20 世紀この 1 冊 ! 1900 年 ジークムント・フロイト『夢判断』 ( 新潮文庫 , 高橋義孝訳 ) 言葉が身体と化す・乃 です . イトが提供しつづけている解釈の「悦び」は , なんともほろ苦いものなの フロイデ てはじめから想定していました . 20 世紀もおわりにいるわれわれにフロ 読めなくなってしまったと頭を抱えるネクラの人も , この書物は読者とし ったと小躍りするネアカの人も , これを読んだがために , 無意識の表象が た決定的な書物です . これを読んで , 無意識の表象が読み解けるようにな しかもその後の 100 年間におけるこの「知の論理」の命運をも見定めてい じめていた新しい「知の論理」を , 一気に 20 世紀という舞台に押し出し , 深長さは測りしれません . たしかにこれは , 19 世紀末にはすでに蠢きは 実際に刊行されたのは 1899 年なのに , 奥付を 1900 年にしたことの意味
と顔色なからしめるような , 天才的な飛躍にみちみちているのです . ところがフロイトはもう一人います . それは冒頭の漫画に即して ニ人のフロイト カンニノ均レ 言葉が身体と化す・ 71 妙な心の綾を知っているのはクラリスではなく , 「人喰い」レクタ プレックスの理論によって癒されるものでもありませんでした . 微 ったし , この夢が誘発した「狼男」の症状は , 逆オイデイプス・コン 必ずしもフロイトの理論どおりに原光景へと翻訳される必要はなか した一面があります . 「狼男」を根底では魅惑していた狼の夢は , の理論がその典型でしよう . あるいはフロイトの夢の理論にもそう イトが提唱した , 解読装置としてのオイデイプス・コンプレックス には , 説明するクラリスが顔を出してしまうのです . たとえばフロ の二重作用が , そうした戦略を可能にします . ところがそんなとき す . 判じ絵でもありうるが , 透明な論理をのせることもできる言葉 理の方へファンタスムを回収する道を開いておくためでもあるので です . 自由連想法による分析治療が言葉を介して行われるのは , 論 ンタスムをどうしても論理の枠のなかに閉じこめる必要があったの ないという , 医者としての実践的かっ倫理的な要請によって , ファ 自らがそうしたように , 患者をファンタスムから引き離さねばなら 成の学問体系のなかに位置づかせようという願い , もうーっには , フロイトには二つの理由から , すなわち一つには精神分析学を既 しまうことになります . いてそれなりに鮮やかに , そしていくぶんかは浅薄に読み解かれて 存の大脳生理学 , 生物学 , 熱力学などの論理を華麗にかっ巧妙に用 によって何度も象形文字にたとえられた夢や症状という表象は , 既 と , 発音できない象形文字でも解読されるのだから , フロイト自身 ってあの字の表象作用をなんとか解説しようと試みます . そうなる から離れていて , はじめからあれが読めないものだという前提にた 読めないことが分かっている読者 = フロイトは , すでに分析の現場 聞けないわれわれ読者のポジションにいるフロイトです . あの字が いえば , 漫画の外にいて , 読めないはずの字が読まれるのを決して
ーなのです . ですからフロイトの分析治療が終了したあとで「狼 男」の面倒をみたフロイトの弟子プランスヴィックが , いよいよ深 く同性愛のファンタスムにとらえられてゆくこの有名な患者の姿を 報告しているのを訝しく思う必要は , いささかもないのです . しかしです . フロイトの精神分析学が成立するためには , どうし ても二人のフロイトが必要でした . 果敢に行動して連続殺人犯を逮 捕したのはクラリスだし , 不気味なギャグ漫画を笑い飛ばすのは読 者です . 論理によらないファンタスムを過小評価するのも間違って いますが , ファンタスムのリアリティーを奪う論理を過小評価する のも健全ではありません . ですから , 精神分析が明らかにした表象 の論理 = 知は , 危ういバランスの上でしか成立しないのです . フロ イトの精神分析学が理におばれて , 既成の学問ではみえない身体を とりにがしたという批判を聞くことが最近では多いようですが , 『千のプラトー』のドウルーズ / ガタリが糾弾するようにフロイト がそういう身体を何も理解しなかった , 何も知らなかったというわ けではありません . むしろ過剰に理解し , 過剰に知った上で危険な 綱渡りをしていたのです . したがってフロイトのテクストが仔細に みれば , クラリス的凡庸さをかいくぐってじつは「器官なき身体」 の話に満ち満ちているのも当然だし , ファンタスムに積極的にとら えられようとする現代芸術の身体をずばり言いあてていると感嘆さ せられる箇所にあちこちでぶつかるのも当たり前のことなのです . 冒頭の漫画の内と外に同時にいる論理とは , それ自体がファンタス ティックな出来事であり , この出来事のなかに身を躍らせることは 現代の知に許された最大の快楽にして冒険です . そして事実この冒 険を閲してこなかった現代の知などーっもないのです . あの字が実はどう読まれるのかを知りたいという理不尽な欲望に とりつかれたのは , けっして私だけではないはずです . 72 ・第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
タスムのオンパレードであり , ご丁寧に『羊たちの沈黙』のモデル になったエド・ゲイン事件をトマス・ハリスに説明して聞かせたの がこの本の著者にして心理分析官であるロバート・ K. レスラーだ ったということまでが , そこでは披露されています . ファンタスムという , 論理ではとらえられない無意識の表象作用 . フロイトが精神分析学という学問の名において発見したものがこれ でした . ファンタスムとは , それにとらえられている人にとっては , 言葉に還元できない , つまり身体のすべてを挙げて何度も体験しな おさねばならない , 徹頭徹尾身体的な欲望なのです . 無理に言語化 しても , あの発明された字のように , 言葉が身体と化してしまうだ けです . フロイトはこのファンタスムを呼び出すのに , 皮肉にも , 言葉を用いた自由連想法という分析治療の方法を編み出しました . つまり患者には , あらゆる配慮を排して , 思いっくままに自由に話 せと命じ , 分析医にはいわば振動板のように患者の言葉に共振して , 注意力を一点に集中することなく , 自由に漂わせておくよう助言し たのです . 狙いは言葉によって , あの吉田戦車の漫画のような判じ 絵的文字 ( もちろん書かれるのではなく発音されるだけ ) の表象作用を 喚起するためでした . たとえ言葉を介してではあっても , ともかく 表象されなければ , いかなるファンタスムの体系がそこに働いてい るのかを知ることすらできないし , また一方では , この表象には通 常の意味作用は期待できないから , すぐに意味作用を結晶させてし まいかねない注意力をできるだけ分散させておこうという戦略です . したがって逆にいうと , 分析治療の現場での分析医 = フロイトは , あの漫画では , 読めないはずの字にじつは備わっていた音に共振し つつ冷や汗を流している先生のポジションにいることになり , 『羊 たちの沈黙』では , 犯人を懸命に追ってはいるのだが , つい凡庸な 論理によってファンタスムを凡庸に説明してしまうクラリスよりも , カンニノヾル むしろ共犯者ともいうべき精神分析医「人喰い」レクターに重なる ことになります . 分析するフロイトを宰領している知は論理ではあ りません . それは勘というしかないものであって , フロイトの実際 の症例研究は , カンピューターといわれるプロ野球の監督など易々 70 ー第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
よくわかります . フロイトは周知のごとく , 自分自身の見た夢やヒ ステリー患者から採集した夢を詳細かっ精密に分析することによっ て , 精神分析学という学問の基礎を築いたのですが , そこでは , そ れまで単に荒唐無稽であるとか , 生理現象の反映であるとか考えら れていた夢は , その大半が無意識であるような願望の充足だという ふうに定義しなおされています . つまりその夢をみている人がおか れている社会的な , 家庭的な , あるいは純粋に個人的な事情に応じ て , ふだんは意識下 , すなわち無意識の領域に押し込められていた 欲望が , 夢のなかでは , 何らかの形で実現されたものとして表象さ れてくるとフロイトは主張したのです . いま「何らかの形で」表象されるといいました . なぜそのような 言い方しかできないかというと , 夢をみさせる原因となった欲望と , その結果である夢をまっすぐに結びつける因果関係の回路が夢では 断たれているからです . つまり夢は , 願望充足がストレートに現実 化されてしまっている映像などというものをけっしてみせてくれな いのであり , これが夢という表象をとりとめのないものにしている のです . たとえばここに小さい頃から女の子の着る服を着たがり , 女の子のする遊びばかりしたがっていた男の子がいるとしましよう . この男の子は夢のなかで望みどおり女性の身体を得て , 美しい服に 身を包み , 男性との性的陶酔に身を貫かれる自分の姿をみることに なるのでしようか . そのような夢に夜毎ひたれる性倒錯者がもしい れば , その人はよほど幸せな心の構造をもっている人で , 無意識の 領域というものをまるで心のなかに抱え込んでいない人です . それ は , 仕事がにしいのでこの辺で休みでもとって , ゆっくりと温泉に でも行きたいとっくづく思ったその夜に , どこかの温泉にのんびり とつかっている夢をみるようなもので , フロイトの夢の理論ではそ のようなおめでたいことにはなりません . フロイトによれば , 温泉 行きを夢みた人は , 勝手に会社を休んだというので首になってしま う夢をみるのだし , 女性になることを夢みた男性は , ペニスを切ら れてしまう夢をみることになるのです . ペニスを切られるといっても , 物理的にそれを刃物でちょん切ら 60 ・第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
十分に意識されていた , ほとんど文章の形をなしているといっても よいイメージに飛びつきました . そうして「本当におまえを喜ばせ るものは , おまえがかって目撃した両親の性交 ( 1 歳半の時だと推測 されています ) において , 父親に性的快楽を与えられていたあの母 親のポジションに入り込むことだよ」というメッセージを突きつけ ることによって , 文章の主語をすりかえてしまったのです . むろん実際に目撃したかどうかも定かではない ( 何しろ 1 歳半のこ とですから ) うえに , そんな頃から性交の意味を理解して , 男性の 方ではなく女性でありたいと欲望したかどうかとなると , フロイト 自身も口ごもるくらいなのですから , フロイトが原光景と呼ぶ両親 の性交の様子がそのまま夢にでてくるはずはありません . しかも睡 眠中といえども自我は完全に自分を無意識に解き放ったわけではあ りませんから , 抵抗と抑圧は夢でも働いています . そうして無意識 の欲望と残存する抵抗がせめぎあい , 妥協点を見いだそうとして繰 り広げられた複雑な葛藤 , フロイトのいう夢の作業の結果が , あの 狼の夢なのです . そこでは , クリスマスツリーは寝室の窓の外の年 老いた胡桃の木に変わり , そこにぶら下がるクリスマスプレゼント は胡桃の木の枝にすわる不気味な狼に化け , しかもその狼のなかに は様々な狼 ( 童話の狼 , 牧羊大 , 性交する父親 ) が共存しています . しかしいずれにしても , このようにしてずらしたり , 圧縮したりす る夢作業を経て , 多くの妥協を受けいれながらではあっても , 「狼 男」の無意識の欲望は , 夢のなかに出現した狼という表象によって , ともかくも自己を実現させることができたとはいえるのです . 無意識の表象 思いもかけず長い迂回をしてしまいましたが , 精神分析学におけ る表象というものはこのようにして , 無意識の欲望の妥協的実現を 意味するものになってしまいました . それは夢ならば覚えているこ とがあるし , 何らかの身体的症状 ( たとえば心因性のチックや蕁麻疹 など ) ならばそれが外に現れることによってそれと認知できるもの 言葉が身体と化す・ 6 ろ なのだから , 眼前に置かれ , 眼に見える対象にはなっています ( す
狼男の夢 ( フロイト『幼児神経症の一症例より』から狼男の自筆の絵 ) れる場面を夢でみるわけではありません . ペニスをなくすことによ ってはじめて得られる快楽とペニスをなくすことへの恐怖がないま ぜになったようなイメージが夢に出現してきて , 夢をみている人を 脅かすのです . フロイトのよく知られた症例研究に俗に「狼男」と 呼ばれている神経症患者のものがありますが , この男が 4 歳のとき にみた夢にでてくる狼はそうしたイメージの典型的な例です . そこ では , 童話で殺されたり尻尾を切られたりする狼という形象のなか に , 性的快楽を与えてくれる男性 ( 「狼男」の場合は父親です ) と , 去 勢された男 ( すなわち女になった自分 ) が入り込んできて , 狼は一種 のキメラのような怪物に仕立てあげられています . この怪物は必ず しも怖いばかりではありません . それは一面では同性愛者である 「狼男」の願望の実現でもあるわけですから , 彼を魅惑するように もみえます . ですから窓の外の胡桃の木の枝にそうした狼が 5 , 6 頭すわって , べッドに寝ている自分を凝視しているのをみたとき , 「狼男」はそれに対してどういう態度をとってよいのかしばしは戸 惑うのですが , 結局は去勢への恐怖が優勢を占めて , 「狼男」は叫 言葉が身体と化す・ 61
夜いそしんでいるようにみえるわれわれでも , じつはその検閲をか いくぐってたえず実践していることなのだということが突然了解で きるはずなのです . なぜなら , われわれの誰もが心のなかに抱えて いる無意識が表象されるときには , その表象は , 多かれ少なかれ他 人には理解できない形をとるからです . この漫画が納得させてくれ る面白さの第一ステップはどうやら , 表象というものがはらんでい る本質的なわかりにくさに基づいているといってよさそうです . そ こで , より凄みのあるこの漫画の面白さの第二ステップを検討する ことは後回しにして , こでは表象という概念をめぐる迂回を少し ばかり試みてみることにします . ところで , 表象とはいったい何のことなのでしよう . そう聞かれ れば , 「表に見える形」もしくは「表に見える形にする」といった ようなとりあえずの意味は , どなたの頭にもたちどころに浮かんで くるはずです . だがしかしその一方で , 表象という語は一見ありき たりのようにみえながら , そのじつ奇妙によそよそしくて , 何だか いかにも無理やりに造語された学問の用語っほく響くという感触を , ほとんどの人が抱くのではありませんか . この , 日本語としていか にもなじみがないし , いかにも熟していないという感じ , あるいは 違和感はどこからくるのでしようか . 答えは簡単です . 表象は二文字からなる漢語の体裁をしてはいま すが , 現在でも徹頭徹尾外国語であり , 主としてョーロッパの学問 が激しく , しかも込み入った議論の対象にしてきた , そして今もし ている概念だから , あのようにとりとめもない違和感が生じてくる のです . したがってこの概念は , 容易には決着がつきそうもない議 論がもたらす動揺 , ある根本的な曖昧さを背後に引きすっています . フロイトの精神分析学 表象をめぐる議論に大きな転回点をもたらし , 同時に表象という 概念を極限まで曖昧かっ微妙なものにしてしまったのが , 今世紀の 初頭に誕生したフロイトの精神分析学でした . たとえば精神分析に とって重要な現象である夢を例にとって考えてみれば , そのことが 言葉が身体と化す一刃
究するか , どんな事象の「発見」をめざすかは , 人さまざまです . フロイトは「無意識」を「発見」したと信じましたが , これもまた 事象そのものの暴露であれば , 彼を一種の「現象学者」と見ること も不可能ではないでしよう ( 哲学を敬遠したフロイト自身は , はた迷惑 ハイデガーは , 「存在」の現象学こ な話だというかもしれませんが ) . そ真の現象学だと考えましたし , フッサールは , 「純粋意識」をあ らわにすることに全精力を傾けました . こでは , そうしたことの 詳細には立ち入りません . 大事なことは , 哲学としての現象学の 「精神」が , 「真理」の追究と「発見」の論理としての《知》の論理 そのものでもある , ということなのです . 《事象そのものを見させること》としての現象学 . 以下では , そ んな現象学の可能性を限界ぎりぎりまで追い詰めてみたいと思いま す . きみは『シンドラーのリスト』を見たか スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』 が公開され , 世界中の話題をさらったのは記憶に新しいところです . 『ジョーズ』 , 『未知との遭遇』 , 『 E ・ T 』 , 『ジュラシック・バーク』 など , 次々に大ヒットをとばし , 娯楽映画の巨匠としてだれ知らぬ 者のない作家が , ホロコースト ( 第二次世界大戦中のナチス・ドイツに よるユダヤ人大虐殺 ) という深刻なテーマに , 正面から取り組んだと いうこの作品 . 莫大な私財をなげうって 1300 人のユダヤ人の生命 を救った , ナチ党員オスカー・シンドラーの物語を巧みに描いて大 成功を収めました . ところが , この映画が封切られた直後 , 一人の映画監督がパリで 厳しい批判の声をあげます . 「ホロコースト , 不可能な表象」と題 するクロード・ランズマンの批評です ( 『ル・モンド』 1994 年 3 月 3 日 ) . 冒頭の一部を引用しましよう . 彼の企画がどんな経緯で生まれたのかは知らないが , その企画を知っ たとき私は思った . スピルバーグは , すぐに , 自分がジレンマに直面し ていることに気づくだろう . 彼は , ホロコーストが何であったかを同時 ・第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
び声をあげながら目を覚ましてしまいます . つまり「狼男」の夢はフ ロイトの理論どおりに , ペニスを切られる夢となって終わるのです . ゲイバーが繁盛し , 同性愛者であることをもはや秘密にはしない 男性も少なくはなく , 外科手術を受けて性転換してしまう男性まで いる現代では , 「狼男」の心の深部で繰り広げられた葛藤はいくぶ ん理解しにくいものになっているかもしれません . しかしフロイト がこの患者を診た今世紀はじめのヨーロッパでは , 今以上に同性愛 を認めない社会や家庭が「狼男」の自我を強く規制しているので , 彼の真の欲望は抑圧されてしまいます . 自分の性的欲望を本当に満 たしてくれるものは何かという問いと答えが , 無意識の奥深くに封 じ込められてしまったのです . そうした欲望がそのままそこでおとなしくしてくれていれば何の 問題もないのですが , フロイトがつくづくと嘆息しているように 無意識に生息する欲望はけっして死に絶えはしません . むしろせき 止められたがためにいっそう強大なエネルギーを蓄えて , 自己を実 現する機会をたえずうかがっているのです . そうした機会の一つが , 外界を遮断して自我の抵抗を弱めてしまう睡眠中の夢の世界であり , そこでは無意識の方にもどっぷりと半身をつつこんでいる自我は , もともと自己の一部であった無意識の欲望にたいして無防備になっ てしまいます . ただし無意識の欲望は , 多かれ少なかれ意識されて いる類似の欲望を手がかりにしてしか , 夢のフィールドに浮かび上 がってくることができません . 夢はそれを覚えていることがあるこ とからもわかるように , 基本的には意識の世界だからです . 「狼男」 の場合にはそれは , クリスマスツリーにのせられている贈り物にた いする欲望でした . なぜかというと , あのすっかり有名になった狼 の夢は , クリスマスイヴにみられたものであり , あくる日は「狼 男」の誕生日でもあったからです . つまり「狼男」は , 翌朝には自 分を喜ばせてくれるプレゼントがいわばダブルでクリスマスツリー にぶらさがっていることを強く期待しながら眠りについたに違いな いのです . 無意識の欲望はこの「クリスマスツリーにぶらさがって , 私を喜ばせてくれるもの」という , 眠りのなかでさえ「狼男」には 62 ■第Ⅱ部限界の論理・論理の限界