第 44 章 みたいなのをけっこう気に入っていたからだ。だからこそ俺っちは、このホシノくんは、ずっと ここまでおじさんについてきたんじゃねえかな。おじさんから離れることができなかった。そう いうのは、俺のこれまでの人生の中で起こった中ではいちばん実のあることのひとつだった。そ れについちゃ、俺のほうがむしろおじさんに感謝しなくちゃならねえわけだし、だからおじさん が俺に感謝するような必要はないんだ。もちろん感謝してもらって悪い気はしねえけどさ。ただ 俺が言いてえのはさ、ナカタさんは俺にすごくいいことをしてくれたってことだよ。よ、つ、わか るかい ? ・」 でもナカタさんはもう話を聞いていなかった。彼はすでに目を閉じて、規則正しい寝息を立て ていた。 「この人はまったく気楽でいいや」と言って、星野さんはため息をついた。 ナカタさんを抱えてアパートの部屋に戻ると、青年は彼をベッドに寝かせた。服はそのままに ふとん して靴だけを脱がせ、身体の上に薄い布団をかけた。ナカタさんはもぞもぞと身体を動かしてい つものようにまっすぐ天井を見上げる姿勢になり、静かに寝息を立て、あとは身動きひとっしな かった。 「やれやれ、きっとこのまま 2 、 3 日は、またすやすやと寝込んじまうんだろうねーと青年は思 った。 しかしものごとは青年の予期したようには運ばなかった。翌日の水曜日の昼前には、ナカタさ からた 321
第 49 章 述べる。 僕はトラックの助手席に乗り、リュックを足もとに置く。サダさんはエンジンをかけ、ギアを 入れ、最後に窓から首を出してキャビンを外側からもう一度ゆっくりと点検し、それからアクセ ルを踏む。 「俺たち兄弟の数少ない共通点のひとつはこの山小屋だ」とサダさんはなれた手つきでハンドル を切り、山道を降りながら一言、つ。「一一人とも、ときどき気が向くとこの山小屋にやってきて、一 人きりで何日かを過ごす 彼は自分が今口にしたことについてひとしきり考察を加え、それからまた話をつづける。 「ここは俺たち兄弟にとっていつも大事な場所だったし、今でもそれは同じだ。ここに来ると、 力のようなものを受けとることができる。静かな力だけどね。俺の言っていること、わかるか 「わかると思いますーと僕は言、つ。 「君にはわかるだろうと弟も言っていた」とサダさんは一言う。「わからない人間には永久にわか らない」 あ 色褪せた布製のシートには白い大の毛がたくさんついている。大のいに混じって、乾いた潮 たばこ の香りもした。そしてサーフボードに塗るワックスの匂い。煙草の匂い。ェアコンの調整っまみ がとれてなくなっている。灰皿には煙草の吸殻がつまっている。ドアのポケットにはむきだしの カセットテープが手当りしだいに突っこんである。 411
第 45 章 ってくる。喉が渇いていたので台所に行って、冷蔵庫から大きな瓶に入った牛乳を出して飲む。 濃厚で新鮮な牛乳だ。コンビニエンス・ストアで買って飲む牛乳とはずいぶん味がちがう。その 牛乳をグラスに何杯もたてつづけに飲んでいるうちに、僕はふとフランソワ・トリュフォ ] の映 わか 画『大人は判ってくれない』を思いだす。映画の中にアントワーヌ少年が家出をしておなかを減 らせ、早朝にどこかの家に配達されたばかりの牛乳を盗み、こそこそと歩いて逃げながら飲むシ かな ーンがあった。大きな牛乳瓶で、飲みきってしまうのにすいぶん時間がかかる。哀しくせつない シーンだ。ものを食べたり飲んだりするのが、それほど哀しくせつないことになりうるなんて、 信じられないくらいだ。それも僕が子どものころに見た数少ない映画のひとつだった。小学校 5 年生のとき、題に引かれてひとりで名画座にその映画を見にいったのだ。電車に乗って池袋まで 行き、映画を見て、また電車に乗って戻ってきた。映画館を出ると、すぐに牛乳を買って飲んだ。 飲まずにはいられなかったのだ。 牛乳を飲み終えたとき、ひどく眠くなっていることに気づく。ほとんど気分が悪いくらいの圧 倒的な眠さだ。頭の動きがそろそろとスピードをゆるめ、列車が駅に停まるときのように停止し、 しん やがてまともにものを考えることができなくなってしまう。身体の芯がどんどんかたまっていく まくら みたいだ。僕は寝室に行き、もつれる動作でズボンと靴を脱ぎ、べッドに横になる。そして枕に 顔を埋め、目を閉じる。枕には太陽の光の匂いがする。なっかしい匂いだ。それを静かに吸いこ み、吐きだす。眠りはあっというまにやってくる。 343
第 37 章 して感じる。 大島さんがべッドで眠っているあした、。、 : ' ホーチに出て椅子に座り、お茶を飲みながら本を読む。 1812 年のナポレオンのロシア遠征について書かれた本だ。この実質的な意味をほとんど持た ない大がかりな戦争のおかげで、おおよそ鬨万人のフランス軍兵士が見知らぬ広大な土地で命を 落とすことになった。戦闘はもちろん残酷ですさまじいものだった。医師の数がじゅうぶんでは なく、医薬品も不足していたために、深い傷を負った兵士のおおかたは、そのまま苦痛の中で死 んだ。ひどい死にかただ。しかしもっと多くの死が飢えと寒さによってもたらされた。それもや はり同じくらい残酷ですさまじい死にかただ。僕は山の中のポーチで鳥のさえずりを聞き、温か ープ茶を飲みながら、吹雪の舞うロシアの戦場を頭に思い浮かべる。 三分の一ほど読んでしまったところで心配になり、本を置いて大島さんの様子を見にいく。い くら熟睡しているとしても、ちょっと静かすぎる。気配というものが感じられない。でも彼は薄 い布団をかぶったまま、とてもひっそりと息をしている。近くに寄ってみると、肩が小さく上下 していることがわかる。僕は横に立って、その肩をしばらく眺めている。そして大島さんが女性 、。ほとんどの場合僕 であったことをとっぜん思いだす。僕はその事実をたまにしか思いださなし は大島さんを男性として受けいれている。大島さんももちろんそうされたがっているはずだ。で も眠っているときの大島さんは、不思議に女性であることに戻っているみたいに感じられる。 それからまたポーチに出て、本のつづきを読む。僕の心は凍りついた死体がつづくスモーレン スク郊外の街道へと戻っていく。 2 リ
第 34 章 には感じなかった。寝たいだけ寝かせておけばいいのだ。枕もとには石が同じ格好で転がってい た。青年は石の隣にパンの袋を置いた。それから風呂に入って、新しい下着に着替えた。これま で着ていた下着は紙袋に突っ込んでごみ箱に捨てた。布団に入り、そのまますぐに眠った。 翌朝の 9 時前に青年は目を覚ました。ナカタさんはまだ隣の布団の中で、同じかっこうで眠っ ていた。寝息は静かだが、安定していた。ぐっすりと眠っている。星野さんは一人で朝食を食べ、 旅館の女中に、連れはまだ眠っているから起こさないようにしてくれと頼んだ。 「布団は上げなくていいからね」と彼は言った。 「そんなに長く寝られて大丈夫なんですかね ? ーと女中は言った。 「大丈夫、大丈夫、死にやしない。安心しなって。寝ることで体力を回復しているんだよ。俺っ ちはあの人のことには詳しいんだ」 駅で新聞を買い、べンチに座って映画広告欄を調べた。駅の近くの映画館でフランソワ・トリ ュフォーの回顧上映をやっていた。フランソワ・トリュフォーがどういう人なのかまったく知ら なかったが ( だいたい男か女かもわからない ) 、二本立てだったし、夕方までの時間が潰せそう わか なので、見に行くことにした。上映されていたのは『大人は判ってくれない』と『ピアニストを 撃て』だった。観客は数えるほどしかいなかった。星野さんは熱心な映画愛好家とはとても一言え なかった。たまには映画館に足を運んだが、見るのはカンフー映画とアクション映画に限られて いた。だからフランソワ・トリュフォーの初期の作品にはいささか理解しにくい部分や局面が 多々あったし、古い映画だからテンポもずいぶんのろかった。しかしそれでもその独特の雰囲気 ふろ 173
どこにもたどりつけない。 やがて彼女は立ちあがり、ゆっくりとこちらにやってくる。いつもの背筋を伸ばした姿勢の良 い歩きかただ。靴ははいていない。裸足だ。彼女が歩くと床がかすかに軋む。彼女はべッドの端 に静かに腰かけ、しばらくそこにじっとしている。その身体にはたしかな密度と重みがある。佐 伯さんは白い絹のプラウスに、紺色の膝までのスカートをはいている。彼女は手をのばし、僕の 髪に手を触れる。指が僕の短い髪のあいだをまさぐる。それはまちがいなく現実の手だ。現実の 指だ。それから彼女は立ちあがり、外から射しこむ淡い光の中で、ごく当たり前のことのように 。とても滑らかな自然な動 服を脱ぎはじめる。急いではいないけれど、そこにはためらいもない 作でプラウスのボタンをひとつひとつはずし、スカートを脱ぎ、下着をとる。服が順番に、音も なく床の上に落ちていく。柔らかな布地は音もたてない。彼女は眠っている。僕にはそれがわか る。たしかに目は開いている。でも佐伯さんは眠っているのだ。彼女はすべての動作を眠りの中 でおこなっている。 彼女は裸になると、狭いべッドの中に入ってくる。白い腕が僕の身体にまわされる。僕は彼女 ふともも の温かい息を首に感じる。太腿に彼女の陰毛があたるのを感じる。佐伯さんはたぶん僕のことを、 ずっと昔に死んでしまった恋人の少年だと思いこんでいる。そしてこの部屋で昔おこなわれたこ とを、そのまま繰りかえそうとしている。ごく自然に、当たり前のこととして、眠ったまま。夢 を見たまま。 佐伯さんをなんとか起こさなくてはと僕は思う。目を覚まさせなくては。彼女はものごとを取 はだし
大島さんが来る前に、図書館を開ける準備を済ませておく。館内の床に掃除機をかけ、窓ガラ つや ぞうきん スを拭き、洗面所をきれいにし、ひとつひとつのテープルと椅子に雑巾をかける。艶出しのスプ レーを使って階段の手すりを磨く。踊り場にあるステンドグラスにそっとはたきをかける。庭を ほうきで掃いて、閲覧室のエアコンと、書庫の除湿器のスイッチをいれる。コーヒーをつくり、 鉛筆を削っておく。誰もいない朝の図書館には、なにかしら僕の心を打つものがある。すべての 言葉と思想がそこに静かにやすんでいる。僕はできるかぎりその場所を美しく清潔に静かに保つ ておきたいと思う。ときどき立ちどまって、書庫に並んでいる無言の本たちを眺める。そのいく つかの背中に手を触れてみる。川時半になると、いつものように駐車場にマッダ・ロードスター のエンジン音がきこえ、少しだけ眠そうな顔をした大島さんがあらわれる。開館時間が来るまで、 僕らは軽い話をする。 「もしよかったら、今からしばらく外に出て来たいんだけど」、図書館を開けたあとで僕は大島 さんに = 一一口、つ。 第 章 148
第 42 章 出来上がったかたちには、何の意味もありません」 「ナカタは読み書きができませんので、何も書き記すことはできません」とナカタさんは言った。 「ナカタは猫さんたちと同じでありますー 「ナカタさん」 「なんでありましよ、つ ? 「ずいぶん昔からあなたを知っているような気がするんです」と佐伯さんは言った。「あなたは あの絵の中にいませんでしたか ? 海辺の背景にいる人として。白いズボンをたくしあげて、足 を海につけている人として」 ナカタさんは静かに椅子から立ち上がり、佐伯さんの座っている机の前に行った。そしてファ イルの上に置かれた佐伯さんの手の上に、自分の硬く日焼けした手を重ねた。そして何かにじっ と耳を澄ませるようなかっこうで、そこにある温かみを自分の手のひらに移した。 「サエキさん」 「はい 「ナカタにも少しだけわかります 「何がですか ? 「思い出というのが、どのようなものであるかがです。サエキさんの手を通して、ナカタにもそ れは感じられますー 佐伯さんは微笑んだ。「よかった」と彼女は言った。 293
「僕のほうはとくに秘密というんじゃありません。ただの仮説です」 「仮説 ? ーと佐伯さんは聞きかえす。「仮説をうちあけるの ? 」 「そ、つです」 「面白そうだわ」 「さっきの話のつづきだけどーと僕は一言う。「つまり佐伯さんは、死ぬためにこの街に戻ってき たということになるんですか ? 彼女は静かな微笑みを、明け方の白い月のようにロもとに浮かべる。「そういうことになるか もしれない。でもどちらにしても、じっさいの日々の生活をとりあげてみれば、それほどの変わ りがないのよーーー生きのびるためにせよ、死ぬためにせよ、やっていることはだいたい同じ」 「佐伯さんは死ぬことを求めているんですか ? 「どうかしら」と彼女は一一一一口う。「それは自分でもよくわからない 「僕の父は死ぬことを求めていました」 「お父さんは亡くなったの ? 」 「少し前に」と僕は一一一一口う。「ほんの少し前です」 「どうしてあなたのお父さんは死ぬことを求めていたのかしら ? 」 僕は大きく息を吸いこむ。「僕にはその理由がずっと理解できなかった。でも今では、その理 由かわかるようになりました。ここに来てからやっとそれがわかったんです 「どうしてなの ? 」 IIO
二人は低い垣根を越えて、神社の林の中に入っていった。カーネル・サンダーズは上着のポケ こみち ットから小さな懐中電灯を取り出し、足もとを照らした。林の中には小径がついていた。それほ そこにある樹木はどれも古く、大きく、その密生した枝は頭上を暗く覆 ど大きな林ではないが、 っていた。足もとから強い草の匂いかした。 カーネル・サンダーズが先に立って歩いたが、前と違ってゆっくりとした足どりだった。彼は 懐中電灯の明かりで足もとをたしかめながら、用心深く一歩一歩前に進んだ。星野さんはそのあ とから従った。 「よう、おじさん、なんかきもだめしみたいだね , と青年はカーネル・サンダーズの白い背中に 声をかけた。「オバケだよお 「いちいちくだらんことを一一一一口、つんじゃない。ちっとは静かにしておれんのか ? ーとカーネル・サ ンダーズは後ろも向かずに言った。 「はいはい」 第 章 おお