1 3 をま第朝 ャン・ヴ、 - レム広場にて , K ラインの新車と D ラインのⅡヨ形車 3 ッセルドルフ市街電車をはじめとして , デュッセルドル しかし , D ラインの都市聞高速鉄道化完成すれば , おそ フ周辺の数多くの軌道をその手におさめ , ルール地方の らく次には K ラインが高速化される段取りになるのであ 数多くの市内および都市間軌道の中でも代表的な大会社 ろう . 現にそれにそなえて , すでに 1971 年に , K ライン として , 終始積極的な経営ふりを示してきた . 白と臙脂 で高速試験が行なわれ , 時速 12 ( ) km の運転が可能である の新車は , 1973 年 8 月から K ライン・ D ラインの両都市間 ことがわかっている山だ . 立っている人がいるといって 線と , 市内線の 3 系統などを走りはじめた , デュワーク製 も , それは 2.4m の幅の中に片側 1 人片側 2 人というゆ の 8 軸連節車で , 3 ( ) 01 と 30 : ) 2 の 2 両だけがェアコンディ ったりした座常配置のためで , 通路がふさがるどころか ションをもっているが , 将来は次第に全車両にェアコン むしろまだまだゆとりたつぶりという感じなのだが , 高 速化されて運行回数がより頻繁になれば , さらにまた快 ディションがとりつけられてゆくはすである . デュッセ 適な小旅行がたのしめるようになることだろう . ルドルフでも , ケルン・シュトウットガルト・フランク フルトなどと同じく , 市の中心部で市電を地下にもぐら そんなことを考えながらャン・ヴェレム広場へ戻って せる工事が , 1973 年から始められているが , 将来の地下 きてみると , 工事がちょうど終ったところだったのだろ 鉄形式での運行にそなえて , 新車は両運転台て総括制御 うか , D ラインのホームにも , いつの聞にか電車が人っ 可能になっているはかりでなく , 車体幅も 2.4m と広く て客を待っていた . それは麦梟色に赤帯を一本しめた旧 なり , 換気装置やシートの乗り心地も , 旧車より数段改 形の電車だったが , それだけになっかしかったし , それ 善されているのである . がたまたま食堂車つきの車だったのが , いっそううれし 完全なワンマン運転で , ドアの開閉も , ーっーっのド 丿、った . アの横に押しボタンがついており , 内からも外からも , 新しい 8 軸連節車は , 3 ( ) 01 から 3050 までの 50 両が 1974 乗客が自分の手でそれを押さないとドアが開かないよう 年までに出揃い , その後さらに 15 両が追加された . 追加 になっているなど , セルフサービス化がいちじるしいに 分の中の 31 ( ) 1 から 3 川 4 までの 4 両は中Ⅲ」部が食堂車にな もかかわらす , 切符売りのおばさんの笑顔や , 連転上の っていて , D ラインで使われているとのことだから , 私 制服というものがなく , てんでに好みの服装をしていて か見た旧形の食堂つき電車は , ・今はもう引退してしまっ トックリセーターの連転十さえいることなどに , 人聞的 たことだろう . しかし , 食堂車つき電車の連行というユ なゆとりと , 市民に親しまれている日常交通機関という ークなこの線の伝統が , 高速化・近代化の波にもめげ 味わいがゆたかに残っているのもうれしい . すに生き続けていることは , トラム・ファンにとってま K ラインの , ラッシュ時は 1 時間 5 ~ 6 本 , 閑散時は ことに心強い . これとともにまた , 町外れの静かなター 30 分おきという運行は不足がちのようで , 往復とも満員 ミナル風景や , 人Ⅲ」味にあふれた切符売り場の情景など だったうえ , 帰りには立っている人もいるほどだった . も , いつまでも消えないでいてほしいものだ . 82
金第宿い第宿は、を " ダイコン " 92 Ⅱ ( 3 ) 小樽の臨港線で活躍した 崎・渡辺コレクションを見せて下さっ そうにしておられた姿は今も忘れない していただきたいというのは , 彼を知 た . その時 , 7101 を、、義経号 " として 彼と最後に会ったのは 1957 年秋であ る者の共通した願いであったが , 無情 復元陳列する予定ということを聞いた ったが , その後身体のぐあいを悪くさ な天はそれも許さなかった . 7 月 24 日 7101 は元、、辨慶号 " であり , 、、義経号 " れたという話が伝って来た . やがて手 酷暑の日 , 容態が急に悪化し , 27 日早 は梅鉢鉄工所にある 7105 だということ 紙もカナタイプとなった . 原稿はカナ 朝 , ついに不帰の人となられたという . は , 彼の永年の研究と最近私が入手し タイプの下書きを原稿用紙に書きなお お二人のご子息はいすれも鉄道趣味 たメーカー写真の製番から明らかであ すという手間をかけられたが , 本誌連 人ではないが , 立派な社会人として , 載の「書斎の汽車」 , S LNo. 10 の「北海 父君の遺された貴重な書籍・資料・写 り , 黙ってはいられなかった . 2 人は 鉄道省へ行った . 岡橋という人が係で 道の機関車 1933 年」はこのようにして 真・絵画の保存も未亡人とともに完全 あったが , 「 7101 は旧、、辨慶号 " であり 書かれたものであった . 彼の文章は「鉄 に行なわれることと信しる . 旧、、義経号 " は現在梅鉢鉄工所にいる 道趣味」 1935 年 8 , 9 月のがいちばん 7105 である」という旨を書類にして出 古く , 続編は戦後「機関車」に載せら した . 、、義経号 " の製番の読める写真と この続編は史料的価値も高く北 れた Porter の記録も復写して添付した . 部 海道の鉄道史を学ぶ人の必読のもので 島崎英一氏略歴 あろう . 内にはせつかく決ったのだから 7101 を 大正 3 年 8 月 18 日小樽市にて誕生 、、義経 " として保存するという意見も 晩年は機関車に関する洋書の収集に 昭和 13 年北海道大学理学部化学科卒 力を入れられた . 特に , 70 年前に創刊 出たらしいが , 岡橋・井原氏の努力も 昭和 14 年召集を受け松本連隊に入隊 され , 現在は廃刊の「 Locomotive 」の あり , 7101 は、、辨慶号 " として復元保 間もなく陸軍第 8 化学研究 存されることになった . 全巻揃いは見事である . 同誌を彼が非 所勤務 島崎さんはその後も、、義経号 " の復 常に高く評価していたことは「書斎の 昭和 18 年召集解除 汽車」にも明らかなとおりである . 同 元に熱意を持たれ , 戦後も「機関車」 昭和 19 年 6 月再び応召中国に渡る 誌の別刷原色図版の原画であった Moore 誌に寄稿されたり , 上京のたびに国鉄 技術大尉に任官 昭和 20 年 の油絵を求めて , イギリスの雑誌に広 の幹部や故鷹司平通氏と懇談されてい 昭和 21 年 帰還北大勤務 告まで出されたが , ついに入手されて 1952 年 10 月 , 、、義経号 " はついに鷹 た 智子夫人と結婚男子 2 人 昭和 22 年 終生鑑賞されていた 取工場で動態復元された . 1968 年 3 月 を得られる 病気の方はなかなかよくならす , っ 鷹取工場発行の「機関車義経号」には 昭和 37 年 理学博士 いに 2 , 3 年前に北大を退官され , それらの経緯が記され , 「機関車」所蔵 昭和 40 年 不治の病にかかり療養生 書三味の生活に入られた . ご本業の方 の文章が再録されている . 活に入る の完成期を前にして , 身を退かれるこ そして 1954 年には、、大勝号 " も札幌 昭和 48 年 北大退官 とはさぞかし残念であったろうが , の北大植物園構内に保存されるように 昭和 51 年 7 月 27 日逝去 本人の健康には代えられない . 偉大な なり , その日は私も招かれたが , 彼の 正四位勲三等瑞宝章 鉄道ファンとして , 晩年を楽しく過こ 長年の努力が報いられて , 心から楽し 円 36 - Ⅱ 97
分ほどを二等にして , 三等の腰掛けは板張りで二等の方 はクッションのあるシートでした . まあ開業の頃は二等 にも少しは乗ったかも知れんが , あとは誰も乗ってない ですから , しまいには二等も三等もないようになってし まいました . そうそう第六高等学校のポートレースや , 夏には水上花火大会が三蟠でありまして , その時分は水 上花火が珍しいもんで , 岡山から客がどんどん来て , 客 車 4 両では足らんから貨車を 4 両くらい持って来て , 周 りにずっと柱を立ててぐるりに幕を張り , 内に腰掛けを 置いて乗せました . 花火やポートレースやいうと線路工 夫がすぐ柱を金具で立てて , ロープで落ちんようにして お客を連びました . それ以外の時には改造して使うこと はなかった . ああそれから春のお遍路さんが小豆島にお 遍路めぐり , これがすごいんです . その時も少し貨車を 使ったな . 二蟠が廃止になったのは , 行事のある時は客が増えて も日常のお客が少なかったからです . 客車 2 両と貨車の 編成の汽車でやりよったんでは , 連転十に助手 , 車掌と 人件費もいるでしよう . それともうーっは鐘紡の女工さ んが乗らなくなったんです . それまでは鐘紡に通う女工 さんが朝の 4 時頃から交替しよったんで , その時分には 朝 4 時からもう満員になるくらい . 当時三蟠の沿線で平 井の方から乗るのが川 ( ) 人くらいありました . それが門 田屋敷まで延びて桜橋の駅が山際の網浜になってしもう たんで , それを降りてから紡績工場までが遠くなってし もうて乗る人がヘる . それと貨物は石炭と魚を児島の方 から岡山の七日市の魚市場に運ふのが主な収人だったん です . そんなものもだんだん減る . あの鉄道が 4 マイル 程だったんですね . だから田舎のことだから歩く人もあ るし , 朝の通学も当時中学へ行くのは三蟠村でも 2 人か 3 人です . あの頃 , 大正の終わりから昭和のはじめにかけ て . そんなことでお客も減って収支がもてん , いつもい つも欠損ではどうにもならんから廃止しようという話も 出て来たのです . 私は当時機関士兼機関庫の副任をし とったんです . ここも石炭たきよったらいけん , 気動車 いうて汽車の中にガソリンエンジンをつけたんを買うた ら倹約になるというので気動車を走らせたんです . ちょ うどなくなる前にね . 当時岡山に自動車学校があって , 会社からそこにやってもろうてガソリンエンジンを勉強 して気動車の機関十をしながら皆に教えて , 私がその修 理部の卞任をしておりました . その関係上 , 三蟠がなく なるんならバスにしたら良いんじゃないかと私らが進暠 したら , バスにしようということになって , 市内の内山 下の , 今 , 中国銀行がありましよう , あそこの電車通り に家を買うて待合所兼事務所にして出来たバスが " 銀ハ ス ' ' ( 三蟠バス ) です . これは別会社で藤原さんが一人 二蟠の駅を終点にして内山一ドとの間を で経営にあたり , 走らせていました . ( 以下次号 ) 円 75 ー 9 ーレ 円フ 5 ー 9 ーに 橋駅跡 円 75 ー 9 ー 8 現在の三蟠馮 まま . 一番前に石炭を積んだ貨車をつないで客車をあと にしとるでしよう . 客車だけ止めて貨車をガス会社へバ ックで押し込んでおったんです . また戻ってきて客車を つないで門Ⅲ屋敷の駅へ行くんです . そやからお客さん は約川分くらい止めておかれるんですか , 昔のことです から , 何も言わんと待っとりました . 客車は 4 両で貨車 は 8 両ありました . 客車のうち 2 両は中を仕切って 6 名 桜橋の岡山ガス会社へ の引込線と橋台跡 93
を」野ミ式会社 ) 一 ( ネ「はを衾一む参 、気物社 円 75 ー 9 ー 綱浜駅跡 ( 松岡運送の場所 ) △移築されていた元網浜駅 円 75 ー 9 ーに 上 : 上屋敷ー平井間の鉄橋跡 中 : 平井 ( 下平井 ) 駅跡 下 : 上敷 ( 上平井 ) 駅跡 3 枚とも : 円 75 ー 9 ーに ⑧ 平井のおはあさん そうじゃなあ , 軽便はうちの裏の川に鉄橋があって , そ れを走っとった . 今も基礎が残っとるでしよう . 平井の 駅は , 今新しい家が建っとるあたりじゃった . 上屋敷の 駅は , この上に平井いう家があるその裏あたりやったと 思います . ⑨元機関士柴川義雄氏 私があそこに人ったのは大正 7 年 6 月頃やったかなあ , 生まれは明治 37 年です . 中学の 2 年頃家庭の事で学校 やめて三蟠へカマタキの見習で人ったのです . ・・です から今 , 怪便時代で生きとるのはね , 私と平Ⅲ高一とね もう一人私の助手をしよったんが五町屋の湊いうところ におります . 佐野啓市いうて機関助手をしよったんです 移築されて民家になってい た元網浜駅円 75 ー 9 ー 17 マ桜橋ー湊間の線路跡 1975 ー 9 ー 17 97
個室の比較表 スイロネフ 3 8 ナロネ 2 0 ( ルーメット ) オロネ 2 5 い等寝台 ) 個室定員 ( 名 ) 個室幅 ( ) 個室奥行 ( ) 個室高サ ( ) 寝台方向 横手 2. 基本構想 寝台の構造 固定 オロネ 25 形式寝台車は 24 系列の客車であり , 車体の大き さ ( 連結面間距離 21.3m , 車体幅 2.9m , 全高 4.09m ) , ずらわしさは避けられない . 台車・空気プレーキのシステム , それと電源車方式によ 個室寝台のスタイルとしては , ナロネ 20 形やニ ュ - ー・シ る A C 440V をサービス電源としていることなどは , 他 ーランド国鉄のシルバースター号のように寝台を車体の の 24 系客車とまったく同じである . 両側に長手方向に配置する方法もあるが , ナロネ 20 形な ただし , 室内設備については , 高水準の新構想とする どと違って寝台とソフアとを共用すると , この方法は昼 こと , また時代の要求として人手がかからないことなど 間時の快適性が確保できず , また通路幅も 60cm 以下と が , 既存の 24 系 A 寝台車オロネ 24 とは異なる点である . なり , ナロネ 20 形のように半車程度の長さならまだし また夜行寝台列車とはいえ , 東京ー西鹿児島間ともなれ も , 全車にわたって続くと通行上の支障もある . これに ば , 昼間乗車時間帯が長く , たとえ東京ー博多間として 対し寝室を横手方向に配置した方は昼間の居住性がたい も約 18 時間の乗車で , 就寝以外の時間がかなりあり , 寝 へん良いのでナロネ 20 形の 2 人個室と同様 , 車体横手方 台使用時以外の居住性を軽視することはできない . 向の寝室とした . このような特性に応える寝台車としては , 戦前にマイ ロネフ 37290 ( スイロネフ 38 ) , 戦後にマイネ 40 , そして 20 系のナロネ 20 の各形式があり , いずれもコンパー 3. 車両のレイアウト 個室寝台車の設計に先立ち , 実物大のモックアップを試 ント式の寝室を設けている . その他に海外には , 南ア連 作しモジュールとなる寝室の広さを検討した . その結果 邦のプルートレイン , オーストラリアのインディアン・ 寝台の大きさは , 以前に人間の就寝行動解析から求め , パシフィック号などがあるが , 前者の特別車は 1 両の定 員が 6 名という諸元であり , 後者も 3 昼夜の旅行をする その後の標準寸法になっている 700X1945mm のサイズ を踏襲した . 寝室スペースの幅は , 寝台幅に 465mm の のにふさわしくピアノがあることからも判るように , い スペースをつけ加え , 1150mm とした . この寝室の幅は すれも水準が違い過ぎてわが国鉄の現状にそぐわない . 決して広い寸法ではないが , オハネ 25 の 17 番席にある 2 いつばう欧州にはワゴンリーの寝台車が多数活躍して 人用区画の幅とほば同じ寸法で狭い寸法でもない . この いるが , A 寝台車に相等するものは , ほとんど上段と下 結果 1 両の寝台定員は 14 名とした . 寝室内の生活設備は 段とがある個室方式の寝台で , 希望により高い料金で 2 人用個室寝台を 1 人で使うこともできる体系を作ってい オロネ 25 諸元表 る . この時は上段寝台はたたみ込まれたままで , コンパ 連結面間距離 ートメントのスペースを 1 人で広く使うことができる . 車体幅 一般にこの種の寝台車の方式としては , (i) 個室 ( コンパートメント ) 方式 高 全 (ii) 寝台とサロンとの組み合わせ の 2 方式が考えられるが , オロネ 25 形では , (i) の個室 車 形式 方式ー一一特に 1 人個室 ( ルーメット方式 ) とすることに プレーキ装置 房 装 置 / 11 この方式は , 乗客のプライバシーが完全に保たれ , 最 房 能 カ 近の旅客の嗜好にマッチするほか , べッドとソフアとを 暖 方 式 温風暖房 房 兼用にすることにより , 寝台設廃の手間が省け , また乗 能 カ 暖 房 30kW / 両 客は好きな時に , ソフアに横になることもできる . もっ 製・ 初 年 逗 昭和引年 とも空間の占有効率を考えれば , 2 人個室の方が効率は 良いが相部屋となることもあり , 寝台券の販売面でのわ ( 注 ) 右側に C 印がいているのはオハネ 25 形と同し ョーロッパで見られる TEE の夜行版といわ れる "TEN ” 写真 : 野村董 2 5 9 0 2 3 0 0 ー 9 4 5 2 3 5 0 ー 9 0 0 ー 0 4 6 2 5 0 0 横手 固定 長手 〇〇〇 2 し 300 2 ′ 900 4 ′ 090E 名 T R 2 ロ C CL 方式自動空気プレーキ A U 77 形 X 2 台 20.000kca レ h / 両 〇〇〇〇 65
島崎英一君の葬儀が行なわれたとき贈 られた戎名である . 島崎君は過去 10 年 ほど不治の病で , 少しすつ手足の連動 や言語活動などがむしは、まれていたが 知能は少しも侵されす鉄道趣味に心か らすばらしい熱情を示していた . 死去 される 3 日前の 7 月 24 日までイキ・リス の鉄道雑誌を言売んでいたということは われわれ鉄道趣味人としてはまことに すは・らしい業績であったと思っている . 彼は 7 月 24 日から急性肺炎で 40 ℃位の 熱を出し , 27 日午前 1 時 50 分に自宅で 死去されたそうである . 私が彼を知ったのは、、鉄道趣味 " の誌上であり、 その後昭和 15 年に川上 幸義君と親しくなって彼の話をよく聞 くようになった 彼と直接趣味の話を 島崎さん撮影のオールドアメリカン・ロコい ) 元北官のロジャース 7350 形 するようになったのは , 今から 27 年前 手宮分庫にて 昭和 24 年 4 月に私が北大の講師を拝命 したときからであった 書斎の島崎さん 彼の趣味の範囲は北海道の機関車、、義 っき「書斎の汽車」が楽しめます . 小 経号 ' ' からはしまって , 鉄道車両を主 西尾克三郎 生急激な変化はありませんが , 少しす 体として歴史的に深く進められていた . 島崎英一さんが昭和 51 年 7 月 27 日朝 , つ進行している様です . しかし毎日務 特に北大の北方資料研究室に所蔵され 61 才で亡くなられた . 私にとってまた めに出ています〉本誌の昭和 42 年 1 月 ていた幌内鉄道の資料のうち , J. U. 一人蒸気機関車を愛した友を失ってし 号から連載された「書斎の汽車」の構 Crawford 技師の手紙などについては , 想はこの頃にはまとまっていたようで まった . すべてを調査してその歴史を掘り起し ある . 本についてはく Vo 1 , 2 の p. 170 昭和 12 年 7 月 16 日 , 小樽駅での出会 の色刷プレートは機関車の外形や色彩 ていたまた , イキ、リスの機関車には いのあと , 島崎さんは私と米本義之さ 大きな興味を持って , 、、 Locomotive 読、 の正確なことで今尚高く評価されてい んを連れてロシア人の美しいマタ、、ムの を最後には全巻取揃えて楽しんでいた ます . この種の試みでは世界でも最初 いるバーへ案内された . もちろん小樽 このような幅広い研究的な態度を持 築港・手宮・苗穂工場へと私たちを連 のものです . 重複して手元に置いても って趣味を進めていた彼の特徴は , 日 れて行って下さったのは言うまでもな 無意味だし , ムーア書店発行当時の古 本では珍らしい姿であり , イギリスあ ことである . いものだし , 貴兄へ進呈するのか最も 島崎さんの北海道の古典ロコの研究 たりの趣味人と相対しても少しもひけ 良い様です . 又貴兄の処にあれは、多く は戦前から有名で , 「鉄道趣味」誌や戦 をとらない立派な大人の趣味であった . の人の目に止る機会もあることでしょ 後は「機関車」誌に研究の成果を発表 このことは彼が趣味誌に発表した論文 う〉私は島崎さんの期待に反して , し , それらは国鉄の、、辨慶 ' ' ・、、義経 ' ' ともいうべき研究結果で明らかであっ の本を大切に仕舞いこんでしまった たことは , 趣味人各位が既に承知され の復元工事の際に参考資料として重用 とを悔んでいる . その後病気のため北 された . 島崎さんが鷹取工場の、、義経 ているとおりである . 号 ' ' を見られたのは昭和 36 年 4 月 , 満 彼と私の趣味の楽しいっき合いで今 満開の桜の下で " 義経号、 ' を見学する島 でも忘れることができないのは , 北海 開の桜の木の下で案内役の今村潔さん 崎さん . 右は今村潔さん . 道炭鉱鉄道手官工場で製造された、、大 と楽しく語り , またキャプへ入ったり 取工場にて 円 6 に 4 勝号 " の保存のときに , その経歴を明 この頃は元気に見受けられた . 昭 で , 和 39 年 6 月に私か札幌のお宅へ寄った らかにして新聞社に働きかけ , その実 時の島崎さんは既に病気が進んでいた 現に努力してくれたことであり , また 、、しづか号 " の復元については資料を のか , 歩行がやや不自山で , もつれる 提出して大きな協力をされたことであ 足元を見た私は何か不吉な予感を抱い たのを憶えている . その時は「ロコモ 彼は昭和 28 年に鉄道友の会か発足し チーブマガジン」を全巻揃えた苦心 談を聞かされたが , そばの智子夫人が たときは直に参カ日されて , われわれと 笑いながら「大学の研究書が一冊また 共に楽しい趣味活動をしてくれたこと 一冊と消え , いつの間にか汽車の本が は忘れることができない 書棚を占領しました」と言われた . 翌 いすれにしても趣味人として高い程 年秋 , 島崎さんから自筆の手紙ととも 度を保ちながら楽しい活動をしていた に「ロコモチーブマカ・・ジン」の第 2 彼は , 日本の鉄道趣味の発達の一部面 3 巻合本の 1 冊が届いた . 表紙裏に見 を立派に育て上げてくれたものと信し な筆跡で「謹呈日本のムーア氏 ている . 今はなき彼を思いその趣味的 西尾克三郎兄昭和四十年秋島崎英 な功績のすばらしかったことを , 心、か ー」と代筆で書いてあった . 手紙はく当 ら不尓えて冥幅をお祈リする . 地はもう冬の前の一時で , ストープも 昭和 51 年 - 8 月 10 日記 0 円 34 ー 4 95
新しい 8 刺観節車 ら出ている , 一大電車発着センクーである . 広々とした トへ行く K ラインの , 2 つの都市Ⅲ」路線の電車もここか クへ行くいわゆる D ラインと , 北西 20km のクレフェル の路線か集中しているほか , 北方 25km のドウイスプル ャン・ヴェレム広場は , 駅前と同様にたくさんの市電 らと歩いていった . よっている街を , 私はヤン・ヴェレム広場まで , ふらふ ・休みしたあと , 雨が上ってすがすがしい涼気がただ をたのしみにしながら , ひとますホテルに落ち着いた . た風景たった . 私はひそかに心を躍らせ , それに乗るの 新しい電車が走っているのは , 4 年前には見られなかっ イツの電車のイメージを思いきってぬけ出した , いきな 腰と屋根の下が純白という塗色で , スタイルも従来のド のくちなし色の電車に混って , 窓まわりと裾が臙脂色 , 年と変わっていなかった . だが , 典型的なドイッタイプ い電車が間断なく行き交っていることも , 4 年前の 1971 リーをつっ切って敷かれているレールの上を , 恰幅のい も , ホテルの前のシュトレーゼマン広場の , 大きなローク ムに , いろんな系統の電車がしきりに発着していること 広大な駅前広場いつはいに 3 面ほど並んだ市電のホー ながら , 私は歩いていった . 50 ( ) m ほどの聞を , あいかわらす繁昌している市電を見 着いたときは , 雨は小降りになっていた . ホテルまで 空港から連絡バスに乗ってデュッセルドルフ中央駅前に ヴォルマースヴェアタ街にて 79 ドに小さなテープルがしつらえてあるが , さらにくつろ ル張りではあるが , 明るく , ゆったりとしていた . 窓の 片側 1 一人 , 片側 2 人がけの瞽薇色のシートは , ビニ っている 3 系統に乗ることにした . た . K ラインに乗るのはⅡにして , 私は同じ新車が走 はすむことだった . だが , この日はもうタ方に近かっ K ラインに乗ってみようと思っていた私にとって , 胸の ン広場が見かけた白と臙脂の新車だったことは , 今回は しかもやがて人線してきたのが , さっきシュトレーゼマ った . しかし , 隣りの K ラインのレールは光っていた かかったのだな , と考えながら , やはりちょっと寂しか し , ドイツ人らしい息の長い工事もいよいよ山場にさし 貌させるための高架化工事が始まっていたのを思いだ 4 年前来たときに , D ラインを都市間高速鉄道に変 が出ており , レールは砂埃をかぶって銹びかかってい め電車は運休中で , 代行バスが運転されている旨の掲示 D ラインのホームへ行ってみると , 軌道改修工事のた んでくるのを押え切れないなっかしさで , 私をおそって ラインの写真を撮ったりした思い出が , 思わず微笑が浮 車に乗ったり , すぐ隣りの公園を散歩しながら市電や D 間 , 4 年前にここから有名な食堂車つきの D ラインの電 よりは電車列車が往来している情景を眼の前にした瞬 ホームが 5 面ほども並び , ひっきりなしに電車 , という
私が人ったときの社長 が藤原讓太郎いうて , その人が三蟠の藤崎あ たりにある旧家で , 蟠村あたりを通じての 地卞てもあり大金持で した . 藤原譲太郎さん が村長時分にこれをつ くって , その人が亡く なられて息子の藤原知 道さんが社長になり , 昔を思い出しながら線路配置図を書く元 円フ 5 ー 4-8 兀三蟠駅プラットホーム側から駅をみる 今もありますが岡山電機関士柴田義雄氏 大阪関Ⅱの自宅にて円 75-9 ーに 軌の専務をしたり , 終 戦時は岡山バス , 今の両備バスにも関係しておりました ガス会社の石炭を若松から三蟠港に船で持ってきて , 一番最初に出米たのは三蟠から桜橋までで , あなたが会 あそこに揚げて貯炭し , それを軽便に積んで帰るんで うた平田君 , 彼は最初車掌でのちに駅長になりました . す . 桜橋が駅やったときは , 列車が駅へきて貨車をハ 彼が今住んでいる家が三蟠の駅で , 当時二階建ての事務 ックで石炭をガス 所を作って , そこが三蟠鉄道の本社で一階が駅やったん 会社に入れとった です . 裏に石段があって下に降りるようになっており , んですが , 門Ⅲ屋 その降りたところを線路が通っていたのです . そこが起 敷に駅が出来て桜 点で桜橋まで , 桜橋の鐘ケ淵紡績の手前です . 駅名は桜 橋の駅が廃上にな 橋と付けたんてすが , 今の桜橋よりすっと手前に駅が出 ってからは , 引込 線だけが残ってそ 来たんです . それから大正 12 年頃に門田屋敷の国清寺ま で延長したのです . 門田屋敷の駅は旭東小学校の塀があ れが駅の中間にな って , ちょうど表門と並んで駅があり , 塀にくつついて るでしよう . 面白 幅が 2.5m ほどのプラットホームがあったんです . その らきて桜橋の手前 時に本社だった三蟠の建物をはらして , この国清寺に持 で一度止めるんで ってきて下を駅に上を本社にしていたんです . 桜橋は , あそこにガス会社がありまして , その横に小さい川があ す . 駅のないとこ ってそれをはさんで駅が並んでおったんです . ろへお客を乗せた 元三蟠駅 ( 旧に橋駅 ) 元三蟠駅出ロ 円フ 5 ー 9 ー 8 円フ 5-9 ー 8 92
クハ 48 13 を先頭にした上り " ひばり " 東北本線貝田一藤田間にて 1 976 - 5 - 8 写真 : 諸河久 交直流特急電車の活躍 グラフ 東北本線貝田一藤田間にて 1976 - 5 - 8 写真 : 諸河久 ひばり H 一日人 R ー クハ 48 1 " ひばり " 快走
はいえ , めったに人通りのない閑散とした街角の , ゆた かに枝葉をひろげた大木の緑陰でひっそりと憩う電車の 姿や , 出発位置についてから連転士がやおら降りてきて 手に持った棒でポイントを切り替える風景には , チンチ ン電車時代の風情がただよっていた . 一人であちこち歩 きまわって電車を撮っている私を , 角の家の 2 階の窓か ら , 白髪のおはあさんが , じっと眺めていた . 翌日 , 私は K ラインに乗るために , ふたたびャン・ヴ エレム広場におもむき , ホームの上に建っている切符売 りのポックスで , クレフェルト行きの切符を買った . 乳 母車を電車に乗せようとしている女の人を手伝っていた 切符売りのおはさんは , 私が近づくと , 振り向いて , ど こへ行きますか , とニコニコしながらきき , 乳母車を乗 せ終ると大急ぎでポックスの中へもどって , 切符を売 てくれた . 2 マルクと 30 ペニヒだった . 発車すると電車は , アレー通りの真中のグリーンベル トの , この年北ヨーロッパをおそった早ばつのためにと ころどころ葉の縁が茶色に枯れているのが痛々しいが , それでもなお黒々とゆたかなマロニエの葉かげの中を , しばらくゆっくり走ってから , ライン川にかかるオーバ ーカッセル橋を渡る . このあたりの川は , 昨日見たヴォ ルマースヴェアタ街の外れの , 広々とした牧草地のさな かを流れるさわやかなライン川とは打って変わって , 川 原に背の低い木がポソボソと生えているはかりの , 工場 街をつらぬく連河のような川だ . しかし , 対岸のオーバ ヴォルマ - ー - スヴェアク街にて ャン・ヴェレム広場にて クレフ ,. ルト行きの新車 ぎん成じさせた . 広い窓いつはいに繰り広げられてゆく 街の風景を眺めながら , すべるような乗り心地に身をゆ だねているのはうれしかった . 地図を拡げて行く先をた どると , 3 系統は , 町の南部を流れるライン川の岸に近 い , ヴォルマースヴェアタ街というところまで行くの 時々信号に止められたり , 地図を片手に運転台に踏み こんできて運転士に地理を尋ねる外国人らしい男に時間 をとられたりしながらも , 電車はスイスイと気持よく走 って , 地図をにらみながら , そろそろヴォルマースヴェ アタ街だな , と思ったときは , もう終点に止っていた . 前のシートに坐っていたおばさんが , 一瞬そこが終点だ と判断しかねて坐ったままでいた私を , 降りぎわにかえ りみて , ロもとにかすかな微笑を浮べながら , / ト声で 「終点」 , と注意してくれた . そこはもう , まばらな家並みの間からはろはろとした 野菜畠が眺めわたされる , 静かな住宅地だった . ョーロ ループでなくて , ッパの市電のターミナルには珍しく , T 字路を利用した 3 角線になっており , 電車は 3 角線の 1 つの頂点で客を降ろすと , 左へ曲って別の頂点まで行 き , 逆行して , 残りのもうーっの頂点で出発を待つのだ った . 今では車両が堂々とした 8 軸連節車に変わったと シュルス 833 80