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検索対象: 知の論理
72件見つかりました。

1. 知の論理

成をとります . 一方 , ほとんどの人文・社会系の論文や理科系でも 評論 , 総説論文などは , 必ずしもそのようにきっちりとした構成を とらず , 註や文献表以外は「本文」として一括されます . しかし , スタイルはともかく , 上にあげた項目が論文を構成する基本要素で あることはぜひ覚えておいて下さい . 審査制度のある学術雑誌では , 審査者 (referee) は , これらの項目を念頭において査読し , たとえば 「筆者が設定した問題はあまりに瑣末である」「手続きの記載があい まいである」「筆者の主張を支持する証拠が弱い」などの評価を下 します . 逆に審査を受ける論文執筆者の立場から戦略的にみると , 審査に先立ちこれらのポイントについてしつかりとした防御線を張 っておく必要があります ( 論文の審査制度については後で述べます ) . 以下にこれらの項目について , もう少し詳しく説明していきます . 『知の技法』と内容が一部重複しますが , 復習を兼ねて読んで下さ い . 論文執筆にあたっては , 「題名の選び方」「註や脚註のつけか た」「引用のルール」など , より具体的な注意や作法も知っておく 必要がありますが , それらに関しては論文作法の書物に譲ることに します 3 ). また , 作文の技術に関してもここでは扱わないので , 他 の文章読本を参考にして下さい . なお , 卒論執筆の時間軸に沿った スケジュールについては , 参考までにその一例を表に示しておきま テーマの発見と序論執筆のための準備 指導を受ける教師からテーマを与えられている場合はともかく , 卒業論文執筆に際して , いったい自分は何について書こうか ( 書い たらよいのか ) という問題は , 学生諸君に共通な悩み事のようです . お仕着せのメニューをひたすらこなすことだけに順応してきた諸君 にとって , 独力でテーマを発見しなければならない仕事はたしかに 不慣れなことに違いありません . 逆に , にちらの方がまれですが ) 3 ) たとえば , 斉藤孝『増補学術論文の技法』 ( 日本エデイタースクール出版部 , 1989 年 ). 1970 年以降に出版された論文作法関連書籍については , 『情報の科学 と技術』 ( 情報科学技術協会 ) 1995 年 4 月号に詳細なリストが載っています . 卒業論文をどう書くか・ 289

2. 知の論理

/ - - 4 はツ ・ゞ′ツンみ / 240 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理 して補助線を見つける場合のように , 新しい「形」を見いだそうと ものは特定の意味あるものとして現れてきてはくれないのです . ま れこの「技術」を使って現れるべき対象を視線が描き出さない限り , 方に関する「技術」にすぎないかもしれません . しかしわずかであ はありません . こで必要なのはほんのちょっとした視線の動かし 例えば , 階段の図や老婆 / 若い娘の図ではそれほど容易である訳で ものなので図が反転する様子を容易に体験できるでしよう . しかし こにあげられている図を見てください . 多くは皆さんに周知の 験することに似ています . 変な苦労をする訳です . ちょうど反転図形や隠し絵を見るときに体 が見つかれば答えは一目瞭然なのに , それが見つからないために大 助線を発見するときなどに痛切に感じられるものです . 補助線一本 ているものですが , 例えば幾何学の定理を証明するために必要な補 という訳です . この技術はわたしたちのあらゆる経験の基礎に働い ような論理の他に知の「技法」あるいは「技術」を必要としている 術」だと述べています . 知の獲得のためには , 明確に形式化できる 練によってのみ鋭敏にできる「人間の心の内奥にひそむ隠された技 老婆 / 若い娘

3. 知の論理

察器具を作ることからはじめ , その器具を使用して一定の安定した 現象を作り出すことにいたるまで文字通りさまざまな技術が必要と なるからです . 実際こうした技術なしには近代科学の発展は考えら れなかった訳ですし , また , これらの仕事の多くは職人の技術によ り実現したものであり , 必ずしも理論を前提になされたものではあ こうした仕事はどちらかというとそのつどの個別 りませんでした . 的な問題を「実践的に」解決する仕事に属し , 理論化や言語化のし にくいものであるため , 科学の歴史では必ずしも正当に評価されて こなかったようです . とくに現代の科学哲学では , 観察そのものよ りも観察言明について , 実験活動そのものよりも実験データについ て語る傾向が強いため , 理論に対する「実践」の契機が軽視されて きたように思えます . しかし , 理論の基礎には固有の「実践」が属していることは , 哲 学の中で必ずしもまったく無視されてきた訳ではありません . 例え ば , ウイトゲンシュタインは「規則に従う」ということそれ自身は 規則によっては根拠づけられない「実践」であると主張しましたし , ーは「暗黙知」という言葉でこの技術の特有性を表現 M. ボランニ しました . またガーダマーを筆頭とする哲学的解釈学では , 主に人 間科学の方法が問題ではありましたが , 「解釈」と「理解」にとっ て概念の実践的適用が不可欠な次元を形成することが強調されてき ました . さらに , クーンの科学革命論に関してはしばしばその理論 的側面のみが強調されてきましたが , クーン自身は科学の「実践的」 側面を決して無視していた訳ではありません . 例えば , 彼のいうと ころの「通常科学」を成り立たせているのは単なる理論枠組みの共 有ではなく , 理論の適用を示す「典型的事例」 ( パラダイム ) の共有 であり , それは練習問題を解くことによってはじめて修得される 「熟練」や「技能」の共有に基づくことが強調されています . そし て最近では , 観察や実験が理論とは相対的に独立の固有性を持っこ とが , 科学史家や科学社会学者の研究からも示されてきています . このように理論偏重の見方は少しずつ修正されてきているようで す . しかし以下では知を形成するこの「技術」ないし「実践」の次 242 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理

4. 知の論理

でも , 先程の「署名をもった」カタにもう一度戻ると , あなたの 言う「菊五郎」とか「幸四郎」というのは , 正真正銘の固有名詞と いうわけではなくて , なによりもある連鎖の中の一つの環を表して いるということは , あなたも認めると思うんです . それはまるで , これらが , 真の始まりや絶対的起源ではないことをしめしているか のようです . あなたは創造の過程をそこにもっていこうとしている ように見えるのですけれど . ましてあなた自身 , 歌舞イ支には , あな たのおっしやるような「署名」をもたない , 同じくらい多くのカタ があることをご存知でしよう . それらの大部分は非常に一般化して いるもので , 歩き方や , それぞれの役の「タイプ」に従ってさまざ まな感情を表現するやり方等々といった具合です . で , 日本舞 踊の稽古では , あなたはどんなふうに進歩していったんですか . A 進歩したという感覚は , どういったらいいか , 本質的に主観 的なものなんです . 新しい服に , 日に日に少しずつ慣れていく , ち ょっとそんな感じです . 例えば柔道みたいに , 技能を習得したこと を評定する客観的な「段」といったものはありません . B 柔道はかなり新しい武術ですし , 明治の頃 , おそらくは西洋 風の思想の流れと接触して , かっての実践を大幅に合理化している んです . もともとの「カタ」の論理は , おそらく修正されてしまっ たのでしよう . ましてそれは , 西洋に最もすみやかに輸出された日 本的ノウ・ハウなわけで , そのことがそれをさらに攪乱したんだと 思います . A 日本舞踊では逆に , 先程言ったまねというのが , 稽古の唯一 の方法のようです . 根本的な要素を分析的に分解してみることもな いし , 厳密に秩序立った進歩といったものも , 本当には気にかけら れてはいません . おそらく人が習う最初の曲は原則として , 技術的 により簡単で , またより短いものではあるでしようが . でも , 驚く べきことですね . なぜなら , 最も単純なものから最も複雑なものま で , さまざまな要素に分解することが可能だ , と私にははっきり思 「型」の日本文化論■ 209 B 例えば西洋のバレーではそうなっていますね . ポジション えますから .

5. 知の論理

合の熟練 , 技能 , 判断力の大部分は , 分業の結果であった」 . これ はまるで , 分業が仕事を専門化させることはすなわち卓越性をもっ ことだ , と逆のことをいっているかのようです . 実際 , 分業のもと での断片化された作業でも , ハイテク商品についての手作業仕事の ように , アーレントのいう芸術的なまでの仕事も存在するはずです . 「オタクと専門家は紙一重」ということです . このように分業は , 労働に生産性と単純性 , 卓越性と単調性を持 ち込むといった具合に , 矛盾を孕んでいます . こうした矛盾を解こ うとする努力が , アメリカおよび日本における産業の論理 , すなわ ひとつは , 自分のペースで仕事をする労働者を経営者の指図に従 労働生産性を高めるために , 2 つの課題に答えようとしました . ・システム」によって限界にまで精緻化されました . テーラーは , 世紀末になって , F. W. テーラーの編み出したいわゆる「テー スミスがピン工場で見た古典的な分業は , 100 年あまりを経た フォーティズムについて ちフォーディズムと日本的経営でした . フ 19 フォーディズムと日本的経営■ 219 りました . テーラー・システムのように労働生産性を高める技術革 ところが世紀の転換期における市場は , 次第に変貌を遂げつつあ に管理しようとするものでした . 知識によってマニュアルを作り , それによって未熟練労働を効率的 テーラーの発想は , どこの出身の誰にでも通用するような普遍的な しました . こちらは「科学的管理法」と呼ばれています . 要するに ける作業工程を細かい動作に分解し , 不必要なものを省いて再構成 単純動作を練り上げることです . そのために , テーラーは工場にお 練の労働者にも即座に取りかかれ , しかも作業速度を上げるように , 同時に仕事から自律性・主体性が失われました . ふたつめは , 未熟 って肉体労働者は精神労働ないし頭脳労働から解放されましたが , 「構想 ( 精神労働 ) と実行 ( 肉体労働 ) の分離」と呼ばれ , それによ 断力などの自律性を奪い , それを経営側に集中させました . これは わせる , というものです . そのために労働者から仕事上の熟練や判

6. 知の論理

コンの希望的予測に反して , 科学と技術はむしろそれぞれ別個の脈 絡を形成して発展していくことになります . 例えば 18 世紀末から 19 世紀初頭にかけての社会の変化に多大の影響を与えた産業革命 の場合も , それを導いた技術革新の多くは ( 製鉄法の改良や蒸気機関 の発明・改良など ) 経験の積み重ねの中で技術者たちによって科学と は独立になされた発明に基づいて成立したものです . しかしその後 19 世紀後半から 20 世紀になると , 産業革命で発展 した技術から科学への需要が増大し , 熱学 , 化学 , 電磁気学などの ように技術と密接に結び付いた科学の分野が登場し , またいわゆる 基礎科学の分野でも , 技術的な装置への依存を高めていき , そのほ とんどで , 対象は自然現象というより技術的に作られたものになっ ていきました . そしてわたしたちは現代の最先端の科学の中に , 原 子核理論と核融合エネルギー開発 , 分子生物学と生物工学など , 科 学と技術とその社会的応用とが一体となって進む過程を目にするこ とになります . 20 世紀はべーコンのプログラムが実現され , 「完 成」の域に達した時代であるということができるでしよう . しかし一つのプログラムが「完成」の段階に達したということは , 同時にその「限界」が見えてきたということを意味します . 実際 , 現在の時点で , 科学技術の進歩は人類の進歩をもたらすか , という 問いに無条件で肯定的に答える人は少ないでしよう . わたしたちは , 世紀の前半に戦争で使われる大量殺傷兵器の開発にどれだけ科学技 術が「貢献」したか , また , 逆に科学技術の「進歩」が戦争にどれ だけ「恩恵」をこうむってきたかを知っています . また世紀の後半 には , 技術革新に導かれた産業技術の発展が , 資源の枯渇 , 人口の 爆発的増大 , そして地球規模での環境破壊をもたらしたことがだれ こでは科学技術のもたらす本来の の目にも明らかになりました . 成果と副次的な効果とが区別できなくなっているのです . 科学の 「進歩」は肯定的な面をもっと同時に , 常にその逆の否定的な面を もたらさずにはおかないのであり , 「進歩」の過程は常に「両価的」 なのです . こうしてわたしたちは 20 世紀の終わりに際して , 改めて科学と ポスト・べーコンの論理とは ? ■ 247

7. 知の論理

いいがたいように思えます . 自然法則というより , むしろ人工法則 というべきではないでしようか . さらに , 法則は普遍妥当性をもつ とみなされている以上 , このような特殊な状況で成り立つ法則が , 一般の自然状況でも成り立っと考えられていますが , これも自明な ことではないはずです . 実際 , アリストテレスは『自然学』の中で , 自然によって存在す る自然物と技術によって存在する人工物とをはっきりとその存在の あり方に関して区別しています . そしてこの存在の区分には知の区 分が対応しています . つまり , 自然のような必然的に存在するもの を対象とする理論活動 ( あるいは観想活動 ) に備わる知が学知 ( エピ ステーメ ) と呼ばれ , 変化を及ほすことのできるものを対象とする 製作活動に備わる知が技術 ( テクネー ) と呼ばれます . ですから理 論知と技術知とはその対象を根本的に異にする知のあり方とみなさ れているのです . さらに人間の行う製作は基本的には自然自身が生 み出す活動を模倣するものであるとされていますから , 製作に関す る技術知は自然に関する理論知に従属する位置を占めることになり ます . このようなアリストテレスの自然観に基づくなら , 技術的な 介入行為によって作られた実験状況において示された現象はとても 自然現象とはみなし得ないはずです . こうして見ると , ガリレイの 自然観は技術との関係に関してアリストテレスの自然観をいわば逆 転させたものと言うことができます . この点をいち早く捉えていた のが F. べーコンです . べーコンは , 自然科学にとって有益な材料を与えてくれるのは気 ままな自然観察ではなく , むしろ技術の歴史であることを強調して 次のように言っています . 「自然の秘密もまた , その道を進んで行 くときよりも , 技術によって苦しめられるときいっそうよくその正 体をあらわすのである」 ( 『ノヴム・オルガヌム』第 1 巻 , 98 ). 自然本 来の姿が示されるのはアリストテレスの言うような観想においてで はなく , 技術によって作られた実験状況においてであるという訳で す . 自然とは技術によって明らかになるものなのです . こでひとつ注意しなければならないのは , 実験とそれを支える 244 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理

8. 知の論理

グ・リサーチが産業として成立するようにさえなりました . また , 商品イメージの差別化を図るような新商品の開発にかかわる技術は 基礎的なものではなく応用に属していて , どれを選択すべきかは需 要との関係から決まることが多くなっています . ハイエクは , 市場とは具体的な知識を発見するプロセスだといい ましたが , その理解にしたがえば , 消費欲望はもつばらホワイトカ ラーによってマーケティング・リサーチを通じて発見され , 応用的 な生産技術はそれとの関連からプルーカラーの勤務の現場において 発見されているのだといえるでしよう . 日本的経営が 80 年代いっ ばい好調だったというのは , 欲望と技術を時と所を限って具体的に 発見し , それによって商品開発を行うのに日本企業の組織形態が適 していたということなのだと思われますにの点については , 拙著第 十章に述べておきました . 参考文献参照 ). 具体例を挙げておきましよう . たとえば , 人びとが従来の苦いビ ールに代わる新しいビールの登場を求めているとしても , 「どんな ビールを飲みたいか」という尋ね方では消費者にいくら問いかけて も答えが得られないことがほとんどです . 消費者は自分の欲求する ものを適切に表す言葉を思いっかないからです . そこで消費者調査 の過程においてビールの味を表現する形容詞を取捨選択した某社は , 大衆に望まれる「キレ」や「コク」という言葉を発見し , それに見 合った商品技術を採用して巨大なシェアを得ました . これは , 消費者にとって欲望が流動化・不透明化していることを 示す例です . ただし , こうした傾向は , 需要が商品の機能でなくイ メージに大きく左右されるビールなど飲食品や , 衣料に限られるも のではなく , ハイテク製品にすら当てはまることが最近報告されて います . 児玉文雄は , 『ハイテク技術のパラダイム』において , い まだ表現されない欲望を特定し , それに合った技術を選択する過程 を「需要表現 Demand Articulation 」と呼んで , 日本語ワードプロ セッサおよび家庭用 VTR の技術開発について分析しています . そ の詳細には触れられませんが , 需要表現および新製品の開発にかん して日本的経営が比較優位をもっていたことは確かだと思われます . 224 ・第Ⅳ部歴史のなかの論理

9. 知の論理

の完結した秩序をもった宇宙であり , その秩序を知ることが学問の 仕事である以上 , 知識自身も本質的には完結したものとみなされて いました . 実際 , 学者ないし知者とは , 知の不変の「規準」につい て知っている人 , つまり , 何が人間にとって知るに値するか , また 知ることが可能であるか , ということについて知っている人とみな されていました . ですから , もしこの不変の規準を侵すように見え る「新しい」ものがもたらされると , むしろ抑圧されたり , 排除さ れることになります ( 古代ギリシアで技術的な発明は , 例外を除くと , 積極的には評価されなかったことを思い出してください ) . そしてまさしくこのような古代から続いてきた静的な自然観 , 学 問観が近代初頭の「新しい科学」の担い手たちの批判の対象となっ たのです . 「新しい科学」の担い手にとっては , 技術的 , 操作的に 自然に介入することなしに自然の真理に到達できるというアリスト テレス的な自然観 , 学問観は , 当時勃興しつつあった産業社会の発 展の役に立たないものであり , 古典的哲学者の不遜を示すものに他 ならなかったのです . そしてこの点を最も強調したのがべーコンで した . 科学と技術の進歩は , 政治の効用や宗教の教えとは違って , 人類全体の進歩をもたらす , これがべーコンが繰り返し唱えてやま なかった主張です . こうしてべーコンは , 科学の進歩という概念を技術の進歩を媒介 にして人類の進歩という理念に結び付け , それによって科学の進歩 という概念にだれも否定できそうもない積極的な価値を与えること に成功したのです . 彼の主著の『ノヴム・オルガヌム』は科学の進 歩の方法を集積し , 組織化したものであり , 晩年の著作『ニュー アトランティス』というユートピア物語は科学と技術が社会に役に 立つように制度化された具体的なモデルを描いたものだということ ができます . こうして , 進歩という概念に導かれた科学と技術と社 会の連関というべーコンのプログラムができあがることになります . しかしながら理念上のプログラム通りに進まないのが歴史の常で しよう . その後は , イギリスの「王立協会」のようにべーコンの思 想の影響を受けて成立した組織もありますが , 大枠としては , べー 246 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理

10. 知の論理

技術のもっ認知的意味です . というのも , たしかに実験では技術的 介入行為によって一定の人工的な過程が作られますが , そこで問題 なのは , 何か特定の使用目的にただちに役にたっ道具や機械を作る う現象を生じさせることができ , また逆に A という現象を取り除く に第一に問題なのは , 一定の状況下で A という現象を作ると B とい むしろ , 実験状況で特定の過程を製作する際 ことではありません . ポスト・べーコンの論理とは ? ■ 245 に思えるかも知れません . しかし , 古代ギリシアでは , 自然は一つ 科学は進歩する , これは現代のわたしたちには自明のことのよう すことになります . 要素をもたらすことになります . つまり科学は不断に進歩をもたら に成立するものだとすると , 科学はその活動を通して不断に新しい を持ち込むことです . したがって , もし科学知の獲得が発明を基礎 発明というのはそれまで存在していた秩序に本質的に新しいもの だとすると , こから一つの重大な帰結が導かれることになります . 発明することによって発見する , もしこれが近代科学の基本論理 進歩ーーベーコンの時代 なしているのです . してこれがカントのいう近代知の「コペルニクス的転回」の内実を る , これが近代科学の知の基本的な論理ということになります . そ 科学は発明することによって発見するのです . 作ることによって知 この「常識」はそのままでは成り立たないことになります . むしろ , のように見えます . しかし , ガリレイやべーコンが正しいとすると , 科学は発見し , 技術は発明する . これが , わたしたちの「常識」 に成立する営みなのです . いう有名な表現で表しました . 実験とは科学と技術が交差する場所 る訳です . この事態をベーコンは「人間の知識と力は合ーする」と 作の仕方に関する技術知と因果関係に関する理論知とが一致してい こでは機械的過程の製 る知識を得ることなのです . 換言すると , るといったことであり , それはすなわち A と B との因果関係に関す と B という現象を排除できること , そしてそれを繰り返し反復でき