がっかまっているあいだは、しようにもすることのできねえ、 いくら顔をかくしたところで、わしにや 思いなさるかね ? いくらインチ救助だの功徳だのの責めは残らすお前さまに引き受けてもら ちゃあんとわかっていると思ってくだせえよ、 キをかくそうたって、わしにやわかっていると思ってくだせおうと、お前さまに念をおしておきてえばっかりでがすよ」 ねた 「おい、お前さん気は確かかね ! 」と、このとき床屋が口を えよ。つまりさ、妬みが時を得顔のところじゃ、徳ってもの は住めねえし、けちな根性のもとじゃ、気前よさなんそ育た出した。「してみると、あんたもやつばり、サンチョどん、 いや、まったくの話が、あんた ご主人と同じご宗旨かね ? ねってことだ。くそ、いまいましい 和尚さんさえ出しゃ ばらなかったら、今頃はもう、わしのご主人はミコミコーナも檻の中で旦那のお供をしなきゃなるまい、それにご主人の 気持やら例の琦士道やらにかぶれちまっているところを見り 王女さまと婚礼をすましていなさるだろうし、わしも少なく 魔法にかけられすにや、よ、 つもっても伯爵にはなっていたはずだよ、なぜっていや、主や、あんたもご主人みたいに、 っ 人の『憂い顔』の旦那のやさしさから言っても、わしの勤めろうと、わしにや思われてきたよ。とんだ約東にひっかか ぶりの目ざましさからいっても、そうとしきや考えられねえたもんさね。あんたのご執心の島ってやつが、ひょんな時に あんたのど頭にはいりこんだもんさね」 だからね。しかし、わしも今になって、そこいらで一言ってい 「わしやだれにも、ひっかかっちゃいねえだ」と、サンチョ ることが、本当だとわかりましただ。つまりさ、運命の車は まわ が答えた。「わしや、相手が王さまだろうが、ひっかかる男 水車の車より廻りが早い、それから、昨日頂上にいた者が、 今日は地面にいるってことでさ。わしの餓鬼どもや女房がふでねえ。貧乏はしていても、親代々のキリスト教徒だ、どこ びた おやじ びんで仕方ないよ。やつらの親爺が、どっかの島だか王国ののどなたにも、鐚一文借りちゃいねえだ。わしが島をほしが 太守か副王になって、門口から帰ってくるのが見られたのに、るにしたところが、ほかの奴らは、もっといけねえものをほ しがっているでねえかね。人間だれしも働き次第で何にだっ きっとそのつもりでいたにちがいねえのにさ、馬のロ取りに 一なってけえってくるのを見るだからね。ねえ、和尚さん、わてなれるだ。人間に生まれたからには、法王さまにだってな にれるだね。まして、島の太守ぐれえ屁のかつばだあ、それに キしがこんなことを言ったのはほかでもねえ、わしのご主人 ンしてなさる目茶な扱いを心にとめてもらいてえ、それにあのわしのご主人なら、くれてやる相手がなくなるぐれえ、手に 入れようってもんだ。お前さまも言葉にちった気をつけてく 世においでなすったとき、わしのご主人を閉じこめなさった だせえよ、床屋さん、ただひげそるだけが能じゃあるまいし、 ってことで、神さまのおとがめを受けねえように、よくよく 気をつけてもらいてえし、それに主人のドン・キホーテさま同じペドロって名乗っても、めいめいどっか違いがあるだか
セルバンテス 822 いから、どんなことを書いた本か検分しようというのである。 「なるほど、まったくじゃ」と、住職が答えた。「では、そ 「およしなさいましな」と、姪が口を出した。「どの本もみういう理由で、さしあたり命を助けることじゃ。そいつのそ んな悪さをしたんですもの、一冊だって容赦することはござ ばにあるもう一つのを拝見しよう」 いませんわ。それよりも窓から中庭へほうり出して、積みか 「これは」と、床屋が答える。「アマディース・デ・ガウラ ぶゅうたん * さねて火をつけることですわ。それとも、裏庭へもってゆく の正統の子息『エスプランディアン武勇譚』でさ」 たきび ことですわ。あそこなら焚火もできるし、煙に苦しめられる 「き、ればじゃ、まったノ、の = が」と、住職が引きとった。 てておや こともありませんわ」 「父親の偉さが息子に及ぶとはきまっておらんて。さあお取 家政婦の意見もこれと同様だった。この無辜の書籍どものり、婆さん。窓を開いて、裏庭へお投げ。そうやって今に始 死に対して二人の抱いていた願いはこれほど痛切なものだっ まる焚火の山のロ開けにするがいし」 たのである。しかし住職はせめて標題だけなりとまず読まな家政婦は大喜びでそのとおりにしこ。 オかくて好漢エスプラ いことには、これにはあくまで不同意だった。そこでニコラ ンディアンはいずれわが身に迫る焔をいとも辛抱強く待ちな ス親方が手渡ししてくれた最初のものは『アマディース・ がら、裏庭へひらりと舞い降りた。 デ・ガウラ、全四巻』であった、すると住職が言った。 「さあおつぎは」と、住職が一 = ロう。 「これはどうやら何かの引合せとでもいうのだろう。なんで「おつぎに願いましては」と、床屋が受けて、「『アマディー も聞くところによると、この本はスペインで印刷された騎士ス・デ・グレシア』ところで、わしの見るところでは、この 道ものの最初で、他の類書は全部これから源を発し由来して側にあるやつは全部アマディースの一族ですそ」 いるということだからな。されば、こういう有害な宗派の開 「そんなら一族そろって裏庭行きだ」と、住職が言った。 祖として、容赦なく火刑に処すべしちゅうのが拙僧の意見じ 「まったくの話、王妃ピンティキネストラに牧人ダリネル、 やっ や それに奴の歌う牧歌と、作者の狐を馬に乗せたようなとりと 「いや、そりやいけないよ、和尚さん」と、床屋が言った。めもないお談義とを焼くためだったら、よしんばわしの生み 「これまで書かれたこの種のあらゆる本の中でこれがいちばの父親でも、それが万が一遍歴の騎士姿でうろっき回ってさ んすぐれたものだと、こうもわしは聞いているんですからな。えいたら、奴らといっしょに焼いてもかまいませんわい」 「わしも同じ意見でさ」と、床屋が言った。 そこで出来栄えでは唯一のものとして、容赦しなくっちゃい 「わたくしもですわ」と、姪が口を出した。 け亠ます・まい」 きつね ほのお
も身につけていなければならない緊要な用意の品々、なかでうのが、 も路銀と下着類について注意してくれた旅人宿の亭主の言葉「舌は休まして、眼をあけていろい」というと、そのつど少 が記憶に浮かんできたので、彼はいったん帰宅して万端の用年が答えている。 意をととのえ、あまっさえ従士を一人見つけようと決心した。 「もうけっしてしねえよう、親方。もう金輪際しねえちゅう たても それには貧乏で子だくさんだとはいえ、騎士の楯持ち役には に、これからはかならず羊にやようく気いつけるだちゅうの うってつけの近所の百姓を使うことだと考えた。そう思いっ によ , つ」 くと、彼はロシナンテの頭を故郷の村へ立てなおした。する するとドン・キホーテはこのありさまを眼にして、声を荒 と馬のほうでもおおよそ己が古巣はちゃんと、い得て、ほとんげて言った。 ど脚も地につかぬほど喜び勇んで駆けはじめた。 「あいや、ここな無礼な侍、みすから身を守ることもできぬ それからいくらも行かぬうちに、右手にあたる林の繁みか ほどのか弱い者を責むるとは見苦しい振舞いかな。馬にまた ら、誰か訴えなげくような、悲しげな声が聞こえるように思 がり、いざ槍をとり給え。 というのも例の牝馬をつない われた。これを聞きつけるやいなや彼はロを開いた だ樫の樹に一振りの槍が立てかけてあったからでーー貴殿の ひきようもの 「かくも速やかに、わが天職の責務を全うし、わが大望の成振舞いがいかに卑怯者相応の行いかとくと教えて進ぜよう」 果をおさむべき千載一遇の好機に臨ましめ給うとは、ありが 百姓は自分にのしかかるように頭の上で槍をふり回してい かたじけ かっちゅう たや忝なや天与の恵み。あの泣き声はまさしく拙者の庇護るこの甲冑ものものしい姿を見て、もう生きた心地もなく、 と援助を求むる虐げられし男か女の声なるは疑いなし」 言葉をやわらげて返答した。 め こう一言って手綱をめぐらし泣き声の聞こえたとおばしきほ 「お侍さま、この仕置きいたしております小僧奴はわたくし かいわい うへロシナンテを進めた。そうして林の中を数歩進んだとき、の召使で、この界隈にわたくしの所有いたす羊の群の番をつ めうま テ見ると一本の樫の樹に牝馬が一頭つながれ、もう一本の樫のとめているものでござりますが、こやつめはとんでもねえば ホ樹には、十五に手の届くくらいの少年が、上半身裸にされてんやりで、羊を毎日一頭すつ見失ってしまうほどでござりま そこっ 縛りつけられていたが、泣き声はこの少年があげていたのです。そこでわたくしがこやつの粗忽を、いやそれとも横着振 ン ある。それも無理のない話で、体のがっしりした百姓が革帯りを叱りつけますと、こやつめの言うことが、まだ借りにな むちう りんしよく でさんざんに少年を今しも鞭打っているところで、おまけに っている給金を払いたくないんで、つまりわたくしが吝尚 ひとっ殴るごとに小言と説教を浴びせていたのである。とい から仕置きをいたすんだと、こう申すのでござります、ちゃ おの
いや、それともロシナンテに、ですかな。これはお二方、「小さな紅鱒でもたくさんあれば」とドン・キホーテが答え た。「大きな紅鱒一尾の代りをするにちがいない。などとい つまり拙者の馬の名前でごわして、ドン・キホーテ・デ・ もら って、八レアールを細かいもので貰おうと八レアール銀貨で ラ・マンチャは拙者の名前でござるよ。じつはお二方につく ス あら テした数々の武勲によっておのずと顕われるまではわれから名貰おうと同じことだからじゃ。のみならずおそらくその小紅 やぎ 鱒は、牛肉よりも犢がまさり、山羊より仔山羊の肉がまさっ 乗るつもりでなかったのだが、さしあたってこのランサロー したが、何はともあ セテの古いロマンセを目下の場合に当てはめる必要から時機をてるように、結構なものにちがいない 待たずに拙者の名前をご存じになった次第でござる。とは申れ、さっそく持って来ていただきたい。なんと申しても甲冑 じゅんぼう せ、ご両者が命令を下され、拙者がそれを遵奉し、かつはの苦役と重量はしよせん腹がへっては持ちこたえられません みども 身共の武力がご両者におっくし申そうという心意気を発揮いのじゃて」 女たちは凉しいようにと旅人宿の戸口に食卓を据えた。す たす時節も到来いたそうて」 こういう美辞麗句を聞きなれない娘どもは一言半句も答えるとそこへ亭主がろくすつば水にも漬けてない、おまけにて バカリャーオ んで焼けてもいない干鱈少々と、これまた黒さ汚さでは彼 なカった。ただ何か召しあがりたくはございませんかと訊い の甲冑に匹敵するパン一片を運んで来た。しかし彼が食事を ただけであった。 「何なりとしたためたいものだ」とドン・キホーテが答えた。する様子こそまさに噴飯ものだった。なぜなら兜をかぶり瞼 こう 「と申すのも、どうやら拙者の見るところでは、ちょうどそ甲をかかげているものだから、誰か他の者が食べさせてくれ ないかぎり、自分の手では何ひとっ口に入れることはできな の時刻かと思わるるのでな」 かったからである。そこで例の貴婦人の一人がこの役目をひ 幸か不幸かその日はちょうど金曜日に当たっていた、した がってカスティーリヤで『鱈』、アンダルシーアで『バカきうけてくれたのだった。しかしいざ飲み物を与えるという リャーオ』、他の地方では『クラディーリョ』と呼びまた別時になると、どうにもすることができなかった。いや、あれ あし トルチュエーラ の地方では『小紅鱒』と呼んでいる幾尾かの魚のほかはこのでもし亭主が葦の茎に孔を穿ち、一方の端を口につけて、片 旅人宿じゅうどこを探しても何ひとつなかった。そこで人々方の端からぶどう酒を流し込まなかったとしてみるがいい しか - も は、他には差しあげる魚は何もございませんが、いったいあしよせん飲ませることは不可能だったにちがいない トルチュエーラ なたさまは『小紅鱒』を召しあがりましようかと尋ねた。すこういうわずらわしさを、ただ兜の紐を切りたくないばかり に、じっと我慢していたのである。 ると、 あな ひも
993 ドン・キホーテ きれに十一の結びこぶをつくり、一つだけほかのものより大 きくした。これが山にいるあいだ数珠の用をつとめ、それで ーアを百万べんも祈った。ただ、ひどく気になっ ぎんげ たのは、懺悔を聞いてくれて、はげましてくれる隠者がそこ いらに見つからないことだった。そこで草原を歩きまわった り、すべて自分の悲しい思いにふさわしいものや、ドウルシ ネーアをたたえたものもいくつかまじった、おびただしい詩 句を、木々の皮や、細かい砂に、書いたり彫りつけたりして、 気をまぎらせた。しかしながら、ここでドン・キホーテを見 つけ出した後で、人々がそのままの形で認め、満足に読みえ たものは、次にかかげる詩だけであった。 いと高く、緑もこゆき、数知らぬ この山なかに、生いしげる、 木々よ、千草よ、花々よ わが悲しみに興なくば きょ 聖きなげきを聞き給え。 はげしく痛むわが悩み 、いにかくることなかれ いましに捧ぐるみつぎとて ドン・キホーテはトボーソなる ドウルシネーアをしのびては、 、冫ながしぬここにいて かなしき人に、いより ひたにこがるる人の子が ひそみて住みし山なれど、 かかる心の苦しさは いかでか彼に訪れし いず・こよりかも , 知 . らねども。 性いと悪しき恋の神に もてあそばれしあわれさよ 樽に涙のみつるまで ドン・キホーテはトボーソなる ドウルシネーアをしのびては 涙ながしぬここにいて。 けわしき岩を踏みわけて 幸い尋めてわれ行きて 岩間の荒地に見しものは 幸いならぬ悲しさに む。こき心を、つらみけり。 やわき革のひもならぬ むち 笞もて「恋』はこらしめぬ。 うなじに笞をうけながら ドン・キホーテはトボーソなる ドウルシネーアをしのびては 一涙ながしぬ、ここにいて。 たる
私の左方に、亡霊の一団とおばしいものがあらわれた。われらの方へ足を動かしてはいる が、近づいているとは見えぬ。それほどにかれらの歩みはのろい みいだ 「あげよ」と私は一一 = ロう、「わが師、おん眼を。おんみずから道が見出せすとも、恐らく私た ちの相談に乗ってくれる者が、それ、あそこに。 あんど 言われて師は眺めやり、安堵の面持して答えた。「わたしたちがあそこへ出向こう、かれ らの歩みはもどかしい。さあ、もう君も心配するに及ばぬ。」 われらの歩み千を数えて、かれらはなお、石投げの名手の石、ようやく届く距離にあった とき、 たたず 見よかれら、かの絶壁のこごしい岩のもとに集まり、足とめて佇み、ひしと身を寄せあう。 ・一、つしん そのさま、疑念生じた行人の、急に歩むをやめ、凝視するに似たり。 「おお、めでたき目当て定まり、すでに選びとられている魂たちよ」と、ヴィルジリオは 呼びかけ、「そこもとら凡てを待っと、わたしの信ずる、かの平安にかけて、 われらに告げよ、山が登りを許すほどに斜面となっている場所はいすこか。失われた時は、 知るにつれていよいよ切に人の心をいらだたせる。」 おり め たとうれば羊の、一頭、二頭、または三頭と檻を出、残るは眼と鼻づらを低く地面に垂れ、 おすおずと佇み、 まね 最初のもののしぐさを、ほかのものまた凡て真似し、かれ立ちどまれば、わけも知らすた だ愚直におとなしく、そのまわりにかたまり寄るがごと、 獄そのとき、かのしあわせな群を率いる頭目の、こなたへ動いてくるのを私は見た、風姿し とやかに、おごそかな足どりで。 曲 神先に立つ者たちが、私の右側で陽の光地上に砕け、私の影の、私から絶壁にのびているの を見たとき、 ( 四 ) かれらは立ちどまり、ややうしろに引きさがった。あとに従うほかの者も、理由は知らす、 ( ) ヴェルギリウス自身もこめ て、辺獄にいる聖賢の亡霊 たち。かれらは、人類に固 有の欲求に従って真理すな わち神を知ろうと望んだが、 「マリア懐胎」以前の生涯 であったため叶わす、「望 みなく、願いの中にのみ生 きる」 ( 地・四の四一ー四 二行 ) ことだけを苦患とし て暮らす。 ( 燔 ) アリストテレス。 ( 炻 ) プラトン。 ( ⅱ ) 「その他おおぜい」の亡霊 の一つであるおのが定めを 悲しんで。 ( ) ス。ヘッィア湾の東海岸にあ るリグリアの一海港。 ( 円 ) 現在はフランス東南部の一 県に属し、モナコの北に位 置する浜辺の一村。これと レリーチェをつなぐ海岸は、 ダンテの当時、山系鋭く海 に迫って道らしい道もなく、 ほとんど人馬の通行を許さ ( ) 地・一二の九六行参照。 ( 幻 ) 救いにあすかるまでの日程 の長さが思いやられる。 ( 顰 ) 亡霊の一団はダンテの左方 にあらわれ、ヴェルギリウ スはダンテの右横にいる。
ダンテ 280 たど ふもと なぜなら、壊れた橋へわれら辿りついたとき、あの山の麓で私が初めて見たのと同じうる ( 5 ) わしさを顔に浮べて、わが導者は私をふりかえった。 とっ、 崩れのありさまをまずとくと調べ、われとわが思案を咄嗟に練ってから、師は両腕ひろげ、 私を抱きかかえた。 そして、つねにあらかじめ事にそなえ、且つ行動し且っ思量する者のごとく、 師は大きな 岩の塊の頂上へ よ いわお 私を推しあげながらも、ほかの巌の目測を忘れず、言う。「次に攀するはあれ。だが君を 支えてくれるか、ますためせ。」 ( 6 ) 、。市ま蚤く、私は推しあげられ あの鉛の外套を纏ったやからには、とても登れる道でなし自。車 る二人づれにしても、岩から岩へと匍いあがるのは容易のわざではなかった。 そして堤のここの斜面が、対岸のに比べて短くなかったら、師はいざ知らす、私は全くカ 尽きはてていたに違いない しかしマレポルジャは、すべてどん底の井戸のロの方へと傾斜しているので、どの谷も 片側の岸は高く、その対岸は低い地形をえがく。とはいえ、われらは遂に、最後の石が砕 け壊れた地点に達した。 お 登り了えたとき、気息は私の肺からほとほと絞りとられていたので、そのさき一歩も進め す、着くなり私はヘなへなとへたばってしまった。 ふすま たもと 「今こそ怠惰と袂を分かつのが君の責務」とわが師は言う。「和毛の茵の上、あるいは衾の あんざ よきな ( 7 ) 下に安坐して、誰しも美名は得られず。 美名と縁なく生涯を徒費する者の、地上に残すおのが形見のむなしさは、空の煙、水に浮 うたかた ぶ泡沫同然。 いく ) アニモ ならば立ちあがれ。どんな戦にもおくれをとらぬ霊力もて、君のあえぎに勝て。重い肉体 がそれをうちひしぐのでなければ。 よ このさき、もっと長い梯子を攀じねばならぬこともあろう。今までの亡者たちを後にした しとね コルポ 五四 ( 7 ) 原語ファーマは、「人のロ の端にのばる」意味のギリ シア語から来ており、必す しも良い意味だけをもつも のではないが、中世では昇 華されて「名声」「ほまれ」 を内容とするようになった。 ( 5 ) 地・一の六一ー七八行参照。 ( 6 ) 見てきたばかりの亡者たち。
1105 ドン・キホーテ さて自分ひとりになると、彼の頭の中は、自分の不幸でい つばいになった。そのあげく、 いやでも自分の命も長いこと ここまでアンセルモは書いていた。しかし、ここまでで文 はないとわかった。そこで、自分の不可思議な死の原因を書 章を書き終えることができすに、自 5 を引きとったことは明ら かであった。 き遺すことにした。ところが、筆はとってみたものの、思う しんせき ことを書きつくさないうちに、気力がっきて無分別な好奇、し 翌日、家の主はアンセルモの死をその親戚に知らせたが、 が招いた苦脳に一命を落としてしまった。 彼の不幸はもう親戚じゅうに伝わっていたし、カミーラのい 家の主は時間がたってもアンセルモがなんとも一言わないのる修道院にも聞こえていた。カミーラは、夫の死出の旅にも に気づいて、病勢が進んだのではないかと心配して、部屋へ うすこしで同行しそうだった。しかし、それは、アンセルモ はいってみると、相手は俯きになったまま、半身は寝台に、 が死んだ知らせのためではなく、別れた情人の身の上につい 上半身は机にのせてしたが、 、 ' 、その机の上には、圭日きかけたまて知ったことのためであった。うわさによると、やもめにな ま開いた紙があって、いまだにアンセルモはペンを手にもっ ってからも、修道院を出ようとは思わなかったが、そのくせ あるじ ていた。 主は最初に声をかけてそれから近づいて行った。そ尼になることはなおさら望まなかった。ところが、それから して、返事がないので、手にさわってみると、冷たくなって幾日もたたないうちに、当時ナポリ王国で、ロートレック子 死んでいることがわかった。驚き悲しんで、家の者を呼びた爵が『大将軍』ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバ ててアンセルモに起きた不幸を知らせ、最後に紙片を見て、 に対していどんだ合戦でロターリオが戦死したという知らせ それが彼の自筆であることを認めたが、それにはこんなことが彼女に伝わった。後悔してもどうにもならなかった。ロタ が書いてあった。 ーリオは当時その軍に参加していたのである。彼の戦死を知 ると、カミーラは尼になったが、い ノ、ら 7 もー ) ュない , っち一こ、 5 おろかにも無法なる望み予が命を奪えり。予が死去の知 しみと憂いの無慈悲な手によって死んでいった。これがあれ ゆる らせカミーラの耳に入ることあらば、予赦せりと知れと伝ほど馬鹿らしい『はじまり』から生まれた、すべての『おわ えかし。そは、わが妻には奇跡をおこなう義務なく、われり』であった。 もまた奇跡をおこなわしむる要なかりしがためなり。予が 恥は己みすから招きしものなれば、今また何を求めてか 「この小説はよくできているようだな」と、住職が一一一一口った。 「だが、本当にあったこととはどうも考えられんわい。こし うつむ
ふくしゅ、つ オが攻めの復讐をし損じた轍を踏むな。」 g 「うしろを向き、眼を閉じよ。ゴルゴÄあらわれ、その姿を君が見たらば最後、上界へ帰 る手だては絶対に無い。」 ン こう師は言い、手ずから私をくるりとうしろに向かせ、私の手を心もとながり、みずから の手で私の顔を掩った。 おお、すくよかな洞察の力にめぐまれた人よ、不可思議な詩句の下に匿された玄理を明ら めたまえ ! なみ 時しも恐ろしい物音、濁り騒だっ浪の上に凄まじくつんざき、両岸ためにふるえやまず。 そのさま、熱と熱の激突によって生じた風のあらびが、何にも妨げられす森打ちのめし、 枝へし折り、たたきつけ、 - もうも、つ じんうん 空にかっさらい、濛々たる塵雲の一団となり、ものも無げにつき進み、野獣や牧者を遁走 させるありよ , つき、ながら。 としふ 師は手を私の眼からほどき、言う。「それ、あの年古りた泡のかたまり、しかと見よ。水 気の蒸発ひときわ著しいあのあたりを。」 くちなわあ かわず 蛙ども、敵なる蛇に逢えば、たちまち悉く水中に没し、頭もたげ、地底にうすくまる よ , っこ、 千を超える亡者ども、あなうらも濡らさすスティージェを大股に渡ってくる一人の前に、 こそこそ退散するのを私は見た。 、っちわ 眼前の濃い霧をはらいのけるため、かれはしばしば左手を打羽としたが、うるさげに見え たのはただそのことだけ。 かれこそげに、まぎれもなく天よりの使者、と私は知り、眼を師に向けると、ロつつしみ、 いや ただ深く礼せよとの師の合図。 亠こげす かれはつかっかと門に迫り、小 ああ、蔑みきっておられる、と私は使者を見てとった , さな杖一つで扉をあけたが、何の抵抗も無し。 おお おおまた とんそう ノ テの門を守る。 ( ) アレクトー 曰アエネイス」 七の三二四に、「悪意の」 と形容されている。 “アエネイ ( ) ティシポネー ス」一〇の七六一に、「蒼 ざめたテシフォーネは数千 の男に伍して怒り狂う」と ある。 ( 凵 ) ギリシア神話のゴルゴン三 姉妹の末妹。もと美女であ ったが、アテネ神殿で海神 りし当っド ) しよく ポセイドンに凌辱された のち、その頭髪をアテネは 蛇に変え、醜怪きわまりな き女となったので、顔を見 る者必す石に化したと伝え られる。 ( ) ダンテ。 ( ) ギリシア神話のテセウス。 アテナイの伝説的英雄で、 友人ペイリトオスと共に冥 府に下り、プルートンの妻 。ヘルセポネーをかどわかし、 つれ帰ろうとして失敗した。 ダンテの用いた所伝によれ ば、ペイリトオスとテセウ スは地獄に監禁されたが、 ヘラクレースがやってきて テセウスだけを救い出した ( ) メドウーサ。 あ
「この旦那はなんておっしやるんですか ? 」と、アストウリ 見たところ落ちたというより殴られたものらしいと言いだし アス生まれのマリトルネスがたずねた。 「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャとおっしやって、武者 「いんや、打ち傷じゃねえんだよ」と、サンチョがひきとっ 修行のお侍さ。おまけにこの世で大昔から今日までのあいだ でいちばん立派ないちばん強いお侍衆のお一人だね」と、サ そのひとっぴとつでこの打ち傷ができたんでさあ」 ンチョ・パ ンサがひきとった。 そうしてなおもつづけて、 あさくず 「ねえ、お神さん、なんとかその麻屑をほんの少し残すよう「武者修行のお侍ってなんですの ? 」と、娘が聞く。 「それも知らないところをみると、お前さんまるで世間知ら にしてくださいな。そいつのいる人間がいないわけじゃな、 すだね ? 」と、サンチョ ハンサが答えた。「よし、そんな んだから。わしもじつは、ちょっぴり腰が痛むんだよ」 ねえ ら覚えときなさいよ、姐さん。そもそも武者修行のお侍って 「してみると、あなたもやつばり落ちなすったんだね」と、 ものは、ほんのふた言かそこら言うか言わないひまに、棒で お神が聞く。 叩かれそれから皇帝になるものよ。つまり今日は世の中でい ハンサが応じる。 「わしゃ落ちゃしないよ」と、サンチョ だんな 「ただね、わしゃ旦那さまが落ちなさるのを見て思わすはっちばん気の毒な立ちも這いもできないみじめな人間だが、明 たた 日になると自分の家来に王さまの冠の二つ三つはくださろう としたんだ、おかげでまるで千べんも棒で叩きのめされたよ とい , つものき、ね」 うに、ひどくからたがうすくんだ」 「そんなら、お前さんはこんな立派なご主人のご家来衆でい 「そりやきっとそうに違いありませんわ」と、宿の娘が口を ながら、見たところどうやら知行地ひとっ持っておいででな 出した。「よく塔から下へ落っこって、そのくせけっして地 、のは、一体どうしたというんですか ? 」と、お神が言った。 面にはとどかないって夢を見る、それでいて夢からさめてみ 「いやまだそいつは早すぎるんだよ」と、こうサンチョが応 テると、なんだかまるで本当に落っこったみたいに苦しくって じた。「だってわしらが冒険を探しに出かけてから、まだひ ホ打ちのめされたような気がすることが何度もありますわ」 と月にしかならないんだし、それに今日までのところ、まだ ンサが答える。 「それだよ、お神さん」こうサンチョ・。ハ ン め ド「なにしろわしは、夢を見るどころか、今よりもはっきり眼冒険らしい冒険には何ひとつお眼にかからないんだからね。 をさましていたのに、ご主人のドン・キホーテさまに劣らんそれに、何か探しても、それとは別なものにぶつつかるって ことは仕方のないことさね。しかしわしのご主人のドン・キ くらいの打ち身を負っているんだからね」 こ。「いえね、岩に一面にとんがり角や出つばりがあってさ、