しえ、大丈夫なようです。もう具合の悪いところはひとつも見あたりません。骨もずいぶん 良いかたちに復しております」とナカタさんは言った。 「それはよかった。正直言って、もう一一度とあんなひどい目にあいたくねえものな」と青年は言 った。 「はい。申し訳ありませんでした。しかしホシノさんは痛いのは平気だとおっしやったものです から、それで、ナカタはカの限り思い切りやりました」 「そりやまあたしかにそう言ったよ。言ったけどさ、しかしね、おじさん、ものごとにはやつば し程度ってものがあるんだよ。世間には常識ってものがある。まあ、腰を治してもらったからあ れこれ文句は一言えないんだけどさ、いや、あの痛さはとくべつだったね。とんでもねえものだっ た。ちょっと思いっかないくらいの痛みだった。身体がばらばらになっちまった。なんかもう、 いったん死んでからあらためて生き返ったみてえな気がするくらいだ」 「ナカタは 3 週間ばかり死んでいたことがあります [ 「ふうん」と青年は言った。そしてうつぶせになったままお茶をひとくち飲み、コンビニエン かき ス・ストアで買ってきた柿の種をほりほりと食べた。「そうか、おじさんは 3 週間死んでたんだ」 「はい 「で、そのあいだどこにいたの ? 「それが、ナカタもよく覚えておらんのです。どこかずっと遠いところにいて、べつのことをし ていたような気がします。しかし頭がふわふわしまして、何を思い出すこともできません。それ からた
第 36 章 こんでいて、起こしたところですぐには目を覚ましそ、つにないし : : : 」 「いいか、ホシノちゃん。これは冗談ごとじゃないんだ。警察が君らのことを必死に探しておる んだ。連中は今日朝一番で市内のホテルや旅館の聞き込みを始める。ナカタさんとホシノちゃん にんそうふうてい の人相風体はもうとっくに知れておるんだよ。だから調べれば一発でわかっちまう。何しろ二人 ともかなり外見的に特徴があるからね。これは一刻を争う話で : : : 」 「警察 ? ーと青年は声を上げた。「よしてくれよ、おじさん。俺っちはやばいことなんて何もし てないぜ。たしかに高校時代バイクを何度かばくったことはあるけどさ、それもべつに自分が乗 って楽しむだけで、売りさばいたりしたわけじゃない。しばらく乗ったらちゃんともとに返して おいた。それ以来犯罪には手を染めちゃいない。あえていえば、このあいだ神社から石を持って きたことくらいだ。それもおじさんがやれって言ったから : 「石は関係ないーとカーネル・サンダーズはびしやりと言った。「わからんやつだな。石のことは 忘れろって言っただろう。警察は石のことなんて知らないし、知っていても気にしない。少なくと もそのくらいのことで朝つばらから市内の一斉捜査なんてやらない。もっとずっと大きなことだ」 「もっとずっと大きなこと ? 」 「そのことでナカタさんが警察に追われているんだ」 「でもさ、おじさん、よくわからねえな。ナカタさんって、世界中でもっとも犯罪からは遠いと ころにいる人みたいじゃないか。大きなことっていったい何だい ? どういう犯罪なの ? どう してナカタさんがそれに関わってるの ? 197
第 27 章 「そんなふうにものごとを考えたことはある ? 」 「あります [ 彼女は意外そうな顔をする。「どんなときに ? 」 「恋をしているときに」と僕は言う。 佐伯さんは少しだけ微笑む。その微笑みはしばらくのあいだ彼女のロもとに残っている。それ は小さな窪みに乾き残った夏の朝の打ち水を想像させる。 「あなたは恋をしている」と彼女は一言う。 「はい 「つまり彼女の顔や姿はあなたにとって、一日いちにちそのたびにとくべつであり、貴重なもの なのね」 「そうです。それはいっ失われてしまうかもしれない [ 佐伯さんはしばらく僕の顔を見る。そこにはもう微笑みは浮かんでいない。 「一羽の鳥が細い枝にとまっているとする」と佐伯さんは言う。「その枝は風で大きく揺れてい る。するとその揺れにあわせて鳥の視野も大きく揺れることになる。そうよね ? 僕はうなずく。 「鳥はそういうときどうやって、視覚情報を安定させると思、つ ? 僕は首を振る。「わかりません」 「枝の揺れにあわせて頭を上下させるの。ひょいひょいと。今度風の強い日によく鳥を観察して
第 45 章 「君は突然どこか。彳 こ一丁ってしまったりしないの ? 」 彼女はなにも言わず、ただ不思議そうな目で僕を見る。だいたい私がどこに行くの、というみ 「僕は以前君に会ったことがある」と僕は思いきって一言う。「べつの土地で、べつの図書館で」 「もしあなたがそう一言うのなら」、少女は手を髪にやり、ピンがそこにあることをたしかめる。 少女の声にはほとんど感情がこめられていない。その話題にとくに興味が持てないことを僕にし めすみたいに。 「そして僕はたぶん君にもう一度会うためにここにやって来た。君と、それからもうひとりの女 性に会うために」 彼女は顔をあげてきまじめにうなずく。「深い森を抜けて」 「そう。僕は君とそのもうひとりの女の人に、どうしても会わなくちゃならなかったんだ」 「そしてここであなたは私に会った」 僕はうなずく。 「一言ったでしよう」と少女は僕に言う。「あなたが必要とすれば、私はそこにいるんだって」 彼女は洗い物を終えると、食品を入れてきた容器をズックの袋に入れ、肩にかける。 「また明日の朝」と彼女は僕に一言う。「早くここになれるといいわね」 僕は戸口に立ち、少女の姿が少し先にある暗闇に消えていくのを見まもっている。僕はまたひ 349
第 47 章 「中に入ってお茶を飲みませんか ? 」と僕は一言う。 「ありがとう」と佐伯さんは言う。そしてやっと決心したように部屋の中に足を踏み入れる。 僕は台所に行って電熱器のスイッチを入れ、お湯をわかす。そしてそのあいだに呼吸を整える。 佐伯さんは食卓の椅子に座る。さっきまで少女が座っていたのとまったく同じ椅子に 「こうしていると、まるで図書館にいるみたいだわ」 「そうですねーと僕は同意する。「コーヒーがなくて、大島さんがいないだけで」 「そして本が一冊もないだけで」と佐伯さんは言う。 ープ茶をふたつつくり、カップに入れて食卓に持っていく。僕らは食卓をはさんで向かいあ う。開いた窓から鳥の声が聞こえてくる。蜂はまだガラス窓の上で眠っている。 「今ここに来るのも、ほんとうのことをいえば、そんなに簡単な 佐伯さんが最初に口を開く。 ことじゃなかった。でもどうしてもあなたと会って話をしたかったの」 僕はうなずく。「会いに来てくれてありがとう」 彼女はいつもの微笑みを口もとに浮かべる。「それは私があなたに言わなくてはならないこと よ」と彼女は言う。その微笑みは少女の微笑みとほとんど同じだ。でも佐伯さんの微笑みのほう が少しだけ深みがある。そのわずかな違いが僕の心を揺らせる。 佐伯さんは両手の手のひらでカップを包みこむようにして持っている。僕は彼女の耳の真珠の 白い小さなピアスを眺める。彼女は少し考えている。いつもに比べると、考えるのに時間がかか 377
第 45 章 皮らは前をむいて一心不乱 僕とのあいだだけではなく、一一人のあいだでも会話は交わされない。彳 に歩きつづける。一一人はどちらが言いだすともなく、交代で先にたったりうしろについたりする。 兵隊たちが背中にかけた小銃の黒い銃身が、目の前で規則正しく左右に揺れる。それはまるで一 対のメトロノームのようだ。それを目標に歩いていると、だんだん催眠術にかかったような気分 になってくる。意識がべつの場所に向けて、氷の上を滑るみたいに移っていく。でもとにかく僕 は彼らのペースに遅れないことだけを考え、汗をかきながらただ黙々と歩きつづける。 「歩くのが速すぎるか ? 」、がっしりしたほうの兵隊がやっとうしろを振りむいて、僕にたずね る。その声には息の乱れは聞きとれない。 「いいえ」と僕は言う。「大丈夫です。ついていけます 「君は若いし、丈夫そうだものな」、背の高い兵隊が前を向いたまま一言う。 「俺たちはここの道の行き来にふだんからなれているもんだから、ついつい足が速くなっちまう んだ」とがっしりした兵隊が弁解するように言う。「だから速すぎたら速すぎるって言ってくれ。 遠慮することはない。そうすればもう少しゆっくりと歩くよ、つにする。ただね、俺たちとしては 必要以上にゆっくり歩きたくはないっていうだけなんだ。わかるだろう」 「ついていけなくなったら、そう言います」と僕は答える。むりに息をととのえ、疲労している ことを相手に気づかれないようにする。「まだ先は長いんですか ? 「そんなに長かないよ」と背の高いほうが言う。 「あともうちっとだね」ともう一人が言、つ。
第 29 章 僕は彼女の質問にうまく答えることができない。この何日かのあいだに起こったことを、 たいどう要約して説明すればいいのだろう ? 「長い話なんだ」と僕は一言う。 「君の場合は、長い話がけっこうたくさんあるみたいだね」 「うん。どうしてかはわからないけど、、 しつもそうなってしま、つんだ」 「傾向として ? 「たぶんねーと僕は言う。「いっか時間のあるときにゆっくり話すよ。べつに隠しているわけじ ゃないんだ。ただ電話ではうまく説明できないっていうだけなんだ」 「べつに説明してもらわなくてもいいんだけどさ、でもそれ、ヤバイところじゃないわよね ? 」 「ぜんぜんャパイところじゃない。大丈夫だよ」 彼女はまたため息をつく。「君の独立独歩の性格はよくわかってるけどね、なるべくなら法律 けんか 丿ー・ザ・キッドみたい と喧嘩するのだけはよしたほうがいいよ。まず勝ち目はないからね。ビ 1 にあえなく川代で死ぬことになるよ」 ・ザ・キッドは川代で死んでないーと僕は訂正する。「幻人殺して、幻歳で死んだ」 「ふうん」と彼女は一一一一口う。「まあいいや。で、なにか用事があるの ? 「ただお礼を言っておきたかったんだ。あんなにお世話になったのに、ちゃんとあいさつもせず に出てきてしまったから、気になっていたんだ」 「それはよくわかったよ。だからもう気にしないでいいよ」
第 45 章 よそ ? 背の高いほうがうなずく。「そうだよ。ここは世界から孤立してあるわけじゃない。ちゃんと よそもある。君も少しすついろんなことを知るようになる」 「タ方になったら誰かが食事の用意をするはずだ」とがっしりした兵隊が言う。「それまでもし 退屈だったらテレビを見ていればいい」 テレビはなにか番組をやっているんですか ? 「さあ、なにをやっているのかなあーと背の高いほうが困ったように一一一一口う。そして首をひねり、 かっしりした兵隊のほうを見る。 がっしりした兵隊も首をひねる。そしてむずかしい顔をする。「実はテレビのことってよく知 らないんだ。いちども見たことないからな」 「来たばかりの人のために、役にたっかもしれないからということで、とにかくそこに置いてあ るんだ」と背の高いほうが言う。 「でもたぶんなにかは見られるはずだよーとがっしりしたほうが言う。 「とりあえずここで休んでいてくれ」、背の高いほうが言う。「我々はまたもち場に戻らなくちゃ ならないんだ」 つれてきてくれてありがとう。 「いや、簡単なものだった」、がっしりしたほうが一言う。「あんたはほかの人たちよりずっと足が 丈夫だったしね。うまくついてこれない人だっていつばいいるんだ。おぶってこなくちゃならな 339
「あのままでいれば、どうせ兵隊として外地につれていかれたんだ」とがっしりとしたほうが言 う。「そして人を殺したり、人に殺されたりしなくちゃならなかった。俺たちはそんなところに 行きたくはなかった。俺はもともと百姓で、この人は大学を出たばかりだった。どっちにしても 人なんて殺したくなかったし、殺されるのはもっと嫌だった。あたりまえの話だけどな」 人を殺したり、人に殺されたりしたいかい ? ーと背の高い兵隊が僕に質問す 「君はどうだい ? 僕は首を振る。僕は誰も殺したくない。誰にも殺されたくない。 「誰だってそうだよ」と背の高いほうが一一一一口う。「まあ、ほとんど誰だって、ということだけどね。 でも戦争に行きたくないと言ったところで、『そうか、君は戦争に行きたくないのか。わかった 、。逃げることだってできない 行かなくてよろしい』なんてお国が親切に言ってくれるわけがなし 、 0 ヾ とこに行ったってすぐにみつかっちま、つ。 この日本には、逃げられる場所なんてどこにもなし なにしろ狭い島国だからね。だから僕らはここにとどまった。ここがただひとっ身を隠せる場所 だった」 彼は首を振り、話をつづける。 「そしてそのまますっとここにとどまっている。君が一言うようにずっと昔からね。でもさっきも 言ったように、時間というのはここでは大事な問題ではないんだ。今とずっと昔とのあいだにほ とんどちがいはない」 「ぜんぜんちがいはないんだ」とがっしりしたほうが一言う。そして手でひゆっとなにかをはねの 310
の黒猫に指示されてやるんだぜ。ホシノくんの身にもなってもらいたいよ、まったくの話」 しかしもちろん石は返事をかえさなかった。 「そいつはたぶん危険なものじゃないって黒猫トロくんは言ってたけどさ、それもあくまでたぶ んだ。ただの楽観的な予測に過ぎねえわけだよ。もしなんかの間違いで『ジュラシック・ ク』みたいなやつがひょいと出てきたら、ホシノくんはいったいどうすりやいいんだよ ? かんの終わりじゃねえか 無言。 星野さんは金槌を手に取り、何度か空中で振ってみた。 「でも考えてみりや、これもすべて行きがかりだ。だいたい俺が富士川サービスエリアでナカタ さんを車に乗せてやったときから、最後にこうなるってことは運命として既に決まっていたんだ ろうね。知らないのはホシノくんばかりなりってさ。まったく運命ってのは変てこりんなもんだ よ」と星野さんは言った。「なあ、石くん。石くんだってそう思うだろう ? 無言。 「まあ、しようがねえよ。なんのかんの言ったって、俺が自分で選んじまった道だもんな。最後 ホ までつきあうしかない。どんな気色の悪いやつが出てくるか見当もっかねえけど、まあいい、 ときどきは・楽しい思いもした。 、、。豆、人生だったが、 シノくんとしても全力をつくそうじゃなしカまし 面白い目にもあった。黒猫トロくんの一言うところによれば、これは千年に一度のチャンスってこ とだ。ここでホシノくん華と散るってのもなかなか悪くないかもしれない。すべてはナカタのお