廣田章一川 ; 氏を 'I 昔しむ たびたびのやり直しに困惑しなが 本島三良 らも広田さんの几帳面さに感心した 先日 , たまたま昭和 11 年のポケット日 とを , 43 年経った今でも思い出します . 記を発見したので , 目を通していると 撮影は主に手札判でしたが昭和 11 年 広Ⅲ章一郎さんがはしめて原政男さ 、・ろにはキャビネ判の組、ン : 暗籀で んと一緒に私を訪わてきた とか・記し 写された角 ( 加悦鉄道旧省 5101 や C も、 40 手も前のことで非常 てあった 51 など ) があリ , その数枚は戦後私が に懐しく感した . 平素はそれはど往来 広田さんからもらって保管しています . していたわけではないが , 私より一ま どれもヒ。ントのシャープな形式写真で わりも若い彼か突然世を去るとは意外 本誌にも掲載されました . 写真撮影だ 戦前には「鉄遘趣味」に創刊号以来た 追悼のことは、も現 というほかはなく , けでなく古ロコの歴史調べや , 書く びたび寄稿され , 戦後川崎車輛へ入社 実のものとはならない感しである . だ ことも好きで , 昭和 8 年 4 月には、、鉄 されて実際に蒸気機関車の製作にたす 道趣味 " 誌創刊号に、、姫路鷹取両機関 が長いキャリアをもつ一人の同好の友 さわり , 最近てはカナダからわが国へ 庫に古典機関車 . を訪わて " を投稿し , がもう存在しない事実を悲しむだけで 発注された「ジョン・モルソン」号機 文中で 8900 は私の最も好きな機関車の ある . 関車の復元に尽力された鉄道ファン界 ーっ , と書かれたようにアメリカ形古 の大先輩 , 広田章一郎氏が昭和 51 年 1 ロコに心、をひかれたようでした 萩原政男 月 1 日急逝されました . のカマ好きは戦後の川崎車輛会社設計 こで故人と深いつながりのあった 昭和 7 年だったと思う . 当時京都の勝 部入社となり , さらに昭和 45 年に協二 友人諸氏の思い出記事て足跡をしのび 山俊一兄宅に滞在中に近所の汽車の好 工業で製作したカナダの 1 号機関車 ご冥福をお祈りいたしたいと思います . きな中学生が訪ねて来た . それが広田 ジョン・モルソン " 号 ( 本誌 118 号日召 ( 編集部 ) 君だった . 中学生なのにカメラはキャ 和 46 年・ 2 月号参照 ) となって現われた と思います . この製作中にポイラ検査 ビネの糸は暗箱で , やることがすべて 本格的だった . ちょうどそのころ私は の手続きで彼我の国情の違いからカナ 山科・の C 53 にアタックしていたので同 ダ側がロイドの検査を受けないと契約 君の家を根拠地にお世話になり , ご冢 を破棄するとの強い申し入れがあり , 族とも急速に親しくなった . その後早 一時は破談かと心配されたのを , 結局 稲Ⅲ大学に入るまでの間 , 東京と京都 広田さんがロイドと交渉して解決し無 のファン数名すつで RPN ( Ra i I w a y お船積みとなった話は後日広田さんが 広田章一郎君と私 Photographs & News) という手作 ロイドの検査官として働く糸口となっ 湯山一郎 りの同人誌めいたものを作って交換し 輸出された古ロコ たと聞きました 私が早稲田の当時の高等学院 2 年の時 た一時期があった . 東京と京都で交互 の製作について多くの裏話や苦心談が 広田君が入学してきて , 学内の鉄道研 あったはすですのに , 控え目な性格の に製作を担当し趣向をこらして楽しか 究会で初めて知りあった 方だけに , ついに公表せすに終わった この人が , その頃「鉄道趣味」誌創 昨年の年賀状に RPN をとり出して眺 のが残念です . 月、さい作品ではミカド 刊り・に 8900 形機関車の名文を書 : いた人 の 9700 形ライプ機関亜があり , 長い年 めている , またやりたいですねといっ て来られた . 私もやっと健康をとり戻 月をかけてコッコッと楽しみながらの とわかり , その汽車好きとマセ振りに 学部を卒した私は川崎車輛 してきたので今年は RPN の相談でもし 製作で , 特に昨年は一段と熱を入れて 1 年後輩の彼は優等生 部品づくリに励んであられた山ですが ようと楽しみにしていたところ , 突然 に入社したが , の成績で中島飛行機に入り航空機の設 氏の訃報に接した . まったく残念でた とうとう未完成で終わリました まらない . 蒸機の終焉を追うように筋 昭和 51 年元社の朝 7 時に 58 才で永眠 終戦後彼も念願か 計でスタートした なって川崎車輛に入リ , 我々は机をル 金入リの鉄道ファンがまた一人消えて された広田さんの枕頭に 9700 をルべて はしいと未亡人か湯山一郎さんに頼ま べて機関車の設計をやった . E 10 ・ C しまった れました . 未完の部品を探し出して体 62 , インド向き等々彼は存分に才腕を 我よく美しく飾るのには「だいぶ時間 発揮した . 広田章一郎さんとの出会い かかかり苦・こ、しましたよ」と湯山さん その後私は川崎製鉄・川崎電機と籍 から聞かされたのは 4 日の告別式の時 を移したが , 彼もまた川崎電機にきて 西尾克三郎 でした . 善明院釋教章となった広田さ 京都御所の蛤御門に近い , 島丸通出水 今度は製鉄機械の設計で一緒になった んは天国で 9700 を走らせておられるこ 後に彼はロイド社に移ったが , 思えは・ 西入るの閑静なお宅へうかがい , お父 とでしよう . 合掌 S 51 . 1 . 20 記 上 ( 日本画家広田百豊氏 ) の広いアト 広田君とは学生・社界生活を通じて長 リエの片隅で , 寒さにふるえながら古 い深いご縁であった . 彼の汽車好きと 典ロコの資料や写真を見せてもらった 私のそれとは多少中味が違っていたが 広田章一郎君を懐う のが広田さんとの出会いでした 汽車は汽車 , 本当に愉しい時を過ごさ S L 写真は手札判の密着で , 一枚一 せてもらった 枚を汚れないように大切に製図用紙に まったく将来ある惜しい同好の友を 私と彼の間に文通が始まったのは 1934 包んであリ , 紙の折リ目は心す写真の 亡くしてしまった 残念でならない 年ごろであった . 今も京都一流の店で 只々ご冥福を祈るは、かりである . 裏側になっていました . 見終わった写 売る渋い紅・茶・緑の罫の入った和封 真を私が包むと折り目が写真の表にな 川上幸義 88
パリーポルドー間の速度制限 200km/h 200 (km/h) Okm 新 ロ Okm 新 90 IOOkm/h 50 20 200 300 400 500 600km ・サンビエール・デ・コール アムボアーズ プロワ レゾープレ・オルレアン アル -z—十′イ・ アン′ルビュ エ・タン。フ 廾′ン、、、、ツンエル ジュビ / ー ・ ( オーステルリツツ ) ポルド コートラス アンク・プーロン ・ボアチェー シャテルロー ・アングレーム ゆるやかな丘陵地帯を走る " エタンダール " 号 所蔵 : 筆者 写真 : SNCF 87
第日ドれ 2GAL110N を第一 世界の名車 " べンツ " の町シ = ツットガルト . 緑の丘に囲まれ都心に多くの公園がありエ業都市のイメージとはほど遠い . 宮殿広場横を行く旧形車 に評価せす , 現在の生活の中に生きている価値を評価す るのである . 家庭を訪問すると「これは , おじいさんが 使っていたテープルだ . 何十年にもなるが立派に使える」 といった話をよく聞く . 今に生きている伝統の価値を強 調する . つまり , 古い物を大切にする精神は , 歴史に耐 えるものを作ることと彼等は考えているのであろう . 我々はヨーロッパの諸都市を訪ね歩いて , こうした彼 等の伝統的な考え方が , 路面電車を今日ゆるぎない都市 交通の主役に位置させているのであろうと感じた . 貴重な誌面を拝借して , このとき見聞した事柄を述べ て来たが , この一文が何らかのお役に立てば望外の幸せ である . 我々が訪ね歩いてからかなりの年月が経った . その後も路下区間の拡大や新車の投人などますます発展 しているヨーロッパの路面電車 . 最近のホットなニュー スをどなたかにせひご発表いただきたいものである . Wonderful European Tramway
に美しい . そこに走る路面電車もまた然りである . リンデン , ブナの木々が , みごとな黄金の衣につつま れる秋たけなわの 10 月に , 我々 3 人は西ドイツのルール 地方を中心に , ューレイルバスを活用してョーロッパを 北へ南へそして西へ , 美しい路面電車を求めて駆け巡っ た . 話す言葉が違い , 通貨が異っても , どの国どの都市 でも共通なのは路面電車がその街によく調和し , 美しく 楽しいことであった . 80 最初に乗るのは No. 1 系統 . メインラインであり , 中央 駅を通り , 繁華街を通り , その街のおおよそがわかる . 街頭で買ったホカホ力とあたたかい焼栗をほうはりな がら乗るのも楽しい . 子供達のはしゃぐ賑やかな昼下が りの車内も楽しい . 燈ともしころに , 家路を急ぐ人達の 会話を聞きながら乗るのも楽しい . ョーロッパ人は伝統・歴史を生きたものとして把え , 生活の中で育てようとする . 伝統を骨董価値として単純
ヨーロッパの路面電車〔最終回〕 WONDERFU し EUROPEAN TRAMWAY ” . 柚原誠 藤野政明 清水武 ヌープ広場で路面電車を降り , 大きな鉄門をくぐると広大な公園 . ジューネープはかって大路線網をもっていたが , 現在はここを通る 12 系統のみ . しかし路下電車化や路線延長計画があると聞く . 8 緑の木々色とりどりの花そして路面電車
0 川 001-4 西ドイツ国鉄の 1 1 1 形電気機関車 西ドイツ国鉄 ( DB ) は 3 , 840kW , 200km / h の長距離 用高速電車 , ET403 / 404 ( 本誌 1975 年 1 月に紹 介 ) につづいて , 急行用の電機 111 を新製した . 総数 70 両中の 4 両が 1974 年 12 月中旬に引渡され , 廃車処 分の蒸機および戦前の老朽電機と取り換えられる . 70 両は 1977 年初めまでに全車が納入される . 111 は , 戦後最初の電機として 378 両が製造さ れ , 高い信頼性が買われている 110 の改良形では あるが , 多年使用上の経験と長足の技術的進歩を取 り入れた新設計である . 3 , 850kW , 1b0km/h, 83tons の 111 はトルコ玉プルーとべージュに塗装される . 注目に値いする特色は , 操作レバーと計器盤が運 転室の右側に集められ , 運転十の目と手がとどく範 十器類 囲にまとめられていることである . それに もできるだけ簡約され , 一見近郊形電車のようであ 一人乗務の連転十に最高の環境と条件をつくり出 す目的で , 労 1 動医学の専門家に電機乗務員も加えて 寸議し , D B のミュンヘン中央局・車両会社・国鉄 労働組合の合意が生まれたという 二二い 一三い 77
ー」凶「」目「・ミ一一新叮朝ル「を 0 、・第レ、トイトイト あすさ
朝いをい あまき A M A G ー 157 系から 183 系へ人気特急 " あまぎ " も衣替え ( 左 : 6022M183 系 " あまぎ " ・右 : 3023M 157 系 " あまぎ " ) 72
- ー EF6 536 E 尸 06 3
1975 ー 6- Ⅱ 写真 : 羽賀美知雄 国縫ー北豊津間にて び 3 このため , 33 年にいたり国鉄関係者と学識経験者の手に の計画は今までの計画を練り直し , キ要幹線 3300 キロ 10 よる「動力近代化調査委員会」が発足した . カ年の電化計画であった . いつほう , 輸送量の比較的少ない亜幹線・支線区等の ( 2 ) 計画の概要 電化は経済的でなく輸送コストも高くなるため , 一般に この委員会は , 国鉄全線の動力方式のあり方について調 ディーゼル化が有利であり , 電化の 10 カ年計画と並行し 査を行ない , 40 回にわたる委員会で審議の結果 , 将来の てディーゼル化の検討がなされたが , 具体的内容や解決 技術の進歩と経済的諸条件の進展とを予測して経営の徹 方法等に諸問題が残っていた . 底的刷新と合理化を動力近代化にともなって完遂するこ DD51 重連の " ニセコ”と急行 " 宗谷”の交換 1975 ー 6 ーに写真 : 羽賀美知雄 蕨岱にて