ダンテ 764 〔聖ベルナルドは、薇の花びらの居並びへ、ダンテの眼を導いてゆき、その主 要な区分と、そこに座を占める重立っ魂たちの名を教える。キリストによっての あずか み一様に救われたはずの天の子供たちが、程度の違う至福に与っているのを見て、 おんちょう ダンテの、いに、 ここでもまた、なぜ恩寵に選びがあるのかとの、古い疑いがお 、つカカ こる。それは予定の玄義に属し、人間の窺い知るを得ない問題だと、おん身も既 に承知のはすではないかと、ダンテは聖ベルナルドにさとされる。やがて聖ベル ナルドは、再びダンテの凝視を、ます童貞マリアに向けさせ、順次、ほかの聖徒 の名をあげ、聖ルチーアで終る。そして、二人がその凝視をさらに上へあげたと き、聖ベルナルドの祈りが始まった。〕 よろこ めあて ( 1 ) おのが愛をまなざしに集め、おのが欣びの対象にびたりとつけたまま、かの黙想者は、う やくむ ちくつろいで師の役務に就き、次のように聖なる一言葉をくり出す。 あぶら 「傷を閉じて膏塗りしマリア、その足もとにいとうるわしく坐するは、傷を裂き傷をさら に深く抉りし者。 ( 5 ) その下、序列を言わば第三の席次に、。 ヘアトリーチ工と並んでラケーレ坐す、おことの見 ( 6 ) ( 7 ) ( 8 ) サラにレベッカ、ユディットに、わが犯した罪の痛みに耐えかね、「憐れめ、我を』と叫 ( 川 ) んだ歌人の曾祖母であった者、これらが、 ( 3 ) 第三十二歌 ( 4 ) ( 1 ) 聖母マリア。 ( 2 ) 聖ベルナルドウス。 ( 3 ) 原罪の傷。 ( 4 ) エバ マリアは屡々エバの 対照者として表わされる。 マリアへ呼びかける言葉 『アヴェ』 (Ave) は、罰工 ハ』 (E (a) を逆にしこ , 彡 であることに注意せよと ちゅう 註する人もいる。聖ベル ナルドウスは、マリアを薔
福を与えようとて、かくは高く昇りたもうたかー ね 朝にタに、 いっとても私の祈ぎやまぬ、かのうるわしい花の名が、いま私の全身全霊にみ なぎりわたり、そこなる最も大きな炎を見つめさせた。 そうばう めき して、私の双眸に、ここ下界でも抽んでていたように、 かなた天上でも抽んでているかの 生きた星の、質と偉大さがありありと描かれ了った時しも、 あかり ( ) 天をつらぬき、一つの炬火あまくだる。その形は宝冠に似た光輪、それが今、かの霊をと り巻き、かの星のまわりをくるくる回った。 しら ここ下界で世にもうるわしの響きをかなで、いと強く魂をそれに惹きよせる絶妙の調べと いえど、裂けたる雲のとどろきとしか思えぬであろう、 ザフイロ ( 四 ) ちりば いともきららかに輝きわたる至高の天に鏤められて、碧玉の光みなぎらすという、かのう リラ ( ) るわしい碧玉のまわりを飾る冠となった、かの琴の音色に比ぶれば。 ・よろ・一 はら 「私は天使の愛。われらが待ち望む者の宿りであったかの胎より、息吹き出ずる至上の歓 びのまわりを、私はめぐる。 なおも私はめぐり続けよう、天の淑女よ、おん身が聖子のあとに従い、かの至高の天球に 入り、そを、いよよ神さびたるものとするまで。」 しら みな 旋回する調べがこう歌い了ると、ほかのすべての光もこれに和し、マリアの御名を高らか にひびきわたらせた。 みわざ 宇宙に運行する天球一切を掩い、燃ゆる最も烈しく、神の息吹きと神の聖業を受けて、生 ) か 気最も旺んである王衣、原動天は、 国その内なる岸辺を、われらからはるか遠い上方に持っていたので、それをふりさけ仰ぐこ とは、私のいた処では、まだ私にはできなかった。 曲 たね ( 8 ) 神それゆえ私の眼には、おのが種のあとから、冠つけて高きへ昇って行く、かの大火炎の、 行方逐うだけの力はあらず。 そして、恰も幼児の、たらちねの乳吸い了るや、満ち足りた感謝の情念、思わす身ぶりに おさなご ところ カむ おお ( 8 ) おわ ひ ( 四 ) 九 0 九九 ( 炻 ) ムーサイの一人、ポリュヒ さんかっかさど ュムニア。讚歌を司る。 その姉妹とは、他のムーサ たち。 (> 霊感。煉・二二の一〇一ー 二行には、ホメロスが「ム ~ 描・ - ゆら・ ーゼに哺乳されること誰よ りも多かった、あのギリシ ア人」と表現されている。 ( ) 名だたる詩人たちの。 ( 四 ) ペアトリーチェの。 ちょうへん ( 加 ) のちにこの長篇叙事詩が 『神曲』と呼ばれるように なる内証の一。 ( 幻 ) この一連、『神曲創製に 対するダンテの自負と意気 ごみの程を示して、余すと ころなし。 ( ) キリスト。ヨハネによる福 音書一の一四に、「言葉は 肉となり、われらと伍して 住んだ」とある。 ( ) 聖母マリア。典礼式文では くしびばら マリアを「霊妙の薔薇」と 表現している。 ( 幻 ) 使徒たち。 ( ) キリストからの。 くしび ( % ) 朝にタに「霊妙の薔薇よ」 れんとう と連疇され、聖母マリアを 象徴する薔薇。 ( ) 聖母マリア。 ( ) マリアに受胎を告げた大天
さらばいざ、クリストにいとよく似たるかの顔を、眼あげとくと見よ。ただその輝きだけ が、クリストを見るにふさわしいおことたらしめるほどに。」 たかみ おびただ こころごころ ( ) 私は見た、その高処を自由自在に翔びかうよう創られた、聖なる心々の手から、夥し ン い脱びの、その顔に雨りそそぐさまを。 げにまこと、それまでに見たいかなるものと一一一一口えど、かくも大いなる驚きに私を自 5 つまら ためし せ、また、かくまでの神への酷似を私に示した例あらず。 アヴェ グラティア・プレーナ 時しもあれ、さきにかしこへ降りしかの愛、「めでたしマリア、恩恵満つる者よ」と歌い ひら つつ、今その翼を、元后の前に披く。 至福の天上に座を連ぬる者、あげて四方から、この聖なる歌に唱和したれば、顔という顔、 このためいよよ光り輝かぬは無し。 「おお、永遠の定めにより、おん身の座と定まれる、かのうるわしの場所を離れ、わがた めここに降るを厭わぬ聖なる父よ、 誰そ、甚だしき喜びもてわれらが元后の眼に見入り、愛慕やみがたく、全身火と燃ゆるが の、かの天使は ? 」 あかばし かく言い、再び私は教えを請うた、明星の太陽におけるがごとく、マリアから美しさを引 きいだすそのひとの教えを。 答えて、かれ、私に。「天使にせよ、魂にせよ、あり得る限りの剛毅と優雅は、一切みな ( ) そな かれに具わる。われらも亦、しかあらんことを願う、 しゅろ なぜかならば、神の御子、われらの肉の重荷をみずから負わんと決意したまいし時、棕櫚 をたすさえ、マリアに降りしは、げにかれであった。 さあれ、わたしの語りの進むままに、おことの眼も移動させ、正義と敬虔きわみなきこの グラン ーチ ( れ ) 帝国の、大いなる貴人たちに注げ。 たかみ かの高処に坐し、席、皇妃の隣りゆえ、いとも幸いなるかの二人は、この薔薇の二つの根 と・も一一一一口 , つべキ、か た ふ また ( 犯 ) ナいけん 九九 九 0 ( ) 天に登れるだけの。 ( 訂 ) キリストの降誕。 ( ) 不完全な洗礼・割礼ではな ( ) 聖母マリアの。 ( ) 「叡智」とも呼ばれる天使 たち。天・三〇の六四ー六 九行では「生ける火花」と 表現され、同・三一の七ー みつばち 九行では、蜜蜂にたとえら れたもの。 ( 肪 ) マリア受胎のとき。ルカに よる福音書一の二八参照。 ( ) 天使ガプリエル。 ( ) 諸天使も諸聖徒も。 ( ) 聖ベルナルドウス。 ( ) 既註でも触れたように、中 世では星の光源をすべて太 陽に帰した。 ( ) 勝利のしるし。 ( れ ) 諸聖徒の中でも特に上座の もの。天国を理想の帝国に 見立て、皇帝・皇妃などに 照応する用語。 ( ) アダムとペテロ。 ( 昭 ) アダム。 ( ) うるわしい花にたとえられ る天国への二つの鑰。煉・ 九の註 ( ) 参照。 ( ) ペテロ。 ( 恥 ) 教会。天・一〇の一四〇行、 同・一一の三二ー かぎ
1299 解説 ただ、かなり早い時期から、俗語 ( 発生期のイタリア文章ーナ城の奪還作戦にも立ち会った。 語 ) による作詩に関心を示し、当時、流行しつつあった俗語 詩の運動に加わっていたので、ポローニヤ大学へ赴いたのも、 古代ローマ帝国の中心地域であり、教皇勢力の基盤をなし 文学的関心からであった、と想像できなくはない。 ともあれ、ダンテの言を信ずるならば、一二八三年 ( 詩人ていたイタリア半島においては、文章語としてラテン語が圧 倒的優位を占めていたが、一二〇〇年代の半ばを迎えて、周 十八歳のとき ) には、フィレンツェ詩壇の第一人者グイー ド・カヴァルカンティ ( 一二五〇頃ー一三〇〇年 ) と詩的交辺諸国とりわけプロヴァンス地方の文学の影響を受け、各地 / チリア島パレルモに本拠を置くホ 友関係にあり、《清新体派》の一員として多数の俗語詩篇をに俗語文学が発生した。、、 ーエンシュタウフェン家の宮廷は、多数の吟遊詩人たちを招 書いていた、と思われる。他方、フィレンツェ市国の栄誉を き・ようじ 担う青年としての矜持もあったのであろう。一二八九年六月き入れ、ラテン文化の中心地であるローマの教皇庁と政治的 グエルフィ には、フィレンツ工と教皇派の連合軍がトスカーナ地方の皇に対立しながら、フェデリーコ二世 ( 一一九四ー一二五〇 ツリ . ーニ 帝派の軍隊を敗退させたカン。ハルディーノの戦闘に騎兵とし年 ) みすからがプロヴァンス風の宮廷恋愛詩をイタリア俗語 て参加し、二カ月後には、ピーサ軍の手に落ちていたカプロで書いた。一般に《シチリア派》と呼ばれる詩人たちの文学 上 / ダンテの時代の フィレンツェの町 中 / 教皇派し呂亠帝派の 党派争いにからむ エピソードを」広・んる私画 ( アモス・カッシオーリ画 ) 下 / 『神曲』を手にする ダンテ ( フィレンツェ市 サンタ・マリア・デル・ フィオーレ大翌生の壁画 ドメニーコ・ディ・ミケリーノ一凹 ) 『新生』とべアトリーチェ体験
きょ なぜかなら、私の視力は、全く浄められて澄み極まり、それ自らが真理なる、かの高き ( 燔 ) みなぎ 光の漲り既にかいくぐり、いよよ深くわけ入っていたから。 はる のち これより後、私の直視は、一一 = ロ葉の表現力を遥かに超えて大きかった。げに一一一一口葉は、かかる 光景を前にしては萎え、記憶も、かかる法外の深さには達せす。 夢裡にもの見る人、ありとしよう。夢さむれば、夢がひきおこした清感、強く、いに残れど 要う・はく も、余事は茫漠として、心にまた帰らす。 げにその人よ、私は。見たものは、ほとほと跡形も無く薄れ消ゆれど、その所産の、えも 言えす甘いかぐわしさは、私の、いに今も滴りやまねば。 かろ こうもあろう、太陽に当って雪の溶融するのは。こうもあろう、シビルラの託宣が、軽や かな木の葉の上で、微風に吹かれ散り失せるのは。 じようおっ おお、人間の思念を、遠く遥かに超越する至高の光よ、願わくは、かのとき顕ち現われ しおん身の姿の一端を、今ひとたびわが記憶に貸しつけ、 おん身の栄光の、ただひとひらめきにても、後の代の民もろもろのため、残し得るだけの 力を、わが舌に与えたまえ。 い ) 」か 」くしようぶん おん身の勝利、極少分なりともわが記憶に立ち帰らば、また些にもせよ、これらの詩行 に響きを伝えなば、その本来の大いさ、愈かれらの思い知るところとなろうほどに。 は信する、私が耐えた活くる光の輝きのあの鋭さは、もし私の眼をそれから背けでもす くら れば、必すや私に、立ち昏みを啖わせたであろうと。 おも ムよ目」、おこす、このためにこそ、私はいよいよ肝を太うしてこれに耐え、ついに私の凝 国 視を、かの限り無き善と合一させたことを。 天 おお、わが視力の、すべて悉くその中に燃えつくるまで、敢てわが眼に永遠の光っらぬき、 曲 めぐみ ゆたさわ ひとみ 瞳凝らすを得しめたまいし、豊に多なる恩恵よ ! あまね その深みの奥に私は見た、四折紙葉のまま、宇宙に遍く散らばるものが、愛によって一 冊の本に綴じられ、残らずここにとり集められているのを。 とを忘れす、筆は一転し、 現実の世界ではマリアが 滾々として湧き出する「希 望の活くる泉」にほかなら ぬを一一一一口う。これにひきかえ、 天国にあってもなお希望を 愛してやまぬ聖ヤコプを例 外 ( 天・二五の八二ー八四 行参照 ) として、天国の聖 徒たちは、もはや希望を必 要としない ここでダンテは、マリアを とりなし人とぜず、神へ直 接祈っても無効だと主張し ているのではなく、マリア の熱烈な愛慕者であった聖 ベルナルドウス自身が、そ の説教の一つで、「神はわ れらが、マリアの手を通さ すして何にもせよ祈ぐこと を欲したまわす」と言って いるのを踏まえたまてであ る。 ( ) 一例として、正しい道を見 失い、三獣の難に遭おうと するダンテに、その請いを あわ 待たす、マリアの憐れみが 及んだことを想起せよ ( 地・二の九四・。・九六行参 ( 凵 ) 地獄。
かた もろかいな 燃え出するものから、双腕を母の方へとさしのばすように、 さんらん これら燦爛の光りものも、一つ残らす、その光の穂先をひたすら上へさしのべる。これに わか よって、かれらがマリアに対して抱く愛の深さ、私にはきと判った。 とど レジナ・チェリ ( ) 外かれらは、そこ、私の視界のうちに留まったまま、「天の元后」を歌い続ける。歌唱絶少、 それに聴き入る私の喜び、爾来かって私から離れたこと無し。 はこ ( 引 ) まびと おお、ここ下界では、よき種蒔き人であったそれら富貴の匱の中に、たくわえられたゆた かさの、なんと大いなる , ノビロンの虜囚時代に、涙ながしつつ苦し ここで今、かれらは、黄金をさげすみ捨てた、ヾ、 むびたから んで得た、無比の財宝に生き、且つよろこぶ。 ここで今、神の、またマリアの、いと高められた聖子のもと、旧新二つの契約にあずかっ しようじゅ ( ) た聖衆もろとも、おのが勝利を満喫する、 かぎ かくも輝かしい栄光の鑰もっかれは。 使ガプリエル。 ( 四 ) エンピレオ。 ( ) 復活節に、聖務日課で歌わ れるマリア讚歌の中の交嚼。 ( 引 ) のち天にあげられて浄福の 境涯をよろこぶ聖徒たち。 ( ) マタイによる福音書一九の 二一にある。イエスの教え を実践した地上での生活。 詩篇一三七の一に、「バビ ロンの河のほとり / そこに すわ われは坐り、泣いた / シオ おも ンを憶い出して」とあり。 なお・ハビロンの虜囚時代に ついては、列王記下二四、 二五を見よ。 ( 芻 ) 旧約の預一言者や新約の使徒 たち。 ( 引 ) 使徒。へテロ。煉・九の註
ダンテ 402 すると皇帝は、女に答えると見えた。「今はわたしが帰るまで待て。」「御上」と、承けて 女、その悲嘆たえがたいもののように、 「もしお帰りの無き節は ? 」答えて、皇帝。「わたしに代る者が、そなたのために約を果そ う。」すかさず、女。「他人の善行が、御上になんのお役に立つ、御上ご自身のをお忘れ なら ? 」 そこで、皇帝。「わかった、心安かれ。出かける前に、わたしの義務は果されねばならぬ。 正義、これを求め、慈悲、わたしをとどまらせる。」 新しいものを絶対に見ることなきおん方が、この、眼に見ゆる言葉を造顕された。それが みいだ われらに新奇なのは、現世の人間界で見出されぬによる。 かくも大いなるヘりくだりの実像、しかもそれらを造りたもうたおん方ゆえに、見るのが よろこ いよよ貴い実像を、私はあからめもせず、欣び眺めていたところ、 「見よ、うしろに多くの人が」と、詩聖はつぶやく。「しかしかれらの歩みはのろい。かれ きだはし ら、定めてわれらを高い階段の登りへ導こう。」 元来新奇なものを見たがる私の眼は、目前の光景にみち足りていたが、言われて、時移さ ず、師の方へ向けられた。 おいめ なれど、読者よ、神がどのように負債のつぐないを課したもうか、それを聞いたからとて、 ( 如 ) 君の善い決心をひるがえしてほしくは無い。 ( 引 ) 刑罰の形に心とむるな。あとに何が来るかを思え。最悪の場合でも、大いなる審判のかな たまでは、その伴わぬことを思え。 私はロに出す。「師よ、われらの方へうごめき来るらしいもの、私には人と思えませぬ。 め わか では何か、それも判りませぬ、私の眼はうろたえるばかりで。」 ふたえ かしやく 承けて、師は私に。「かれらの呵責のいたましい条件ゆえに、かれらは身を二重に折り曲 ぐ。さればわたし自身の眼も、最初は決しかね、あらがった。 なれど見よ、しかとかしこを。して君の眼で、石の重圧のもと、うごめき近づくものを識 九 0 ( ) マリア。「かくも大いなる へりくだりの実像」 ( 九八 行 ) の最初にマリアが置か れているのは、「へりくだ り」が煉獄を貫くパターン であることを示す。そして 七つの冠で行ぜられる諸徳 しつもマリア の模範には、、 が首位に立つ。 ( ) 天使へのマリアの言葉。ル 力による福音書一の三八参 ( 凵 ) 左側。 ( 燔 ) 右方。 ( 炻 ) サムエル記下の六の一 〇に出ている話。王ダビデ はイスラエルの精鋭三万を 集め、丘の上にあるアビナ ダブの家から、「聖なる匱」 ( 神がモーセに命じて作ら せた契約の匱 ) を、適当な 場所に移すべく、新しい車 に載せて運び出した。アビ ナダブの子ウザが車を御し、 アフョは匱の前を歩く。一 同歓呼の中を、ナコンの打 ち場まで来たとき、車をひ く牛がつますき、匱がひっ くりかえりそうになったの で、ウザは手をのばし、匱 を押えた。すると、主の怒
ダンテ 772 な ) け おん身の愛深き情は、請う者あらば助くるにとどまらず、みすからの意にて、請いに先 ~ 立っこと、げ・にしばしば。 あいびん たいど およ おん身には慈悲あり、おん身には哀憫あり、おん身には大度あり、凡そ被造物に存する善 みいだ にして、おん身に見出されぬもの、一つとして有る無し。 いまこの者、宇宙の最低き底立ち出で、三界の霊一つまた一つとつぶさに見つつ、ここに 達したるが、 いやはて めぐみ かた ( ) その眼もて、なおも高く究竟の救いの方へ登り得るカ求め、おん身にとりなしの恩恵を請 いたてまつる。 ま・ナ また、この者の見神のためにとてよりも烈しく、われ自らのそのために、、い燃やしたるこ こと′と かっ と曾て無きわれ、今おん身にわが祈り悉くを捧げ、その乏しからざるを祈ぐ。 むび これ、とりなしの祈りもて、おん身、かの者の色身に纏わる一切の雲払い退け、無比至高 あら の悦びの、かれに顕われしめたまえ、となり。 レジナ さらにまたおん身に願いたてまつる、欲することすべて成らざるなき大后よ、かくも大い すこやか げんざん ( 新 ) あと なる見参の後といえども、かれの清念を健全に保たしめたまえ。 こより、煩悩にうち勝たしめたまえ。見よや、べアトリーチェの、わが祈り おん身の加護レ かずおびただ の納受を願う数夥しき聖徒と共に、おん身に向かい合掌するを ! 」 とうと ↓ーいけ , れ め 祈る者へじっと注がれたその、神に愛でられ尚ばれるその眼は、敬虔な祈りが、大后の よろこ に大いなる欣びとなるかを、われらに示した。 ややありて、その眼は永遠の光へ向けられた、その光の中へ、かくも澄み極まりわけ入る 被造物の眼は、これを措いてげに他にはあるまじく。 あこがれ いやはて ( 巧 ) さて、一切の願いの究竟に、刻々近づきつつあった私は、当然のことながら、わが憬の 0 しやくねっ 火を、ここを先途と一、いに灼熱させた。 まなこ ほほえみ ベルナルドは微笑をうかべ、私にひたすら眼を上へとばかり。しかし私は、かれの欲する のを待つまでもなく、自ら進んで、既にその態勢にあった。 よろこ ( ) ま とも つ の 想起するであろう。 ( 2 ) 煉・二五の註 (S ) 参照。 ( 3 ) キリスト。三一神の第二位 格としてのキリストは、母 マリアの父とも言える。 ( 4 ) マリアの謙抑については、 煉・一〇の三四ー四五行、 ルカによる福音書一の四六 ー四九参照。 ( 5 ) 天国の薔薇において最高の 座に就く。 ( 6 ) 元后マリア。神は永遠の世 界からあらかじめマリアを 選び取り、時間の世界での 特別な役割に就かせたこと を一一一口う。天国におけるその 座席が、旧約と新約の接点 となっているのは、この事 実を踏まえたもの。 ( 7 ) 「人の子」として生れるこ ( 8 ) 人間を原罪から釈き放そう との神の愛。 ( 9 ) 天国の薔薇。 ー二九行 (E) 天・三一の一一、 では、「朝ばらけ、地平の 東の部分」にさしのばる愛 の太陽にたとえられたマリ アが、ここでは、輝きも熱 も最もさかんな、正午の太 陽としてとらえられる。 ( Ⅱ ) ダンテが地上の人であるこ
1311 付図 煉獄登頂の足取 ( 赤道を経て ) 北極 大午舸く の五は ′域の四冠・ 曇前域第二台地 第曇前域第一台地 地ト楽園 天国の薔薇 東 女マリア ラナル 黄色の花心 をア ? プスれ′ス 物第クト , ス フンチ . スつ
769 神曲天国篇 たんしよう 皇妃の左隣りに坐するは、おのが分わきまえぬ啖嘗により、人類が、かかる惨苦を味わ ( 色 うこととなった、かの父。 右隣りにおことの見るは、クリストから、このうるわしい花の鑰二つをあずけられた、聖 よ ( ) なる教会のいにし代の父。 はなよめ ( ) ときよときょ 槍と釘ともて勝ち得られた、うるわしい新婦の、時世時世の嘆きのすべてをば、生前すで に見た者が、 かれの隣りに坐す。また、皇妃の左隣りに坐する者の横に席占むるは、恩を忘れ、心移り いのち きようどうしゃ ( ) やすく、しかも頑ななる民が、マナにて生命つなぎし頃おいの嚮導者。 ほかまなこ ピエトロの真向きに坐するをおことの見るは、ホサナ歌いつつも他へ眼動かさぬほどに、 じっとわが娘見つむることに満ち足る思いの、アンナ。 また一族の最大いなる家長の真向きに坐するは、おこと顔うつむけ、ひたすら破滅に向か おうとした時、おことの淑女を動かしたルチーアそ。 さあれ、おことに束の間の眠りもたらす時は、疾く過ぎ行く。いざわれら、持ち布に合わ せて衣服を裁断する、腕利きの仕立師まねび、 ひたすら プリモ・アモーレ ( 図 ) われらの眼を、いと高き第一の愛に向けよう、さすれば、おん方を只管見つむるうち、及 はる ぶ限り遥かまでさし貫くおことの視力、おん方の光被の奥へと、おことを導こう。 あとしざ さは言え、おこと翼を動かし、前に進むと思いつつも、万が一、実は後退りするなからん めぐみ ため、ます祈りによって恩恵が得られねばならぬ、 おことを助くるカ持つおん方からの恩恵が。おことの心の、わが言葉から離れぬよう、 ざ、愛情ひたむけてわたしに従え。」 かくてかれは、その聖なる祈りをささげ始めた やり くき かたく かぎ ( ) ぬの 同・二七の四〇行参照。 「槍と釘ともて勝ち得られ た」とは、兵士たちが釘で キリストを十字架に打ちっ け、キリストの脇腹を槍で 刺しつらぬいたことをさす。 ヨハネによる福音書一九の 三四参照。 ( ) 教会の遭難受苦を預言した 黙示録のヨハネ。煉・二九 の一四三ー四四行、同・三 二の一〇九ー六〇行参照。 ( 絽 ) モーセ。かれが「恩を忘れ、 心移りやすく、しかも頑な な民」イスラエル人を率い 神与のマナで生命を保ちっ っ郷土へ赴くいきさつにつ いては、出エジプト記一六 の一四ー三五参照。 ( 四 ) マリアの母聖アンナ。祭司 マタンの娘で、ヨアキムに 嫁し、マリアを生んだと伝 えられる。洗者ヨハネの右 に隣るこの座の対極は、マ リアの右に隣る。へテロのそ れと結ばれ、非常な栄光の 座と言わねばならない かもその聖アンナの眼は、 光体・神へではなく、ほか ならぬわが娘・マリアに注 がれている、としたのは、 詩人ダンテの人間味あふる やり