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検索対象: 都市と農村
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1. 都市と農村

十分に行われなかったら、到底親子夫婦ぐらいの簡単な家庭で、手一杯の百姓をする望 みがなく、他の一年の半分を優長でもなく遊び暮すような、細小農を以て甘んするの他 はなかった。こういういろいろの意味のある村の農法を考えもせすに、政府が個人主義 の改良に力を注いだことは、何と弁護しても失敗であったが、他の一方に親方衆の直営 農業は、まだそれよりも一層早くから、もっと田 5 い切りよく廃絶に帰していたのである。 八大田植の光景 いわゆる大田植の方式だけは、まだ中国地方の山村に残っているというが、それを経 済的に再興する見込はもう立たない。地主が農業者でないという議論をするならば、 ~ ごかのほ の溯ってこの大田植を中止した時から起算しなければならぬのである。米を重んじた日 姓 百本の農村において、この一年内の最も激しい力闘、人の精気の一番に集注せらるべき作 水 業が、祭や盆の歌踊よりも、さらに複雑なる両方面の興味をもっていたことは当り前で、 章 それが絶えたということは大変化と認めてよい。独り民謡詩人や尚古趣味家のみに、そ 第 の回顧を一任するわけには行くまいと思う。 大田植の親方はもちろん地主彼自身で、それをば田主殿といった。悠紀・主基の斎田 169 おおたうえ さいでん

2. 都市と農村

ごしきさん うらや ことは御同様であり、むしろ心細い御直参が、大家の乂者を羨むと同じような場合さえ 多かった。ゆえに互に境遇を理解すという以上に、ほとんど同一の境遇と言われても、 しっちょ、つ 怪しむ者はなかったくらいである。しかるに一朝地租条例が全国に布かれ、米を売って その代金の中から、金銭を以て年貢を払うことになると、もはやこの二種の農民は同階 級ではなくなった。彼らは今まで例もないほどの無関心を以て、互いに相手の憂苦を眺 めようとするのみならす、世間はまた往々にして一方を問題とし、他の一方を解決とさ え考えつつあるのである。かくして農村が二組の小さきものに別れて、一つ流れの繁栄 に向うことを、期待し得る理由はないわけであるが、それを三十五箇年後に二割の面積 まで、一方を少なく他の一方を多くすることを以て我慢せしめようとするのが最近のい わゆる自作農案である。 一一小作料と年貢米 日本の小作制度の歴史としては、実際これ以上の激変はなかったといってよいが、不 思議に今まではこの点に一顧を払う者がなかった。我々の小作第は、俗言では年貢米と いうのが普通である。地主はもとより年貢を取る人ではなかったから、年貢米はすなわ またもの

3. 都市と農村

242 力者がこれを支持して結局においてほば素志を貫き得たというものに至っては、その構 成がすでに複雑であり、その動機もまた一揆と称するに適してはいなかった。すなわち たんしなおざね 私の党の旗頭に丹治直実あって、独り武名を馳せたと同じく、これもまた一種の親方式 作業となって、その成功はただ新たに第二の段階結合の存立を、便とするに過ぎなかっ たと思われる場合が多い。農民が平時の教練を積ます、かっ古風の統一に馴れ過ぎてい た結果は、かくのごとく容易にその多数の力を他に利用せられることになるのであった。 この弊はなお今日の平和な政治一揆にも及んでいる。人は多数の勝利を歓呼する際に、 しばしば当初の目的の移り変っていることをさえ忘れていた。盲従雷同を統制と解して、 往々にして少数幹部の私を遂げしむる例さえあった。しかも本来の名義が平等であった ために、その独断の成績はむしろ以前の第一種の団結法に比べて、より多くを望むこと を得なかったのである。 七利用せらるる多数 ところが他の一方農村在来の一致行動においても、次第に下層住民の多数の要求を、 さげわたし 表面の名義に利用せんとする風が盛んになって来た。いかに手前勝手な下渡運動でも、

4. 都市と農村

総体の生活上の必要から、ます大市場承認の形式を以て、恩恵を都市に偏せしめざるを 得なかったのである。政治の衡平と二種文化の調和とが、いかにしてこの制度を全般の 幸福に利用し得べきかは、また別に討究せらるべき問題であって、単にわずかしかない 農村の商業分子に声援して、雄を中央の市場に争わせようとするなどは、それ自身無益 みち 誤断せしめる な試みであっただけでなく、なお人をして振興は他に途なきかのごとく、 危険さえあるのである。 六無用の穀価統一 日本が始めて西洋の諸国と、対等の通商条約を結んだ頃には、世論はむしろ農産物輸 出の、あまりに盛大ならんことを気遣い懼れていた。それは飢饉の経験がまだ新しく、 はんな いわゆる金銀珠玉は炊いで飯と為すべからすの幼稚なる貴穀思想からではあったが、実 かんかえ 際またこれだけ開けている一国において、農業によって貿易をしてみようという考は無 理でもあった。土地の産物を以て外来の製造品を買得る国は、人手の少ない植民地と極 まっている。そうでなければ貧乏な国の、一時凌ぎの手段とより他は考えられぬ。支那 や印度があの大人口を以て、なお農産を輸出しているということは、少しも羨しい先例 おそ ききん 、つらやま

5. 都市と農村

通の日傭取の地位に甘んじている例は多いようである。わすか形をかえてこの次には純 農業地方へ、同じ征服が向って来ようも知れぬ。 ただしこれを名けて都市の迫害ということは、二つの理由から当を得ていない。第一 にはそれはただ資本家と呼ばるる者の企てで、都市に住する大多数の者の、少しでも知 ったことでない上に、第二には別に他のある者は自身村に住みながら、この計画に参加 しもしくは独立してそれを志していたからである。今日地方金融の急務を叫ぶ者の中に は、なお往々にしてこれによって、わが村の生活を苦しめてみようとする注意人物もい るのである。 八農業保護と農村保護 の 衰農村の盛衰は必すこれを農業の盛衰と、引離して考えてみなければならぬ。農業はい 農 かなる立場から見ても、日本においては決して衰えてはいない。茶や麦類などの一向に もめんはあい 産額を増さぬもの、または木綿や葉藍のごとく、人が不利益として作らなくなったもの 第 はいろいろあるが、その代りには他の作物を栽培している。これほどたくさんの新種の 農産物が、それぞれ毎年の数量を加えている中に、一方主穀は依然としてほば国内の所 ひょ、つとり なづ

6. 都市と農村

七農作業の繁閑調節 これは村に住む実際家に向っては、ほとんど説明の必要もない話であるが、農業ほど わりふり し力に田畠多種多様の作物を組合せてみて 仕事の割振のむつかしい生産は他にはない。、、 こよみ うづき も、一年の最もにしい時期は常に春夏の境に集注する。わが邦の古い暦では、卯月八日 ふたっき がトシというものの変り目であったかと思われるが、それからわずか二月ばかりの間に、 一季の農事の半分は片付けなければならぬ。その際入用なだけの労働をかねて備えてお くことにすると、他の多くの月は遊んでいなければならぬ人を生する。そうして人が遊 ふさ んでいてよい時代はもう過去になった。この隙間を塞ぐためには、今までも幾多の苦労 のを重ねているのである。 どき 百西洋では田植がないので、播き時が比較的閑であった。労力需要の絶頂は秋の苅入れ 水 で、この時には町から人を呼ぶ習わしさえあった。ゆえにその前後に入用な労力を、省 章 さくつけ たんべっ 略する機械器具を発明すれば、それだけは一家の作付・反別を増すこともできる。日本 第 いねこきもみすり でもこれを真似たか、稲扱・籾摺のいろいろな発明を持込むが、それでは一層田植の頃 の忙しさをえらくするのみで、農場拡張の便宜にはならぬ。実際また拡張したくともそ 167 ま すきま ひま

7. 都市と農村

に反して、村に有力者の地位を占めんとする者は、必すある程度の都市心を具うること を要し、それが往々にして都市に住む田舎者を凌駕すると共に、他の一方には追々に家 族の総員を動かそうとしているのである。二つの趣味、二つの生活様式が、今では大抵 の土地に並び行われている。その間の交渉がさらに他所者の往来よりも繁しとすれば、 誰か知らん、かって別荘・新住宅の目に立っ感化として訴えられたものが、夙に人知れ す平和の侵略を村々に試みて、この古風の農民に無名の不安を与えつつあることを。 四民族信仰と政治勢力 農を軽んずるの気風は、むしろ一種都市式の同情を以て始まっている。東西古今の永 舎い歴史にわたって、百姓ほどよく憫まれた者は、他にはないのであるが、それが必すし れんびん も次の代の憐憫を無用にする手段でなかったことは、村人こそますよくこれを知ってい 風 町 る。しかも彼らにはなお現状を自然と解して、進んで新たなるカ作に就くだけの楽観性 章 を具えていたのであるが、記憶の良い傍観者たちは、いつでも近寄って来て善政の旧記 第 録を彼らのために読もうとしていたのである。それは恐らくは一般の帰服、不断の信頼 みち を容易にする途であったろうと思うが、彼らをして自ら為す有らしめんがためには、そ 103 あわれ な っ

8. 都市と農村

むしろそれを戒めていた人たちの、方法の拙さにあったようである。 それでます最初には町風の農村観察が、果してどれほどまでの根拠を歴史の上に持っ かということを、改めて村人の立場から考えてみる必要があるのだが、格別それは面倒 な仕事でも何でもない 二つのまったく方向を異にする考え方が、今でもまだ都市の住 民の田舎に対する態度を支配している。そうしてその矛盾を両存させるために、幾分か 無理な輿論が行われようとしている。その一つは村の生活の安らかさ、清さ楽しさに向 さんたん せきばくふりよ、つ っての讃歎であり、他の一つはすなわちその辛苦と窮乏また寂寞無聊に対する思いやり である。もしこの二つの状態に誇張がないならば、同時に存在し得る道理はあり得ない のであるが、人世は本来苦と楽との交錯であり、通例現実においては苦の色が濃く映す 〔憂〕 るゆえに、誰しも他の一方を遠い方に押上げて、いわゆるうしと見し世を恋しがるよう になるのである。農村衰微の声の耳を傾けられやすかった一つの原因はここにもある。 しかも都市の人々がなお自分たちのために、できるだけ明るく美しい田舎を、描いてみ ようとしていたことは事実であって、それにもまた相当の理由があるものと私は思う。 、さ、よら、 私はこれを手短に、帰去来情緒と名づけようとしている。言いかえるならば村を出て まちずまい 来た者の初期の町住居の心細さが、こ、ついう形をとって永く伝わったものと考えるので ったな

9. 都市と農村

決してその前兆ではあり得ない。人は他の小さな動物も同じように、子供を産育てる期 間だけは、なるべく前からの居地に留まっていようとする。そこに生活の資料がやや豊 なれば、死ぬ者も少なく頼って来る者も多いから、人数の増して来るのは当然な話で、 そうでなくとも現在はなお増さんとしている。もしこの一般的増加の時代に際して、ま だ人口が減少するような部落であったら、それこそ憂うべき状態はすでに通り越してい る。農の生産はもちろん衰え、あらゆる荒村の悲惨なる光景は、そこに現われているに 相違ない。日本の国内にもごく稀にはその実例はあったが、その事実を見てから救治法 を考えるがごとき気楽なことはもとよりできない 通例はただ増加すべき戸口が、どうも他の村ほどは増加しない。もしくは久しい停止 実の状態にあることによって、土地の衰兆をドせんとするのであるが、それが果して適当 衰なる標準で、あるかどうかには疑問がある。少なくとも人口増加率の多少が、絶対に村 農の幸福の尺度とするに足らぬことは、一戸平均の耕地地積その他いろいろの労働状況の、 章 2 村によってはなはだしく区々たることを知る者ならば、必ずこれを認めることと思う。 第 別の語でいえば人間があまり多くなり過ぎた、多いによって少しずつ一同が難儀をする 砺という土地よりも、人が足らすに困っているものの方が今ではもう遥かに少ないらしい うみそた

10. 都市と農村

158 ったので、それが血縁と年順とを以て定まっていたために、後自然に今日の親子の意味 に、限られるようになって来たのである。日本の農村の半分以上では、今でも弘く親類 のことをオヤコといっているのだが、もし以前の労働団体の、現在より遥かに強大なも ごびゅ・つ のであったことを考えなかったら、これなどはただの田舎者の誤謬として、笑ってしま う人がきっと多いであろう。 農家の労働者が主として末々の親類であったことは、今日稀に残っている山中の大家 みまさか しらかわ 族、例えば美作で七子持屋といい、飛騨の白川で五階作りの藁家に住む類の人を訪ねる か、そうでなければわすかに存する上代の戸籍でも見るの他はないのであるが、武家の 方では系図にたくさんの証拠がある。すなわち新たに崛起した少数の大名を除けば、そ の他は大抵の家の子郎党の先祖は、これを主家の系譜の中から見出すことができる。関 東では武田・三浦・児玉・那須を始めとして、多くの旧家の一門は必す附近の新地を開 いて、別の名字を名乗りつつなお本家に仕えていたので、殊にこの関係はよく解るが、 ざいみよう どうみよう 仮に独立の在名を名乗り得ない場合でも、古い同苗は皆単純なる家隷になっていて、新 しい御分家とは格段の差等があった。それは古くなったから粗末にし始めたのでなく、 いわゆる庶流を遇するの途が、まったく中頃から変化したためである。兄弟が家を分っ ななこもちゃ みち