ーンを目の当たりにすると、切実に「いっか、日本も優勝してほしい」という気がして きた。 今大会のフランスを含めて、優勝を経験した七カ国のうち五カ国は、地元開催の大会 で初優勝を飾っている。当然、日本も初優勝を狙うとすれば日本で開催される大会とい うことになるが、二〇〇二年まではあと四年しかない。もし、技術や戦術をワールドカ ップ級にまでレベルアップできたとしても、日本の選手、協会、マスコミ、サポーター には、残念ながらまだワールドカップで優勝を狙えるようなメンタリティーはないし、 二〇〇二年までにそれが身につくとは思えない。 フ一フンスは第一回ワールドカップの開幕戦を戦った国だ。二十世紀最後の大会での初 優勝まで、じつに六十八年もかかっている。そして、フランスは二回目の地元開催で優 勝を果たしたのだ。日本も、二〇〇一一年が無理なら、数十年後に再び日本でワールドカ ップを開催する時までには、優勝できるだけの技術、戦術、メンタリティーを身につけ ておきたいものである。 ワールドカップで優勝するというのは、それくらい難しいことなのである。各国の代 表選手たちは、彼らが生まれるはるかに昔からの、その国の " サッカーの歴史〃を背負 って戦っている。ワールドカップという大会は、初出場の国にはとうてい理解できない ような種類の戦いなのだ。 日本チームにとってフランス大会は初めてのワールドカップだったが、僕にとっては
一九九八年ワールドカップは、開催国アランスが優勝を飾り、「サッカーにはそれほ ど熱狂的でない」と言われたフランス国民も大いに盛り上がり、シャンゼリゼ大通りな どの。ハリ市街は、第二次世界大戦の時の「。ハリ解放」以来という百万人の人波で埋まっ こ 0 フランスは初優勝だった。ワールドカップでは、一九八二年のス。ヘイン大会以来、優 勝経験のある四カ国 ( プラジル、イタリア、ドイツ、アルゼンチン ) 以外は決勝進出すらで きないという状態が続いており、カップは永遠に四カ国の間で持ち回りになるのかとさ え思えた。だが、フ一フンスの初優勝を見てハ他の国にもチャンスがあるのだということ を思い出した。 に当然、日本にもチャンスはある。僕は、日本も将来ワールドカップで準決勝に進出す じることくらいはありうるだろうが優勝は何十年経っても不可能だろうし、また、それで もいいと思っていた。しかし、実際にスタッド・ド・フランスでフ一フンスが優勝するシ はじめに
トが離れているスタッド・ド・フランスよりも、フットボール専用の。ハルク・デ・プラ ンスの方がはるかに見やすい。屋根とスタンドの構造も、。ハルク・デ・プランスの方が 密閉性が高く観客はゲームに集中できる。観客席から、外の風景などが見えてしまうと、 集中を欠きやすくなるのだ。 要するに、ワールドカップ終了後は、スタッド・ド・フランスは、サッカーの一部リ ーグには使えなくなりそうなのだ。 ヨーロツ。ハで開かれる大会で、ワールドカップのために新しいスタジアムが作られる というのは異例のことだ。フランス大会では、新スタジアムはスタッド・ド・フランス だけだし、イタリア大会でも新設はバリとトリノだけだった。 トリノのスタディオ・デッレ・アルピは、その後ュべントスの本拠地となっているし ( ただし、評判は今一つ ) 、新設・既存を問わず、イタリアの場合は、ワールドカップで使 ルわれたスタジアムはすべてサッカーのセリエまたはで使用され、ミラノのジュゼッ ラベ・メアツツアや、ローマのオリンピコ、そしてトリノのデッレ・アルピのように、い ずれも八万人という収容力いつばいの観客をリーグ戦で動員している。大会後の利用状 況ということを考えたら、イタリアの場合はまったく無駄はない。 アメリカ大会の場合は、すべてアメリカン・フットボール用のスタジアムで、最大の 6 ローズボウルが十万人、いちばん小さな・・スタジアム ( ワシントン ) でも五万 人弱という大きさを誇っていたが、ほとんど改装に資金を使わなかったのだから、無駄
などが逮捕され、これが刑法上の犯罪であることははっきりしてきたのだが、その全貌 はまったくつかめない。 日本からのラジオの取材で、「これもワールドカップですか」という質問を受けたが、 これはワールドカップの一部ではない。犯人が捕まるかどうか、あるいは—もし くはフランス・ワールドカップ組織委員会 ( 0 ) そのものがかかわっているのかは 分からないが、これは明らかな犯罪である。 しかし、犯罪を誘発した背景ははっきりしている。なぜ犯罪者がこういう詐欺を思い 付いたのか、あるいはなぜこのような犯罪が可能になったのかということだ。 チ 今大会の二百五十万枚強の人場券は地元フランス国内向けに六十五 % が販売され ( 一 ル般向けが六十 % ) 、各国協会およびスポンサー向けにそれぞれ二十 % 、七 % が分配され、 ア 残りの八 % が代理店を通じて、各国向けに販売された。地元フランス向けには、リョン 本 日ならリョンで行われる一次リーグおよび決勝トーナメント一回戦の人場券五ないし六枚 刈がセットになった「フランス。ハス」という形で組分け抽選前に販売された。 ル たとえば、リョンのセットを買ったフランス人は六月二十四日のフランス対デンマー クの試合が見られるのは嬉しいだろうが、六月一一十六日の試合が日本対ジャマイカとい う顔合わせに決まった時、そんな試合は見たくないと思ったかもしれない。一方で、日 月 本人で日本対ジャマイカの試合を観戦したいと思う人は一万人以上いる。しかし、日本 の旅行会社が正規のルートで手に人れられる人場券の数は、せいぜい数千枚にしか過ぎ
後藤で、補充なし ? 山本そう。アルゼンチン大会の決勝は羽佐間正雄さんでした。羽佐間さんがアルゼン チンとス。ヘインの二大会をやって、水野節彦さんが羽佐間さんについてスペイン大会に 行くわけです。それでメキシコ大会には水野さんと私の二人が行って、その後のイタリ ア大会から人数がちょっと増えてくる。それは、の放送が始まるからなんですね。 一番大きな問題は時差 後藤フランス大会には、何人ぐらいで行ったんですか。 山本フランス大会の場合は、ハイビジョンとラジオと、それから「 5 2 5 」と我々が 言うグループ ( 走査線が五百二十五本の一般テレビ ) と三つに分かれているんです。そし て、ラジオのかなりの場合は「オフチュープ ( 現場からではなく、画面を見ながらしゃべる 方式 ) 」で、日本でしゃべってるんです。アナウンサーだけで九人だったんじゃないか な。 後藤アナウンサー以外にはどのぐらいの人数がかかわっているんですか。 山本ディレクターが二十人ぐらいですね。ハイビジョンは Z で映像を作ったんで すよ。 ハイビジョンの中継車は二台。ディレクター五人ぐらいで一クルーになるんです が、それが二系統ですから、十人。そのほか放送席についているディレクターもいます から、あわせて二十人ぐらいいたと思うんです。
266 戦でフランスが準決勝に進んだ。 僕は一九七四年の西ドイツ大会以来、ワールドカップ観戦はフ一フンス大会で七回目と なる。見てきた試合数も百を超す。だが、「これまでのワールドカップで見た試合の中 ためら で最高の試合は何か」と問われたら、何の躊躇いもなく、あの一九八六年メキシコ大会 でのプラジル対フランスの試合と答えるだろう。 今年の両チームは当時ほどの輝きはないが、しかし、試合の楽しさという点から考え れば、まさに理想的な組み合わせとなったことは間違いない。開催国対前回優勝国の決 勝。こういう組み合わせは、これまでのワールドカップでは一度もなかったのだ。
ヨーロツ。ハ・サッカー界でずっと小国の位置に甘んじていたデンマークが国際舞台に 初めて名乗りをあげたのは、一九八四年にフランスで開かれたヨーロツ。ハ選手権だった。 プラティニ主将 ( 現ワールドカップ組織委員会委員長 ) 率いる全盛期のフランスが地元優 勝を決めた大会だが、ドイツ人のユップ・ピオンテク監督の下、ウイング。ハックを使っ て中盤の人数を多くする新しいシステムをひっさげて予選でイングランドを破ったデン マークが、本大会でも準決勝まで勝ち進んで世界を驚かせた。 デンマークは二年後のメキシコ大会でワールドカップ初出場を果たし、ここでも南米 の強豪ウルグアイに 6 ー 1 で大勝するなど華々しい活躍を見せた。そして、この時に国 際舞台にデビューしたのがミカエル・ラウドルップ ( 兄 ) だ。 それから十年以上の時が経って、中盤をコン。ハクトにするサッカーは世界の標準シス テムとなり、デンマークは再びフランスに戻ってきた。 その間ワールドカップにこそ出場の機会がなかったが、一九九二年のヨーロツ。ハ選手 権では、国連の制裁決議のために出場できなくなったユーゴスラビアに代わって、急遽 繰り上げ出場となり、優勝をさらってしまったこともあった。最近は、ラウドルップ兄 弟とゴールキ ー。ハーのシュマイケルだけが頼りのチームと一一口われながら、フランス大会 で十二年ぶりのワールドカップ出場を果たした。しかし、三人の主力は、そろそろ衰え を感じざるをえない出来だった。デンマークというチームは今その終焉の時を迎えよう としているのだろうか。
優勝経験のある国はたった六カ国しかない。このうち一九五〇年大会以来優勝から遠ざ かっているウルグアイ、地元開催で一回だけ優勝経験のあるイングランドを除くと、プ ラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ四カ国だけということになる。そして、最近 のワールドカップはこの四カ国だけで、優勝は争われてきた。アルゼンチンが初優勝し た一九七八年大会の決勝でアルゼンチンと対戦したのは、まだ優勝経験のないオ一フンダ だったが、その時以来、プラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ以外の国は優勝ど ころか、決勝に進出したことすらも一度もなかったのだ。 フランスが初優勝するとすれば一九七八年大会のアルゼンチン以来だが、その時もア ルゼンチンは開催国だった。そして、その前の一九六六年に初優勝したイング一フンドも 地元開催だった。第一回大会ウルグアイ、第二回大会のイタリアも含めると、初優勝が 地元でのワールドカップだったケースは、六カ国のうち四カ国にのぼる。 「地元開催」が初優勝のための必要条件だとすると、今年のフ一フンスがだめだったら、 次にどこかの国が初優勝するのは遠い将来のことになってしまうはずだ。二〇〇二年開 催国の日本や韓国には優勝するだけの力はないし、二〇〇六年にはすでに優勝経験のあ るドイツ、イングランドで開かれる可能性が高いからだ。地元の利を生かしてフランス の頑張りに期待したい。 決勝がプラジル対フランスのカードになることに決まって、真っ先に思い出したのが 一九八六年メキシコ・ワールドカップの準々決勝だった。
南部は気温が相当上がってきている。 北部は相変わらず気温が低く、。ハリは二十度ほど。逆に、南部は三十度をかなり上回 っており、マルセイユで準々決勝、準決勝を戦うオランダまたはアルゼンチンにとって 月はきつい条件である。プラジルまたはデンマークは、準々決勝がナント、準決勝がマル セイユ、そして決勝がサン・ドゥニという日程で、彼らにとっては移動が問題になる。 これも、休養日がたつぶりあれば問題ではないのだが、中三日程度しか休養日がないの い 肌にその間に移動が挟まるのは大きな負担になる。日程的には。ハリに居座りのフランスの 有利は否めない。地元に有利な日程。これは、いつの大会にも付きもののことだ。だか 々ら、「初優勝があるとすれば、開催国ではないか」と言われるのだ。 同時に、いつの大会でもそうだが、そうした運・不運の問題を克服できる「強さ」を 持ったチームだけがワールドカップという大会で優勝できるのだと言うこともできる。 そして、「強さ」という条件がそろっているのは、過去に優勝経験のあるチームだ。今 大会で準々決勝まで残った優勝経験チームはプラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイ ヴ けツ。それに、地元の利を考えれば、開催国のフランスにも可能性があるが、フランスは 得点力の問題を解決した場合という条件付きだ。 それにしても、さまざまな悪条件の中で七試合を戦い抜こうとしている強豪国という 月 のは、初出場に国中が熱狂しながら、強豪との二試合で疲労の極に達して、初の一勝す ら実現できなかった日本チームから見たら、はるか雲の上の存在としか言えない。日本
ゼをはじめ、。ハリ の中心街には百万人と言われる人々が集まり、明け方まで騒ぎは続い た。翌日は新しい世界チャンピオンとなった選手たちが、屋根を取った二階建てバスに 乗って、シャンゼリゼを凱旋。ハレード。解放 ( つまり、第二次世界大戦の時に連合軍によっ てナチス・ドイツの占領から解放された日 ) 以来という百万の人に阻まれて、バスはほとん ど動けない。 一九三〇年に第一回大会が始まったワールドカップは、今や世界を一つに結び付ける イベントに成長した。全体主義、大量破壊兵器、宇宙への進出、核エネルギーの解放、 今世紀を象徴するものはたくさんあるが、ワールドカップもその一つである。二十世紀 は「サッカーの世紀」だった。とくにここ二十年間で商業主義化が進み、ワールドカッ プは大きく変貌した。それを象徴するのがフランス・ワールドカップでの人場券問題だ った。そのフランス大会を機に、商業主義化を推進したアヴェランジェ前—会長 が退任したのも、象徴的だった。 ワールドカップが開催できたのは、—の第三代会長であるジュール・リメと、 事務局長だったアンリ・ドロネーの努力の結果だった。二人ともフ一フンス人である。一 九三〇年、第一回大会の開幕戦、つまり、ワールドカップの最初の試合はワランス対メ キシコ。そして、ワールドカップ初のゴールはフランスのルシアン・ローランのゴール だった。そのフランスが、ワールドカップの二十世紀最後の試合を戦い、二十世紀最後 のゴールを決めて、今世紀のワールドカップの歴史を締めくくった。