも。タクシーをつかまえてすぐにあのマンションに戻ろう。好きなだけ丸太のように眠 れい、 タクシーの座席に座ると、ナカタさんはすぐにうとうとし始めた。 「おじさん、部屋に着いたらぐっすり好きなだけ寝かしてやるからさ。少しのあいだ我しな」 「ホシノさん」 「うん」 「いろいろとご迷惑をおかけいたしますーとナカタさんはばんやりとした声で言った。 「たしかに迷惑はかけられているような気がする」と青年は認めた。「でもな、これまでのいき さつをよく考えてみたら、俺っちが勝手におじさんについてきているんだ。言い換えれば、俺が 自分から進んで迷惑を引き受けているようなものなんだ。誰に頼まれたわけでもない。趣味の雪
第 36 章 そういうことであります 「はい。 し。 ( し力ない。まだやんなくちゃいけねえこ 「そしてそのあいだは、俺たちは警察に捕まるわナこよ ) ゝ とが残っているから まわ ホシノさん。そういうことであります。ナカタはお巡りさんのところに行くのはかまい 「よい、 ません。なんでも知事さんのおっしやるとおりにします。しかし今はちょっと困ります 「なあ、おじさんーと青年は言った。「あいつらはナカタさんのそのわけのわからない話を聞い たら、そんなもんはほいして、適当な供述書をでっちあげる。つまり適当な話を向こうで作っち まうんだ。たとえば、盗みに家に入ったら人がいたので、包丁をつかんで刺し殺したとかさ。そ 、ついう誰にでもわかりやすい話にしちまう。真実が何か、正義が何かなんて、あいつらにとっち やどうでもいいことなんだ。てめえの検挙率をあげるために犯人をでっちあげるなんて朝飯前だ そしてナカタさんは刑務所だか、重警備の精神病院だかに放り込まれる。どっちにしてもひでえ ところだ。たぶんそっから一生出てこられなし とうせまともな弁護士も雇、つような金もねえだ ろうし、お義理みてえなしけた国選弁護人がつくだけだ。そうなるのは目に見えてる」 「ナカタにはそういうむずかしいことはよくわかりません」 「とにかくそれが警察のやることだ。俺はよく知っている」と青年は言った。「だからさ、ナカ タさん、俺っちは警察ともめたくねえんだよ。警察とはもつばら相性が悪くてね 「はい。ホシノさんにはご迷惑をおかけします」 星野青年は深い溜息をついた。「でもさ、おじさん、世の中には『毒くわば皿まで』って言葉
第 36 章 「海の底にはいったい何があるのでしよう ? 」 「海の底には、海の底の世界があって、そこでは魚とか貝とか海草とか、そういういろんなもの が暮らしをたてているんだよ。水族館って行ったことないの ? 「ナカタは生まれてから、スイゾッカンというところに行ったことは一度もありません。ナカタ のずっと住んでおりました松本というところには、スイゾッカンはありませんでした」 「まあそうだろうな。松本は山の中だもんな、せいぜいキノコ博物館くらいしかねえだろうぜ」 と青年は言った。「とにかく海底にはいろんなものがいるんだ。たいていのやつは水の中から酸 素をとって呼吸している。だから空気がなくても生きていけるんだ。俺たちとは違う。きれいな ものもいるし、うまそうなやつもいるし、危険なやっ、気色悪いものもけっこういる。実際に見 たことのない人に、海底がどういうものかロで説明するのはむずかしいけど、とにかくこことは まったく別の世界だ。深いところまでいくと、日の光もほとんど射し込まない。そこにはとびつ きり気色の悪いやつらが住んでいるんだ。よう、ナカタさん、今回のこのごたごたが無事に終わ ったら、二人でどっかの水族館に行ってみようぜ。俺っちも長いあいだ行ってねえけど、なかな かおもしれえところだよ。海の近くだから、高松のへんにもひとっくらいあるかもしれない 「はい。ナカタもスイゾッカンというところに是非行ってみたいです 「それでさ、ナカタさん」 「よい、なんでしよう、ホシノさん」 「俺たちはおとといの昼頃に石を持ち上げて、入り口を開けたよな」 207
第 38 章 えず 2 日間借りた。駐車場に停まっている白のファミリアは、たしかに目立たなかった。それは とくめい 匿名性という分野におけるひとつの達成であるようにさえ田 5 えた。一度目をそらしたら、どんな かたちをしていたかほとんど思い出せなかった。 ファミリアを運転してマンションに戻る途中で書店に寄って、高松の市内地図と四国道路地図 を買った。その近くに OQ ショップを見かけたので立ち寄り、べートーヴェンの『大公トリオ』 を探した。街道沿いの OQ ショップのクラシック音楽の売場はそれほど大きなものではないし、 れんか そこには『大公トリオ』は廉価盤 1 枚しか置いてなかった。残念ながら百万ドル・トリオの演奏 ではなかったが、 とにかく青年はそれを円で買い求めた。 部屋に帰ると、ナカタさんは台所に立って、馴れた手つきで大根と油揚げの煮物を作っていた。 心優しい匂いが部屋の中に漂っていた。「暇でありましたので、ナカタはあれこれと料理を作っ ておりました」とナカタさんは言った。 「そりやいいや、ここんところずっと外食だったものな。そろそろあっさりとした手料理を食べ たいと思っていたんだ」と青年は言った。「ところでさ、おじさん、車は借りてきたよ。表に停 めてある。これからすぐに使うのかい ? え、それは明日になってからでかまいません。今日のところはもう少し石さんと話をして いよ、つと田ハいます」 、と思う。話し合うことは大事だ。相手が誰であっても、何であっても、話し 「うん。それかいし 合わないよりは話し合った方かいい。俺っちもトラックを運転しているときには、よくエンジン 225
第 32 章 「もうひとっ尋ねていいかな ? ーしなんでしよ、つ ? 」 「もしナカタさんがここでその入り口の石を開けることができたとしたらだね、それを合図にし て、何かすげえことがどかんと持ち上がるのかな。『アラジンと魔法のランプ』みたいにとんで もないなんとかの精みたいなのが現れるとか、カエルの王子がびよんと飛び出てきて俺たちに強 烈なディープ・キスするとか、火星人のエサにされちまうとか」 「何かが起こるかもしれませんし、何も起こらないかもしれません。ナカタもまだそんなものを 開けたことがありませんので、よくわからんのです。開けてみないことにはわかりません」 「そしてそれは危険なことかもしれないんだね ? 「はい。 そのとおりであります」 「やれやれ」と星野青年は言った。そしてポケットからマールポロを取り出し、ライターで火を つけた。「じいちゃんがよく言ってたよ。『よくものを考えずに、知らない人についていっちまう のがお前のまずいところだ』って。きっと子どもの頃からそういう性格だったんだな。『三つ子 の魂百まで』っていうもんな。でもまあいいや。しようがねえや。せつかく四国まで来て、せつ かく石を手に入れたんだ。何もしないでこのままのこのこ帰るっていう法はねえもんな。危険を 承知の上でひとっ思いきり開けてみようじゃねえか。何が起こるかしつかりこの目で見てみよう。 ずっと先になって、孫に箭央な思い出話ができるかもしれない そこでホシノさんにお願いがありますー 「はい。 143
とにないのかな。俺っちもだんだん心配になってきたよ。持ってきたのはともかくとしても、あ との始末にだって困っちまうよな。カーネル・サンダーズは祟りはないって言っていたけど、あ いつもなんか今ひとっ信用しきれないところがあるもんな」 「カーネル・サンダーズ ? 「そういう名前のおっさんがいるんだよ。ケンタッキー・フライド・チキンの店の前によく立っ ている看板のおっさんだよ。白いスーツを着て、髭をはやして、ばっとしない眼鏡をかけて : 知らない ? 「申し訳ありませんが、ナカタはその方を知らないと思いますー 「そうか、ケンタッキー・フライド・チキンを知らねえんだ。今どき珍しいねえ。でもまあいい ゃ。もっともそのおっさん自体は抽象概念なんだよ。人でもなく、神でもなく、仏でもない。抽 象概念だからかたちはない。でも何か外見が必要だから、たまたまそういう格好をしているん ナカタさんは困った顔をして、手のひらで白髪混じりの短い髪をごしごしとこすった。「何の ことだか、ナカタにはよくわかりません」 「実を言、つと何のことだか、言ってる俺っちにもよくわからねえんだ」と青年は言った。「しか しとにかく、そ、つい、っちょっとユニークなおっさんがどこからともなく出てきてさ、そんなこと をあれこれと俺に向かって並べたてたわけだよ。で、長い話を短くしてとりあえす結論から言っ ちまうとさ、何やかやあって、そのおっさんの助けを借りたりもして、俺っちはあるところでそ 132