風土がどちらかというと精神日し的傾向を好み、アウトサイダー的生 き方を求めるのに対し、私は現実に身を寄せ市民的に生きることを 詩的生成力について『アンナ・カレー = ナ』を読んだ頃辻邦生 願ったのは、そのためだった。 トルストイの読み方にもマンの影響があって、たとえば彼が「ト ふとう ルストイの退屈に対する不撓な意思」などと書くと、『戦争と平和』 トーマス・マンは初期の傑作「ブッデンプローク家の人々』を書の描写などは、面白さや劇的構成などを無視して、退屈ても何ても いていた当時、ひたすらトルストイにのめり込み、机の上にその肖 トルストイはただ書いた、というふうに感じていた。事実、当時の 像写直 ( を飾っていたという。のちに『ゲーテとトルストイ』を聿〕き、 私にはトルストイの作品はその程度にしか読めなかったのてある。 し」ら この一一人を、生への肯定的な態度を貫く作家として捉え、シラーと 私がこうしたマンの影響を脱して読んだトルストイの作品ては『ア カイストキント ドストエフスキーという自意識的な作家を精神児と規定したのに対 ンナ・カレーニナ』が最初だろう。というより、『アンナ・カレーニ ナトウールキント し、自然児という概念てその特質を示した。 ナ』を読んて、はじめてトルストイの小説の凄さを感じ、その直接 自然児は長命てあったし、内面的苦難は多々あったにもかかわら 的感動を手がかりにトルストイを自分の眼て見直していった、とい ず、一貫して素朴な度を失わず、生を信じ、人間主義的に生きた。 うのが実清だった。 ころ たんどく 報 私は旧制高校の頃マンを耽読し、マンに導かれて早い時期に『ゲー 『アンナ・カレーニナ』を読んだのは、「見代における小説の不可能 テとトルストイ』を読み、自然児の生き方に共鳴した。日本の文学性」という問題て散々悩まされていた最中だった。トルストイは『戦 世 ロシアⅡ 集英社ギャラリー L 世界の文的、 ー 14 報 月 集英社 第 7 回配本第 14 巻 1990 年 5 月
のつづく物語の発端て、すてにわれわれは、運命の、あの有無を一一「ロ月 争と平和』のあと、長いこと次の作品の主題を心のなかて暖めてい 、見を書いて わせぬ水流のような力を感じる。それはトルストイカ月言 たがその主題が複雑すぎてなかなカ月言の形をとらなかった。そ いるのてはなく、「すてに存在する小説全体」がトルストイのペンを んなある日、ヤスナヤ・ポリャーナの隣村て人妻が鉄道自殺をした。 世 しんかん その報せを聞いたとき、トルストイは全身を震撼されるような衝撃通して身ぶるいしながら外へ現われ出ようとしているのてある。 を感じた。彼は急いて自殺のあった駅まて馬車を急がせたという。 オプロンスキーの妻ドリーの末妺キティと、トルストイ自身をモ アンナとウロンスキーの劇的な炎 デルにしたレーヴィンの物語が、 おそらくこの人妻の自殺を聞いた瞬間、トルストイのしにあった のような恋とは対照勺に、慎ましく、田園的に、重厚に描かれる。『ア 主題は、一挙に〈小説の形〉をとったに違いない。 私たちが今『アンナ・カレーニナ』という形て持っている小説の全ンナ・カレーニナ』がもしこの対になる田園的な恋の物語を持たな ひろ やみよ カったら、作品世界があれだけ豊かな拡がりを見せなかっただろう。 体を、闇夜の光景を稲妻が一瞬照らしだすように、一遍に見てしまっ このキティとレーヴィンの平和な田園的生活と対照されるために、 たのてあろう。 せいせつ アンナとウロンスキーの恋が一段と凄絶な表情をとる。人妻の恋は、 このような形て小言か擱まれるとき、「小説が可能か不可能か」な どれほど情熱的て、どれほど純粋な動機てあっても、モスクワ社交 どという問題はまったく意味がなくなる。作家はただ書く以外に何 しよせん / 二二ロ 見のほうが作家を捉え界ては所詮許し難い不倫てあることに変りがない。アンナが頼るの 。第家すト説を書くのてはなく、ト も考えな ( イカ ( 三 は恋しかないが、恋はますます彼女を孤立させる。 るのだ 私はそう思い当ったとき、「小説 ( 物語 ) は見代てはもは それにウロンスキーの側から見れば、恋の項点を過ぎたとき、男 や不可能なのてはないか」などという疑問は問題にする必要はない これは道徳的 は演技てしか当初の愛の情熱を保ちつづけられない。 と感じた。小説 ( 物語 ) は、作家が書く書かぬを決めるのてはなく、 それ以前に〈小説の全体〉としてすてに存在しているのだ。あたか な問題てはなく生理的問題だが、その心のメカニズムがあまりにも あらわに露呈される。所詮ウロンスキーはそこらにいる平凡なエゴ も巨大な大理石塊のなかに「ダヴィデ」が存在していて、それをミ イストの美男にすぎないが、アンナの眼には素晴らしい理想の男に ケランジェロがただ彫り出してゆくように : たしかにこ - フした一言い方には比喩的な面もあるが『アンナ・カレー 見える。表と裏を聿日きわけるトルストイの腕が冴えるのはこ - フした ところだ。競場の場面、舞踏会の場面て、まさしくアンナの運命 ニナ』の場合には比喩ても何てもない。愛すべき高級官僚オプロン としてウロンスキーは登場する。アンナの情熱が思わず外に溢れ出 スキーがフランス女の家庭教師に手を出したことから妻との不和が て、カレーニンに気づかれるのも競馬場てある。アンナの肉感的な 起り、その調停のためにオプロンスキーは妺のアンナを呼ぶ。アン ナは雪のモスクワ駅に降り立ち、ウロンスキーと運命的な出会いを存在感だけても私は息が寒まりそうになる。アンナの破滅的な情熱 は崇高てさえある。あるいは破滅するゆえに崇高なのか。 こうした一連の插話 する。たまたま駅構内て女が鉄道自殺する っ
に、そして身体にも着実に影響を及ばしてしまうようて、とにかく 作品を構成する細部のモチーフも、精密に組合わされていて、些 め 細な插話の一つ一つがすべてアンナの悲劇にむかって流れ込んてゆ ' 朝刊に眼を通して布団に入り、起きるとタ刊がきているんという くような印象を受ける。 ごとえば、銭昜に行って脱衣場てばんや 毎日は不腱康窮まりなく、オ ・り・ーしわなが・ら、い J - フーし一しここに 2 は男、 2 か・り「ー ) かいた 6 いの・た冫っ - フ : 現実のトルストイは小説家としてレーヴィンを遙かに超える存在 がくせん てあったが、最終的にはレーヴィンのように人生的な悩みを抱いてと考えたりしている自分に気づいて愕然となった。 当時健在だった両親に、生活費はちゃんと稼いていると言い、大 家出をする。この事実はますます『アンナ・カレーニナ』が現実の 学を浪人も留年もせずに四年て出たのだから、大学院に行って勉強 トルストイを超え、自然の生成物てあるかのように存在した、とい さしよう へりくっ , フ感じを強める。小 " ~ 豕 -z ・ルストイの「祝はそこにあるといえよ - フか していると思って〃学費〃を些少送られたし、などという屁理屈 『アンナ・カレーニナ』には、そうても考えないと説明てきないよの無心と、なるべく時間を取られないようなアルバイトて得た革か ナた。それは安い文庫本を多 うな生成する生命に満ちているのてある。そこにはよくてきた小説な金て、私は一つの精神健康法を見つ : という以上の何かがある。そのゆえにこの小説の持っ〈生命力〉は量に買い込んてきて、若くつらくて長い時間を徹底的に読書てつぶ つねに私に小説という存在を信じさせるのだ。物語形式がどんな衰すことだった。 あさ 運に見舞われようとトルストイの自然力に似た詩的創造に触れ得る 一年後には、一一百冊近い文庫を新刊・古書て読み漁った。その だんだん文 かぎり、人は小説 ( 物語 ) への信頼を失うことはあるまいと思う。 ペースをほば十五年間にわたって続けたことになるー ( 作家 ) 庫本て読めるものがなくなって、単行本や全集などの大型の本が占 その膨大な読書の常に中心にあっ める割合が多くなっていったが。 たのがドストエフスキーだった。 さかのほ 遡って、私がドストエフスキーの名則に最初に接したのはーーー世 ドストエフスキーとの接触 界史の教科書や文学史年表などて眼にするのは除いてー丨大学時代 の友人から、古本屋へ行くなら、ついてにドス小エフスキーの『地 一九六九年の終り、私はその春の就職て上京していたがサラリー 下生活者の手記』の文庫本を捜してきてくれないかと頼まれたとき マンの仕事は勤まらず、あえて飛び込んだジャズの世界てのビアノ ごった。当時の私の本棚には、ジャズの雑誌や音楽関係の本に混 ひつばく の仕事もままならず、経斉勺にも逼迫していた。いささか好んてそ じって、わずかにカフカ、カミュの代表作、それにランボオの詩集韆 ういう状態にあったようなふしもある。私はちょうど一一十一一一歳に などがあるだけだった。高校以来読んていた海外のミステリーは読 なったばかりだった。好んてとは一一一〔うものの、そういう状態は精神み終えると友達が持っていったり、なくしたり、あるいはまとめて和 世 原尞 わす
昭和初期の日本に移しただけの忠実な映画化を考慮していた。 ( 最 から、人間や世の中を視る眼が一変したように感じもし、人間や世 がぜん 近、『灰とダイヤモンド』のアンジェイ・ワイダ監督が作った『悪の中が俄然面白くなったようにも感じた。それはいまも強烈な実感 はる ている。 霊』を観たが、私のほうが遙かに面白かったはずだ などとシナとして続い リオを完成させなかったお蔭て勝手なことが言える ) このときに、 ドストエフスキーの登場人物の名前には意味がこめられていると聞 きかじり、てきることならそれに贍しい日本人名にしたいと考え た。そこてロシア語に無知な私は、ある知人を通して、原卓也先生 筈見有弘 を紹介してもらい、シナリオライターのタマゴの分際て執筆中のホ テルにまて押しかけて、貴重な時間を割いてもらって懇切にご教示 別表 ( 世界の文学・フィルムライプラリー⑦ ) ておわかりのよう したたいたことを田 5 い出す。一つだけ例をあげると、 ' スタフロ に、ドストエフスキーもトルストイも映画化された作品はかなり多 ーギンみは意外にも妻を寝取られた男という意味にとれるような名 しかも、これて全部てはない 。まだ大半の映画が短編、中編て 前らしく、それからコキュに頭に角が生えるという連想から〃鬼頭 あった一九一〇年代、本国ロシアて、この一一文豪の代表作はほとん おほ と命名したことを億えている。先生の時間を浪費してまての名則 どといっていいほど映画になっていたたが、演出者、出演者など なったかどうか不明だし、それほどまての意気込みて取り組んだに か判明しない作品も多く、別表には載せていないのてある。 ざせつ もかかわらず、シナリオは中途挫折した。しかし、その経験が小手 一九一七年の十月革命の直煎すなわち帝政時代末期のロシアて 先だけて文章をいじくるような考え方を放棄させ、自分のオリジナは心理映画と呼ばれる作品がしきりと作られ、ことにドストエフス ルのシナリオ、ひいては小説に本気て眼を向けるきっかけとなった。 キー文学は好適の素材だった。トルストイの『戦争と平和』も一九 ムにはドストエフスキーの乍品についての解説・評言力てきるよ 一一一年に映画化に着手したものの、原作も構想も巨大てあったため、 かっ - : っ うな力量もないかここては意識的にもそれを避けた。本巻には然 たびたび中断し、四年がかりてなんとか恰好がついて一九一五年に るべき執筆者による《解説》が収録されるはずだから、その上にさ公開されたが、革命期にプリントが行方不明になってしまったとい ・らこーハよい」【刀し われる。 、ままさに世界最高峰の文学を手にしていられる売 ニ二ロ 者に向かって、どのようなものてあれ予見を与えるのは馬鹿げてい この時代、日本映画てもトルストイがもてはやされた。例の「カ かわ ると思うからてある。もっとも、どのような予見を抱いていようチューシャ可愛いや」の歌て有名な松井須磨子の舞台が話題になる みしん と、それが徴塵に打ち砕かれるのが、この大天才の作品との出会い と翌大正一二年 ( 一九一四年 ) に『カチューシャ』の題名てさっそく になるはずてある。最後に一言だけ ドストエフスキーを読んて映画になっているのてある。まだ日本映画には女優が採用されてい 2 世 こんせつ 連載■世界の文学・映画ノート⑦
報 『臼痴』のわが黒澤明などがその例てある。 ず、女形の俳優がロシアの女性を演じたのだから、なんとも遠い昔 むろんこれはすぐれた個性を持っ映画作家が彼ら流に映像化した の話だ。これは大ヒットして続編、続々編も作られたし、映画会社 ものてあるが、ドストエフスキー文学にひめられた、作者の意図を は調子に乗ってやはりトルストイの『生ける屍』まて取り上げてい 世 乗り越え、現代社会をゆさぶる毒性が彼らをして映画化に駆り立て る。むろん著竊の意識のなかった時代なればこそだ。 ているのだ。ちなみにワイダが坂東玉三郎にナスターシャとムイシュ そのようにロシア以外てもトルストイやドストエフスキーの小説 の映画化はかなりあったようだが、革命以後になると、むしろ他国キン公爵の一一役を演じさせて、『臼痴』を大胆に舞台劇化した『ナス ターシャ』も、べニサン・ピットという来星の小劇場の空間にドス ての映画化の方が目立ち、その傾向は一九五〇年代末まて続く。む トエフスキーとワイダと玉一一一郎の芸術をからませあった奇妙な実験 ろん、有名文学の映画化には興行バリューがあるということもある によって ( た が、この一一巨匠の作品の多くは起承転結のはっきりしたストーリー さて、よその国てはドストエフスキーやトルストイの映画化が盛 ドラマ性があり、換骨奪胎させてしまったという批評家の非難をお それずに映画化すれば、一般大衆を興奮させるには十分な要素が備んだったのに対し、本国ソ連ては郵以後あまり活発とはいえなかっ わっているからた。 た。時代の流れの中て文学そのものの評価が変わっていったために ったという事清もあったろう。ことにスタリーン晩年 『アンナ・カレーニナ』は、グレタ・ガルボが二度演じ ( 最初はサ手がけ イレント映画 ) 、ヴィヴィアン・リーも扮しているが、ハリウッドやの硬直した芸術・文化政策の影響は否定てきまい。革命期以前の文 学にようやく正当なバランスが回復されるのは一九五六年のスター ロンドンの映画人の手にかかれば、一代の大スターが取り組むにふ へんほう リン批判以後のこと。てあるが、その少しのちから、一九六〇年代の さわしい悲劇のヒロインに変貎する。不△間、自殺と、ドラマチック 末にかけてソヴィエト映画界は侍ってましたとばかりに文芸大作を な要素にこと欠かない商業的なメロドラマに仕立て上げられる。 送り出すことになる。 ドストエフスキーていえば、『白夜』は橋の上。て出会った男と女・ : -z 、ルス—z ・イー その時期に生まれた文芸映画は、ドストエフスキー というわけて、文学的な香りのするロマンチック映画に再生てきる し、『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』は名優たちの演技の競いあの原作に限ったこと、てはなかったが、軸になっているのはこの一一大 の昜ごっご。 文豪の小説の映画化だった。前者ては『白痴』『白夜』『カラマーゾ ー、十ノ学 / フの兄弟』『罪と罰』、後者ては『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』 ドストエフスキーの文学にはさまざまな国の一流映画作家も関心 がこの期に作られている。ことに十月革命五十周年記念と銘うち、 をしめしている。『白夜』に取り組んだイタリアのルキノ・ヴィスコ レ 三部におよぶ超大作として公開された ( 日本ては一一部作として公開 ンティ、フランスのロべー ・プレッソン、近年てはフランスて『悪 された ) 『戦争と平和』は、スケールの点て項点に立つものだ 霊』を発表したポーランドの映画作家アンジェイ・ワイダ、それに
監督ルキノ・ヴィスコンティ ・『亜冪平仏・八七年 監督ロルフ・ハンゼン 主演マルチェロ・マストロヤンニ、マリア 主寅ホルスト・フーフホルツ、ミリアム・フリュ ・シェル⑨監督アンジェイ・ワイダ ・ラジウイオウィッチ、ランペール・ 主演イエージー ・『カラマゾフの兄弟』米・五七年 ・『復活』ソ連・六一年 監督リチャード・プルックス 監督ミハイル・シュヴァイツェル ウイルソン⑦ ・マトヴェーエフ、タマーラ・ショー 主演ュル・プリンナー、マリ「 ノ・シェル ) 主演エフゲニー トルストイ ・「罪と罰 / 』 ( 日本未公開、現代版 ) 米・五八年 監督デニス・サンダース ・『アンナ・カレニナ』米・ニ八年 ・『戦争と平和』 ( 三部作 ) ソ連・六五ー六七年 丿ー・マーフィ 、王演ジョージ・ 、ミルトン、メアー 監督エドマンド・グールディング 監督セルゲイ・ポンダルチュク リエワ、セルゲイ・ポンダ ・『白痴」ソ連・五八年 主演グレタ・ガルボ、ジョン・ギルバー 、王宀臾リュドミラ・サヴェー 監督イワン・プイリエフ ・『生ける屍』ソ連・独・ニ九年 ルチュク⑨ 主演ュー ・『アンナ・カレーニナ』ソ連・六八年 リア・ポリソワ、レオニード・バコメンコ⑨監督フヨードル・オッエープ ・『勝負師』 ( 原作『賭博師』 ) 仏・五八年 主演フセヴォドロ・ブドフキン、マリア・ヤコビニ 監督アレクサンドル・ザルヒ 監督クロード・オータンⅡララ 主演タチアナ・サモイロワ、ワシリ ・『復活』米・三四年 ・ラノヴォイ 主演ジェラール・フィリップ、リゼロッテ・プルファー 監督ルーベン・マムーリアン ・「アンナ・カレーニナ』 ( テレビ映画 ) 米・八五年 ・『白夜』 ( 日本禾公開 ) ソ連・五九年 主演アンナ・ステン、フレドリック・マーチ 監督サイモン・ライトン 監督イワン・プイリエフ 主寅ジャクリーン・ビセット、クリストファー・リー ・『アンナ・カレニナ』米・三五年 主演リュドミラ・マルチェンコ、オレグ・ストリヤノフ監督クラレンス・プラウン ・『クロイツェル・ソナタ』ソ連・八七年 ・『おとなしい人』 ( 日本未公開 ) ソ連・六〇年 監督ミハイル・シュヴァイツェル 主演グレタ・ガルボ、フレドリック・マーチ⑨ ) 監督アレクサンドル・ポリソフ 主演オレグ・ヤンコフスキー、イリーナ・スレズニョーワ ・『アンナ・カレニナ』英・四八年 ・『おじさんの夢』 ( 日本未公開 ) ソ連・六七年 監督ジュリアン・デュヴィヴィエ 監督コンスタンチン・ポイノフ 主ヴィヴィアン・ 《訳者紹介》 、キーロン・ムーア⑨ ・『カラマーゾフの兄弟』ソ連・六八年 ・『アンナ・カレーニナ』 ( 日本未公開、モスクワ芸術座 小泉猛 監督イワン・プイリエフ の舞台劇を撮影したもの ) ソ連・五三年 主演ミハイル・ウリャーノフ、リオネラ・プイリエワ⑨ ) 監督タチアナ・ルカシエヴィッチ ・『みにくい挿話』 ( 日木未公開 ) ソ連・六九年 ・『戦争と平和』米・五六年 監督アレクサンドル・アロフ、ウラジミール・ナウーモフ 監督キング・ヴィダー ・『罪と罰』ソ連・七〇年 主演オードリー ・フォン , ( ) 監督レフ・クリジャーノフ ・『アンナ・カレーニナ』 ( 日木未公開 ) アルゼンチン・ 主演ゲォルギー・タラトリキン、タチアナ・ペードワ五六年 ・『白夜』仏・七一年 監督ルイセ・セザール 監督ロペール・プレッソン 主演スリイ・モレイ 主演キヨーム・デ・フォレ、イザベル・ヴェンガルデン・『カチューシャ物語』 ( 原作『復活』 ) 西独・五八年 一九三八年生れ。八〇年没。ロシア文学。 主要訳書『ドストエフスキーとベトラ シェフスキー事件』 ( 共編訳 ) 他。 工藤精一郎一九ニニ年生れ。関西大教授。ロシア文 学。主要著訳書『ソ連の素顔』、トルスト イ『戦争と平和』他。 ■次回配本 ( 九 ( 〔 ) 年六月二十日刊行 ) ③イギリスⅡ ヴィクトリア朝期英文 ~ ・をする三大作。・プ ロンテ風が斤』 / - デイケンズ「バーナビ ハーデイ「グ . ーバヴィル宀豕のテス』 世界文学・月報 8
・「ドクトル・ジパゴ」米・六五年 と罰」」、ドストエフスキー「亜皿」他報 ショーロホフ 監督ディヴィッド・リ 小泉猛一九三八年生れ。八〇年没。「ドストエフス ・シャリフ、ジュリ 主演オマー ・「静かなドン」ソヴィエト・三一年 キーとベトラシ = フスキー事件」 ( 共編訳 ) 和 監督オリガ・プレオプラシェンスカヤ、イワン・プラ コートニ 1 ⑨ 小野理子一九三三年生れ。モスクワ大大学院修了。世 ーウオフ 神戸大教授。「ロシアの愛と苦悩」他 主演 < ・アプリコソフ、 < ・グロモフ 《訳者紹介》 米川正夫一八九一年生れ。一九六五年没。ロシア文 ・「開かれた処女地」 ( 日本未公開 ) ソヴィエト・三九年工藤幸雄一九ニ五年生れ。ポーランド文学。多摩美 学。ドストエフスキー「罪と罰」 r 悪霊」他 ・ライズマン 監督ュー 大教授。「ワルシャワの七年」他 安岡治子一九五六年生れ。泉外語大講師。ラスプ ・「静かなるドン」ソヴィエト・五七ー五八年 長與容一九四九年生れ。ポーランド現代文学。コ ーチン「マリヤのための金」 監督セルゲイ・ゲラーシモフ ンヴィッキ「ポーランド・コンプレックス」 小平武一九三七年生れ。ロシア文学。北海道大教 主凍ヒョートル・グレポフ、ジナイダ・キリエンコ、 小笠原豊樹一九三ニ年生れ。詩人・翻訳家。「マヤコフ 授。ペールイ「銀の鳩」他 エリナ・ビストリッカヤ スキー」、ソルジェニーツイン「ガン病棟」工一郎一九ニニ年生れ。関西大教授。トルストイ ・「人問の運命」ソヴィエト・五九年 水野霙一九三七年生れ。早稲田大教授。「マヤコ 「戦争と平和」、ドストエフスキー「罪と罰」 監督セルゲイ・ポンダルチュク フスキー・ノート」、プルガーコフ「劇場」他中平耀一九三〇年生れ。詩人。詩集「樹・異界」 主演セルゲイ・ポンダルチュク、ジナイダ・キリエンコ原卓也一九三〇年生れ。東京外語大学長。「ドス 「花についての十五篇」他 トエフスキー」、トルストイ「戦争と平和」工藤正広一九四三年生れ。ロシア文学。北海道大助 パステルナーク 江川卓一九ニ七年生れ。中京大教授。「謎とき「罪 教授。「バステルナーク研究」他 、ド、フォークナー、ヘミンクウェイ、ミラー、ロスほか。 ⑦フランスⅡ フロべールほかの長編と新訳を含む短編、ポードレ⑩アメリカⅢ ①舌典文宀重 ール『悪の華』。十九世紀フランス文学のすべて。 べロー『その日をつかめ』、ボールドウイン『ビール・ ギリシア三大悲劇集、ダンテ『神曲 ( 地獄・煉獄・天⑨フランスⅣ ス -z ・リー , 「にロ・あ一らよ』、ヾ ース『酔いどれ草の仲買人』 国 ) 、セルバンテス『ドン・キホーテ』 戦後フランス文学の化下人成。ロプ日グリエ身ン』 ( 初⑩ラテンアメリカ 訳 ) 、セリース『なしくずしの死』 ( 全面改訳 ) ほか。 プイグ『赤い唇』 ( 初訳 ) 、ドノソラルジョア社会』 ( 初 ( 3 イギリスⅡ ・プロンテ『嵐が丘』、デイケンズ『バーナビー・ラ⑩ドイツⅢ・中欧・東欧・イタリア 訳 ) をはじめ、ボルへス、 e= マルケス等の長短編。 ッジ』、ハーディ『ダーバヴィル家のテス』 ク・ンデラ『存在の耐えられない軽さ』 ( 初訳 ) ほかカフ ・次回配本 ( 九〇年十一月ニ十日刊行 ) 力のみ名作、ムージル、ゴンプローヴィッチなど。 ⑤イギリ・スⅣ 翁ドイツⅡ ゴールディング『蠅の王』ほかの長編と五大陸の英語⑩ロシアⅡ リルケ『マルテの手記』、ホフマンスタール『影のな 圏作豕の短編を収めた現代イギリス文学のすべて。 不朽の一一大巨編を一巻に収録。ドストエフスキー『罪 い女』、トーマス・マン『トーニオ・クレーガー』他 ⑥フランス— と罰』、トルストイ『アンナ・カレーニナ』 一編とヘッセ、グラスの長編、一一十世紀短編集を収 ラ・ファイエット夫人、プレヴォ、コンスタン、スタ⑩アメリカⅡ 録。 ンダー レ、、、、ルザック。フランスし理小説の華々。 失われた世代と続く世代の長短編。フィッツジェラル ■好評既刊 ・クリスティ、トム・
くなる語りの醍醐味に、どうしてもついていけない自分を感じた。 争の飛び火がいたるところにくすぶっていて、その気になればどこ いなか 例のすつばいブドウの論理て、『白鯨』に関しては以後かなりの期 か騒然として映る世の中を、田舎の高校生てあった私は、さてどう さげす 受けとめて毎日を過ごしていたのたろう ? 思い出そうとして時々、 間、私はこれをただただ退屈な小説として蔑むことによって精神の ' 意こ出くわしてハッとするのだが、 随分都合よく変形した記 ( ともか均衡を図ろうと試みたフシがある。例えばフィリップ・ロスの『素 くもある日、文庫本て上中下一一一冊の『白鯨』をまず一冊だけ本屋の青らしいアメリカ野球』に出てくる次のようなヘミングウェイと女 子大生の会話 ( 念のために一一一口うが、もちろんロスの創作だ ) を読ん 棚から抜き出して買ったのはハッキリ覚えている。 うれ 何故一冊だけかというと、高校生の常てこづかいの額と相談してて、必要以上に嬉しがった覚えなどもあるくらいなのだから。 ーマン・メルヴィルが『素 〈「ど - フい - フことだ ? 」とヘムが一一一口った。「ハ かなり盻味したつもりて文庫本を買っていたからて、当時の私は何 ーマン・メル 圭冂らしいアメリカ小説』を聿日いたと ? 可者だい、 巻かに別れた文庫本はまず最初の一巻目だけを手に入れ、それがっ ヴィルってのは ? ・」 まらなかったり難しくて読み切れなかったら次の巻は買わない、 おそそは、おもらしをしそうになった小さな子供みたいに、 振り いう購入の原則をたてていたのてある。 かえって、長くて細い脚をもじもじ動かした。やっとのことて返事 そして『白鯨』はその原則にしたがって一巻目て打ち捨てられた。 まったく歯がたたなかったのだ。 ( ちなみに言えば、他に上巻だけてする。「『白鯨』の作者。てす」 「そ - フか」とヘムは言った。「それなら ~ 机んだ。 ~ をつかまえる話だ ったものにトルストイの『復活』やハイデガーの『存在と時間』、 「あのう、捕鯨の本じゃありません」とおそそは言い、アメリカン・ それにヘーゲルの『精神哲学』などがあった。トルストイはともか 後の一一冊はどうしてそんなものを買ったのかぜんぜん理由がわビューティー種のばらさながらに真赤になった。 からないし、さらに一一中んば、い ヘムは笑い出した。「きみはヴァッサー女子大て文学の学位を取っ まだにモチロンそれらは打ち企ロてら たんだったね。 どういう小説なのか、話してくれ」 れたままなのてある : ・・ : ) す 彼女は、善と悪を描いた小説だと言った。白鯨はただの臼鯨ては かくして高校の時の『臼鯨』との出会いはまったくの擦れ違い なく、一つのシン、ポルなのだと言った。それがヘムを面白がらせた。 終った。一一回目に擦れ違ったのが大学生だった頃て、その時は確か 文庫本てはなく河出のグリーン版全集の一冊だったが、しかしそれ 「女子大、『白鯨』は鯨の脂と、話を面白くするために出てくる気違 3 報 ざせつ いの本だ。鯨の脂が五百ページ、気違いが百ページ、約一一十ページ明 も途中。て挫折。読み進むうちに話が縒れ、その縒れた話からさらに 別の話が延々と続くという、崑悟して身を晒せばかえって気持がよ が、黒ん坊は鯨に銛を打ち込むのがうまいって話ててきてる」〉 世 さら もり
報 ・ウインタース 月 《訳者紹介》 子 ・好評既刊 / ・「かもめ」 ( 日本未公開 ) 英・六八年 監督シドニー・ルメット 木村浩一九ニ五年生れ。静岡県立大教授。「ロシ①古典文学集 / 文学の源流を生 9 非劇の集成和 主演ジェームズ・メイスン、ヴァネッサ・レッドグレ アの美的世界」、ソルジェニーツイン「イ③イギリスⅡ / / 運命の力が明らめる人間の輪郭世 ーヴ、シモーヌ・シニョレ ワン・デニーソヴィチの一日」ほか。 ④イギリスⅢ / 意識の流れに人間の内面を探る ・「三人姉妹」 ( 日本未公開 ) 英・七〇年① 川崎隆司一九三〇年生れ。新潟大教詩集「存⑤イギリスⅣ / 正統と異端、そして反逆への渇望 監督ローレンス・オリヴィエ、ジョン・シッケル 在への自由な出入り」らコーゴリの文体と⑥フランス— / 心理小説の開化美しき恋愛の華 主演ローレンス・オリヴィエ、ジョーン・プロウライ 思想の悲劇について」ほか。 ⑦フランスⅡ / 人間心理をリアリズムが描きだす ト、アラン・ペイツ 原卓也一九三〇年生れ。鑒泉外語大学長。「ドス⑧フランスⅢ / 錯綜した時代文学の新たな視角 ・「ワーニヤ伯父さん」ソビエト・七一年① トエフスキー」、トルストイ「戦争と平和」、⑨フランスⅣ / 不条理をえぐり出す極限の精神 監督アンドレイ・ミハルコフ・コンチャロフスキー ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」⑩ドイツⅡ / 精神の深淵を極める独文学の真髄 主演インノケンティ・スモクトウノフスキー、イリー 江川卓一九ニ七年生れ。土泉大教授。「謎とき「罪⑩ドイツⅢ・中欧・東欧・妥リア / 小説世界 ナ・クプチェンコ、セルゲイ・ポンダルチュク と罰」」、ドストエフスキー「亜皿」、バステ⑩ロシアⅡ / 存在の重みを語る人と愛の物語 ルナーク「ドクトル・ジハコ」ほか ・「かもめ」ソビエト・七一年 ⑩ロシアⅢ / 世紀ロシアが叫ぶ自由への希求 ・カラシク 監督ュー 中村喜和一九三ニ年生れ。一橋大教「聖なるロ⑩アメリカ— / 新大陸に誕生した米文学の原点 ・ヤコヴ 主病リュドミ一フ・サヴェーリエワ、ユー シアを求めて」、ゴーゴリ「デカーニカ近⑩アメリカⅡ / 失われた世代とそれに続く群像 レフ 郊夜話」、レールモントフ「現代の英雄」⑩アメリカⅢ / 病めるアメリカる一一一人の巨人 ・「機械じかけのビアノのための未完成の戯曲」 ( ラ一フ工藤精一郎一九ニニ年生れ。関西大教授。「ロシア文⑩ラテンアメリカ / 欧米に衝激を与えた傑作群 学つら話」、トルストイ「戦争と平和」、ドス ・待望の続刊 / トーノフ」他数編の短編 ) ソビエト・七七年 トエフスキー「罪と罰」ほか。 監督ニキータ・ミハルコフ ⑩ドイツ / / 文学運動 , こ社会運動の激しい交錯 ゲーテ / 若きヴェルテルの悩み / ファウスト 主演アントニーナ・シュラーノワ、イエレーナ・ソロ ヴェイ ヘルダーリン / ヒュペーリオン ホフマン / プランビラ王女 / 砂男 / 蚤の親方 ・「黒い瞳」 ( 「大を連れた奥さん」他三つの短編 ) 伊・ アイヒエンドルフ / のらくら者日記 八七年① グリム兄弟 / グリム童話集他 監督ニキータ・ミハルコフ 主演マルチェロ・マストロヤンニ、エレナ・ソフォー ⑩中国・アジア・アフリカ / 鮮烈た支学の新領土 魯迅 / 阿正伝 / 狂人日記他 ノフ、シルヴァーナ・マンガーノ 巴金 / / 寒い夜 / 憩園 ・「三人姉妹」 ( 現代イタリアに置去えての映画化 ) 伊・ 朝鮮短編集 / 金東仁・明文他 西独・八八年① ・・コツェー ( 南ア ) / 夷狄を待ちながら 監督マルガレーテ・フォン・トロッタ ・・ナラーヤン ( 印 ) / マルグディに来た虎他 主演ファニー・アルダン、グレタ・スカッキ、ヴァレ リア・コリーーノ ・次回配本 ( 九一年四月十九日刊行 ) ②イギリス— 笑いと涙、人間心理劇場の開幕 シェイクスピア戯曲集 / ロミオとジューリエ ヴェニスの商人 / / 夏の夜の夢 / ハムレット / オセ ロー / リア↓ / マクベス / あらし シェイクスピア詩集 / / ソネット集 デフォー / ロビンソン・クルーソー スウイフト / - ガリヴァ旅行記
クンデラは「小説は歴史の記述てはない」という。これを生産的月 いった様々な差異を含んだ文体は国家から追放され、転々としなけ ればならなかった彼の生活の中から紡ぎ出されたものて、実験のた に解釈すれば、あらゆる文学は合理性という暴力を不合理に押しつ めの実験ては決してない。 ける歴史への個人の実存的抵抗といえなくはないか ? 不合理性こ世 そ合理的だといえるのは実存を見据えた作家だけて、その作家こそ このグループに属する作家としてゴン。フローヴィッチを忘れるこ とはてきな ( ( 作家 ) 、。『フェルデイドウルケ』て展開される青一一才の崩壊感 、ポーダーレスの現代に必要な作家なのてある。 覚はまさに亡命者の生活のメタファーとして読まれるべきだろう。 本筋に関係あるのかないのかわからないエピソードやファルス、あ るいは本筋などというものは始めからなく、オオ】月上 、 ] ・翼 ( 文体の崩壊、カフカとの一一一つの出会い 小説の崩壊、主人公の意識の崩壊 ) しか起こらないのかも知れない はいきょ 『フェルデイドウルケ』はその意味て壮大な小説の廃墟てある。 ゴンプローヴィッチやアレナスとは違うタイプの亡命作家として カフカが現代文学のなかに占める大きな役割については、今更い ミラン・クンデラについて一言及しておく必要があるだろう。 うまてもないことたが、東ヨーロツ。、、寺にソ連ては、雪どけが訪 クンデラの小説には文体の突飛さというのはない。基本的にリアれるまて長らく禁じられた作家だった。恐らく、一九六四年一号の リズム小説といっていい。彼が好んて書くのはおかしな親子の関係「外国文学」誌上に訳された「流刑地にて」と「変身」が、ソ連ての てあったり、不思議な恋愛感情てあったりする。クンデラの小説論 最初の紹介てはなかったろうか。 ところが、一九五八年の初夏、筆者ははじめてのソ連の旅てこ 「 Art of NoveIs 」においてはク実存みがキーワードとして用いら れる。実存主義てはなく実存というところが重要てある。彼の場合んな体験をもった。モスクワ大学て開かれたロシア文学国際ゼミナ ふるさと ールの参加者とともにトルストイの故里ャースナヤ・ポリャーナへ は〃プラハの春みがソ連軍の戦車に踏みにじられた記自分の本 の出版が禁止された体験が厳然としてあり、それによって歪められ出かけたとき、バスのなかて一人のソ連の研究者と知り合い、何か の拍子にカフカの話になつご。ところが、相手はカフカの名 ~ 則をき た個人の実存をつぶさに検証してゆくことが彼のメインの作業だっ いても一向に驚くことなく、こちらがびつくりするほどカフカにつ た。おそらく、そこに個人の記應が一つの歴史意識まて高まるとい うドラマが生ずる。 いて色々とくわしい事実を知っており、ただソ連ては原書が入手て きず残念だと語ったのてある。それまてソ連の人びとにカフカの名 そのことは複数の文体や人称の衝突や混濁のかたちては現れない ていわい あくまて自分の記應や体験を一つ一つ丁寧にすくい上げ、その実存前を持ちだしても、誰ひとり知っておらず、そのときも相手は当然 知らないものとして、ロにしたのてある。筆者が最後に名前とアド の様態を小説の中て浮き彫りにする。 ゆが 木村浩