女とジプシー』も演出していて、ロレンスには田 5 い入れが強いようウエン ) 、ジェニー・リンデン ( アーシュラ・プラングウエン ) とい たか、こちらも日本未公開に終わっている。 う、その頃アプラの乗り切っていた、冫技派四人が主演しているが さて、結局のところ、われわれの見ることの出来たロレンス作品彼らは肉体をあらわにしてセックス・シーンに取り組む。だが、た の最もすぐれた映画化はケン・ラッセルの手がけた一九六九年のイ とえば林の中てアーシュラとルバ ートが結ばれる描写にしても、か ギリス映画『恋する女たち』ということになろう。 なり克明だが、映像は美しい ラッセルといえば、映画好きならばスキャンダラスな題材やケレ 暖炉のある部屋てルバ ートとジェラルドの一一人の男性が全裸て ン味のある映像を思い浮かべるてあろうが、『恋する女たち』はたい えんえんと体をぶつけあう場面も話題を呼んだものだが、奇をてら へんオーソドックスな作品てある。もともとテレビてイギリスらし った演出にならず、セックスと人間とのつながりを解く口レンスの い地道なドキュメンタリーをこなしてきたラッセルは、この初期の思想が映像から伝わってきた。 作品ては、セックスの行為に対しても好奇の眼てはなく、冷徹な観 その後もセックスと人間のつながりを描くことになみなみならぬ 察眼てみつめ、それが効果を挙げているのてある。 関心を寄せ続けてきたラッセルだが、『恋する女たち』からちょうど カーディフの『息子と恋人』ては水墨画のようなイメージだった一一十年後の一九八九年にふたたびロレンス文学に挑んだ。しかも『恋 ロレンスの故郷、イングランド中東部ノッティンガム州ィーストウする女たち』の前編にあたる『虹』 ( 日本題名『レインボウしてある。 ッド地方の炭鉱町が今度はカラーて美しく、鮮やかにとらえられて『恋する女たち』てガドランを演じてアカデミー主演女優賞を得たグ いる。今世紀初頭の風俗、風物の描写も克明てあり、こうてなくてレンダ・ジャクスンがガドランとアーシュラの母親アンナ・プラン ふん はロレンス文学は生きない。 グウエンに扮し、アーシュラには最近注目されているサミ・デイウ 一九六〇年代の後半といえばアメリカやヨーロッパて映画におけ イスを配置するというキャスティングだ。 る性描写の基準がかなり緩和した時期てあり、いわゆるハード・コ 原作をラッセル自身がかなり自由に脚色している。虹のかなたに あこが アのポルノ映画も登場しはじめたのてあるが、そんな時代だからこ 夢を追い、 自由奔放な生き方にれる少女アーシュラは女教師ウィ そ、ロレンスにスポットが当たったともいえる。といってラッセル ニフレッド ( アマンダ・ドノホー ) によって性の手ほどきを受ける はセックス場面を扇情的に描こうというわけてはない。 が、ウーマン・リプの先駆者みたいな口のききかたをしているウィ アラン・べィッ ( ルバ ート・バーキン伐 ) 、オリヴァー・リード C シ ニフレッドは打算からあっさりとアーシュラの叔父て炭鉱成金のヘ エラルド・クリッチ ) 、グレンダ・ジャクスン ( ガドラン・プラングンリーと結婚してしまう。そのウイニフレッドの結婚式てアーシュ 世界の文学・月報 6
これは作家冥利につきる。エミリー・フロンテも、狂わんばかり画に生まれ変わった。そこてはスクルージはテレビ・ネットワーク月 に喜んているのてはないだろうか、と思った。 局の社長て、ケチて非人情なうえに視聴率のことしか頭にないと というのも、私の想像ては、エミリーという女は、ことさら喜 う設定てある。 世 怒哀楽が激しく、情念の炎や失意の翳りを、いつもゆらゆらと燃え ニューヨークのスクルージといえば、数年 ~ 則にプロードウェイて 立たせていたひとだと思うから、喜びもまた、狂気のように噴き出 ミュージカル化された『カミンク・アッフタウン』を見たこともあ すのてはないかと田 5 ってしまうのだ る。『クリスマス・キャロル』のミュージカル版には、七〇年にアル ヒースクリフのように暗い情熱に支配される男は、現実には存在 ート・フィニーがスクルージを演じた作品もあるが、それは映画 しないたろ - フ。しかし、エ ミリーという女が作り出した小宇宙の向きに作られたミュージカル。しかし『カミング・アッフタウン』 なかには、恐ろしいばかりの迫力をもって存在している。女の生みの方はそれとは関係なく、舞台をマンハッタンのハーレムにとり、 出す世界にしか存在しない男、それがヒースクリフだと言える。 オール黒人キャストのドラマになっている。ストーリーはそのまま ハワースをあとにする観光客の多くが、短く悲劇的な生涯を終えて、グレゴリー ハインズがスクルージ殳。彼のダイナミックなタ たんのう た才能ある女に同情するかもしれないが、私は違った。工、 フタンスを堪能させてくれるステージごっご、、、、 、オオカロンクランには ならなかった。 プロンテの、勝利の笑い声を聞いたような気がした。それは、ヘザ ーを手にとったときの、棘だった硬い感触にも通じるものだった。 八五年にプロードウェイのインペリアル劇場て慕を開けた『エド なそ ( 作家 ) ウイン・ドルードの謎』もやはりミュージカル仕立てだった。ご承 知のようにこれは未完の小説たが、さてそこて、クライマックスに たれ なると舞台を中断させ、犯人は誰てあるかといういくつかの推理が 提示され、あなたはどの推理に共感しますかと、観客に問う趣向が 筈見有弘盛りこまれているのが楽しかった。 これもプロードウェイのフリマス劇場て上演されたイギリスのロ 英米の映画や演劇の世界てはデイケンズはいまだに引っ張り凧てイヤル・シェイクスビア・カンパニーによる八一年の『ニコラス・ ある。例えばこの夏休みに公開される『オリヾ / ニューヨーク子ニックルビー』は、なんせ八時間半というけたはずれの上演時間だっ たのて、旅行者てあるばくは見るのをさけてしまったが、あとになっ 猫ものかたり』は、ディズニーによる『オリヴァー・トウイスト』 のアニメーション版だ。一年半ほど前には『クリスマス・キャロル』 てやはり見ておくべきだったと後悔している。テレビて中継された もやはり現代のニューヨークが背景の『 3 人のゴースト』という映 ものを友人が録画してくれたのて、それを見ることがてきはしたが。 連載■世界の文学・映画ノートを
筈見有弘 最近のイギリス映画にも活気はあるが、約三十年前の昔、いわゆ る《怒れる若者たち》の名て呼ばれる一連の動きが演劇、文学を核 にして起こり、それが映画にも波及したときのイギリス映画はいっ フて - フ ~ 卑白彷・日 - 子ー学 / 一九五六年五月にロンドンのロイヤル・コート劇場てジョン・オ ズボーンの『怒りをこめてふり返れ』が上演されたときが一連の動 きの始まりといわれる。労働者の家に生まれた一一十七歳のオズボー ンは、この戯曲において、主人公ジミー・ポーターのやけつばちな 生活を描き、汚らしく雄弁なセリフて英国の伝統的な価値観に不満、 はこさき 攻撃の矛先をむける。労働者階級からの、初めてともいえるこうし たいらたたしい発言は、演劇、文学界にとどまらず、社会一般に攻 シュディの『悪魔の詩』がすぐに田 5 い浮かぶ。 そして『千夜一烏語』のメタフィクティヴな枠構造に注目して、 そこに現代人の断片的意識とその統合の祈念を託そうというこうし た新しい文学地図が、マニ教好きのグレアム・グリーンとともにペ ルシア育ちのドリス・レッシングから始まったことに気づいて、ば ひざ ( 英文学 ) くはまた改めて膝を打った。 連載■世界の文学・映画ノート③ 報 月 撃をあたえた。 若い作家たちにも扉を開いた。アーノルド・ウエスカー、ジョン・和 世 アーデン、シーラ・ディレーニー、キース・ウォーターハウス、ウィ ・、ボレト、キングス リス・ホール、、ロルド・ビンター、ロ、 ーストウ、そして ・エイミズ、ジョン・プレイン、スタン・ アラン・シリトーなどが数年の間に登場し、ジャーナリズムは彼ら を《怒れる若者たち》 (Angry Young Men) 、略してとも呼 んだのてある。 さて今回、このよみものて主人公をつとめることになるトニー リチャードスンは、『怒りをこめてふり返れ』の舞台演出によってオ ズボーンとともに名を高めた。ォズボーンより一つ年上の青年てあ る。オクスフォード大学在宀一 ~ - 、甲から演劇活動に熱中し、卒・業後、 テレビに入ってからは映像への興味も高め、仲間とともに《フ リー・シネマ》なる映画運動に参加し、自ら演出した短編を上映し わり・・ー」イしいに そんなわけだから、『怒りをこめてふり返れ』の舞台を成功させた リチャードスンはオズ、ポーンを誘って映画のプロダクション、ウッ ドフォール・フィルムを設立し、映画化の機会を , フかがった糸。 、リウッドの製作者ハリー・ サルツマンがワーナー・。フラザーズか オこのサ ら資本を出させることに成功し、五九年に映画は完成し、、。 ルツマンはやがてジェームズ・ボンド映画のプロデューサーをつと めるこし」にわなる。 ォズボーン自身も脚本に参加、リチャードスン初めての長編てあ
報 とめたり、俳優として出演し、短編喜劇『チェス狂』を初演出した。明 自覚が作家の側にあって初めて可能になる行為だとも言えるだろう。 実際、それだけ高い社会的地位を持っていたということが、ソ連文一一作目には、。、ヴロフの条件反射理論をわかりやすく映像化した『頁 学の栄光の証てあると同時に、悲惨な運命の原因ともなったのてあ 脳の構造』を発表し、次いて一九二六年に手がけたのが『母』てあ世 る。こういった事情は、ペレストロイカが進められている見代ソ連る。 ても本質的には変わっていないように田 5 われる。果たして、「ゴルバ シナリオを書くことになった若手ライターのナタン・ザルヒは、 チョフへの手紙」が未来のソ連文学史の一頁を飾るような日が来る ゴーリキーの思想、人間像を映像に置き換えるのがいかにむずかし のだろうか ? いかを知っていた。そこて、事件を原作以上にドラマチックに描く こと、葛藤を明確にすること、副次的なエピソードや登場人物を思 いきって削除すること、場合によっては原作を再構成することもあ り得ること、といった・万手なに拠ってシナリオを仕上げた。列えよ 父のミハイル・ヴラーソフは原作ては病死するが、映画てはスト破 筈見有弘 りに加わり乱闘の中て死ぬ。息子のパーヴェルが投獄され、母ニー ロヴナが目覚める過程は原作よりずっと単純化されている。ラスト ソヴィエトの映画史はゴーリキー文学を映画化した一一つの名作を 生んている。ブドフキン演出の『母』と、ドンスコイ監督による『幼はかなり劇的に改変されている。 そのために原作よりいささか規模が小さくなり、母親の人間像も 年時代』てある。 いくらか変化したが、主題は骨太に打ちだされ、ラストては感動が 十九世紀末にペンザ市のインテリゲンツィアの家庭に生まれたフ セヴォロード・ブドフキンは、文学と演劇をはじめ天文学、生物学、 高まる。文学作品を映画にする場合、一方ては原作文学の忠実な映 化学に興味を示し、モスクワ大学ては理学部に学ん・ ' たたが、宀一↓未画化の方法があり、一方ては映像ならてはの表現に置き換えるため なかばにして第一次世界大戦の戦場に送り出され、負傷して捕虜と に原作を大胆に改変するやり方がある。どちらを選択するか議論の あるところだが、ザルヒとブドフキンは後者によって映像の特性を なり、脱走して帰国した時は革命が終わっていた。しばらくの間 化学工場に勤め、戯曲、詩作などを試みたのち、国立映画学校に入精一杯生かしたのてある。むろんサイレント映画だったということ も老箙にいれなけれよいけよ、 学。舞台演出に参加したあとて、映画理論家て演出家レフ・クレシ 大胆な脚色をした場合、原作者は不満を表明することの方が多い ョフの《クレショフ工房》と呼ばれる実験集団に参加、助監督をつ 連載■世界の文学・映画ノート⑩ ( ロシア文学 ) かっとう
《訳者紹介》 永川玲ニ一九ニ八年生れ。英文学者。主要著訳書『こ とばの政治学』、シリトー『土曜の夜と日曜 の朝』、シェイクスビア『ハムレット』「マ クベス』、ジョイス『ュリシーズ』 ( 共訳 ) 他。 小池滋一九三一年生れ。泉女子大教授。英文学。 主要者訳書『幸せな旅人たちーイギリス・ ビカレスク小説研究』、デイケンズ『オリ ヴァー・トウイスト』『荒凉館』 ( 共訳 ) 他。 井出弘之一九三六年生れ。泉都立大教授。英文学。 トマス・ハインド『犠牲はいつも処女』、 ゴールディング『我が町、ばくを呼ぶ戸它 ンチャー・マーティン』他。 報 ・『さすらいの旅路』 ( テレビ映画、日本では劇場公開、 監督クライヴ・ドナー 月 原作『ディヴィッド・コバーフィールドし米・七〇年主演ジョージ・ o ・スコット、テイム・カリー ート・マン 監督デルバ ・『クリスマス・キャロル』 ( テレビ映画、日大未放映 ) ・『狂乱の群れをよそに』 ( 日本未公開、サイレント ) 和 主演ロビン・フィリップス、スーザン・ハンプシャー 世 米・八四年 英・一五年 ・「大いなる遺産 ( テレビ映画、日木未放映 ) 英・七四年監督クライヴ・ドナー ー・トリ / プレ 督ラリ 監督ジョゼフ・ 主演ジョージ・ o ・スコット、ナイジェル・ダヴェン・『カスタブリッジの町長』 ( 日木未公開、サイレント ) 主演マイケル・ヨーク、サラ・マイルズ ポート ・『キルプ氏』 ( 日・杢不公開、『骨董屋』のミュージカル・『 3 人のゴースト』 ( 『クリスマス・キャロル』の現代監督シドニー・モーガン 版 ) 英・七五年 版 ) 米・八八年 主凍フランチ・スウィート、コンラッド・ネーゲル 監督マイケル・タクナー 監督リチャード・ドナ ・『遙か群衆を離れて』 ( 原作『遙か狂乱の群れを離れ 主演アンソニー ディヴィッド・ 主浦ヒル・マーレー、カレン・アレン⑨ て』 ) 英・六七年 グス ・「リトル・ドリット』 ( 日・杢不公開 ) 英・八八年 監督ジョン・シュレシンジャー ・『ニ都物語』 ( テレビ映画、日木未放映 ) 米・八〇年監督クリスティーン・エドザー 主演ジュリー・クリスティ、ピーター・フィンチ、テ 監督ジム・ゴダード 主演アレック・ギネス、デレク・ジャコビ レンス・スタンプ⑨ 主演クリス・サランドン、ビーター・カッシング ・『オリバー / ニューヨーク子猫ものがたり』 ( 『オリ ・『テス』 ( 原作『ダーバヴィル家のテス』 ) 仏・英・七九年 ・『オリヴァ・ツイスト』 ( テレビ映画、日本未放映 ) ヴァ・トウイスト』のディズニー ・アニメ版 ) 米・八八年監督ロマン・ボランスキー 米・八ニ年 監督ジョージ・スクリブナー 主演ナスターシャ・キンスキー、ビーター・ファース ( ① ■次回配本 ( 九 0 年七月ニ十日刊行 ) ■好評既刊″】 ⑤イギリスⅣゴールディング『蠅の王』、カズオ・イ ⑨フランスⅣ シグロ『タ餉』等、慴の長短編。 人間存在の不条理を訴える時代精神の光と陰。日本 ⑦フランスⅡモーパッサン、フロべール : ソラ等、 文学にも多大の影響をケえた、サルトル、カミュ、 の長短編に加え、—: ドレール『悪の華』を収める。 ジュネらの実存主義からスーヴォーロマンに手る、 ⑩ドイツⅢ・中欧・東欧・イタリア本邦初訳、クン 戦後フランス文学の隹下人 デラ『存在の耐えられない軽さ』ほか、カフカ等。 力、、、ユ 『異邦人』 ⑩ロシアⅡドストエフスキー『罪と罰』、トルスト サル 「壁』『水いらす』 イ「アンナ・カレーニナ』の一一大巨編を一挙収録。 ジュネ 隊日起 ⑩アメリカⅡフィッツジェラルド、 ヘミングウェ セリース 「なしくずしの死』 ( 完全版テキス イ等の失われた世代の作品と現代短編集ろ トによる全面改訳 ) ⑩アメリカⅢべロー、ポールドウイン、バ ースの大作。 O ・シモン ⑩ラテンアメリカプイグ、ドノソの作も本邦初 ロプグリエ 身ン』 ( 本邦初訳 ) 訳て収録。眩暈の魔術的リアリズムの世界。
アメリカⅢ ⑨はビデオ化作品 べロー ・『その日をつかめ』 ( テレビ映画、日杢不放映 ) 米・ 八七年 ( ペローも脇役で出演 ) ポールドウイン ・「山にのばりて告げさ ( テレビ映画、日・杢不放映 ) 米・八四年 監督スタン・レーザン 主演ポール・ウインフィールド、オリヴィア・コール ・『旅路の果て』 ( 日本未公開 ) 米・六九年① 監督アラム・アヴァキアン 主演スティシー・キーチ、 リス・ユリン 報 月 ディとはなんの関係もなく、シナリオはバナナの皮のようにからっ ールドウインが『亜が映画をつくった』を発表したのは一九 ぼてなにもない、 ときめつける。「いずれにせよ、黒人たるものは、 七六年のことてあり、それより少し前から ( リウッドては黒人の監和 世 映画のなかに見るものはなんても信じないほうがいちばんいいこと督による、いわゆる " プラック・シネマ。か生まれるようになって はたしか′しあ一る」とも聿日き、 ハリウッドの白人が手がけた黒人映画 いた。ールドウイン自身も認めているように、それらについては の偽善を暴き、最後にはオカルト映画『エクソシスト』を取り上げ 言及していないのがいささか物足りないが、黒人作家のこの映画論 て、あなたの中にも、わたしの中にも、亜魘がいると告発する。 はいま読んても十分に刺激的てある。 ( 映画評型豕 ) 《訳者紹介》 宮本陽吉一九ニ七年生れ。学習院大教授、米文学 ・第一回配本 沼澤洽治一九三ニ年生れ。桐蔭坐薗横浜大教授、米 ( 9 アメリカⅡ 文学 失われた世代が語りかける青春のアメリカ。ヘミ 野崎孝一九一七年生れ。童泉大教授、英文学 ングウェイ、フォークナーなどの代表長編を収録。 ■第ニ回配本 ・次回配本 ( 九〇年四月ニ十日刊行 ) ⑩ドイツⅢ・中欧・東欧・イタリア 本邦初訳、クンデラ『存在の耐えられない軽さ』、 ⑦フランスⅡ 十九世紀のフランス ) 小金時代か生み出し カフカの作品群などを収録した豊な小説世界。 、た傑作長短編を収録。発表当時スキャンダル亭箞 き起したフロべ ール「ポヴァリー夫人』、自然主義 ・第三回配本 の巨匠ゾラ「居酒屋』、今なお紅涙を絞るモーパッ ⑤イギリスⅣ サンの名作安の一生』の他、五編の新訳を含む 同時代と未来を重蒟に射ぬく物語の饗第ゴー 短一〕群。メリメ『マテオ・ファルコー、不』『イール ルディング「蠅の王』を始めとする十八編の長短 のヴィーナス』、、不ルヴァル「シルヴィ』、ドーデ 『アルルの女』『スガンさんの山羊』『最後の授業』 ・第四回配本 ヴィリエ・ド・リラダン「霊的前兆』『ヴ = ラ』、モ⑩ラテンアメリカ ーパッサン「首飾り』「オルラ」、さらに & 詩の 障沌たる物語の鉱脈、そして眩暈の魔術的リアリ 扉を開いたポードレールの華』を収める。 ズム。プイグ、ドノソの傑作も本邦初訳 ( 連載■世界の文学・フィルムライプラリー 3 あば
報 リチャード・・ヘンジャミン、カレン・プラック 主演ジョン・ガーフィールド、バトリシア・ニール 《伝記的な作品》 月 ・「青年」 ( 短編を基にしたもの ) 六ニ年 ・「キリマンジャロの雪」五ニ年 ・「ゴースト・ライター」 ( 日木未公開のテレビ映画 ) 蚌 監督トリスタム・バウエル 監督マーティン・リット 監督ヘンリー・キング 世 主演ローズ・アリック、クレア・プルーム 主演リチャード・ペイマー、ポール・ニューマン 主演グレゴリー・ペック、エヴァ・ガードナー ・「レッティング・ゴー」 ( 同右 ) 八五年 ・「ヘミングウェイ」 ( 日本禾公開のテレビ・ミニシリー ・「武器よさらば」五七年 監督ジャック・ペンダー ズ ) 八八年 監督チャールズ・ヴィダー 主演ジョン・リッター 監督ハーナード・ジンケル 主演ロック・ハドスン、ジェニファー・ジョーンズ 主演スティシー・キーチ、ジェラルディン・チャップリ ・「陽はまた昇る」五七年 者紹介》 ン 監督ヘンリーキング 野崎孝一九一七年生れ。童泉大教授、英文学 《製作に携わった記録映当 主演タイロン・パワー、エヴァ・ガードナー、エロール・ 篠田一士一九ニ七年生れ ( 八九年没 ) 。文芸評論家 ・「スペインの土」 ( 日本未公開 ) 三七年 フリン⑨ 佐伯彰一一九ニニ年生れ。中央大教授、文芸評論家 ・「老人と海」五七年 幾野宏一九三六年生れ。翻訳家 ヘンリー・ミラー 監督ジョン・スタージェス 宮本陽吉一九ニ七年生れ。学習院大教授、米文学 ・「北回帰線」七〇年 主演スペンサー・トレイシー 金関寿夫一九一八年生れ。駒沢大教授、米文学 ・「銃砲密輸人」 ( 日本未公開、原作「持っと持たぬとし監督ジョゼフ・ストリック 沼澤洽治一九三ニ年生れ。桐蔭学園横浜大教授、米 ースティン 主演リップ・トーン、エレン・・ 五八年 文学 ・「クリシーの静かな日々」デンマーク・七〇年 監督ドン・シーゲル 小島信夫一九一五年生れ。作家 バトリシア・オーウエンズ監督イエンス・ヨーゲン・トールソン 主演オーディオ・マーフィ、 石田安弘一九三九年生れ。都立医療技術短大教授、 主演ポール・バルジャン ・「殺人者たち」 ( 原作「殺し屋たちし六四年 米文学 ・「ヘンリーとジューン」 ( 製作予定 ) 監督ドン・シーゲル 楢崎寛一九四八年生れ。都立大助教授、米文学 主演リー・マーヴィン、ジョン・カサヴェテス、アンジ監督フィリップ・カウフマン 杉浦銀策一九三三年生れ。都立大教授、米文学 主演ウイレム・デフォー、イザ・ヘル・アジャーニ ・ディキンスン⑨ 志村正雄一九ニ九年生れ。泉外語大教授、米文学 ・「クリシーの静かな日々」 ( 製作予定 ) ・「海流のなかの島々」七七年 富士川義之一九三八年生れ。泉大助教授、英文学 〔督クロード・シャプロル 監督フランクリン・¯' ・シャフナー 井上謙治一九ニ九年生れ。明治大教授、米文学 主演アンドルー・マッカーシー 主演ジョージ・ 0 ・スコット、クレア・プルーム 邦高忠一一一九ニ六年生れ。明治大教授、米文学 ・「マイ・オールド・マン」 ( テレビ映画 ) 七九年 千石英世一九四九年生れ。都立大助教授、米文学 フィリップ・ロス 監督ジョン・エルマン 福田立明一九三四年生れ。富山大教授、米文学 ・「さよならコロンバス」六九年 主演クリスティ・マクニコル、ウォーレン・オーツ ■次回配本 ( 八九年十一一月十五日刊行 ) 監督ラリー・ビアース ・「陽はまた昇る」 ( テレビ映画 ) 八四年 主演リチャード・ペンジャミン、アリ・マッグロー⑨⑩ドイツⅢ・中欧・東欧・イタリア 監督ジェームズ・ゴールドストン カフカ / ムージル / ゴンプローヴィッチ / シュ ・「ポートノイの不満」 ( 日本未公開 ) 主演ジェーン・シーモア、 ルツ / クンデラ / モラヴィア / 。ハヴェーゼ キャラディン 監督アーネスト・リーマン ート・ボクナー、ロバート・
報 ーの死まて一一人は親しくつきあうことになる。 さて、『持っと持たぬと』の映画ヒをワーナー・プラザースに買 筈見有弘わせたホークスは、し「かりした手腕を持「脚杢豕ジールズ・フ和 アーズマンにまずシナリオを執筆させたあと、フォークナーに手を 加えさせた。ハ リー殳にハンフリー・ホガートを起用することはす 原作がヘミングウェイ、脚色がフォークナーーーやがてノーベル ぐに決まったが、マリー役の女優はなかなか決まらず、結局、ホー 賞を受賞することになる作豕一一人が参加している唯一の映画として クスは元モデルのローレン・ 、コールを起用することにした。撮影 一九四四年の『持っと持たぬと』 ( 映画邦題『脱出』 ) がある。 が進むにつれて花開いたポガートとバコールのロマンスも有名だが、 企画を考えたのはハワード・ ホークス監督てある。ハリウッドの ここはそれ ) 五る切′しはわはい。 映画人の中てもユニークな人脈を持っていたホークスはどちらの作 家とも懇意にしていた。 ヘミングウェイとはキーウエストやサンヴ ハコールのスクリーン・テストを行うにあたってホークスの書い たセリフは、彼女がドアにもたれてこう一一一口うのだつご。「ロ笛の吹き アリーへよく釣りや狩猟に行っている。『誰がために鐘は鳴る』も『陽 はまた昇る』も最初に映画化を意図したのはホークスだといわれる。方、知ってるてしよ。唇をすばめて、息をだせばいいのよ」 スクリーンから送りだされた名セリフの一つとされるこのセリフ ホークスはヘミングウェイに映画のシナリオを書かせようとしたが、 ヘミングウェイはまったくのってこない。 そこてホークスは、へ、 はそもそもは映画の中て使う予定にはなっていなかったのだ。それ を、場所をホテルの一室に設定し、きっかけになるセリフを加えて ングウェイの最も出来ばえの悪い小説を面白い映画にしてみせると 映画の中に挿入しようという案を思いついたのがフォークナー ししたした。この最も出来ばえの悪い小説というのが『持っと持た かんこつだったい ところて完成した映画はヘミングウェイの原作小説を換骨奪胎、 ぬと』てあるという占ぞ一一人の意見は一致した。 どころか両者の間にはほとんど接点がなくなっている。最も大きな 一方、フォークナーは、『響きと怒り』『サンクチュアリ』などを発 表していたものの小説だけては生活が出来ないとあって一九三一一年原因は、一一年前にヒットした、やはりポガートの『カサプランカ』 、ことりいれていることによる。会社も、 以来、ハリウッドと関わりを持っていた。てしばらく仕事をの状況、人物設定を意識的 ( していたが、フォークナーの小説『急旋回』を気にいったホークス第一一次大戦末という時代もそれを要求した。 ヘミングウェイは原作を提供したにとどまるのだからさておく が、それをシナリオにするよう依頼したことから交際が開始された。 として、フォークナーはこの映画、さらにいえばハリウッドの中′し これは『今日限りの命』というタイトルの映画 ( 一九三三年 ) にな どのような役割を果たしたのてあろうか。それを知るのはなかなか ったが、狩りと飛行機操縦、とりわけ〃ストーリーを語る , ことに にむずかしい。フォークナーがハリウッドと関わっていた時代の映 興味を持っていた一一人には共通したところがあり、以来フォークナ 連載■世界の交学・映画ノートエ アメリカⅡ
ニューウェープといわれる作家たちによの世代て、多くは七〇年代から活動を開始、やはり自分の国の伝統 最初にも聿日いたように、 や文化を大切にしながら、気負わすに落着きのある描写をしめして って中国映画はにわかに脚光を浴びたのてあるが、こうして見てい くと、この国の映画にもみごとな伝統のあることがわかる。『林商店』 しんはん そして第五世代が、『黄色い大地』 ( 八四年 ) 、『子供たちの王様』 ( 八 の水華、『家』の陳西禾、『阿正伝』の岑范たちは第三世代に属する ちをかいか 七年 ) の陳凱歌、『赤いコーリャン』 ( 八七年 ) 、『菊豆』 ( 九〇年 ) の ハリウッド映画の影響を受けていた 映画作家といわれるが、戦前 中国映画を見て育ち、新中国設立後の一九五〇年代から演出活動を張芸謀といった映画作家たちぞ、彼らの作品が国際的に評価される 始めている彼らは、映画表現の伝統を継承し、新生中国にふさわし ことて、中国映画はにわかにクローズ・アップされた。この世代は ふようちん い題材を選んている。第一回茅盾賞を受けた古華原作『芙蓉鎮』 ( 八文化大革命という困難な状況の下て青少年期を送ったことが、ハネと 七年 ) が日本ても話題になった謝晋もこの世代の一人てある。 なり、また外国のさまざまな文化に接する機会が増えたことが刺戟 けつぶん 『薬』の呂紹連や『寒夜』の闕文は第四世代に属する。壅星国際映 となって、大胆な題材、映像や色彩表現に挑んている。 画祭てグランプリを得た『古井戸』 ( 八七年 ) の呉天明、昨年ようや ばくは昨秋、一一年ぶりて上海を訪れたが、相変らす映画館に人が く日本ても上映された『蕭蕭 ( シャオシャオ ) 』 ( 八六年 ) の謝飛もこ群がっている光景を見て、映画は相変らず娯楽の中心だな、と思っ ご。ところが、実際にはいろいろ間題を抱えているらしい 来日した謝飛監督が「日経エンターテイメント」誌のインタビュ ーて語っているところによると ( 一九九〇年十一月一一十八日号 ) 独 立採算システムが徹底し、各撮影所は製作費を自分たちて稼ぎ出さ ねばならなくなったこと、その結果、娯楽一辺倒の作品が増え、芸 術映画の質が落ちていること、さらに年間に作られる約百六十本の 自国映画より、輸入される五十本の外国映画の観客動員数が多いこ と、そして天安門事件以後、映画製作に必要な当局の審査がきびし くなっていることなどを挙げている。ようやく世界の注目を集める ようになった中国映画だ、ぜひ苦境を切り抜けてほしい。 ( 映画評論家 ) 上 / 『寒夜』 ( 巴金原作 ) 虹芳なインテリ注文宣 ( 許還山 ) と 彼の美貎の妻・曽樹生 ( 潘虹 ) 世界の文学・月報 7
報 月 んてみると分かるのだが、その差は歴然としている。当然のことな 世 きない どうしても臼人居住区から遠くの黒人居住区を仰ぎみると 筈見有弘 いう感じは拭いきれないのてある。 ところて、手紙には、今年 ( 一九九一年 ) の後半からはハー 昨年 ( 一九九〇年 ) の四月、來示・白山の一一一百人劇場て「中国映 ド大学へ各只教授として赴く旨が記されていた。クツツェーにとっ ぜをう 画の全貌」という催しがあった。戦後の中国映画の、一九五〇 て数年ぶりの米国滞在てある。クツツェーはベトナム戦争の時期に から今日まての主要作品六十本ほどの上映てある。近年話題になっ 一一十代の後半をアメリカて過ごしている。それは、結果的には最刀 こんどは湾岸戦ているニューウェープといわれる映画作家たち以前の作品に接する の作品『ダスクランド』を生み出した滞在だった。 争直後のアメリカてある。大国アメリカの今回のカの行使に、南ア機会にあまり恵まれなかったばくとしてはっとめて見るように心が の作家クツツェーはどのように「南ア的想像力」を働かせるのだろ ろじん 本巻てとりあげられている文豪の小説の映画化ては魯迅の『薬』 うか。私には、バクダッド空爆の映像が『ダスクランド』の場面と ばきん ( 八一年 ) 、『阿正伝』 ( 八一年 ) 、巴金の『家』 ( 五六年 ) 、『寒夜』 ( 八 重なりあって仕方がないのてある。 らくだ ぼうじゅん さて、クツツェーの作品は、今後もポスト・モダンへの傾斜を深四年 ) 、茅盾の『林商店』 ( 五九年 ) 、それに老舎の『駱駝の祥子』 ( 八 めていくのだろうか。そうかも知れない。そう期待している人々も一一年 ) 、『茶館』 ( 八一一年 ) なども見ることが出来た。魯迅の『僵』 多いだろう。しかし、私としては『鉄の時代』に描かれた質感のあ ( 五六年 ) 、記録映画『魯迅伝』 ( 八一年 ) も上映されたが、機会を逸 る人々やケープタウンの風景の方に、やや一方的だが、期待してい 八一年に魯迅の『薬』や『阿正伝』が映画になり、記録映画ま る。いずれにしろ、私のように南アの白人文学にはやや距離を置こ いま五十歳を越えたばかりのクツツて作られているのはその年が文豪の生誕百周年にあたったからてあ うとする立場の者にとっても、 る。『薬』は、清朝末期の紹興の町が背景の物語て労働者の住む界 エーは、今後も気になる存在てありつづけるだろう。 ( アフリカ文学 ) 隈て小さな茶館をいとなんている夫婦がおり、一人息子は肺病をや んている。肺病には人の血をしみこませたマントウ ( まんじゅう ) が 牛交薬たといわれ、夫婦は高い金を払って首切役人からそれを買う 連載・世界の文学・映画ノート⑩