言及したことがない。いまあらためて、東日本大震災のあとに、読みなおされるべき著 作のひとつになったと感じている もう二十数年前のことになるが、あるとき、都内の大学の小さな研究会に呼ばれた。 そのとき、わたしは『都市と農村』を手がかりにして、まさに都市と農村というテーマ で話したのである。柳田はその著作のなかで、都市と農村の将来の関係がいかにあるべ きかを、みずからの歩行と思索にもとづいて問いかけていた。研究会での発表など、す ぐに忘れてしまうものだが、その場で交わされた議論のある場面だけはいまだに鮮やか しくつかのシナリオが考え に記應している。これからの都市と農村の関係については、、 られるが、柳田が語っていたように、都市と農村はこれからもなんらかの有機的な循環 の関係を結んでゆくべきだ、そう、わたしは語った。それにたいして、ひとりの、まだ 二十代の若い研究者が静かに、けっして挑発的にではなく、こんな言葉を投げかけてき たのだった。わたしは東京で生まれ育ったので、農村とか地方というものを体験的にま るで知らないし、関心そのものがない、だから、将来のシナリオとして、農村のような 場は消滅していいと考えている、農村が担ってきた役割や機能は、都市自身がテクノロ ジーによって代替的につくり出し抱え込むことができるし、そうして都市が自立的に都
294 でない。以前の計算は恐らくは食物の供給を主とし、秋になってまた若干の生産物 とうど を分配する習いがあったのであろう。小正月の日の酒盛にその年の田人を招いて、 せつ 節の食事を共にする家などがあるのは、元は多分この契約の一つの方式であった。 ついたち 八月朔日をタノムの節供と名けて、食物以外の贈品を交換した慣習も、まだ精しく 説明することはできぬが、やはり農事と関係があったことだけは確かで、信用組合 を意味する古来の日本語、タノモシという名詞と語原が一つだから、すなわちュイ の制度の一部であったことが察せられる。 ( 二一七ー二一八頁 ) 「村の協同の一番古い形」として、ここに見いだされているのはユイである。ュイと は協同の労働をさしている。伝統的なユイの慣行の痕跡をもとめて、柳田は農村の民俗 に眼を凝らしている。わたし自身は、中元の贈答の源流としてのタノムの節供から、対 面関係のなかで金銭の融通がおこなわれた、信用組合の起源ともいうべきタノモシへと 連なる、ユイという社会的な制度の文脈における見えない線分を浮かびあがらせようと する柳田の思索のありように、奇妙な感慨を覚えている。柳田はそれを、共産主義的な るものの萌芽として思い定めていたにちがいない なづ
他の多数の常民が、何をしていたかを説明することもできない。 一生身を売って異姓の 戸に編入せられた者は、なるほど確かにいたことはいたが、それが家族の内の働くべき 者と、どれだけ自由さの相異をもっていたかは、今少し調べてみなければよく分らぬの ばいとくぬひ で、その上いわゆる買得奴婢は、数もまたいたって少かったのである。主従関係の思想 には明かに近世の変化がある。その上に外国文字の対訳も、また我々の考え方を誤らせ ているかと思、つ ャッコの意味はもと「家の子」も同じことで、単に家にいて働く人々というまでの語 である。現に土地によっては今でも家の青年をそう呼び、あるいは厄介などという無理 な字を書いて、同居者という語に使っていた人もある。家の子の子はすなわち労働単位、 のこれを統括し指揮する者が親方であった。今では本物の親よりも、かえって長男のこと 百をオヤカタと呼ぶ方言が弘く知られているのは、つまりは総領が事実において、夙に労 水 働長の権能を行っていた名残であった。都市においては親方子方の語が、 ほば同じ関係 章 に今もなお用いられている。いたって簡単な何でもない事実のようだが、これ一つでも 第 我々の共同作業が、昔はどんな形で成立っていたかを考えることができる。すなわち今 日の親と子の家庭が始まるよりも前から、子らの間にはオヤというただ一つの中心があ
それが奉公に年季を切って、後は控え百姓の比較的自由な暮しをさせることになると 共にこの請負作の面積がやや多くなり、親方直営の区域を縮小する傾向の、現われたこ とは事実である。この二つの事実はいずれが原因、いずれが結果であったかは決しにく 、。いわゆるオヤコの関係は結んだというものの、新たに他家から来た者でほかに縁者 も多く、今まで一家・竈譜第の者に対した通りに、、いを許すこともできないところから、 わすら なるべく煩わしい指揮監督を不要にせんとしたものか。ただしはまた銘々の楽しみ作り を多くしてやらぬと、落付いて年季を勤めようという張合いがなかったためか。ただし はある程度までの保護の責任を軽めようと試みたものか。はたまた反対に手作の必要が 日以前よりも少なくなって、残りの田を幸いに年季奉公の志望者に、後になって分けて作 のらせる計画を立てたものか。恐らくは諸種の事情が皆参加して、次第に今日のごとき冷 百淡なる土地貸借関係にまで、進んで来る素地を作ったのではないかと思う。 水 全体に家族の員数の、少しずつ減少して行く時代であった。稀には東北地方などにな 章 こんせき かがや 6 お痕跡を留めているが、以前は長者の豪富を耀かすべき、ほとんどただ一つの目標は台 めつば、つ ぬかのもりはしづかよねしろがわ 所の滅法に大きなことで、糠森・箸塚・米白川の伝説などは、ことごとくそれと結び付 よわざと けて想像せられていた。数十百人の男女は笑いさざめいて夜業を執り、また面白い話や かま・たい
大岡信 古典詩歌の名作の具体的な検討を通して、わが国の文芸の独自性を - 、日本的美意識の構造をみごとに捉えた名著。大岡信の評論の一 うたげと孤 代表作。 ( 解説日三浦雅士 ) 〔緑二〇二ー二〕本体九一〇円 - 怪人一一十面相と明智小五郎、少年探偵団の活躍する少年文学の古典。一 一江戸川乱歩 戦前戦後の第一作を併せて収録。 ( 解説日佐野史郎、解題ⅱ告田司 怪人二十面相・青銅の魔人 〔緑一八一ー二〕本体九一 0 円 平・柳田国男 農政官として出発した柳田は、農村の疲弊を都市との関係でとらえ一 た。農民による協同組合運営の提言など、いまなお示唆に富む一書。 最都市と農村 〔青一三八当一〕本体八四〇円一 の 庫 アントワーヌ・メイエ / 西山教行訳先史時代から第一次世界大戦後までを射程に収め、言語の統一と分一算 化に関わる要因を文明、社会、歴史との緊密な関係において考察し・加 波ヨーロッパの一一一口五ロ = = ロた、社会言語学の先駆的著作。〔青六九九ー一〕本体一三ニ〇円一税 岩 : 今月の重版再開 : 一大岡信編 本体九五〇円石田英一郎 本体九七〇円一椒 窪田空穂歌集〔緑一五五 , 三〕新版河童駒引考〔青一九一一工〕 ・表 ー比較民族学的研究 高津春繁 本体八四〇円 メンヒエンⅱヘルフェン / 田中克彦訳本体九〇〇円 - 価 一定 一比較一一一口衄ナ入門〔青六七六。一〕 トウ、ハ紀打〔青四七 7 一〕 ( 解説日赤坂憲雄 )
6 融通とが親密になると、それまで「中央の寵児」になろうとして競いあい、敵視しあっ てきた都市のあいだに、「確実なる対等交通」が成り立つようになる。そして、その利 益はさらに都市の周囲の農村部に及んで、いわば都市と農村との関係はあらたな段階を といったところだ ( 第一〇章 ) 。対話の芽くらいは、そこから生ま 迎えるかもしれない、 れたにちがいなし 、。はたして、四十代の末になっているはすのかれは、農村は消滅して いいと語るのだろうか これは市民向けの講座の一冊として書き下ろされた著作である。刊行は昭和四年であ り、その時代状況が色濃く刻印されている。「農村の衰微」という言葉が、時代を象徴 するキーワードのように頻出する。さだめし、われわれの時代における「限界集落」 「地方消滅」といった、どこか扇情的なキーワードの先駆けといったところかむろん、 し力なる状態を指 柳田その人はそうした流行りの言葉に対峙して、「農村の袞微」とは、、 すのかと、あくまで前向きに、いわば建設的な態度をかたくなに保ちながら問いかける のである。
を追うごとに、さまざまに変奏されてゆくが、そこには日本の都市にとっての過去・現 在・未来をつらぬく普遍的なイメージが託されていた。 支那をあるけば到る処で目につくような、高い障壁を以て郊外と遮断し、門を開い て出入りをさせている商業地区、そんなものは昔からこの日本にはなかった。しか あらた るに都市という漢語を以て新に訳された西洋の町場でも、やはり本来はこの支那の 方に近く、言わば田舎と対立した城内の生活であった。もっとも近世はどことも人 あふ が殖えて郭外に溢れ、今ではむしろその囲いを邪魔者にしているのだが、しかも都 市はなお耕作・漁猟の事務と、何ら直接の関係を持たぬというのみではなく、そこ には市民という者が住んでいて、その心持は全然村民と別であった。都市の歴史は すなわちその市民の歴史であった。 ( 一六頁 ) たしかに、中国の都市のイメージは、日本のそれとは大きく異なっている。高い城壁 によって囲われた都市が、その外に広がっている郊外とは劃然と隔てられているイメー ジである。人々は城門をくぐり、行き交う。都市 / 郊外は視覚的にも、あきらかに二元
じているのは何ゆえであろうか。私たちの見るところでは、都市に住む者の二種の農村 観は、一つは常人の自然に抱こうとする考、他の一つの農は不便なもの、何とかしてや なづ らすばなるまいという風な見方は、元はただわずかの為政者の、公徳とも名くべきもの こんこ、つ であったと思うが、二者はいっとなく分界不明瞭に混淆している。これは恐らくは中間 にさらに今一つの心軽く、かっ双方から感化を受けやすい階級の、漸を以て発生したこ よ とを意味するものであろう。しかしその階級が円熟して市民の中堅となり、十分なる輿 論能力を持つに至るまでの過程が、まだ詳しく尋ねられたことがないゆえに、都市対農 村の関係の中には今以て説明しにくいいろいろの現象が横わっているのである。例えば 現在自分たちが多数の力を以て参与している国の政治に向って、始終救済を要求しつづ けているのさえ変だのに、それがいつまでも答えられず、または答えられても何の効果 の見るべきものがないというがごときは、あまりとしても不可解なる田舎風であって、 それを当り前に思っているなら、町風もまた奇妙である。 六京童の成長 都市の構成には村から移って来た武家・町役・御用方、人夫・諸職人・物売などのほ かんがえ ふびん
240 下にあったことをも意味するのである。 平和の百姓一揆 れんめい 一揆という語は『太平記」などを見ると、もとは小さな武人の聯盟の名であった。い かけひき わゆる小名たちの切れ切れの武勇では、功名を野戦の掛引に期し難かったゆえに、事あ るに臨んでこういう申合せでもしたかのごとく、解している人か多いかと思うが、もし 平生の生活上の利害が、かねて彼らの和親を導いていなかったら、動乱はむしろ相互の むさし 侵略に、便利なる機会であったかも知れぬのである。武蔵の私の党などは血縁の起原を さえ想像せしめる。そうでなくとも通婚その他の交際が夙くからあって、土地の隣接と そな いう以外にも、彼らを団結せしめすにはおかなかった何かの理由が、社会的には具わっ ていたのである。相隣りする二つの部落は、異なる領主に属した場合はもちろん、一領 きっこ、つ の下にあっても通例はよく争い、争わざるまでも拮抗していた。それが孤立の微力を感 するなり、もしくは事業の困難を覚るなり、とにかくに進んでいわゆるその揆を一にせ んとしたことは、恐らくは各自の経験が元であって、別に外部にあってこれを命じまた 従ってその相互の関係も、対立平等のものであった。現 は促した者はないのであった。 , いっき しよ、つみよ、つ はや
て、感奮を以て人心を繋縛しなければならぬ結果にもなる。それが久しい間の被指導生 しゅんち 活によって、馴致せられたる習癖であることは、農村はむしろ国よりもはなはだしいの であったが、 事情が適切であるだけに、幾分か早くその弊害に心付き得られるのである。 ちょうどこういう機会にこの問題を考えておくことは、他日国家のために働こうという 者にも必要な練習である。 七前代の共同生産 こんせき こもわかるだけの痕跡を、労力融通の上に遺して 村の協同の一番古い形は、今なお誰 : 組いる。ュイは近世の農業においては、必す約同一数量の労力を以て償還することになっ れているが、家族と農場とに大小の差がある場合には、その計算は決して容易でない。以 ら せ前の計算は恐らくは食物の供給を主とし、秋になってまた若干の生産物を分配する習い とうど せつ 指 があったのであろう。小正月の日の酒盛にその年の田人を招いて、節の食事を共にする 章 ついたち 家などがあるのは、元は多分この契約の一つの方式であった。八月朔日をタノムの節供 第 なづ と名けて、食物以外の贈品を交換した慣習も、まだ精しく説明することはできぬが、や はり農事と関係があったことだけは確かで、信用組合を意味する古来の日本語、タノモ