軒の申合せを以て協同に作ったものは、永くこの共和式が行われているかと思う。後に 分家なり控え百姓なりが附随しても、彼らの本家は一軒たけで、他の家から見れば皆対 等である。これに反して草分けが家来を引連れ、世話介抱をして開かせた村では、たと えその大家が滅びまたは衰えても、依然としてこれに代る中心があり、その者が総利害 を代表せんとする。小さき個人もまたよくよくでないと、これに向って故障を唱えす、 従順に大勢に服しているのである。もちろん威張る方でも名誉律の拘東は受けて、いわ ゆる温情主義は完全に行われていたのだが、普通にこういう場合には貧富の懸隔が伴う ゆえに、経済の事情は一様なるを得す、わすかに災難の共通であった時ばかり、村の衰 微が外部に打明けられるのである。すなわちこの種の一致の下においては、しばしば農 実村一部分の衰微というものが、人に気付かれすに潜み得たのである。 衰農村の衰微は当然に個々住民の疲弊の意味であって、それ以外には別に集合して始め 農て疲弊となるものはあり得ない。しかし学者などの細かく物を考えようとする人に言わ せると、全部か一部か、一部ならば何割以上どの部分と、突き詰めた話になるかも知れ 第 ぬ。実際またいかに不幸なる村でも、利害の一様なる小百姓の村でも、一戸残らず皆借 財に苦しみ、衣食を給し兼ねているという例は稀有である。そういうのが始めて窮村な
ないしは補助救助の申請でも、いわゆる村民一同の希望を理由とし、百姓困窮の状態を 口実とせざるはなく、その一句があれば官庁も請托を容れやすく、また必ずしも効果の 果して声明のごとくであったかどうかを、他日あらためて見るにも及ばぬように、最初 、んイ」よ、つ から総住民の連名署印を取っておくのが普通であった。そうしてこの印形こそは何物よ りも手軽に、いわゆる総代有志家の借りて使うことのできる品であった。 村を一様に貧しくした共有林野の分割と譲渡、その他各種の外部資本の征服は、こと ごとくこの一つの方式を以て、近年全国にわたって行われたのであった。内に利害の相 充 の容れざるものがあるのみならす、時としては強いて一部の者が富まんとすることによっ そ きゅ、つやく いちれんたく て、他の部分の窮厄をはなはだしからしめた事実さえある際に、常にこのような一蓮托 の生の方法を講せんとすれば、ついにはその結果が今日の米価釣上策のごとく、人をも自 育 あざむ ぼ、つぎよ 分をも欺くものに、帰着することはやむを得ない。すなわち団結は一見有力の防禦手段 ・目 のごとく感ぜられて、たまたまかえって対社会の孤存と、内部組織の崩壊とを、併せ収 章 あがな めるようなことにもなるのである。例えば農民の米を購、つべき者は次第に多くなった。 第 小農はもとより売るべき多くを持たず、売れば必ず後にまた買わねばならぬ。彼らが大 、ヤっと、つ 勢に附和して相場の昂騰を喜ぶことは、結局は他の日用生計費の増加を忍び、上地の価 243
八古風なる人心収攬術 しからば本に遡って農村の利害を、今一度ただの一筋に纏めてみてはどうか。前代を のぞみ 愛する人々の切なる望はこれであり、もしくは偽善者らの強いてこの辞を弄する者はあ ったが、これを現実の傾向に照らして見れば、恢復は到底常識の期待し得るところでな いのみならず、それが果して幸福であろうかどうかも、今日においてはかなり大いなる 疑である。強力なる生産単位に全部の信頼を打掛けて、親方農場の豊凶盛衰以外に、 充 の別に各人の禍福を予想する必要もなかった時代ならば、なるほど郷党の利害は純一であ そ り、それを協力して守護することが、一つしかない生存の道であったかも知れぬが、そ のの代りにはぜひとも認めなければならぬ服従というむつかしい条件が一つあった。中世 育 かんがえ 教人の考では、これを条件と言わんよりも、むしろ服従は保護の別名であったという方が ・目 当っている。いかなる場合でも二者は併せ保ち、また併せてこれを棄てなければならな 章 かった。ただ天然と人為の外部の危難が、今よりも遥かに避け難かったために、特にこ 第 の中心ある団結の必要を感じ、またこれを自然が指定した唯一の手段と認めて、満足し て生をその間に聊んじていたのであった。 245
172 あったので、それがまた我々の祖先の、村に住む一つの幸福でもあった。 九多くの貧民を要した大農 こういう一時的な労力の大きな需要がなかったならば今の不完全なる小作農を、存立 せしめる必要もないわけであった。いすれの国でも米国式機械の発明せられるまでは、 大農は皆この労力の問題に弱っていた。苅入の季節に入用なだけの人の手を、常から附 近の地に備えておくとすれば、平日は彼らの衣食の路がない。さりとて遠方から臨時の 人を呼ばうとすれば、宿舎風紀の点ばかりか、契約の上にも不安心なことが多い都市 に工業がやや起るに及んで、外部の供給は殊に頼みにならす、大農はます危険を感じて、 土地利用の方法を改めんとしたのであった。日本では田植というさらに気せわしない季 節があって、婦女老幼の全部を催しても、なおこの不権衡を均平ならしむるを得なかっ ぜん たのである。しかし日本で地主が漸を以て直営をやめようとした最初の動機が、この臨 時労働の供給の困難に基いていないことは明かである。わが邦においてはいまだ田植の 人の手が足らぬまでに、農村の淋しくなった時代はないからである。 村には容易なる労力の供給が常にあった。独り旧五月の最多忙の時のみならす、苅 みち
とりまと から考えても、大きく取纏める利益は少しもなく、事実またそんなことは可能でない それを始終大袈裟な数字によって、商人だけはその職務を円滑にしようとしていたので、 そんな掛声に煙に巻かれることは、もちろん商業化でも何でもないのである。 これは簡単に都市勢力の浸潤であり、また経済自治の解体である。この意味において ならば、商業はすでに農村を統御しかかっているのだが、そのために農が末々引合う業 なんびと 務に、立戻り得る希望はいたって乏しい。結局問題は何人のために、誰が商業化を企て るかということに帰するので、現在のところでは形のみは都市のためでも、その実は商 人の業務を農村に自由に行わせているというに過ぎない。日本の養蚕などは技術の進歩 において、いかなる精巧の工業とでも肩を並べることのできるもので、しかもその功績 権 集は全部純粋の農村人に属し、彼らの将来にとっては非常に心強い希望の種であるが、こ のれを大量の取引に引渡すに際しては、もう指導の権能を外部の者に認め、自身は単なる 文前列の闘士を以て甘んじているのである。肥料なども最近の三十年間に、確かにその配 章 給の形式を商業化したが、 これを管理する者はまた農民ではなく、彼らはただ与えられ 第 たる条件の下に、できるだけ各個の利益を講ずべく苦慮するのみである。かくして衰退 の感の日に加わるのは、必すしも中央集権制のせいではない。私の見るところを以てす おおげさ
う理由だけで、親しくもなりまた結合する。それが十人となり二十人と増加して来ると、 ひとなみ その中にまた何々県人会などが出来るのである。東京・大阪の渦巻く人浪の中において も、人は決して他の全部と他人なのではない。郷里から出た者は必す頼って行くところ はるばる がある。偶然に廻り逢うてすらも手を執ってなっかしがる。ましてや遥々と訪ねて来た 者ならば、宿を貸し食を分ち、案内をするなどは常のことで、その間には少しでも市民 と田舎者との関係はないのである。それまでにせすともその親切の片端だけを割いて、 見す知らすの村の人々に薄く拡げてみたらどうかと思うが、それができないのは久しい 間養われ居た、今は無用なる我々の防衛心であった。 船や汽車などの乗合の中でも、何かのはすみで言葉を交えると、たちまち友人になっ て名刺ばかりか、食物まで交換しようという好意のある者が、はじめはお互に実にこわ い顔をしている。人を仲間と他所者との二種類に区分して見ることは、ごく大昔の割拠 以来、一度も改革を受けなかった村生活の癖であって、たまたまそれが成長する都市の 中へ持って来て、殊に忍ぶべからざる衝突に変化しただけである。我々の道徳はかって 外部の交渉を離れて、内には優美の極致まで発達しながら、なお異なる利害と接触すれ ば、しばしばその作用を停止するの必要を見ることがあった。都市にはその必要の有無
228 第九章自治教育の欠陥とその補充 一村を客観し得る人 農村の改革はいつでも時期が遅れる。従って無益の苦悩を重ね、また不必要なる破壊 を伴のうて、しかも適切に現状と相応せざる変更を以て、満足しなければならぬ場合が 多かったのである。平和を愛する人々が概して保守派に属し、徐々にかっ不徹底なる救 済によって、ただ一時を経過せんとカめたのも、必ずしも彼らの冷淡と臆病とを意味し ない。主たる原因は与えられたる制度が、国のほとんど全体を包括するほどの大規模な ものであって、いかに不満と憂愁に充ちたる農民でも、これを批判することがすでに容 易でなく、ましてや別案を立てて比較の優劣を論証せんことは、個々の能力の及ぶとこ ろでなかったからである。それゆえに改革はしばしば一隅に行われ、また多くは外部の 示唆に始まっている。外部には公平なる達観があり、また同情ある注意を期待し得るが、
た。ただしその通例は随分ひどい程度のもので、辛抱のできなかったのはむしろ当然だ とも言えるが、とにかくに今日では他人の衣食住にまでは干渉せぬ弋りこ、 イ。いかなる原 因で困っても相救うことは常にできなくなった。人が独立して自由に貧乏し得ることは、 農村も都市と大して変りがない。従うてこれに対抗する手段のごときも、各自の思い思 いということになり、あるいは金を溜めながら悪い暮しを続けている者もあれば、他の 一方には眼前に破滅が迫っているのに、なお無理な奢りを試みる者もあって、いよいよ 外部から生活の状態を以て、その盛衰を察知し難くなったのである。しかし大体からい うと、家でも村でもはた国家でも、自分の全力を以て生産した富より、以上のものを消 費することはできない。貧窮の徴候はその限度に接近するよりもすっと前から、必すど こかの隅に現われていなければならぬのである。 一〇人口に関する粗雑な考え方 最も簡単な村盛衰の目安として、外部の観測者の古くから注意していたのは、人口と みち 戸数との増減であった。旅人は途で行逢う人馬の多きを見て、直ちに繁昌の土地とその 日記に書いた。しかし私たちから言わせると、戸口の多少は常に盛袞の結果であって、 おご
五農だけでは食えなくなる 亠ハ不自然なる純農化 七外部資本の征服 第三章文化の中央集権 一政治家の誤解 一一都市文芸の専制 三帰化文明の威力 四そそのかされる貿易 五中央市場の承認 第四章町風・田舎風 一町風の農村観察 一一田園都市と郊外生活 三生活様式の分立 八農業保護と農村保護 九生計と生産 一〇人口に関する粗雑な考え方 六無用の穀価統一 七資本力の間接の圧迫 八経済自治の不振 九地方交通を犠牲とした 一〇小都市の屈従摸倣 四民族信仰と政治勢力 五自分の力に心付かぬ風 六京童の成長
174 一〇親方制度の崩壊 地主手作の廃止は近代に入って始めて完結したが、その傾向は遠く江戸時代の中頃に きざ 萌し、彼らの働かすともなお農民なりという世にも珍らしい感覚は、かなり久しい年月 を以て養い上げたものである。回顧者の遠目を以て見れば、江戸期はただ単調なる三百 年のごとくに思われるか知らぬが、実はその外観の太平無事が、特に今日の新傾向を根 強いものにしたのである。原因は算え立てればいくっとなくあるけれども、ここにはた 家が働き得られ、その収穫が一年の生存に足りるということは、最初から双方の予想し ていたところではないのであった。簡単にいうと、外部の事情が要求したからでもある が、日本の地主たちはその生活の便宜のためこ、 ( いつも必要以上の水呑を取立てようと した形があった。人の手ばかり多い国の昔からの習いとして、その最も豊富なるものを らんよ、つ 濫用したのはやむを得ないことであった。そうして言わば貧民を必要とすべき農業を続 けようとしたのであった。この状態をもし維持しなければならぬとしたら、悲しいこと ながら永く小農の極度の節倹を以て、村の当然の道徳と主張するの他はなかったのであ る。 てさく かぞ