には , 少なくとも交換原理を相対化させようという対抗勢力が存在 していましたが , いまではそのような勢力すら衰退してしまってい ます . はたして知の世界は退化を始めたのでしようか . それとも , 新しい知を求めて模索が始まっているのでしようか . 私自身は後者 であってほしいと願っています . そして , 以上で述べてきたような 交換をめぐるささやかな論考を通して , 商品交換形式を超えるよう な新しい論理の展開をさらに進めてみたいと思っています . 20 世紀この 1 冊 ! 1944 年カール・ボランニ 社 , 1975 年 ) 『大転換』 ( 吉沢英成他訳 , 東洋経済新報 大学院時代にはじめて読み新鮮な驚きを覚えました . カナダ留学中に原 書で読みもう一度感動しました . 大学の教員になってからは毎年講義の準 備をするたびにあちこち読み返しています . 何回読んでも新しい発見があ り飽きることがありません . 20 世紀最大の古典の 1 っと呼ぶにふさわし い名著だと思います . なお , 「機能的社会理論と社会主義の計算問題」は , ボランニ 『経済 の文明史』 ( 玉野井芳郎他訳 , 日本経済新聞社 , 1975 年 ) に収められてい ます . 同書には , ボランニーの「貨幣使用の意味論」という論文も収録さ れています . さらに詳しいことを知りたい人は , ボランニ 『人間の経 済』 (I ・Ⅱ , 玉野井芳郎他訳 , 岩波書店 , 1980 年 ) を参照してください . なお , 経済人類学そのものを知りたい人は , 山内昶『経済人類学への招 待』 ( 筑摩書房 , 1994 年 ) および同著『経済人類学の対位法』 ( 世界書院 , 1992 年 ) が手ごろです . ハイエク (). A. von Hayek) による「社会主義 経済計算論争」の整理については , ハイエク編『集産主義計画経済の理 論』 ( 迫間真次郎訳 , 実業之日本社 , 1950 年 ) を参照してください . 「完 全な家」に関しては , プルンナー (Otto Brunner) の『ョーロッパーーーそ の歴史と精神』 ( 石井紫郎他訳 , 岩波書店 , 1974 年 ) を参考にしてくださ い . マリノフスキー (Bronislaw K. Malinowski) の『西太平洋の遠洋航海 者』は , 『世界の名著 71 : マリノフスキー , レヴィ = ストロース』 ( 増田 義郎他訳 , 中央公論社 , 1980 年 ) に収録されています . 互酬についてさ らに詳しく知りたい人は , モース (MarcelMauss) の「贈与論」が参考 になります . 「贈与論」は『社会学と人類学』 I ( 有地享他訳 , 弘文堂 , 158 ・第Ⅲ部多元的論理に向かって
覚の例に引き寄せて言えば , どちらが一方的に図でどちらが一方的 に地というのではなくて , 部分が互いに相手の基盤となり意味を与 え合うのです . むろん実際の中枢神経系についていえば , ムカデの 足の比喩ですべて理解できるわけではありません . 単純で機械的な 仕事をしている部位と高度に認知的な仕事をしている「司令塔」に 近い部位との区別が , まったくないわけではありません ( 先に述べ た「モジュール」間の独立性ということもありますし ) . ただ今まで決定 的に欠けていた相互的な協働性や自律性という新しい重要な側面が 指摘されたということです . 私の話の筋道がわかりましたか . 知の不透明性という考えをさら に推し進めて「自分の中にもうひとりの他人がいる」という脳の社 会性を指摘しました . そこから脳の部分と全体の機能の関係につい て「自律系」の考え方にたどりつきました . この章のふたつのテー マ , つまり知の不透明性の話とゲシュタルトの話が , 脳の社会性に おいて出会い , 結びついたわけです . 文化と脳 ところで「脳の社会性」というのは , まったく別の意味にとるこ ともできます . 普通の意味での社会的なものが脳に影響を与えると いう意味です . 影響を与えるというよりも , 社会的環境が積極的に 脳に取り込まれることによって , 脳が適応的な機能を獲得すると考 えた方が , いっそすっきりするかも知れません . 具体的にはいわゆ る文化 , たとえば何でもいいのですが言語や養育・愛情行動などに 関する文化を考えればいいでしよう . 昨今マルチメディアとまとめて呼ばれるような技術がもてはやさ れ , その社会面・教育面での影響が論議されています . そんな中で 「マルチメディアやヴァーチャルリアリティは脳に影響を与えるか」 という質問を私にぶつけてきたジャーナリストがいました . 私は次 のように答えました . それはそうした先端技術が文化として社会に 受容され , 定着するか否かにかかっている , と . マルチメディアの 認知と神経の「場」■刃
ノ扱いするモノローグ原理を基準としがちでした . このことへの深 刻な反省 , 強い危機感がパフチンをして可能な限りの諸分野で対話 原理の回復を図らしめたといえます . その試みは , パフチン亡きあと世界各地で引き継がれていますが , 私たちもまた , みずからを生成・闘争状態において , 既成の学問観 や芸術観 , 文化観等を対話原理でもって見直してみることです . あ るいは , 実際に対話的創造に取り組んでみることも考えられます . もちろん , いずれの試みにおいても , 他者に対する豊かな想像力が 欠かせません . 20 世紀この 1 冊 ! 1965 年ミハイル・パフチン『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ル ネッサンスの民衆文化』 ( 川端香男里訳 , せりか書房 , 1973 年 ) この本には拙論でも触れましたが , 元になった「リアリズム史上におけ るラブレー」は 1940 年に学位請求論文として提出されていたにもかかわ らず , 陽の目を見たのはなんと 25 年後でした . 最近明らかにされた当時 の審査記録やその後の複雑な経過は , まさにドラマです . 「民衆の笑い」 や「グロテスク・リアリズム」 , 「カーニヴァル」を語ることが即「異端」 であったわけです . しかしそれと同時に , 本書の異端性はなにもスターリ ニズムを背景にした場合に限られるものでは決してありません . そこで説 かれている「非公式文化」論は , 近代に支配的な文学観 , 歴史観の狭隘さ への根底的な批判たりえています . 118 ・第Ⅲ部 多元的論理に向かって
を思い起こさせてくれますよ . A そんな逆説でどうしようというのかわからないけれど , とに かく意見を変える気にはなりません . 別の文化からやって来た人は , その視点の外在性のおかげで , 私自身が属する文化が何かについて , そしてその中に浸っている私には見えないものについて , きちんと 見えているものなんです . B でも , その視点の客観性を保証するものが何もないことは , あなたも認めるでしよう . 第 1 に , 視点の数だけ意見も違っていて , それが食い違う . それに , 外からの視点自体があらゆる種類の前提 や偏見に侵されているのです . もちろん , 私の視点自体も , その一 こうした対話のキー・ポイントは , つですけどね . いずれにせよ , 客観性でなくてわれわれのあいだにある差異のほうなのですよ . そ して差異については , それがどんなものか , 前提なしに考えなくて はいけないんです . A そうかもしれない . でも私としてはその差異を通して自分の 文化 , つまり自分自身の一部を客観化できるという利点を見たいん です . B しかし , 客観化が , 他者の想像的な投影の域を超えないとい う可能性も , 認めなくてはいけないんじゃないですか . とくに , そ れが西洋思想からきているような場合には , なおさらね . アイスキ ュロスにまでさかのばるような昔から , 西洋が東洋について作り上 げてきた , とても雑多な , あのいわゆるオリエンタリズムとかいう 表象のことは , あなたのほうがよくご存知でしよう . そこで言う東 洋とは , ほとんどーっの捏造であって , もしなんならイデオロギー 的と呼んでもいい , そんな一連のディスクールの産物ですよ . フー ラチオ コーの言葉を借りて言うなら , 西洋的理性の普遍性にとって , 東洋 は今日ではもはや , 「西洋がそこで形成された端緒の闇夜」などで はないでしよう . 西洋にとっての「自分でないあらゆるもの」であ りながら , 自分の「原初的な真理をそこに探し求めていかねばなら ない」 , そんな「闇夜」ではない . 西洋思想はしばしば , 自分自身 の限界について思考するため , 自分自身から解放されるために , そ 200 ・第Ⅳ部歴史のなかの論理
て [ 彼を ] っくりあげていた」と語られている理想的ョーロッパ人 としてのクルツという人物の「言葉」です . マーロウにとっては 「なんらかの行為」としてではなく , ただ「声として」存在してい 「問題は彼が天才であり , しかもその才能のなかでと たクルツ くに際立っているもの , 真の存在感をそなえているものが , 彼の会 話の能力 , 彼の言葉ーー彼の表現の才であった」と語られているク ルツです . まとめるならば , 「闇」「泥」「沈黙」「わめき声」というイメージ をあたえられているアフリカは , 「光」「堅い舗道」「言葉」という イメージをあたえられているヨーロッパの完璧な対極として呈示さ れているのです . あまりにも完璧な対極 ここにマーロウがほと んど無自覚のままとらわれているくオリエンタリズム〉の構造があ らわれていると言ってもいいでしよう . すなわちアフリカとはヨー ロッパの対極的なく他者〉として , ヨーロッパのく自己〉像からは み出したさまざまな否定的イメージが投射されているごみ捨て場と して存在しているにすぎないのです . 彼のアフリカ像は , おそらく はアフリカの実体ーーーもしもそのようなものがあるとすれは、一一一を リアリズム的に反映したものであるというよりも , く自己〉が自分 のものとは認めない否定的なイメージを彼方に投射することによっ て織りあげる共同幻想的フィクションとして存在しているにすぎな いのです . く進歩〉のイデオロギー しかもヨーロッパとアフリカの対極的イメージは , 啓蒙主義以来 の西欧を支配していた大きなイデオロギーのなかに , これもまたほ とんど無自覚のうちにからめとられています . それこそが , あらゆ る民族は原始の闇から文明の光へとつづく決められた一本道を一歩 一歩歩むよう定められているというく進歩〉のイデオロギーにほか なりません . そのなかには , それぞれの文化にはさまざまに固有の 道がありうるという文化の相対性という観念はみじんもありません . したがってく進歩〉のイデオロギーのなかでは文化の相違は文明化 フィクションとしての他者・ 177
A 出発点となる原理 , 今後の課題 ですか . B というのは , 私たちはまだ , この論理の最初の局面 , ようや くカタの中に入っていくところまでしかきていないからです . ある いは , 伝統的に三段階からなるとされる過程「守・破・離」のうち の最初の段階にいる , と言ってもいいです . それに私たちは , 身体 の心的次元との相互作用といったテーマについては , 軽くふれるこ としかしませんでしたが , この分析は , 本当ならもっと深めるべき ものでしたね . そのためには今度は , 「カタ」が , 種々の感情を誘 導するような状態を , 引き起しかっ調整することができる , という 発想から出発することになると思います . でもこれは , 役者たちは 直観的によく知っていることなんですけれど ( 社会学者の p . プルデ ューが「身体はそれが演じるものを信じている . 悲しみをまねる時身体も 泣くのだ」 5 ) と言うとき示唆しているのも , このことなんです ) . また形と 「礼」とを重視していた , 江戸時代の哲学者山鹿素行は同じことを , 「身は心の王 , 心は身の用」 6 ) というふうに定式化していました . わ たしたちはまた , 他の社会的実践にも観察の領域を広げて , カタの 論理がもっている外国の文化的実践を取り込む力を調べることもで きたでしよう . 「現代」演劇から登山や農業にいたるまで , この論 理は , 象徴的体系への無条件的同意という同じ原理に従って , 取り 込んでしまうのですから . そして扱うべき最も重要な問題はなんと いっても , この論理がいかにして , 生成と再創造の要因となるのか でしよう . 今度は形が , 柔軟になり消滅していくんですが , これが どのようにして可能なのか . これが「真・行・草」というもので , これは否定や矛盾のモデルに従っているのでなく , 常に開かれた , 偏差による差異化に従って進むのです . 課題は広く , かっ多くの問 題点をはらんでいるのです . そんな多くの問題を前にして , 今日の ところは , 私はただ , 身体の実践的な知のこうした局面や , あなた の文化がそれに課した特殊な論理 , そして特に , これらの知を理解 しようとする時に要求される思考の複雑さについて , あなたが少し 「型」の日本文化論ー 211
はなく , むしろそれ自体が「現実」であり , 「史料」が「現実」を 作り上げ , 構成していったのではないか , と考えてみるのです . ど ういうことかと言えば , 「史料」は , それが形となって表わされる までは , そうであったかもしれないし , そうでなかったかもしれな いような現実に対し , ある特定のイメージや意識 , 発想の枠組みを 持ち込み , 押しつけ , 刻みつけていくのに貢献したのだ , というこ とです . そのように発想を変えてみると , いわゆる「民衆文化」も 「女の場」も「事件」の中で文字が紙に刻み込まれていくまさにそ のときに , 固有の形や意味をもつものとして立ち上がってくる , そ してそれこそが「現実」であり , ある固定した枠組み , 意識を構成 していく契機となっている , ということが見えてきます . ちなみにこうした方法をとるとき , 「事件」の中で残された文字 , そこでのレトリックのあり方が , とりわけ重要なものとして浮上し てきます . なぜならその文字言語こそがまさに創造的な意味生成の 瞬間であるからであり , 「史料」はその生成の現場を記録する痕跡 だと位置づけることができるからです . もう少し整理してみましよう . それはこれまでの構えにかわって , どのような構えを選び取っていくことを意味しているのでしようか . それについてはさしあたり次の 4 点をあげておきたいと思います . 第 1 に , 何がこの事件を生みだしたかという事件に至る経緯を問う のではなく , この事件が何を生みだし , 付け加え , 構成していくか , を問うてみることであり , 第 2 に , それは歴史が「民衆文化」や 「女の場」を構築していくまさにその現場に立ち会うことであり , イメージとして構築されてきた ( そして今もくりかえし構成されてい る ) 「民衆文化」や「女の場」を相対化し , 切りくずしていくこと を意味しています . 第 3 に , 方法的には , やはり「史料」という紙 そのものに密着することが出発点なのですが , 紙の向こう側にある 声や背景 , 文脈 , 意図をではなく , 紙そのもの , 紙に刻まれている 文字とそのレトリックにまずはじっくりと目をむけてみることです . そしてそこに何が援用され , 創造され , 構築されていくかを仔細に 検討してみることです . そして第 4 に , これがいっそう重要なポイ 280 ■第 V 部論理のプラクシス
たまたま浮かび上がらせ表出しているものなのだ , という認識 . のような「史料」というものに向かい合う際の構え , 認識論的な前 提は , その当時 , わりあい自明のこととして , それ以上深く考える こともなく , 筆者の中に受け入れられていたのでした . もっともこの論文は , 単純な反映論的 , 素朴実証主義的な方法に よって構成されていたわけではありません . 筆者の主体的な選択 , 構成 , 創造によって , 少なくとも王権の意図や動き , 民衆の行動や 意識を相互の連関 , 関係の中で示そうとしている点で , 静態的な分 析をのりこえる手掛かりを提示していたのであり , その点ではとり あえず評価できるものがあったと言えるでしよう . しかしながら , 以上のような方法と認識論的前提に縛られていたがゆえに , 結果的 には , その意図とは裏腹に , 次のような問題を生み出してしまって いたのではないかと思います . つまり 1 つには , 王権の側の動きと そうでない側の動きとを説明し叙述する際に , 両者をそれぞれ予め 輪郭線を伴った確固たる実態として位置づけ , 「上から」のべクト ルと「下から」のべクトルという二項対立の対抗図式の中に押し込 めてしまっていたのではないかということです . それゆえに , かえ って結果として両者の存在を静態的で固定的なものとして位置づけ , 描き出してしまっているのです . 実際 , 「民衆文化」 ( = 下位文化 ) は超歴史的に不変のものとして , 予め確固として存在していたのではなく , むしろ上位にある文化と の関係の中で生まれてくるのではないでしようか . つまり 1 つのェ ッセンシャルな孤立した形がまずあって , それが近代になって外部 からのカ = 権力によって変形させられたり , 衰退していく , という ようなものではなく , むしろ国家やその他さまざまなカ , 権力のも たらす圧力の中で , まさにそれとの関係の中で生成され立ち上がっ てくるものなのではないかということです . このようなことは当時 も漠然と考えていましたし , だからこそ両者の関係の中で対象を捉 えていこうとしていたわけですが , しかし今から振り返ってみると , 「史料」というものをそれに先立つ , あるいはその外部にある「実 態」を映しだす手掛かりなのだ , とだけみなす認識論的前提からは , 歴史の工クリチュール・ 277
1. signifiant 2. signifié Langue 5. signe I. SIGNIFIANT Ⅱ . GNIFIÉ MYTHE III. SIGNE 図 6 ロラン・バルト「コノテーションの図式」 [ 「言語体系」 (Langue) における一次的な意味作用 ( 1. 2. 3. ) である「デ ノテーション」に対して , 「神話」 (MYTHE) は , 一次的な記号 ( 3. signe) をシニフィアン (). SIGNIFIANT) にもつ二次的な記号作用 (). Ⅱ . Ⅲ ) の 「コノテーション」である . ] ーション」の理論が , 複雑で重層的な記号体系を扱う際にひとつの 手がかりを与えました . イエルムスレウによれば「コノテーショ ン」とは , 記号化されていない体系を記号表現 ( 「表現質料」 ) にも つ「デノテーション」に対して , すでに記号化された実質を記号表 現 ( 「表現形式」 ) とする二次的な記号体系のことです ( 図 6 「コノテ ーションの図式」参照 ) . 例えば , 「魚」という記号には様々な神話的・文化的イメージが 結びついています . そのレヴェルがコノテーションです . 図 3 のク レーの魚の絵が第一の記号化だとすると , そのようにして記号化さ れた魚は , 「魚のまわり」 ( 図 7 ) においては , さらに上位の神話的 形象との関係におかれ , 「魚」の二次的な ( つまり神話的な ) 意味作 用が生み出されることになります . 私たちの意味活動を構成している記号系は複数的であるばかりか , このように二次的・三次的に重層化していて , ーっの記号実現は , より上位の記号系との関係で様々な意味作用を帯びることになるの です . 「神話」とか「イデオロギー」と呼ばれるものが , そのような二 次的な記号活動のあり方だとバルトは考えました . かれの『神話作 用』は , そのようなコノテーションの記号学を使った現代社会の神 話の最初の分析でした . こで重要なのは , 「文化」という次元が , まさにこのような二次的な記号活動によって成り立っているという ことです ( 現代ロシアの記号論グループ「モスクワータルトウ学派」によ 88 ・第Ⅱ部限界の論理・論理の限界 ニ一口
上図インドネシア・トラジャの死者儀礼 : 盛大に行われることで有名で , 観光開発の 焦点でもある . 写真は村人たちによって葬儀広場の遺体安置小屋に運ばれる棺 . 下図 慣習家屋の軒先に開かれたみやげもの屋と観光客 . 得たキリスト教徒が観光客を意識しながら行うある種のパフォーマ ンスといった側面があるわけです . こうしたコンテクストでの伝統 儀礼とは , 従来の人類学が扱ってきたような「無意識の慣習」 , あ 神話論理から歴史生成へ■ 1 ろ 7