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検索対象: 鉄道ファン 1976年11月号
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1. 鉄道ファン 1976年11月号

金第宿い第宿は、を " ダイコン " 92 Ⅱ ( 3 ) 小樽の臨港線で活躍した 崎・渡辺コレクションを見せて下さっ そうにしておられた姿は今も忘れない していただきたいというのは , 彼を知 た . その時 , 7101 を、、義経号 " として 彼と最後に会ったのは 1957 年秋であ る者の共通した願いであったが , 無情 復元陳列する予定ということを聞いた ったが , その後身体のぐあいを悪くさ な天はそれも許さなかった . 7 月 24 日 7101 は元、、辨慶号 " であり , 、、義経号 " れたという話が伝って来た . やがて手 酷暑の日 , 容態が急に悪化し , 27 日早 は梅鉢鉄工所にある 7105 だということ 紙もカナタイプとなった . 原稿はカナ 朝 , ついに不帰の人となられたという . は , 彼の永年の研究と最近私が入手し タイプの下書きを原稿用紙に書きなお お二人のご子息はいすれも鉄道趣味 たメーカー写真の製番から明らかであ すという手間をかけられたが , 本誌連 人ではないが , 立派な社会人として , 載の「書斎の汽車」 , S LNo. 10 の「北海 父君の遺された貴重な書籍・資料・写 り , 黙ってはいられなかった . 2 人は 鉄道省へ行った . 岡橋という人が係で 道の機関車 1933 年」はこのようにして 真・絵画の保存も未亡人とともに完全 あったが , 「 7101 は旧、、辨慶号 " であり 書かれたものであった . 彼の文章は「鉄 に行なわれることと信しる . 旧、、義経号 " は現在梅鉢鉄工所にいる 道趣味」 1935 年 8 , 9 月のがいちばん 7105 である」という旨を書類にして出 古く , 続編は戦後「機関車」に載せら した . 、、義経号 " の製番の読める写真と この続編は史料的価値も高く北 れた Porter の記録も復写して添付した . 部 海道の鉄道史を学ぶ人の必読のもので 島崎英一氏略歴 あろう . 内にはせつかく決ったのだから 7101 を 大正 3 年 8 月 18 日小樽市にて誕生 、、義経 " として保存するという意見も 晩年は機関車に関する洋書の収集に 昭和 13 年北海道大学理学部化学科卒 力を入れられた . 特に , 70 年前に創刊 出たらしいが , 岡橋・井原氏の努力も 昭和 14 年召集を受け松本連隊に入隊 され , 現在は廃刊の「 Locomotive 」の あり , 7101 は、、辨慶号 " として復元保 間もなく陸軍第 8 化学研究 存されることになった . 全巻揃いは見事である . 同誌を彼が非 所勤務 島崎さんはその後も、、義経号 " の復 常に高く評価していたことは「書斎の 昭和 18 年召集解除 汽車」にも明らかなとおりである . 同 元に熱意を持たれ , 戦後も「機関車」 昭和 19 年 6 月再び応召中国に渡る 誌の別刷原色図版の原画であった Moore 誌に寄稿されたり , 上京のたびに国鉄 技術大尉に任官 昭和 20 年 の油絵を求めて , イギリスの雑誌に広 の幹部や故鷹司平通氏と懇談されてい 昭和 21 年 帰還北大勤務 告まで出されたが , ついに入手されて 1952 年 10 月 , 、、義経号 " はついに鷹 た 智子夫人と結婚男子 2 人 昭和 22 年 終生鑑賞されていた 取工場で動態復元された . 1968 年 3 月 を得られる 病気の方はなかなかよくならす , っ 鷹取工場発行の「機関車義経号」には 昭和 37 年 理学博士 いに 2 , 3 年前に北大を退官され , それらの経緯が記され , 「機関車」所蔵 昭和 40 年 不治の病にかかり療養生 書三味の生活に入られた . ご本業の方 の文章が再録されている . 活に入る の完成期を前にして , 身を退かれるこ そして 1954 年には、、大勝号 " も札幌 昭和 48 年 北大退官 とはさぞかし残念であったろうが , の北大植物園構内に保存されるように 昭和 51 年 7 月 27 日逝去 本人の健康には代えられない . 偉大な なり , その日は私も招かれたが , 彼の 正四位勲三等瑞宝章 鉄道ファンとして , 晩年を楽しく過こ 長年の努力が報いられて , 心から楽し 円 36 - Ⅱ 97

2. 鉄道ファン 1976年11月号

鉄道ファン 昭和 51 年 11 月 1 日発行毎月 1 回発行昭和 36 年 11 月 10 日第 3 種郵便物認可昭和 36 年 6 月 13 日国鉄東局特別扱承認第 1098 号 講 A A 、 RAILFAN MAGAZINE 特集 : 国鉄の交直流車両

3. 鉄道ファン 1976年11月号

島崎英一君の葬儀が行なわれたとき贈 られた戎名である . 島崎君は過去 10 年 ほど不治の病で , 少しすつ手足の連動 や言語活動などがむしは、まれていたが 知能は少しも侵されす鉄道趣味に心か らすばらしい熱情を示していた . 死去 される 3 日前の 7 月 24 日までイキ・リス の鉄道雑誌を言売んでいたということは われわれ鉄道趣味人としてはまことに すは・らしい業績であったと思っている . 彼は 7 月 24 日から急性肺炎で 40 ℃位の 熱を出し , 27 日午前 1 時 50 分に自宅で 死去されたそうである . 私が彼を知ったのは、、鉄道趣味 " の誌上であり、 その後昭和 15 年に川上 幸義君と親しくなって彼の話をよく聞 くようになった 彼と直接趣味の話を 島崎さん撮影のオールドアメリカン・ロコい ) 元北官のロジャース 7350 形 するようになったのは , 今から 27 年前 手宮分庫にて 昭和 24 年 4 月に私が北大の講師を拝命 したときからであった 書斎の島崎さん 彼の趣味の範囲は北海道の機関車、、義 っき「書斎の汽車」が楽しめます . 小 経号 ' ' からはしまって , 鉄道車両を主 西尾克三郎 生急激な変化はありませんが , 少しす 体として歴史的に深く進められていた . 島崎英一さんが昭和 51 年 7 月 27 日朝 , つ進行している様です . しかし毎日務 特に北大の北方資料研究室に所蔵され 61 才で亡くなられた . 私にとってまた めに出ています〉本誌の昭和 42 年 1 月 ていた幌内鉄道の資料のうち , J. U. 一人蒸気機関車を愛した友を失ってし 号から連載された「書斎の汽車」の構 Crawford 技師の手紙などについては , 想はこの頃にはまとまっていたようで まった . すべてを調査してその歴史を掘り起し ある . 本についてはく Vo 1 , 2 の p. 170 昭和 12 年 7 月 16 日 , 小樽駅での出会 の色刷プレートは機関車の外形や色彩 ていたまた , イキ、リスの機関車には いのあと , 島崎さんは私と米本義之さ 大きな興味を持って , 、、 Locomotive 読、 の正確なことで今尚高く評価されてい んを連れてロシア人の美しいマタ、、ムの を最後には全巻取揃えて楽しんでいた ます . この種の試みでは世界でも最初 いるバーへ案内された . もちろん小樽 このような幅広い研究的な態度を持 築港・手宮・苗穂工場へと私たちを連 のものです . 重複して手元に置いても って趣味を進めていた彼の特徴は , 日 れて行って下さったのは言うまでもな 無意味だし , ムーア書店発行当時の古 本では珍らしい姿であり , イギリスあ ことである . いものだし , 貴兄へ進呈するのか最も 島崎さんの北海道の古典ロコの研究 たりの趣味人と相対しても少しもひけ 良い様です . 又貴兄の処にあれは、多く は戦前から有名で , 「鉄道趣味」誌や戦 をとらない立派な大人の趣味であった . の人の目に止る機会もあることでしょ 後は「機関車」誌に研究の成果を発表 このことは彼が趣味誌に発表した論文 う〉私は島崎さんの期待に反して , し , それらは国鉄の、、辨慶 ' ' ・、、義経 ' ' ともいうべき研究結果で明らかであっ の本を大切に仕舞いこんでしまった たことは , 趣味人各位が既に承知され の復元工事の際に参考資料として重用 とを悔んでいる . その後病気のため北 された . 島崎さんが鷹取工場の、、義経 ているとおりである . 号 ' ' を見られたのは昭和 36 年 4 月 , 満 彼と私の趣味の楽しいっき合いで今 満開の桜の下で " 義経号、 ' を見学する島 でも忘れることができないのは , 北海 開の桜の木の下で案内役の今村潔さん 崎さん . 右は今村潔さん . 道炭鉱鉄道手官工場で製造された、、大 と楽しく語り , またキャプへ入ったり 取工場にて 円 6 に 4 勝号 " の保存のときに , その経歴を明 この頃は元気に見受けられた . 昭 で , 和 39 年 6 月に私か札幌のお宅へ寄った らかにして新聞社に働きかけ , その実 時の島崎さんは既に病気が進んでいた 現に努力してくれたことであり , また 、、しづか号 " の復元については資料を のか , 歩行がやや不自山で , もつれる 提出して大きな協力をされたことであ 足元を見た私は何か不吉な予感を抱い たのを憶えている . その時は「ロコモ 彼は昭和 28 年に鉄道友の会か発足し チーブマガジン」を全巻揃えた苦心 談を聞かされたが , そばの智子夫人が たときは直に参カ日されて , われわれと 笑いながら「大学の研究書が一冊また 共に楽しい趣味活動をしてくれたこと 一冊と消え , いつの間にか汽車の本が は忘れることができない 書棚を占領しました」と言われた . 翌 いすれにしても趣味人として高い程 年秋 , 島崎さんから自筆の手紙ととも 度を保ちながら楽しい活動をしていた に「ロコモチーブマカ・・ジン」の第 2 彼は , 日本の鉄道趣味の発達の一部面 3 巻合本の 1 冊が届いた . 表紙裏に見 を立派に育て上げてくれたものと信し な筆跡で「謹呈日本のムーア氏 ている . 今はなき彼を思いその趣味的 西尾克三郎兄昭和四十年秋島崎英 な功績のすばらしかったことを , 心、か ー」と代筆で書いてあった . 手紙はく当 ら不尓えて冥幅をお祈リする . 地はもう冬の前の一時で , ストープも 昭和 51 年 - 8 月 10 日記 0 円 34 ー 4 95

4. 鉄道ファン 1976年11月号

も知れないのです . このときの貴兄と 海道大学教授の職を辞してからは自ら 世界に旅立ったのですか . 病魔に襲わ の引合せはなんの因縁だったかはわか 書斎で好きな蒸気機関車の本を読み , れたとはいえ , お逢できなくなり残念 りませんが , しつに不思議なのです . その内容をカードに書くことを楽しみ でなりません . 島崎さん , この世では蒸機は終焉し 思えば , 最初のご交際は荒井文治さ としておられた . ました . しかし私の自論では蒸機も成 前述の「書斎の汽車 4 」で島崎さ んの紹介で昭和 1 年ごろの文通にはし 佛すれば浄土に存在すると思います . まりましたわ . そして最後にご扞眉の んはく私の蔵書の中で , もし誇るに足 ご冥福をお祈りするばかりではなく , 機を得たのは昭和 40 年の夏だったと思 るものがありとすれば否太いに誇るべ います . その後も機関車史の資料や洋 お好きだったスケネクタやロージャス き存在は , 「ロコモチーブマガジン」 書のことなどについて , 書簡を通して との再会の成果を念してやみません . の創刊号から終刊号に至る 65 巻の一揃 昭和 51 年 8 月 26 日記 ご指導下され , そのご恩には感謝して いであろう〉と語り , またく私を楽し おります . この間なんといっても忘れ ませてくれるのは新刊の雑誌ではなく 島崎英一さんを憶う 書棚に並んだ「ロコモチーブマガジ ることのできない思い出は , 昭和 16 年 川上幸義 8 月 26 日の事件です . 貴兄からおさそ ン」のバックナンバーである〉とも書 私が島崎さんと文通を始めたのは 1933 いを受け鉄道博物館を訪ねましたわ . かれていた . それから 9 年が経った本 年頃であったと思う . そして 1934 年春 偶々西尾克三郎さんが上京されていて 年 7 月末 , 一通のはがきを受取った . 彼は当時大阪に住んでいた私を訪ねて 一緒に . そして長尾さん , 井原さん 英光院浄心明徹善清居士 . 葬儀に際し くれた . 私も 1932 年に北海道を修学旅 のご厚意で , 渡辺四郎さんのコレクシ 云々の型通りのお礼状の余白に智子夫 ョンを全部特別に閲覧した・ このと 行で歩いており , 7200 形機関車が長い 人が「沢山の汽車の蔵書の処置は亡き き岩崎輝弥家からコレクションの寄贈 煙突を振り振り , 札幌駅の上り 1 番線 後西尾様に御相談申上げる様話してお 申越しの電話を偶然に傍受したのはわ を走って行くのをながめたりして , 強 りました . 当分は島崎ライプラリーと れわれでしたわ . 行動派の私はあたか い印象を受けていたが , さすがに地元 してこのまま保存しておこうかと思っ も新聞記者のスクープもどきに , 翌々 ております・・・・・・」今は亡き島崎さんも だけあって , 彼のこれら機関車に対す 28 日に岩崎家を直接お訪ねする動機を る愛着と知識の深いのにおどろいた 愛蔵の本がご夫人とご子息昭君 , 裕君 得たのですが , もしこのとき島崎さん 持って来られたアルバムもそういう機 らに見守られていることを喜んでおら のお供をしていなかったら , こんな情 関車の写真で埋められていた れることと思う . 難病と闘いながらも 報は得られなかったことは当然です . 終りの日まで蒸気機関車を愛した島崎 1936 年 , 拙宅は横浜へ移った . その 合法的に立廻ったことと , 岩崎家のお 夏 , 彼と常総鉄道の水海道庫を訪れた さんのご冥福を祈るばかりである . 心、使いが相乗して成功したとはいえ , が , 余りのむし暑さに彼が参ってしま 昭和 51 年 8 月 18 日記 この事件がない限り , 一時に密度の高 った . 暑さに弱いということはその後 35 年前を思いつつ い機関車の写真が大量に舞込むことは もたびたびもらされていたその頃 , 臼井茂信 考えられす , 私の機関車史のしらべは 交通博物館を訪れた . 井原さんという 諸先輩のレベルまで到達しなかったか 方がたいへん親切にして下さって , 岩 島崎さん , どうしてはやく次元の違う 幌内太 ( 三笠 ) にて ( 2 ) 混合列車を引くピッツバーグ製の 9050 形 ( 9064 ) 円 36 - 田 4 1 96

5. 鉄道ファン 1976年11月号

トし ロロ 2 0 0 2003 い冗 ーに登場 / 車 慶応義塾大学鉄道研究会 ム 応 義 塾 大 鉄 道 研 究 交友社 私鉄電車のアルバム 2 編集 / 慶応義塾大学鉄道研究会 ト 344 ページ ( カラーロ絵田ページ ) 上製本 B 5 変形判総ア 愛蔵本分冊の合本 ( 上記カラーイラスト表紙カバ 定価 4300 円 ( 送料 400 円 ) ◇ [ : 」内 : : : 」高性能車の夜明け昭和 29 年 ~ 35 年 心怺イ私鉄電車。 ~ 日 湘南形の流行と軽量車体 2 高性能車の登場 3 旧形車の若返り 1 4 ロマンスカー I 5 量産 ( こ入った高性能車 6 インターハン ( 路面乗り入れ車 ) お買い求めやすく , 下記分冊も好評発売中です . 普及版高性能車の夜明け 定価 1900 円 ( 送料 200 円 ) 普及版高性能車の夜明け ( 続 ) 定価 1950 円 ( 送料 200 円 ) * 普及版は書店の店頭に並びますが , 愛蔵本は並びませんので , お近くの鉄道ファン販売書店か直接交友社へこ、注文ください . 大量輸送時代の到来 昭和 36 年 ~ 43 年 引年末頃 3 通勤車両の大形化 / 日形申の若返しつⅡ / ロマンスカーⅡ ( テラツ・ワス化 ) / 特集 : 機関車 戦前・戦後の古豪 創業期 ~ 昭和 28 年 52 年夏頃 戦前の生き残り / 戦後復期の車両 / 戦後安定期の量産車 / 特集 : ナローケージの車両 デザイン・技術の革命 昭和 44 年以降 52 年末頃び 通勤房車の登場 / 旧形車の若返りⅢ / ロマンスカーⅢ ( 特急大衆化 ) / 特集 : 荷物電車と電動貨申 交友社 株式会社 PROGRESS OF ROLLING STOCK 网 PRIVATE RAILWAYS 0 ー 0 10 ー 2000 ー付き ) 第 " ・物第学物第鰤す第 イ、 発行所 本店・ 464 名古屋市千種区宮西町 3 ー 1 電 731 ー 0456 ・ 1285 ・ 3920 電 947 ー 1100 ( 代表 ) ~ 5 支店・エ工 3 東京都文京区本駒込 6 ー 7 - 11 8502 番

6. 鉄道ファン 1976年11月号

" 幻の = ー道 " 聞き書き ばん その 1 安 保 彰 夫 私が初めて三蟠鉄道の名称を凵にしたのは , 昭和 38 年 5 月井笠鉄道を調べた時でした . どんな鉄道だったのか興 味をもって若干調べてみましたが , その時は岡山市を流 れる旭川の東岸に存在した鉄道で , 昭和 6 年に廃止され たことが判明したのみで , これという資料も残っておら す , 手がかりか見つからぬまま放置してきました . ところが川数年経った昨年夏 , 西尾克三郎氏から " 幻 の三蟠鉄道 " に関する耳よりな情報を得ました . 昭和 50 年初夏 , 西尾克三郎・藤田和巧・太田裕二の三氏が所用 で岡山に行かれたおり , 岡山在住の斎木龍輔氏に三蟠鉄 道の跡を案内されたというものです . そのうえ三蟠の駅 舎と貨車も残存し , 元三蟠駅の駅長か今も健在とのこと です . 44 年前に廃止されたこの鉄道の生存関係者発見の報に まったく予期せぬことだっただけに , この機会を逃して は謎に満ちた二蟠鉄道の全容を明らかにすることは不可 能になると考え , 再度探究にとりかかり , 紆余曲折の末 ようやく当初の目的を達したものです . I 聞き歩き ①浜中の老人 ったんです . それから終戦になってまた公会堂かいらん うになって , 戦争か始まってから駅のあとに公会堂か建 と公会堂だった建物です . 軽便か上まって駅かいらんよ んですけど , 留守ですが . はあ私か住んどりますのはも 向かいのおじいさんが , 昔浜中駅のそはで食堂しよった ②浜中駅跡に住む老婦人 60 年はあなろう . 式の折たのまれて献寿寺で相撲とったん覚えとる . もう た . 私ら子供時分に子供相撲がようはやって , この開通 あります宮道に . これか開通したとき私が 16 歳じゃっ 岡山へ行きよった . このむこう , 北へ行ったら献寿寺か で . その石炭を怪便か積んで , お客も積みよったけど , てな石炭をようけ揚げよりました . 昔やからこうかつい みたいなやつが走りよったんです . この沖は三蟠港いう す . どっちを向いても田んばはっかし . これをマッチ箱 よう乗りました . ちょうど , ここに停留所かあったんで 三蟠駅での記念写真 88 左から占田支配人・杉本技士長・平田駅長 右端の客車は - ・ 写真所蔵 : 平田高一

7. 鉄道ファン 1976年11月号

アルプスの十字路を走る " 氷河急行 Furka 2 ー 60E Gletsch ー 759E Oberalp 2033E Sed 「 un ー 44 ー m Münster ー 359E Andermatt ー 436m Oberwald ー 366E fiesch ー 062E Mörel 759E Brig 67 ー m Oberwald-Realp 冬季連休 Luzern-Basel G oschenen ingen Gletsch Fu 「 ka Eggishorn Bellwald Oberwald Disentis ーー 30n1 Zürich Chur/St. Mo 「 itz Obe 「 alp Sedrun ・ Ande 「 matt Gem sstock Tessin Acquarossa Bettme 「 alp Riede 「 alp LOtschbe 「 g Munster Fu 「 gangen Fiesch Betten Morel Lausanne Visp Brig Simplon 植田信行 海外鉄道研究会 スイスの地図をひろげると , 南北を貫く国鉄幹線の難所 ・トンネルの上を東西 であるゴットハルト (Gotthart) に走る鉄道があるのに気づく , これが私鉄のフルカ・オ ーバーアルプ鉄道 (Furka-Oberalp-Bahn) で , 略称は F 0 ( スイスの私鉄は 2 ~ 5 文字の頭文字を組み合わせて 略称にしている ) である . 1907 年工事に着手し , 1926 年 7 月 3 日 , ブリーク (Brig) とデイゼンティス (Disentis) 間全線が開業した . F ( ) 社の路線はプリークとデイゼンティス , および途 中のアンダーマット (Andermatt) と国鉄ゲッシエネン 駅 (Göschcnen) を結ぶ支線の計川 0. 3km, 軌間川 ()()mm の狭執鉄道で , 194 ( ) ~ 42 年に 162 / 3 ヘルツ単相交流 1100 ( ) V で電化された . プリークではツェルマット (Zerma tt) へ延びる私鉄 B V Z 社 , デイゼンティスではスイス最大 私鉄の RhB 社の路線と連絡し , 1930 年以来この 3 社で 屈指の観光地サン・モーリツツ (St. Moritz) とツェル Zermatt 初夏の頃 , また残っ 走る " 氷河急行” ている雪の壁の間を DOE0d055 引 a 83

8. 鉄道ファン 1976年11月号

新しい 8 刺観節車 ら出ている , 一大電車発着センクーである . 広々とした トへ行く K ラインの , 2 つの都市Ⅲ」路線の電車もここか クへ行くいわゆる D ラインと , 北西 20km のクレフェル の路線か集中しているほか , 北方 25km のドウイスプル ャン・ヴェレム広場は , 駅前と同様にたくさんの市電 らと歩いていった . よっている街を , 私はヤン・ヴェレム広場まで , ふらふ ・休みしたあと , 雨が上ってすがすがしい涼気がただ をたのしみにしながら , ひとますホテルに落ち着いた . た風景たった . 私はひそかに心を躍らせ , それに乗るの 新しい電車が走っているのは , 4 年前には見られなかっ イツの電車のイメージを思いきってぬけ出した , いきな 腰と屋根の下が純白という塗色で , スタイルも従来のド のくちなし色の電車に混って , 窓まわりと裾が臙脂色 , 年と変わっていなかった . だが , 典型的なドイッタイプ い電車が間断なく行き交っていることも , 4 年前の 1971 リーをつっ切って敷かれているレールの上を , 恰幅のい も , ホテルの前のシュトレーゼマン広場の , 大きなローク ムに , いろんな系統の電車がしきりに発着していること 広大な駅前広場いつはいに 3 面ほど並んだ市電のホー ながら , 私は歩いていった . 50 ( ) m ほどの聞を , あいかわらす繁昌している市電を見 着いたときは , 雨は小降りになっていた . ホテルまで 空港から連絡バスに乗ってデュッセルドルフ中央駅前に ヴォルマースヴェアタ街にて 79 ドに小さなテープルがしつらえてあるが , さらにくつろ ル張りではあるが , 明るく , ゆったりとしていた . 窓の 片側 1 一人 , 片側 2 人がけの瞽薇色のシートは , ビニ っている 3 系統に乗ることにした . た . K ラインに乗るのはⅡにして , 私は同じ新車が走 はすむことだった . だが , この日はもうタ方に近かっ K ラインに乗ってみようと思っていた私にとって , 胸の ン広場が見かけた白と臙脂の新車だったことは , 今回は しかもやがて人線してきたのが , さっきシュトレーゼマ った . しかし , 隣りの K ラインのレールは光っていた かかったのだな , と考えながら , やはりちょっと寂しか し , ドイツ人らしい息の長い工事もいよいよ山場にさし 貌させるための高架化工事が始まっていたのを思いだ 4 年前来たときに , D ラインを都市間高速鉄道に変 が出ており , レールは砂埃をかぶって銹びかかってい め電車は運休中で , 代行バスが運転されている旨の掲示 D ラインのホームへ行ってみると , 軌道改修工事のた んでくるのを押え切れないなっかしさで , 私をおそって ラインの写真を撮ったりした思い出が , 思わず微笑が浮 車に乗ったり , すぐ隣りの公園を散歩しながら市電や D 間 , 4 年前にここから有名な食堂車つきの D ラインの電 よりは電車列車が往来している情景を眼の前にした瞬 ホームが 5 面ほども並び , ひっきりなしに電車 , という

9. 鉄道ファン 1976年11月号

15 , 主変圧器・シリコン整流器も 401 系 ( 421 系 ) のも ・台車が途中で DT32B , TR69B と変更 のを改良したものである . 昭和 38 年に製造された 453 系は勾配区間の多い東北線 車体色はクリームとローズ色のツートンカラーで 50 , へ投入され , この結果 451 系は常磐線へまわされること 60Hz を区分するために , 471 系には 60Hz を示すクリーム いつほう 60Hz の 473 系は昭和 40 年に製作され になった . 色の線が車体のすそにつけられていたが , 付すい車は 50 たが , 当時すでに抑速プレーキ , ノッチ戻し装備の新系 Hz と共用のためこの処置はなされていなかった . 列車へ設計変更されることになっていたため , わずか 1 昭和 47 年から順次冷房化工事が行なわれ , M' 車は AU ユニットが製作されたのみで終った . 72 ( 33 , 000kca レ h ) , その他は AU13E ( 5 , 500kcal/h) なお冷房化工事が行なわれ , クモハには AU13E ( 5500 を搭載した . ( 一部のサロ , サハシの食堂部のみは旧形 kcal/h x 5 台 ) , モハには集中式 AU72 ( 33 , 000kcal/h) の A U 12 S , または A U 12 となっている ) が装備されている . 453 系〔 473 系〕 455 系〔 475 系〕 列車編成の合理化 , すなわち MT 編成の割合を半々にし これらは , ノッチ戻しに加えて , 新たに勾配抑速プレー て編成あたりの車両新製費の低減化をはかるということ キ ( 注 2 ) を備えたもので , 直流車両ではすでに 115 ・ 157 ・ から , 従来使用していた主電動機 MT46B ( 100kW ) は 181 ・ 165 系等に使用されていたが , 交直流車両では引き 出力アップした MT54 ( 120kW ) に変更されることとな 通しの関係から見送られていた . しかし昭和 40 年以降 , り , 昭和 38 年 1 月に出場した 115 系にます採用 , 以降の 交直流急行電車も運用上から抑速プレーキを装備するこ 新製車もすべて MT54 を装備することとなった . このた ととなり , K E 58 電気力ップラを増設して , ノッチ戻し め 451 ( 471 ) 系はそれぞれ形式を変更 , 453 系 (50Hz) に加えて抑速プレーキが可能となった . このため再度形 と 473 系 ( 60 (z) の " 3 " シリーズとなった . M T54 式を変更し , 455 系 (50Hz), 475 系 (60Hz) という ( 120kW ) に変わったほかは 451 系と変わるところはほ " 5 " シリーズとなった . ノッチ戻し , 抑速プレーキと とんどないが , 次のような点に変更があった . いう機構上 , クハ・サロ・サハシ ( のちサハも追加 ) の ・主平滑リアクトルの容量をアップし , 冷却を主変圧器 各付すい車も 455 系 ( 50 ・ 60Hz 共用 ) を名のることとな 再冷却器冷却風の排風を利用する強制風冷式とし , そ つ . の過温検出器関係が異なったためモハの床下配置の一 昭和 40 年の盛岡電化 , および熊本電化でそれぞれ 455 部が変更となった . 系 , 475 系が出場したが , 特に北九州では初の急行国電 ・電気容量増大のためプチルゴム電線とする . となり , オール 475 系編成で西の箱根 " 瀬野八 " の急峻 ・交流区間走行中のモハ屋根板金属部のアースを施工 にいどむこととなった . この 455 ( 475 ) 系は以後の交直 デピュー当時の 4 引系先行試作車 円 62 写真 : 星晃 3 み

10. 鉄道ファン 1976年11月号

、トヴァル広場にて , K ラインの電車 クレフェルト・オ クレフェ年ト市内の 4 線軌条を走るクレフ - , 小ト市電 戦災を受けなかったらしく , 昔風のどっ ーカッセルは , め , 軽いレールの継ぎ目の音を聞きながらゆられてゆく しりした建物が整然と並んで , 古めかしいがそれだけに のは , ちょっとした郊外鉄道の旅の気分だ . デュッセル 落ち着いた , デュッセルドルフよりも懐かしい感じの町 ドルフとクレフェルトのちょうど中間あたりで , かなり った . ここでも電車は , 広い道路の中央の , 両側にマ 長い間 , 深い美しい森の中を走るのも , そんなピクニ ロニエやプラタナスの並木が植わった専用軌道を , なめ クのような気分を , さらにかきたててくれた . らかにすべって行った . クレフェルトの家々の屋根が行く手にせまってくるこ デュッセルドルフ市内線の 10 系統と 15 系統が途中まで ろ , 電車はこころもちスヒ。ードを落し , 町外れのディー 同じレールを走るので , K ラインの電車はかなりの停留 ゼムという停留場へ人ってゆく . ここからレールは併用 場をとはしてゆく . 15 系統の終点のループを過ぎると , 軌道となるが , 国鉄のガードをくぐった直後 , メートル オーバーカッセルの町外れの工場地帯に人るが , 空気も 軌間のクレフェルト市電のレールを合わせて 4 線軌条と さほど汚れていない上に樹木が多く , ところどころにそ なり , ほどなくクレフェルト中央駅前に着く . 線路は 4 びえている煙突や , 建物の壁に書かれた「何々会社」と 線のままここからさらに伸び , クレフェルトのメインス いうサインがなかったら , うかうかしていると工場地帯 トリートのグリーンベルトを左右からはさんで走ったあ だということを見すごしてしまいそうだった . もっとも と , オストヴァル広場に出る . ここが終点なのである . 10 系統の終点から先しはらくの間は , いかにも工場らし 広場では K ラインはクレフェルト市電と別線になり , 市 い倉庫ふうの建物が左手に延々と続いたが , それが尽き 電の E ~ ドホームの間に割りこんだ形で , K ライン専用の ると , 今度は一転して , のどかなⅢ園風景が開けてくる ホームに着くようになっていた . のだった . レールは道路と分離した完全な専用執道とな K ラインは , 1898 年にライン鉄道株式会社の手によっ り , 電車はぐいぐいと加速して , 60km/h ぐらいはあると て建設され , この年の 12 月に開通した , デュッセルドル 思われるスビードで快走しはじめる . センターポール式 フークレフェルト間の電車軌道を , 1924 年頃に信号や駅 の架線は市内電車風だか , いちめんの畠と牧場の中を , をそなえた都市間鉄道に改築したもので , 1926 年に開通 時折り車窓を通り過ぎる木立ちのゆたかな美しい小集落 した D ラインよりもはるかに古い歴史をもち , 食堂車つ や , 遠くに見える , 梢の高さがまるで定規で引いたよう きの電亜も実は 1926 年に D ラインに先立ってこの線を走 に一直線に揃っている , いかにもドイツ的な森などを眺 りはじめたのである . ライン鉄道株式会社はその後デュ