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検索対象: 都市と農村
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1. 都市と農村

九愛郷心と異人種観 どこの国でも最初耕作者の子弟が、居を移し業を換えて、段々に市民となったのでな けんか い例は恐らくは一つもない。それが後々喧嘩を始めて、国内を二つに割る弊風を生じた からとて、今さら過去の心得違いを責めるのは無益だと思う人があろうも知れぬ。しか し日本だけでは少なくとも、まだそういう点を考えてみて、十分に間に合うのである。 第一に現在大小の都市は多くは年が若い。彼らの履歴はたくさんの人に記憶せられてい る。そうして今でもほば以前と同じ路を歩もうとしている。いわゆる都市の人口吸収カ が、もう大抵絶頂を越えたというのは大都市だけのことで、他の多数の小都会において 民 い・りん・わ 農は、現に盛んに流れ込み、また入代りが行われつつあるのである。しかもこれらの町を 成大きくすると同時に、丈夫にかっ美しくすることは、国土全体から見て極めて必要なる 市 都事業であって、これに関与する内の人、外の人、殊に新たに動こうとする者の態度次第、 章 善くも悪くもこれからなるのだとすれば、学問はすなわち何よりも大切であり、何より 第 も禁物は無我夢中で動くことである。 二つの新しい経験が我々を考えさせる。日本人は外国に出ると、単に同じ日本人とい

2. 都市と農村

は足りなかった。 土地の増価の少なくとも大部分が、耕作している間は耕作者の利益に帰して、やめた ら持って退くことのできぬようにしておければ、それで始めて小作人の紛争はなくなる。 技能学術の人に優れた者が、新たに農によって家を興し、かつは世の中への供給を豊か その方法が今までは立ち にしようという場合にも、障碍は前よりも少なくなるのだが、 にくかった。ところが地租を町村に委譲しようという計画は、これを計画した者にはそ の予想がなかったにもかかわらす、偶然にも我々に新しい希望を与える。現在の案では 国家がまだ税率の上に十渉して、土地の利益の全部は徴収させぬに相違ないが、とにか くにそれを個人に分配してしまっても、村に積んでおいても結果はほば同じだというこ とを、学び知る機会だけはこの税法が与えてくれる。出入自在なる農業者に持たせてい とめ ると、時には濫用の虞もある部分だけは、これを団体の管理に留ておいて、しかも彼ら の利益のために使うということは、以前失ってしまった共産制の補充としても、はたま た同地住民の新たなる結合方法としても、たしかに一挙両得の妙案といってよい 利己的ならざる産業組合の拡張、良心に忠なる農民組合の改造、その他現存組合のい ずれか一つの努力によって、まだ農村の希望はいくらでも成長するわけであるが、各種 おそれ

3. 都市と農村

福に害あって益なしと、認めている者はすでに多い。しこうして私有制度の本塁を動か すことなくして、この状態を改善すべき方法は、まだいくつでもこれを考案することが できる。現にこの政府などが、地主の廻し者かという邪推を忍んでも、なお実行してみ たいという自作農化などもその例である。土地は耕す者の持っているべきものというこ とは、少しも教訓の必要なき自然の知識であったにもかかわらす、後に二つの原因が現 れて段々にこれを妨碍した。一つには地主の耕作不能、これには相続その他の複雑した 事情もあるが、最初はます慾張って余分のものを取込んだのが元であった。二つには農 村の自立心の減退、すなわち若干の心細き地位にある者が、好んで外部の保護を誘致し かきみた て、内輪の共通利害を掻乱したことであった。この二つの禍根に手を著けぬ限り、わす かばかりの自作農戸を、作ってみたところが焼石に水である。 政府がいかなる方法・数・形式を問わす、自作農さえ作ればよいと信するの誤りなる うぬはれ ごとく、組合がいつでも地主さえいじめていれば、それで成功するかと思うのも自惚の 行止まりである。現在の状勢を以てすれば、なるほど自ら耕作する能わざる土地所有者 は弱者である。殊にはかない二町三町の地面を財産と頼み、働くにも働けない境遇に縛 られている者のごときは、むしろ同情すべき貧民の候補者である。これと物々しい戦端 じやすい

4. 都市と農村

102 かれんしようおく て窓から顔だけを出すという類の、可憐の小屋を意味することになって、都人はむしろ これらの名を以て喚ばるることを恥するかの面持さえあった。これはあるいは極端の例 であるにしても、全体において十分なる異国意匠の踏襲にもあらす、また長期の実験に つき 基いた綜合でもなくして、単なる少数者の思い付を、流行として早く世に布かんとする もの、別の語で言うならば農村の旧習に縛られがちな人々が、容易に手を出そうとせぬ ものばかりを、一括して固有の生活技術と対立させようとするならば、これを文化とい うことの当否は知らす、少なくともこの数千年来の単一民族の間においても、現在は確 に二箇以上のいまだ調和せざる生活様式は併存している。 たどころくわどころ ひらば おくざいしょ かいどうすじ 同じ農村の中でも平場と岡沿い、奥在所と街道筋、いわゆる田処と桑処などは、生活 よめむこやりとり 様式がすでにはなはだしく区々である。嫁聟の遣取にさえも故障がある。ましてや町風 が村の土になじみ難いのは当然のことで、それが無意識の統一に進もうとすれば、ます 動揺と混乱との若干の犠牲を忍ぶ者を想像しなければならぬ。しかも新様式の浸潤は必 たがい すしも、いわゆる田園都市の運動を以て始まったのではないのである。村で互に知り相 のち 理解するの交際は、当初生活と作業との均一に始まり、後ようやく富力の等差を見るに 至っても、なお一定の拘東を群の規準から逸出せんとする者に与えていた。現代 : 一 よ おかぞ し

5. 都市と農村

222 れを共有と視たというのみで、単なる共同の私有物ではなかった。不断は何人もわが有 かや と思っておらぬ点に、村を結合せしむる本当の力があった。屋根を葺く萱は一一十年に一 度、家を建てる柱は五十年に一回、おおよそ順番に採ることができれば、人は互に助け て居住の問題だけは、解決することができたのであった。ュイの制度はこの場合にも行 われていた。しかるに一人の現在利用者以外、他の大多数がこれを無益と感するに至っ それは到底今までの共同生活に対する、正しい て、分割は容易に輿論となったのだが、 決済ではあり得なかったのである。 九土地の公共管理 不幸にして農村の故老たちは、何ゆえに古制を守らねばならないかの、理由を説明す かなり忍び難い強圧を必要 る途を知らなかった。しかもその一致を保持するためには、 としたので、一つには反抗の気風が、幾分か崩壊を速めたような形があった。知らすに こわ 毀してしまったものの後始末としては、現在の組合運動などは意外にも取掛りが早かっ た。今ならばまだ決して間に合わぬというほどに、手遅れにはなってはいないのである。 多くの生産過程の共同処理法には、かえって技術の新しい時代に適したものが見出され なんびと ゅう

6. 都市と農村

下にこの不吉なる流行が始まったのであるか。これはます農村に住む者自身、恐らくは すでに心付いているところであろうと信する。 第二の疑問は種類多き農村の中で、いかなるものが特に袞微し、いかなるものがやや その災を免れるか。それを判別し得た者が果してあるかどうかということである。村の 広狭・地位・便宜、その他いろいろの事情の変化を一貫して、どれでも皆衰微というこ なんびと とはあるまいと思うが、何人が果してわが居村を、その最も気の毒な一つと認定するこ しかなる とを得るのであろうか。なお一歩を進めて考えると、農村の衰微ということは、 状態を指すのであるか。ここからます尋ねてかかる必要が現在はまだあるように思う。 もし我々が案じているごとく、人がしきりに説くゆえにわが土地もまたそうであろう と思い、事実農村には衰微した例があることを知って、自分の村もその中に属するかと 考えることが端緒であるならば、それはまさしく警戒を要する危険である。村の主たる 、 4 0 、 4 住民がそんなことを考えて、元気を保持し得る道理がなし しすれの土地、何の職業を 問わす、自信と元気とは常に繁栄の基礎であり、それがなくなれば繁栄は停止する。衰 微でないまでも衰微の兆候である。しこうして現在憂えられているのは零落そのものに はあらすして、実はやや目に立っその一般的傾向であるのだから、何のことはない我々 わざわい あるし

7. 都市と農村

196 しているゆえに、論理上今土地を買受けて、自作農となるのも結構と言うわけには行、 ぬのである。いくら低利の金を借り、その上三分の一の利子を手伝ってもらおうとも、 元金の高いのは直らない。現在一反四百円の田が、やがて二百円にも百円にも下るもの とすれば、急いで買おうとするのは明かに不得策であるが、果して農民組合側の註文通 り、地価がどしどしと安くなって行くかどうか。農林省から公表した評価法というもの ふみたお は、地主の眼で見れば思い切った踏倒しで、あるいは買手の肩を持過ぎたという者があ るかも知れぬ。しかしこの算定の基礎はただ現在の安全率で、いまだ予測すべからざる たん 将来の変化までは考えてない。例えば小作に関する法律が新たに通過して、段当り十五 円を超ゆる小作料は取るべからずという類の、規定が出来ようとは何人も思っていない 小作人らにいろいろの労働機会が出来て、反十円より高い小作料を要求するなら、借り てやらないと言切り得る時代が、そう早くは来そうにもないと思っている人たちが、こ うすずみいろ の案の実現を急ぐのである。日本の細小農の未来を薄墨色を以て彩り、彼らの永遠の困 窮にこれほどの確信をもつ者が案出した振興案に、果してどれほどの価値があるであろ かかる不吉なる予言を的中させぬために、我らの試みてよい方法はまだたくさんある。 なんびと

8. 都市と農村

れが物蔭の事実であったとすれば、仮に都市同住者の共に騒ぐことを期し難しとしても、 故郷の村々にとっては大きな問題でなければならぬはすである。村を出てしまった以上 ひと は他のことと、気軽に見てしまうところに人情の割れ目がある。これではまだ全国家の 幸福のために、都市の改造を企てるだけの十分の準備があるとは言えない ただし幸いなことには現在のところ、知りつつこのような疎隔の道を歩んでいる者は まだいたって少ない これが世の中の常の姿、各人のカの如何とも致し方なきものと、 実は思い切りが少しく好過ぎたというまでである。果して農村が都市の乱闘を救い得ぬ ほど無力であるかどうか。都市との関係は現在ある形がただ一つのもので、押しても引 いてもこれ以上に動かしようがないかどうか。私などはまだ研究の余地が十分あると思 民 農っている。我々は市人たると村人たるとを論せず、すでに社会をもっと住みよいものに 成しようという志を抱いている。また新しい代に生れたお蔭に、自由に物を判断する権能 市 都を認められている。強いて一つの道を歩めと命せられると、これに反撥するの気力をさ 章 え具えているにかかわらす、なお書物なり人の説なり、ないしは久しい行掛かりなりに、 第 知らす識らすの間に自分を拘東せられていたのである。それから脱却する路はただ一つ、 まず精確に周囲の事実を知ること、次には理論をこれに当て篏めて、それが果して自分

9. 都市と農村

、しひか 種々なる新しい疑惑と要求とが、都市に対してはまだ不必要に差控えられている。将 来の最も安全なる生活方法を決定するために、この遠慮だけは早く撤回する方がよいと 私は思う。しかも隔意なき交通を開くべき準備としては、現在の同情はまだ少しばかり ゆきがか 不足であるかも知れぬ。それと同様に相互の立場、以前の行掛りを理解する方法がなか がんめい つのつきあい ったら、いわゆる批判の自由はただいたすらに頑冥の角突合の別名となるかも知れぬ。 それゆえに自分は特に日本の都市が、もと農民の従兄弟によって、作られたことを力説 したのである。 りゆ・つへ 農民が自己の力を意識せぬことも、年久しい流弊の一つであった。国が新たに彼らの 発奮に期待すべき今日の世に際して、最も激励忠言の適任にある者が、黙して無益なる あいおん 悲観の哀音に耳を傾けていたことは、親類としてはいかにも親切のない話であった。と ころが幸いなことには、ここに私という者が一人、今の都市人の最も普通の型、都市に 永く住みながら都市人にもなり切れす、村を少年の日のごとく愛慕しつつ、しかも現在 の利害から立離れて、二者の葛藤を観望するの境遇に置かれていたのである。私の常識 は恐らくは多数を代表する。仮に偶然にまだ冷淡な人たちでも、段々考えて来ればこう いう、い持に、やがて一致することができるであろう。すなわちこの自信が特に私をして、

10. 都市と農村

た自作小農だけは、もうこの点については高みの見物をしている。 三たった一つの小作人の弱味 単なる史論としては、明治初年の地租改正の際に今日の米価を見越してもし小作料も 金納の制度を立てておいたならば、何人も余分に苦しむ者なくして、細小農場は今少し としかぞ く栄えたろうと言い得るか、これは死んだ児の齢を算えるようなものである。現在では 新たに法律を設けて金納を強制するか、そうでなければ個々の契約を変更するの他に道 また単に金納の方法に改めてみたところが、それが今日の程度に有利でないと、 いかん 貸主が同意をせぬという以上は、如何とも致し方がない。合法の範囲においては、それ 途 のならばも、つ借りない、作ってやらないと、強く一言切ることができるか否かによって、 題 ずれとも問題を決すべきであることは、あまりにも明白なる常識であるにもかかわらす、 多くのこの頃の小作論議を見ると、まだこれ以外にも何らかの方策があるかのごとく、 人を誤ったる希望に導いて、後かえって深き失望を感ぜしめることを、省みない者があ 第 るのは不本意なことである。 日本に小作騒動というものが始まって、今でちょうど三十年ほどになる。この間に 183