べき生活状態から救い出す」とかおっしやった . とうとうばくは居心地 のわるい気分になったほどだった . そこでばくはあえて , あの会社は営 利目的で動いているんですよ , とほのめかしてみた . 帝国主義の目的が , 「光の使者」「幾分安手の十二使徒」として 「無知蒙昧な土民大衆を , その恐るべき生活状態から救い出す」と いう道徳的使命にあるのではなく , 暴力の行使による「営利」の追 求にある一一マーロウはそのような帝国主義の真実をしつかりと見 通しています . 「この地上の征服というのは , よくよく見れば美し いことなんかじゃない . それはたいていの場合 , 自分たちと異なっ た肌の色をし , 自分たちよりわずかに鼻の低い人間から彼らのもの を奪いとることなんだ . それをつぐなうのは観念だけだ . 征服の背 後にある観念だけだ」 このように述べるマーロウの反帝国主義 的な態度は , そののち彼がアフリカにおもむき , そこでのアフリカ 人にたいするヨーロッパ人の暴力の行使を実地に観察することによ っていよいよあきらかになっていきます . たとえばアフリカ到着後 , コンゴ川河口からしばらくさかのばっ たところにある最初の出張所において , 彼は , 「犯罪者と呼ばれ」 「ひとりひとり首に鉄環をはめられ , それがたがいに鎖でつなぎあ わされて」いる黒人たちが , まことに過酷な奴隷労働を強制されて いるのを目にします . そして木立の陰には , そのような労働の果て に病気と飢餓にさいなまれた黒人たちが , じっと死を待って横たわ っているのも見ます . 帝国主義の美しい理念の陰に隠されているこ のような醜い真実を語るマーロウのロぶりには , 帝国主義にたいす る人道的な批判がまぎれもなく存在していると言えるでしよう . 〈他者〉としてのアフリカ しかしマーロウがほんとうに帝国主義的理念から完全に自由であ フィクションとしての他者■ 17 う づけられている , ということでしよう . たとえば , 文明化した は , 彼の語るアフリカのイメージはつねにヨーロッパの対極に位置 えば彼のアフリカ観を少しながめてみましよう . すぐに気づくこと ったのかについては , 実を言えば , かなりの疑義があります . ヨー たと
す . 主人公にして語り手のマーロウというイギリス人が物語るのは , 彼がなん年かまえにアフリカの奥地へコンゴ川をさかのほったとき の体験です . コンゴをベルギーの植民地とすることに大いに力のあ った H. M. スタンリー『暗黒大陸横断記 ( T れ g れ召 D 肝た conti- れ t) 』 ( 1878 年 ) のタイトルが示しているとおり , アフリカは当時 文明の光の射さない「暗黒大陸」として形象化されていましたから , 「闇の奥」というタイトルは , 第一義的には「暗黒大陸」たるアフ リカの奥地を意味していると考えていいでしよう . ところで私たちにとっては否定的な意味をはらんでいる帝国主義 という観念は , 前世紀末においてはいまだかならずしも否定的なも のではありませんでした . たとえばヨーロッパのアフリカにたいす る帝国主義的支配は , アフリカの「闇」に文明の「光」をもたらす という啓蒙主義的理念によって正当化されていたのです ( 「啓蒙」は 英語では Enlightenment といいますが , それは文字どおりには「光で照ら す」という意味です ) . 非道な植民地経営によりしばらくのちに悪名 をはせることになる当時のベルギー国王レオポルド 2 世自身が , 『闇の奥』発表の前年 ( 1898 年 ) の時点で , 「国家の代理人たちがコ ンゴにおいて果たすべき使命は , 気高い使命である . 彼らは赤道ア フリカの奥地における文明の発達を継続しなければならない」と 堂々と述べていました . コンゴにおけるべルギーの残虐な帝国主義的支配を批判する作品 として評価されてきた『闇の奥』は , 実際 , そのような啓蒙主義的 な観念の下に横たわる帝国主義の真実の姿をはじめからしつかりと 見抜いているマーロウの視点をとおして , 帝国主義批判のテーマを 明確にうちだしています . たとえばマーロウは , アフリカに発つ直 前にアフリカ行きのロ添えをしてくれた伯母をたずねたときのこと を , つぎのように回想しています . 光の使者のようなもの , 幾分安手の十二使徒のようなもの . そのころは そんなふうなたわごとがたくさん印刷され , 口にされてもいたので , のお偉い伯母もすっかりそうしたたわごとの波にもまれて , 足元をさら われていたかたちだった . 彼女は , 「無知蒙昧な土民大衆を , その恐る 174 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理
・自己と他者 フィクションとしての他者 オリエンタリズムの構造 丹治愛 ・他者と出会う - ーーーそれは , ロで言うほど簡単ではありません . われわ れはしばしば , みずからの共同幻想を通じて他者を捏造してしまいが ちです . 自分の幻想の論理を押しつけることで , 他者から言葉を奪い , 他者を「沈黙」と「わめき声」のうちに押し込めてしまいます . (K) 序 この章ではく自己〉とく他者〉とのかかわりを , いまからちょう ど 1 世紀まえの前世紀末 ( 1899 年 ) に発表されたジョウゼフ・コン ラッドの『闇の奥 ( 翫佖仇ハ s ) 』の部分的な読解をつうじて , くオリエンタリズム〉という観点からながめてみたいと思います . くオリエンタリズム〉というのは , もちろん第一義的には , 西洋が 歴史をつうじて , あるいはとくに 18 世紀末以降 , 東洋にたいして 投射してきた共同幻想的東洋像を意味しています . しかし , 結局の ところ , それは , あらゆる民族カ哘ってきたく他者〉構築の典型的 なかたちのひとつにほかならないのではないでしようか . 私たちは そのようなものとしてのくオリエンタリズム〉の構造を , あるいは くオリエンタリズム〉のなかで生じているく自己〉とく他者〉の関 係を , 工ドワード・サイードの『オリエンタリズム ( 0 漉れ川 ) 』 ( 1978 年 ) あるいは『文化と帝国主義 ( c れ佖加カⅲ ) 』 ( 1993 年 ) を参照しながら考えてみることにします . 帝国主義批判 『闇の奥』は , 世紀末 ( レーニンによれば 1897 年 ) においてクライ マックスに達したと言われている西欧の帝国主義 , より具体的にい えばコンゴにおけるべルギーの帝国主義的支配をあっかった小説で フィクションとしての他者・ 17 ろ
はたしかに「同質的なもの」を表象し , ヨーロッノヾはたしかに「異 質的なもの」を表象していると言えるのではないでしようか . なぜならば , 世界が「光」のなかで「異質的なもの」の秩序を具 現化するのにたいして , 「闇」のなかではいっさいが形をもたない 混沌 ( 「同質的なもの」 ) にもどるわけですし , 「泥」というのは , 固 体 ( 土 ) と液体 ( 水 ) というふたつの存在のありようの中間にあっ て , その両者の差異を解消する「同質的な」無定形の存在であるは ずです . また , 「沈黙」と「わめき声」は , いっさいを差異化 = 「異質」化することによって成立する言語の世界をつきくずす「同 質的な」存在にちがいありません . 混沌がより複雑に差異化してい くことによって世界が前進していく一 - ーマーロウのアフリカ観が , このようなスペンサー的な「進歩」観のなかにからめとられている ことは , あらためて言うまでもないことだろうと思います . そして それが帝国主義者のアフリカ観となんら相違するところがないもの だということも . くオリエンタリズム〉の解体 おそらくヨーロッパが己れを「光」と見なすことと , アフリカを 「闇」と見なすこととは , 光が影の闇をつくりだすのに似て , 同時 に進行していく相互依存的な出来事なのでしよう . そしてその同時 進行的に生じてくる「光」と「闇」のメタファーの体系が , 「光」 による「闇」の征服という , 同時代的な啓蒙主義的く進歩〉のイデ オロギーによって方向性と運動性をあたえられるとき , そこに帝国 主義的イデオロギーが成立してくることは容易に見てとれることだ ろうと思います . もう一度レオポルド 2 世の言葉を思い起こしてみ こうしてヨーロッパは , くオリエンタリズム〉の構造 てください . 「闇」としてのアフリカ につき動 がっくりあげた共同幻想 かされるかたちで , 文明化の「気高い使命」という名の帝国主義的 侵略を展開していったのではなかったでしようか . しかし『闇の奥』にもどるならば , この作品のもっともすぐれた フィクションとしての他者・ 179 ところは , マーロウが無自覚のまま抱いていたくオリエンタリス
して近づくことができない他者に身をゆだねるために , 東洋を取り 込もうとしてきたように思います . この傾向は私たちのごく身近に も見つかります . というのは , あなたもご存知の現代の作家たちに おいても , という意味ですが . 日本文化と「形式化」 A あなたはきっと , バルトとあの有名な『記号の帝国』のこと を考えているんですね . あの本は , すでに自分の国で探していたも のを日本に来て発見した , 西洋の記号論者の夢想でしかない , 彼に とって日本は , 自分自身や他人 , ものや言語に対するある種の存在 のあり方のおかげで , 意味やシニフィエ , つまりあなたが超越と呼 ぶものの支配から解放してもらえる場だったんだ , とこういうわけ ですね . 彼の「空虚な記号」という概念は正確には , 意味の欠如へ のこうした呼びかけの中でしか意味をもたないのであって , しかも その呼びかけは , バルト自身のファンタスムに属しているだけだと . B そう , 例えばそういうことですね . なんにせよ , 想像的投影 といっても , 具体的規定 ( 東洋は , 女性的で受動的で神秘的で恐ろしい もの , 等々 ) を避けられることがわかります . イメージや特殊な内 容なしに , 論理や行動のシステムにだけかかわることもできる . だ から警戒しなくてはいけないまた別の危険もあるんです . つまりあ なたが高く評価している外からの視点は , ファンタスムやイデオロ ギーの効果ですらなくて , 認識上の , たんなる反射的な反応かもし れない . 未知の対象の前では , 人は当然 , 多少ゲシュタルト主義者 になる傾向がありますしね . 未知のものの上に , いつも使っている 関係の形式や認識上のシェーマを投影してしまうんです . 外国文化 が , しばしば形式的に , さらにはより形式主義的に見えるのは , き っとそのせいなのでしよう . こで私が感じている困惑もまさにそ れなんです . というのも , あなたは日本の文化について , 私に質問 しようとしているわけだけど , 逆に私のほうがあなたに聞きたいと 思っていたのは , その日本文化がある種の形式主義に与えている位 置についてだからです . ほら , 日本の「スノビスム」に関するあの 「型」の日本文化論■ 201
して存在しているとしても私たちがそれを認識するのは解釈という 行為をつうじて , すなわちテクストとして以外にはない , というこ とです . すなわち私たちにとってく他者〉はあくまで構築される像 あるいは織りあげられるテクストとしてしか存在しないのです . し たがってく他者〉像を一枚一枚剥いでいったところに真のく他者〉 があらわれるかというと , かならずしもそうではない . その意味で それは中心に核が厳然として存在するアプリコットというよりも , 皮を剥いだあとにはなにも残らない玉葱のようなものと考えるべき かもしれません . 空白の核のまわりに織りあげられるテクストとしてのく他者〉は , したがってく他者〉の実体をリアリズム的に映しだすものではなく , やはり実体を欠いたく自己〉からはみ出さざるをえない否定的イメ ージのごみ捨て場として , ほとんど恣意的に構築されるフィクショ ンにしかすぎません . 別言すれば , く自己〉が己れのアイデンティ ティーを獲得するためにつくりあげる否定的く自己〉として , く他者〉 は , く自己〉からはみ出したさまざまなイメージをとりこみながら , それを織り糸にして織りあげられる恣意的なテクストにほかなりま せん . なんらの実体を反映することなく恣意的に しかし恣意的 であるからこそそれは , いかなるイメージをどのような配列のなか で用いるかという点において , ある地域・ある時代の文化のイデオ ロギー的磁場の影響を容易にうけないわけにはいきません . ちょう ど世紀末の西欧が , 啓蒙主義的イデオロギーの影響下にアフリカを , みずからの「光」と対照的な「闇」として定義したときのように . そしてそれぞれの地域・時代のイデオロギーのなかで織りあげら れるく他者〉にたいするフィクションは , いったん成立すると , 今 度はそれ自身が強力なイデオロギー的力を帯びるものになるかもし れません . 少なくともそのようにして西欧は , 「光」による「闇」 の征服という「進歩」の観念のもとに , アフリカにたいする自分た ちの帝国主義的征服を正当化したのではなかったでしようか . しか しそのようなことは , おそらく人間の歴史をつうじて行われてきた ことにちがいありません . 私たちの世紀にしても , 帝国主義の最盛 182 ・第Ⅳ部歴史のなかの論理
ム〉が否応なく解体していく瞬間をえがいている部分なのかもしれ ません . マーロウは思います . もっともたちの悪いことーーそれは , [ アフリカ人たちも ] 人間的でな いことはないという疑念だった . それは徐々に訪れてきた . 彼らはうな り , とびはね , くるりとまわり , そしてすさまじい形相をした . しかし ほくらを慄然とさせたのは , 彼らもまたばくらと同様 , 人間だというこ とだった . この狂暴で情熱的な叫びと自分とのあいだにはるかな血縁が あるという考えだった . 醜悪だ . そう , それはたしかに醜悪だった . だ が , 君たちにしてほんとうに勇気があるというなら , いやでも承認しな ければならないと思うのは , 現に君たちの胸の奥にも , あのあからさま な狂騒に共鳴するかすかな痕跡がたしかにある , しかもその狂騒のなか には , これほど原始の夜から遠くへだたっている君たちにも理解するこ とのできるなんらかの意味がある , というほんやりとした疑念なのだ . マーロウが「先史時代人」と呼ぶアフリカ人が「狂暴で情熱的な 叫び」をあげること , それはヨーロッパ人にとってなんら衝撃的な ものではありません . それはたんに , ヨーロッパ人が抱いている くオリエンタリズム〉に見事に適合する一事例として , むしろ彼ら のヨーロッパ中心主義をくすぐるものでしかないからです . マーロ ウにとって衝撃的だったのは , アフリカ人が「ばくら [ ヨーロッパ 人 ] と同様 , 人間」であるという認識であり , そしてそれ以上に 「原始の夜から遠くへだたっている」はずのヨーロッパ人のなかに アフリカ人の「あからさまな狂騒に共鳴するかすかな痕跡」があり , 彼らとの「はるかな血縁」があるという発見なのです . このときマーロウは , アフリカというく他者〉に投射されるかた ちでヨーロッパ人のく自己〉のなかに抑圧されていた「影」として のもうひとりのく自己〉に出会っていたのだろうと思います . 彼は アフリカとして理解されていたく他者〉が , ヨーロッパが進歩の過 程のなかで克服しさった存在などではなく , 現在も無意識へと抑圧 されながらもく自己〉のなかに厳然と存在しているかもしれないこ とを , おばろげながら発見しているのではないでしようか . て見てくると『闇の奥』という小説は , たんに帝国主義的支配の残 虐さを批判した作品というより , 帝国主義を可能ならしめそれを正 180 ・第Ⅳ部歴史のなかの論理
・見る 見ることの限界を見る 現象学とアウシュヴィッツ 高橋哲哉 ・対象はなんらかの仕方でわれわれに与えられ , 現前します . そこに 現象学が諸学の基礎付けを与えると主張した根拠がありました . しか し , このく現前〉という原理すら疑わなければならないような事象も あるのです . しかも , それは , 20 世紀のもっとも大きな災厄の一つ にかかわっています . (K) 事象そのものヘ 《現象学》は現代を代表する《知の論理》の一つです . 有力な現 象学者たちは皆それぞれに個性が強く , 「現象学とは何か」を一義 的に定義するのは厄介ですが , その底に流れる「精神」はそれほど 分かりにくいものではありません . 学祖フッサールが掲げたのは , 《事象そのものヘ》というモットーでした . 伝統や権威 , 既成の言 説や思いこみなどいっさいの先入見を捨てて , 事象そのものに立ち 帰り , 問題になっている事柄そのものをありのままに見すえること , それがすべての知の出発占だと彼は考えたのです . フッサールに とって , 《見る》ことこそ「あらゆる原理の中の原理」でした . 直接に《見る》ということ , つまり , ただ単に感性的経験をしながら 見ることだけでなく , どんな種類のものでも , とにかく事象そのものを 与えてくれる意識としての《見る》ことこそが , あらゆる理性的主張の 最終的な正当性の源泉である 1). 当たり前のことではないか , といいたくなる人もいるでしよう . ですが , 言うは易く行うは難しです . 近代自然科学の成功に魅了さ れた「自然主義者」が , 人文・社会科学の事象そのものを《見る》 ことなく , すべてを自然科学的にやろうとしたり , 「歴史主義者」 がすべてを「歴史的事実」に還元しようとしたり , イデオロギー 見ることの限界を見る一 27
実は , この主張の根拠となった論文は , イタリアの経済学者 E. バ ローネによってすでに 1908 年にイタリア語で発表されていました が , 「論争」の中でとり上げられることによって , 注目を集めるこ とになりました . ところで , 自由主義者ミーゼスの弟子に当たる経済学者 F. A. ハ イエクは , 1935 年に『集産主義計画経済の理論』という著作を編 集し , それまでの「論争」を整理しつつ , ーゼスとバローネの議 論を比較して , 社会主義経済の理論的成立可能性という論点に関し ては , 前者よりも後者の方が説得的であることを認めています . し かし , 現実の社会主義経済においては , 莫大な量の統計資料と連立 方程式が必要となり , これを解くのは実際上不可能であるとして , 社会主義経済が実行可能ではないことを主張しました . この後 , 「論争」は , 分権的社会主義モデルを用いて社会主義経 済の現実的な実行可能性を提唱する O. ランゲらの経済学者が加わ って , 複雑な様相を呈するようになります . たとえばランゲは , 中 央計画当局がすべての価格を決定するかわりに , 市場の価格形成メ カニズムを適度に取り入れることによって , 社会主義経済において も試行錯誤を繰り返しながら均衡価格体系を達成することができる と主張しています . 実際 , 第 2 次世界大戦後に成立した東欧諸国の 中には , ハンガリーのように自営農民などの小生産者による市場で の商品販売を認める地域が出てきますし , ソ連邦においても 60 年 代には市場取引になぞらえた利潤概念を導入しています . また , 自 由主義経済の側においても政府の積極的な経済への介入が福祉政策 として行われるようになるなど , 冷戦構造というイデオロギー対立 の図式とは別に , 理論的には , 社会主義も自由主義も似通った素材 を用いて別様の制度を組み立てるという色彩が強まっていきます . 結局 , 「論争」は , 資源配分と所得分配において交換機能をどこま で認め , また政府による再分配機能をどの程度取り入れるかという 方向で , 議論の高度化精緻化を進めることになりました . 148 ・第Ⅲ部多元的論理に向かって
■交換の論理 市場原理と共同体の間題 商品交換形式を超えるもの 丸山真人 ・貨幣を中心とした市場社会の原理に対して , 互酬という共同体的なも うひとつの交換システムの論理を考えること . それは , 社会主義経済 と自由主義経済という今では古くなった問題から出発して , 結局われ われの未来の経済社会システムを考えることにつながります . (K) 社会主義経済計算論争 史上初の社会主義国家ソ連邦が成立してまもなく , 1920 年代か ら 30 年代にかけて , 「社会主義経済計算論争」 ( 以下「論争」と省略 ) という論争がありました . これは , 社会主義体制下の経済が , はた して経済学的に見て合理性を持つのかどうかという問題をめぐって , 自由主義の立場に立つグループと社会主義の立場に立つグループと の間で交わされた一連の論争です . 争点は多岐にわたりましたが , その中でもっとも中心的な位置を 占めていたのは , 競争的な価格形成市場が存在しない状況のもとで , 者資源の合理的な配分ができるかどうかという問題でした . 1920 年に「社会主義共同体における経済計算」という論文を発表して 「論争」のロ火を切ったオーストリアの経済学者 L. フォン スは , 生産手段が公有化されると生産財を交換する市場がなくなり , したがって生産財価格が需給均衡点で客観的に決められず , 資源配 分が恣意的にならざるをえないと主張して , 社会主義経済の論理的 な成立可能性を否定しました . 他方 , 社会主義的な立場に立っ経済学者たちは , 中央計画当局が 市場経済の一般均衡論体系を援用して連立方程式を解くことにより , 生産手段を公有する社会主義経済のもとでも , さまざまな財やサー ビスの計算価格を合理的に求めることが可能であると主張しました . 市場原理と共同体の問題ー 147 一三ロ