が言う form という言葉は , さまざまな語義があるわけですけれど , こですべて数 私としてはこの語の訳になるような多くの言葉を , え上げようとは思いません . その膨大なリストの中であなたに特に 関係があるのは , 最も単純でかっ土着的な「カタチ」と「カタ」の 二語だと私は思うんです . たぶん , 特にあなたの関心を引くのは 「カタ」の方でしようね . この言葉はいろいろなしかたで , あなた がたの西洋の言葉に訳すことができます . なにしろ現代語でも , の語の用法はとても広いものですから . これに対応する英語の表現 をあけ、るだけでも , form, type, archetype, style, pattern, model, shape, mould, convention, tradition とし、った具・合です . B たしかに訳しにくい言葉というのは , 真の問題を示す指標か もしれませんけど , でもやつばり指標にすぎません . 可能な翻訳の すべてを考慮してしまうと , 私たちが目指している特殊性から逸脱 して , 一般性や抽象性に陥ってしまう危険があるんです . それと , 教えていただきたいのは , あなたがたがこの形式化をどう思考しど いやそもそも , それが思 う理論化しているかということよりも 考され理論化されているのかどうか , 私は確信がないのですが この言葉がどういう具体的な現実をカヴァーしているのかというこ となんです . 「カタ」の論理 A それは , いわゆる伝統芸術の諸領域からなるとても広い範囲 ですね . すでにあげたもの以外に , 書道 , 作法 , 製陶 , 工芸一般 , それにおそらく詩歌も入るでしよう . それから大切なのは , 弓術や 相撲を含めたいろいろな武術です . とは言っても , 「カタ」という 言葉がこれらすべての分野で使われているかどうか , あるいは常に 使われていたかどうか , 私にはわかりませんが B その言葉自体でなくても , それに近い概念はあるんじゃない でしようか . そしてそれらはみんな , ーっの同じ論理に収斂するも のだと思います . これはまだ出発点の仮説に過ぎませんが . A ーっの論理 , とおっしやるんですか . 204 ■第Ⅳ部歴史のなかの論理
くような , かります . 側が持っ , 性差と主客をめぐる暗黙の前提 , つまり , 知らないうち またこの入れ替え可能性は , 私たちを含めた「読者」の そうした小説言説の運動の原動力になっていたことがわ 266 ー第 v 部論理のプラクシス ちで組み合わさっている」ということになります . 譲治の言葉や登場人物としての譲治のやはり十全な声と特殊なかた り , 譲治の言葉と並び立っているかのように響き , 書き手としての のです . つまり「ナオミの言葉は , 作品の構造のなかで自立してお いう評価を , 『痴人の愛』の表現にもあてはめてみることができる 物たちのやはり十全な声と特殊なかたちで組み合わさっている」と の言葉と並び立っているかのように響き , 作者の言葉や他の登場人 った「登場人物の言葉は , 作品の構造のなかで自立しており , 作者 パフチンがドストエフスキイの小説のポリフォニー性について語 能になったわけです . うな一貫性を持っていたからこそ , あれだけ多様な物語の生成が可 対して , ナオミの断片化された会話の中の言葉が , 十分拮抗するよ きたのです . そして , 譲治の手記 , 書かれた言葉のモノローグ性に られた声に抑圧されていた△話場面の中のナオミの声を解放して ひと言で言えば , 語り手 / 書き手である譲治の , 「読者」にむけ からです . れているこのディスクールから , 複数の声を聞きとることができた 可能であったということは , 一見河合譲治のモノローグとして綴ら てきたという事実が浮かびあがってきます . 複数の物語論的還元が 河合譲治の発する言説 = ディスクールに対して , 論争的にかかわっ な観点から整理してみると , 『痴人の愛』の語り手 / 書き手である 「読者」であるあなたとともに , これまで行ってきたことを , 別 対話としてのディスクール としての読む行為なのです . 崎潤一郎という表現者が残したテクストと , 私たち「読者」の実践 です . そのような言説の運動を全体として創り出しているのは , 谷 にとらわれてしまっているイデオロギーをくつがえす力ともなるの
( 多声音楽 ) で チンは , 「ドストエフスキイの小説はポリフォニ ある」との説を展開すると同時に , それを支える対話原理を説いて います . 自立した溶け合っていない声や意識が複数あること , すなわち十全な 価値をもった声たちのポリフォニーは , 実際 , ドストエフスキイの小説 ・・ドストエフスキイの登場人物たちは , の基本的特性となっている . 作者の言葉の客体であるにとどまらず , 直接に意味をもった自分自身の 言葉の主体なのである . ・・ドストエフスキイとは , ポリフォニー小説 の創始者なのである . 彼は本質的に新しい小説ジャンルをつくりだした . ・・・登場人物の言葉は , 作品の構造のなかで自立しており , 作者の言葉 と並び立っているかのように響き , 作者の言葉や他の登場人物たちのや はり十全な声と特殊なかたちで組み合わさっている . つまり , ドストエフスキイの小説にあっては , 作者と登場人物が 対等な関係にあって , それぞれが声や意識をもっており , 登場人物 と作者 , あるいは登場人物どうしが対話をしているというわけです . 「声をもった自由な人間」が未完の果てしない対話をつづけ , 誰ひ とりとして最終的な答をもたず , 作者とて同様であって , 対等なひ とりとしてこの際限なき対話に加わっている この点にこそ , ド ストエフスキイが文学史上に占める独自性はあるというのです . きわめて興味深いことに , パフチンによれば , これと対照的な作 家がトルストイです . 「トルストイの世界は一枚岩的にモノローグ 的であり , 登場人物の言葉は , 登場人物についての作者の言葉によ ってしつかりと枠づけられて」いる , つまりトルストイの場合は , 一個の認識する主体 ( 作者 ) があるだけで , あとは認識の客体にす ぎないというのです . なるほど , そういわれてみれば , ドストエフ スキイの小説とトルストイのそれを読んだときの印象の違い , ドス トエフスキイによって引き起こされる眩暈のような不安定感も納得 がいこうというものです . こういったパフチンの斬新な見解は , 初版 , 再版いずれのときも 少なからず批判を招きました . それまでの常識的な見方からすれば , 文学作品では全能の作者が登場人物たちを操るのであって , 作者と 生成する複数性・ 109
らない . じゃあ , どうすれば分かるようになるのか . 言葉で説明されてもだめだと思うんだ . けっきよく , これはたぶん , 「神」という 言葉が核にある一連の宗教的実践に参加できるようになるかどうか , ということがポイントじゃないんだろうか . ほくはその実践に参加 しようとしないから , いつまでたっても縁なき衆生というわけだけ どね . でも , ともかく , もし「神」という言葉の意味を確かめよう として , その実践に参加してみようと決心したら , それからどうな るだろう . 具体的にはどうであれ , まったく一般的に言えば , 新た な実践への導きは , とりあえずばくがこれまでなしてきたごく平凡 な生活の行為に結びつける形で , つまり , 本を読んだり , 食べたり , 手を合わせたり , 歌ったりする行為と結びつける形で , 何か橋渡し がなされるんだろうね . こんなふうに , ある言葉の意味を確かめることは , けっきよくは その言葉を核とした一連の実践を確かめることに行き着く . これは , 一見すると外堀から攻めていくような間接的なやり方に思えるかも しれないけど , 実はそうじゃない . 意味がまず確定して , それに応 じてふさわしい言語活動が営まれるのじゃなくて , われわれがなす 実践の在り方こそが , 言葉の意味を定めるというわけ . 「意味が実 践を確定するのではなく , 実践が意味を確定する」 , まあ , スロー ガン的に言えばこうなるかな . ウイトゲンシュタインの「言語ゲー ム」っていう概念のひとつの側面が , こにあった . そこで , 意味についての疑いを晴らすには , その言語実践へと参 加していかなければならないわけだけど , そのときには , いま言っ たように , すでにこれまでなしてきている実践をもとに , そこから 橋渡しをしてもらうことになる . でも , すべてを疑ってしまったら どうだろう . 橋渡ししようにも , いきなり海の真ん中に放りこまれ たようなものじゃないか ? けっきよく , すべてを疑っちゃったら , 橋もかけられないよね . 意味についての懐疑も , 局地戦でしかあり えないってことさ . ああ , ちょっとあそこのべンチに腰掛けよ うか . え ? べンチかどうか分からないって ? いいよ , 腰掛けら れれば , 何でも . 論理を行為する■ 19
でも , 疑ってみよう . 例えばあれは , もしかしたら猫型ロポットか もしれない . 君ならどうする ? 調べるために , つれてかえって , 麻酔をかけて , まあ , 死んじやわないように慎重に解剖してみよう か . でも君は , これはほんとに麻酔なのかと疑い , これはほんとに メスなのかと疑い , 開いたお腹の中を見て , これはほんとに内臓な のかと疑うわけだ . そりゃあ , 猫なら血も流れる , でも血によく似 た機械油かもしれない . 疑いを晴らすための証拠がまた疑われる . いわば , 疑いの底が抜ける . いったい , どうすれば君の疑いは晴らせるんだろう . 「疑う」というのは , たんに文に疑問符をつけるだけのことじゃ ない . 疑うという行為 , 疑うという実践だ . だから , 晴らしえない 疑いをかかえて身動きとれなくなってしまうのだったら , それはた だ , 「懐疑」という名を借りた怠慢にほかならない . そうじゃない か ? あれ , ちえっ , 猫 , 逃げちゃったよ . それから , もうーっ大事なことがある . 「これは猫か ? 」って疑 うとき , 「猫」という言葉を使うね . そしてこれが猫なのか猫型ロ ポットなのかと疑うとき , 「猫」とか「ロポット」といった言葉は 正しく使われていると思っている . でも , すべてを疑えというんだ ったら , 当然そのことも疑わなくちゃいけない . 「これは猫か ? 」 「『猫』とはこれか ? 」ってね . 「これは猫か ? 」が だけじゃなく , 事実についての疑いなら , 「『猫』とはこれか ? 」は概念についての 疑いと言えるかな . いや , 概念についての疑いというのもあるのさ . 哲学なんかはその手の疑いに満ちている . 「『時間』とは何か」「『正 義』とは何か」 , それから , 笑っちゃうけど , 「『概念』とは何か」 ってね . うん , そう . いまやっているのも , 「『疑い』とは何か」と いう , 「疑い」概念についての疑いだ . 概念についての疑いっていうのは , どうやって晴らすんだろう . 難しいな . ある言葉の意味を確かめようとして別の言葉でそれを説 明しても , こんどはその説明の言葉が疑われる . また , 底無しだ . どうすればいいだろう . 例えば , 正直のところ , ほくには「神」という言葉の意味は分か 18 ー第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
理 三一口 対 生成する複数性 パフチンとポリフォニックなく若さ〉 桑野隆 ・こで問題になっているのは , モノローグの連続的な交換としての対 話ではなく , 対話的状況が , 原理的に , 自分の意識や言葉に先行してい るという驚くべき事態です . だからこそ , それは根本的なモラルにもな る . と同時に , ほんとうのく若さ〉がなにかも教えてくれるのです . (K) 「イズム」としての「対言乱 「対話原理」という言葉は初耳だというひとはいても , 「原理」を はずした「対話」という言葉であれば改めて説明するまでもないも のと思われます . ある辞書には「向かい合って話すこと . 相対して 話すこと . 会話 . 対談」と定義されていますが , この意味での「対 話」であれば , 私たちは日常生活でもそれなりに実践しています . なるほど , 「日米の対話」とかいった場合には , 具体的な二人の会 話とは限らず , もう少し一般的に関係のとり方を指す場合もありま すが , それでも , いわんとするところは「互いに話し合う」という ことであって , 辞書の定義内にひとまず収まっています . しかしなかには , 「対話」という言葉から , いきなり「ソクラテ スの対話」が思い浮かぶひとがいるかもしれません . この場合はも はや , これから述べようとする「対話原理」なるものとある程度重 なってきます . それもかなり根本的な点において . この言葉は , 英 訳するとなれば dialogism とか dialogic principle となります . つま り「対話原理」とは「対話」を「イズム」ないし「プリンシプル」 にまで高めたものです . したがって「対話主義」と呼んでもいいの こでは , より以前から使われている「対話原理」のほう ですが , を用いることにします . もちろん , ソクラテスやプラトンはこの 「イズム」の先駆者です . この系譜を今日までたどってくれば , 主 生成する複数性■ 107
タスムのオンパレードであり , ご丁寧に『羊たちの沈黙』のモデル になったエド・ゲイン事件をトマス・ハリスに説明して聞かせたの がこの本の著者にして心理分析官であるロバート・ K. レスラーだ ったということまでが , そこでは披露されています . ファンタスムという , 論理ではとらえられない無意識の表象作用 . フロイトが精神分析学という学問の名において発見したものがこれ でした . ファンタスムとは , それにとらえられている人にとっては , 言葉に還元できない , つまり身体のすべてを挙げて何度も体験しな おさねばならない , 徹頭徹尾身体的な欲望なのです . 無理に言語化 しても , あの発明された字のように , 言葉が身体と化してしまうだ けです . フロイトはこのファンタスムを呼び出すのに , 皮肉にも , 言葉を用いた自由連想法という分析治療の方法を編み出しました . つまり患者には , あらゆる配慮を排して , 思いっくままに自由に話 せと命じ , 分析医にはいわば振動板のように患者の言葉に共振して , 注意力を一点に集中することなく , 自由に漂わせておくよう助言し たのです . 狙いは言葉によって , あの吉田戦車の漫画のような判じ 絵的文字 ( もちろん書かれるのではなく発音されるだけ ) の表象作用を 喚起するためでした . たとえ言葉を介してではあっても , ともかく 表象されなければ , いかなるファンタスムの体系がそこに働いてい るのかを知ることすらできないし , また一方では , この表象には通 常の意味作用は期待できないから , すぐに意味作用を結晶させてし まいかねない注意力をできるだけ分散させておこうという戦略です . したがって逆にいうと , 分析治療の現場での分析医 = フロイトは , あの漫画では , 読めないはずの字にじつは備わっていた音に共振し つつ冷や汗を流している先生のポジションにいることになり , 『羊 たちの沈黙』では , 犯人を懸命に追ってはいるのだが , つい凡庸な 論理によってファンタスムを凡庸に説明してしまうクラリスよりも , カンニノヾル むしろ共犯者ともいうべき精神分析医「人喰い」レクターに重なる ことになります . 分析するフロイトを宰領している知は論理ではあ りません . それは勘というしかないものであって , フロイトの実際 の症例研究は , カンピューターといわれるプロ野球の監督など易々 70 ー第Ⅱ部限界の論理・論理の限界
も広げられています . 意識をモノローグ的にとらえる態度は , 文学だけでなく他のイデオロ ギー的創造物 ( 芸術 , 道徳 , 政治 , その他 ) の領域でも支配的である . 意味あるもの , 価値あるもののすべてが , いたるところで , ひとつの中 心 - ーー担い手一一一のまわりに集中している . すべてのイデオロギー的創 造物は , ひとつの意識 , ひとつの精神のありうべき表現として考えられ 受けとめられている . ・・・モノローグ原理の強化とイデオロギー的生活 の全領域へのその浸透を近代において促したのは , 単一で唯一の理性を 崇拝するヨーロッパ合理主義 , とりわけョーロッパの芸術的散文の基本 しているモノローグ原理を問題にしていました . このようにパフチンは , 近代のイデオロギー一般に深く根をおろ 的なジャンル形式が形成された啓蒙期である . これを克服して対 112 ■第Ⅲ部多元的論理に向かって て , こうした対話的関係のなかでこそ言葉をとらえるべきであるの いてはじめて発生しうるものである , とも述べています . したがっ 手の共通の領土」です . 言葉をも含む記号一般は間個人的領域にお は話し相手が支えて」いるのであって , 「言葉は , 話し手と話し相 架け橋」であり , 「片方の端を私が支えているとすれば , 他方の端 パフチンによれば , 「言葉とは , 私と他者とのあいだに渡された ようとはいかなるものであるかを問題にしていることがわかります . 作を見ますと , この時期のパフチンはまず第 1 に , 言葉の真のあり ています . この辺の複雑な事情はここでは略しますが , それらの著 当時は , 仲間のヴォロシノフやメドヴェジェフの名を借りて公にし 論 , フロイトの精神分析などをめぐっても書いていました . ただし フチンはすでに 20 年代後半に , 文学研究方法論や , 言言口論・記号 死の直前の 70 年代半ばに明らかになりはじめたことですが , バ 対話としての言語 新しい諸学の構築をみずから図ることになります . けるモノローグ原理の支配を批判する一方 , 対話原理にもとづいた 小説論だけでなく言語学 , 心理学 , 哲学 , 美学 , 歴史学その他にお 話原理を浸透させることこそがパフチンの狙いであったわけであり ,
3000 人のユダヤ人があの「手続き」に従って殺されていくドキュ メント・フィルムがあったとしたら , 「私はそれを人に見せないば かりか , 破壊してしまうだろう」といっています . その理由は明ら かでしよう . 死者たちを二度殺すこと , 最悪の恥辱の中で斃れてい った彼らの姿を人びとの視線にさらし , 死者たちをくりかえし辱め ることは「倫理的」にも許されない , と彼は考えているのです . 「ホロコースト , 不可能な表象」という題辞の意味が , こうして 見えてきます . 「表象」と訳したフランス語 représentation は , の場合 , あるものを描き出すこと , 言葉によってでも言葉なしにで も , 眼前にないものを何らかの手段で像 ( イメージ ) として現前さ せることを意味します . ワーテルローの戦いを , 実際に見たことが あってもなくても , その有様を心に思い浮かべたり , 言葉で説明し たり , 絵に描いたり , 芝居として演じたり , 映画として見たりする ことは , すべて「表象」に当たります . ホロコーストは究極的には 表象不可能な出来事だ , とランズマンはいっているのです . ホロコ ーストに関して , 現象学 ( 事象そのものを見させること ) を実践する こと , 「現象学的映画」を作ることはきわめて困難なことなのです . 『ショアー』とはどんな映画か 『シンドラーのリスト』に対するランズマンの批判は , 彼自身の 映画『ショアー』 ( 1985 年 ) の経験を踏まえています . 「ショアー」 (Shoah) とは , 「災厄 , 災難」を意味するヘブライ語です . ランズ マンのこの映画以後 , フランス語圏では , 「ホロコースト」に代え て「ショアー」の名称を使うことが一般化しました . 「ホロコース ト」とは元来 , 古代イスラエルで丸焼きにして神に捧げた動物の生 けにえを意味するギリシャ語ですから , 「焼却炉」を使った巨大犯 罪の名としては , 考えてみれば甚だ不穏当な言葉なのですにこで は日本の慣例に妥協して , 引き続き「ホロコースト」の呼称を使うことに します ) . 『ショアー』は , 9 時間半近い上映時間の大半を , 絶滅収容所か らの生還者の証言に充てています . これらの証言に , ナチス親衛隊 見ることの限界を見る■防
踏み出すことができなくなるわけだ . それで , 言葉の意味は実践において定められるのだったから , しこんなふうにいっさいの実践が奪われてしまったとしたら , の意味 , 概念も実質を失って崩壊してしまう . を確かめるときには , そこでまた別の事実が鵜呑みにされなくちゃ ならない . だから , すべての事実を疑ったのでは , 何ひとつ実践に 言葉 も どんな事実も確かとみなさない者にとっては , 自分の用いる言 葉の意味もまた確かではありえない . ( 前掲書 , い 14 ) こうなったら , 疑いを表現する言葉も失われる . 懐疑は本当にロ 先だけの , 当人にさえ意味不明のたんなる音の羅列 , あるいはイン こうして , さっきの引用になる クの染みでしかなくなってしまう . わけさ . 「すべてを疑おうとする者は , 疑うところまで行き着くこ ともできない」 . 「動かぬもの」が動かぬわけ ああ , いい風が吹いてきたね . もう少し歩くとしようか . すべてを疑ったのでは , 当の疑いも死んでしまう . 逆に言えば , 何かを疑うためには , 疑いを免れている部分がなければならない . じゃあ , この , 疑いを免れている部分というのはどういうものなん だろうか . もう少し踏み込んで考えてみたいんだ . 誤解だったら申し訳ないけど , もしかして , こんなふうに考えて いないかな . ものごとはだんだん明らかになっていく , 暗闇を照ら す範囲が徐々に広がっていくように , 知の光はすでに明らかになっ ているところを包み込むようにして広がっていく . こまでは明ら かになった , さあ次はここだっていうぐあいにね . でも , そうじゃ ないんだ . またウイトゲンシュタインを引用してもいいかな . 動かぬものは , それ自体がはっきりと明瞭に見て取られるがゆ えに不動なのではなく , そのまわりにあるものによって固定さ れているのだ . ( 前掲書 , い 44 ) 論理を行為する■ 21