イタリアは局面局面でファイプバック、フォーバック、 スリー バックを切り替えて守っているわけだ。 それを、まったく混乱なく実行していく。 七月一日、ニ日 ( アヴィニョン、パリ ) 準々決勝、肌寒い 七月三日 ( サン・ドゥニ ) フランス x イタリア : アルゼンチン x オランダ : 七月四日 ( マルセイユ ) シュートかという瞬間、後方から追ったダーヴィッツが その右足にタックルした。ロナウドは倒れたが、 ダーヴィッツのタックルはまったく正当なもの。 七月五日、六日 ( アヴィニョン、マルセイユ ) 準決勝前の中ニ日の休み : 七月七日 ( マルセイユ ) プラジル x オランダ・ : : ・ 七月八日 ( サン・ドゥニ ) フランス x クロアチア : : : パスコースをいくつも確保して、次々と ・速い直線的な。ハスをつないでいくクロアチアの攻撃、 ニつのゴールはその典型のような攻めだった。 七月九日、十日 ( 。ハリ、コロンべ ) コロンべへの巡礼 七月十一日 ( パリ ) 三位決定戦オランダ x クロアチア・ 三 267 。ハリの七月 : ・ 245
シュートだっこ。 一昨日、同じリョンでの試合で、韓国の拙い試合展開でメキシコが逆転勝ちして、メ キシコはすっかり調子に乗ったようだった。そして、今度はコロンビアの拙戦のおかげ で、ルーマニアが調子を上げていく。 六月十六日 ( ポルドー ) スコットランド x ノルウェ リョンから夜中にアヴィニョンに戻り、翌朝、今度はポルドーに向かう。前回は、到 着後にサン・ジャン駅前のホテルに部屋が取れたが、今回は駅前のホテルはスコット一フ ンド人やノルウェー人サポーターに占拠されており、どこも満室だった。駅前のレスト ランや・ハーも、スコットランド人、ノルウェー人でびっしりである。幸い、帰りの列車 のクシェット ( 簡易寝台 ) が取れたので、試合後は夜行列車でアヴィニョンに戻ること にする。 スコットランドやノルウェーからなら、ポルドーまで列車やフェリーを乗り継いでも 簡単に来られるから、大勢のサポーターがやって来る。スコットランドとノルウェーは、 北海をはさんで対岸の位置関係にある。民族的には必ずしも同じではないが、声の大き さなど応援のレ。ハートリーも非常によく似ている。スコットランド人はチームのレプリ カシャツにキルト、ノルウェーは角の付いた。ハイキングの帽子。スコットランドは紺、 ったな
オランピーク・マルセイユの選手だ。さらに分にもアンリのドリプルシュートがイツ サの脚に当たってゴールに飛び込み ( これはアンリの得点と認められる ) 、結局 3 ー 0 でフ ランスが圧勝し、幸先のいいスタートを切った。 大会が始まって三日間、フランスの試合前までに行われた六試合のうち、じつに四試 合が引き分けに終わっており、決着のついた二試合も一点差の接戦だった中で、フ一フン スが初めて三点差を付けて完勝した。相手に恵まれたとはいえ、この勝利でフランスは 優勝候補の一角として浮上してきた。 それにしても、前日のポルドーでの豪雨に続いて、この日のマルセイユは強風と、フ ランスの天候はまだまだ不安定だった。 僕は、フランス在中の基地としてアヴィニョンを選んでいた。。ハリからリョンを通 トウールーズ、ポルドー方面に分 って南下した鉄道がマルセイユ方面と、モン。ヘリエ、 かれる分岐点に当たり、交通が便利だったこと。ワールドカップ開催都市でないだけに、 ホテルの料金なども通常並みですむこと。そして、ワールドカップ開催都市と違って静 かだろうというのが理由だ。 マルセイユの試合が終わった深夜の列車で、午前一一時にアヴィニョンに着き、駅から 二百五十メートルほどの「オテル・イノヴァ」に投宿した。ここが、これから二十六日 間の基地となる。
六月十三日 ( リョン ) 韓国 x メキシコ 久しぶりにゆっくり眠って、昼過ぎの列車でリョンに向かう。アヴィニョンはローヌ 河の下流に位置する町だから、フランス中部をほぼ南北に流れているローヌ河の川筋に 沿って北上し、 e > で一時間半強でリョンに到着する。六月七日にリョンを出てから、 まる六日で、。ハリ、ポルドー 、マルセイユ、アヴィニョン、リョンと、大三角形を描 いてフランスを一回りしたことになる。リョンのノノ 。、ーレ・一アイユー駅からメトロとシャ トルバスを乗り継いで、ジェルラン・スタジアムに向かう。途中、現地駐在員らしい家 族連れなどの韓国人に多数出会う。今日は、韓国の緒戦、メキシコ戦である。 韓国は、今回が四回連続五回目のワールドカップ本大会出場になるが、過去の成績は キ 三分八敗。前回はサウジアラビアが二勝を上げて決勝トーナメントに進んでおり、今回 はライバルである日本が出場したこともあって、韓国は悲願の一勝、そして十六強 ( 決 勝トーナメント ) 進出を狙っていた。しかし、韓国はオランダ、ベルギー、メキシコと いう厳しいグループに人ってしまった。オランダはもちろん、ベルギーも、メキシコも 楽な相手ではない。しかも、上位の国は韓国相手に勝点を落とすようなことがあれば、 一次リーグで三位以下となってしまうため、韓国戦にも全力で勝ちにくるので、韓国の 勝利は難しいだろう。
218 しかし、長期的に考えれば、サッカーにとって、ワールドカップにとって最も大事な のは″商品〃である試合の質であり、戦う選手たちのはず。疲れきった状態の選手たち による退屈な内容の試合ではなく、いい内容の試合を見せることこそ、本当の意味での 観客サービス、視聴者サービスになるはずなのだが : 今年の大会は、一次リーグで上位二チームしか決勝トーナメントに進出できないよう になったため、強豪チームが緒戦から本気で勝とうと思ってゲームをしたおかげで、一 次リーグから決勝トーナメント一回戦まで、最近のワールドカップには見られないほど の好ゲームが続いている。決勝トーナメントに人って、プラジルも調子を上げてきたし、 強豪がそろって勝ち抜いてきているので、さらに今後に期待できる。これから、各チー ムが疲れきってしまって、決勝戦が一九九〇年大会や一九九四年大会のような凡戦にな らないことを祈るのみだ。 それには、気候も気になるところだ。 大会後半を迎えて、フ一フンスも本格的な夏に人った。学校も休みになり、各地の駅に も夏のバカンスに行く家族連れの姿が目に付くようになった。アヴィニョンは、七月に 人ると恒例の演劇祭を迎える。今年は、ワールドカップのため、例年より開幕が遅くな っているが、もう、街の通りには演劇のポスターが貼り巡らされ、演劇関係者の姿が目 立ってきた。アヴィニョンの名物で、お土産物にまでなっている蝿の声も聞こえ出した。
シュートかという瞬間、後方から追ったダーヴィッツが その右足にタックルした。ロナウドは倒れたが、 み 休 ダーヴィッツのタックルはまったく正当なもの。 の 中 の 七月五日、六日 ( アヴィニョン、マルセイユ ) 準決勝前の中ニ日の休み 準々決勝を終えて、勝ち残った四チーム中で、優勝経験のある国はプラジルだけにな セってしまった。ドイツは、ヴェルンスが退場となり、それから三点取られてクロアチア マ、に完敗してしまったのだ。 フランス人にとっては、ドイツの敗退は重くのしかかっていたもやもやを取り去って イくれるような朗報だったろう。準々決勝でイタリアを破った後、フランス人のサッカ ア ・ファンなら誰でも「また準決勝でドイツか」という気持ちを抱いたはずだ。 フランスは、一九八二年のスペイン・ワールドカップではプラティニ、ジレス、ティ ガナなどのミッドフィルダーを擁して、全盛期にあった。二次リーグを突破して、準決 月 勝の相手は西ドイツ。 1 ー 1 の同点で延長に人り、分にフリーキックからのポールを べテランのトレゾールが決めて 2 ー 1 、さらに、分にはジレスのシュートが決まって
214 イタリアは局面局面でファイプバック、フォーバック、 スリー バックを切り替えて守っているわけだ。 それを、まったく混乱なく実行していく。 七月一日、ニ日 ( アヴィニョン、。ハリ ) 準々決勝、肌寒い パリの七月 六月十日にワールドカップが開幕してからまる三週間。二十一日間にわたって毎日試 合が行われてきた超過密日程のフランス・ワールドカップも、決勝トーナメント一回戦 八試合を終えて、ようやく一段落。準々決勝まで、中二日の休日となる。 僕自身も六月十日にサン・ドゥニで開幕戦を見てから、決勝トーナメント一回戦の最 後にサンテティエンヌで行われたアルゼンチン対イングランド戦まで二十一日間に二十 試合を観戦した。全十会場を回って、三十二チーム中二十二チームの試合を見ることが できた。世界には、じつに様々なチームが存在し、いろいろなサッカーがあるものだと いうことを、今さらながら実感することができた。 しかし、フランスは広い。鉄道で毎日数百キロを移動し、テレビのレポートをし、新 聞の速報を書き、雑誌の記事を書きながらの観戦だから、食事の時間もままならず、体
「マイナス 1 」というのは大きな意味を持ってくるはずだ。 前日のメキシコ戦で、韓国の車範根監督はギャンプルに出て敗れたが、岡田武史はギ ャンプルを避けた。 アルゼンチンに最少得失点差で敗れたのは日本にとっても「満足すべき敗戦」と言っ ていいのかもしれない。 ーマニア x コロンビア 六月十五日 ( リョン ) ル 夜の列車でトウールーズからアヴィニョンに戻り、翌日は再びリョンである。四年前 のアメリカ・ワールドカップでも一次リ 1 グ緒戦で顔を合わせたルーマニア対コロンビ x ア。その時は、技巧的なショート。ハスでコロンビアがポールを支配して攻め続けたが、 = ルーマニアが見事なカウンターで完勝した。あの試合は、アメリカ大会の名勝負の一つ ←だった。その再現としても、そして組の二位争いとしても、注目の試合だった。 両チームとも当時のメンバーが数多く残っており、四年前の試合の再現が期待された 顔合わせだったが、ある意味では期待通りの、ある意味では予想通りに期待外れのゲー ムだった。 月 一つの国のサッカーの特徴というのは、何年経っても簡単に変わるものではない。ま してや、両チームとも中心選手はあまり変わっていないのだ。ルーマニアのハジ、コロ チャポンクン
躍した大会でもあった。チリのサモラーノ、サラスのツートップ。ガマラを中心とした 。ハラグアイの守備陣。そして、メキシコのエルナンデスとプランコのツートップなどは、 世界中の人気を集めた。エルナンデスは金髪の選手だが、あとの選手は先住民系だ。プ ランコのファーストネーム、クワウテモクは、スペインにほろぼされたアステカ帝国最 後の皇帝の名前である。彼らは長身ではないが、非常に・ハネがあり、ヘディングなども チ 強いし、見ていて非常にメリハリのあるプレーをするので楽しいのだ。そして、。ハラグ ルアイはフランスと、メキシコはドイツと、ヨーロツ。ハの強豪に対して勝負を挑み、とも x に惜敗で大会から姿を消した。 モンペリエからアヴィニョンに戻って、テレビでトウールーズでの試合を見る。オラ グンダーユーゴスラビアは、オランダのペースだった。得点は 1 ー 1 のままで、延長に人 るかと思われたが、ダーヴィッツのロングシュートでオ一フンダが勝って、準々決勝に駒 【を進めた。 工 冖六月三十日 ( サンテティエンヌ ) イングランド x アルゼンチン サ サンテティエンヌといういかにもフランス的な町の名前 ( 宗教を否定したフランス革命 月 時代には「サンⅡ聖」という名が嫌われ、アルムヴィルと改名された ) は、古いサッカーファ ンには特別の感情を呼び起こさせる。一九七〇年代にこの町のサッカーチーム ( 一九九
六月ニ十六日 ( リョン ) 日本 x ジャマイカ 再び、リョンである。 南のアヴィニョンは晴れていたが、リョンに向かって北上するにしたがって、車窓か ら眺める空を黒い雲が覆い始め、ついに雨も降り出した。リョンは前日から雨が降って いたらしい。六日前のナントでのクロアチア戦の頃は、フランス全土が真夏のように暑 くなったけれど、ここ二、三日、とくにフランス北部は天気が崩れつつあるようだ。 日本がジャマイカとの最終戦に臨む。すでに二敗を喫して、一次リーグ敗退は決まっ ていたが、ワールドカップでの初の一勝を目指すべき試合である。「ワールドカップは 厳しい。楽な相手がいるわけはない」とよく言われるが、これは間違いだ。ワールドカ ップ本大会であろうと、アジア予選であろうと強い相手もいれば弱い相手もいる。勝負 というのは常に相対的なもののはずである。日本とジャマイカとのチームカを比較すれ ば、ジャマイカが格下と思われるし、少なくとも他の三十カ国と比べれば、日本が勝っ 可能性のいちばん高い相手であるのは明らかだ。 ジャマイカのシモンエス監督は、プロ。ハガンダの名手だ。来日した時には、もっとも らしい「マル秘ノート」などを見せて、日本のマスコミを手玉に取った。「目標は優勝」 などとロでは言いながらも、シモンエス自身はそんなことがどれだけ非現実的な目標な