いや、とディヴィンが言った、しかし、あんな話はし みんな自分たちの理想に殉じたんだよ、スティーヴィ、 てくれなかったほ , つがよかったと思 , つ。 とディヴィンが言った。いすれ、われわれの時代がくる、信 スティーヴンの、表面はおだやかな友情のかげで、ある感じてくれ。 スティーヴンは自分の考えを追いながら、しばらく口をつ 情の潮が湧きたった。 ぐんでいた。 この民族と、この国と、この生活がばくをつくりあげ た、と彼は言った。ばくはあるがままの自分を表現しようと 魂が最初に生まれるのは、とスティーヴンはばんやり 田 5 , つ。 言たした、いっかきみに話したような、あんな瞬間なん とディヴィンが われわれの仲間になったらどうだい、 だ。魂のゆっくりとした暗い誕生は、肉体の誕生以上に神秘 くり返した。心の底じゃあアイルランド人なのに、きみは自的だ。人間の魂がこの国に生まれると、とたんに網がいくっ 尊心が強すぎるんだ。 も投げられて、その飛翔をさまたげようとする。きみはばく ばくの祖先たちは自分たちの国語を捨ててべつの国語 に、国民性とか、国語とか、宗教のことを話してくれるね。 を身につけた、とスティーヴンは言った。彼らはひと握りのばくはそんな網にかからすに飛んでみたいんだ。 ディヴィンはバイプをたたいて灰を落とした。 外国人にやすやすと屈服した。いオし っこ、 ( よノに、 - 目八刀ひとり どうも深遠すぎてばくにはわからんな、スティーヴィ、 の生涯で、連中のつくった借財すべてを返せると思うかい ? それも、なんのために ? と彼は言った。しかし、人間にとっては祖国が第一じゃない われわれの自由のためさ、とディヴィンが言った。 か。まずアイルランドだよ、スティーヴィ。そのあとで、詩 トーンの時代からバーネルの時代まで、とスティーヴ人にでも神秘家にでもなればいし 像 肖ンは言った、そりゃあたしかに自分の生命や若さや愛情をさ きみは知ってるのかい、アイルランドの正体を ? と 家さげつくした高潔誠実なひとたちがいたよ、でもそんなひとスティーヴンはつめたく激しい口調でたすねた。アイルラン 芸たちをひとり残らず、きみたちは敵に売りわたしたり、逆境ドはね、自分の生んだ仔をとって喰らう老いた雌豚だよ。 日 のなかで見殺しにしたり、あるいは罵倒してほかの指導者に ディヴィンは席から立ちあがり、悲しそうに首を振りなが 若のりかえたりしてきたんだ。そんなまねをしておいて、こんら、競技者たちのほうに歩いていった。しかし、まもなくそ 川どはばくを市・日司にいれよ , っとい , つのかい きみこそ、まっさの悲しみは消えうせ、彼はたちまちクランリーや、競技を終 きに地獄に落ちるがいし えたふたりの選手たちと、激しく議論しはじめていた。四人
うん、とスティーヴンは答えた。 いや、とスティーヴンは一言った。 ちょっと間をおいてから、クランリーがたすねた じゃあ、信じないのか ? くつになる ? おふくろさん、 ス イ とスティーヴンは言った。 一一 = ロじるとか信じないとかじゃないんだ、とスティーヴ 年寄りってほどじゃな、 ンは答えた。 ジ復活祭のとき、聖体を拝領しろといってね。 懐疑にとりつかれてる人間は多いよ、宗教家にだって で、きみは ? ね、でも、みんなそれを克服したり、そうでなければ、考え いやだね。とスティーヴンは言った。 ないようにしたりしているんだ、とクランリーが言った。そ なぜだい ? とクランリーが一一一一口う。 の点じゃ、きみの懐疑は強すぎるのかな ? ばくは仕えたくはないんだ。 せりふ 克服したいとは思わないんだ、とスティーヴンは答え まえにも聞いた台詞だな、とクランリーが冷静に言っ 一瞬とまどったクランリーがポケットからまた無花果をと あのときとはべつなんだ、とスティーヴンは声を荒げ りだしてたべようとすると、スティーヴンが言った。 やめてくれないか。無花果なんか噛んでるロで、この クランリーがスティーヴンの腕をおさえて、一一一一口う。 問題を論じてほしくないんだ。 なあ、落ちつけよ。どうも興奮しやすいやつだな。 クランリーは外灯の下に立ちどまって、無花果をしげしげ そう言って神経質な笑い声をあげながら、彼はスティーヴ とながめた。それから、鼻いつばいに匂いをかぐと、ほんの ンの顔を、感心したように友清をこめた目でのそきこんだ。 おまえさん、自分が興奮しやすいたちだってこと、知すこし噛じってすぐに吐きだし、無花果のほうも乱暴に溝に 投げすてた。そして、ころがった無花果にむかって言った。 ってるのかい ? えい ) = っ のろ 呪われたる者どもよ、われより離れ、永劫の火のなか どうもそうらしいな、とスティーヴンも笑いながら、 一一 = ロった。 スティーヴンの腕をとってまた歩きはじめながら、彼が言 最近はなればなれになっていたふたりの心が、急にまた近 つ「 ) 0 づいたように思われた。 きみは最後の審判の日にそう言われるかもしれないん きみは聖体を信じるのかい ? とクランリーがたすね
えた。 焼きすてるんだろうね。 ディヴィンは顔をあげて笑いだした。 ディヴィンが答えないので、スティーヴンは引用をはじめ ああ、あれか、と彼は言った。あの若いご婦人とモラ イ 駆足、フィアナ ! 斜め右へ、フィアナ ! フィアナ、ン神父のことかい ? でも、あれはみんなきみの思いこみだ ジ フィアナはフィニア会 番号、敬礼、一、 よ、スティーヴィ。ただしゃべって、笑ってただけじゃな、 の戦闘の際のかけ声 そりや問題がちがう、とディヴィンが一一 = ロった。ばくは アイルランドの民族主義者だよ、まず第一にね。でも、 スティーヴンはちょっと黙りこんでから、親しみをこめた にもきみらしいな。まったくきみは生まれながらの皮肉屋だ手をディヴィンの肩においた。 よ、スティーヴィ。 覚えてるかい、と彼は言った、はじめて出会ったとき はんらん マトリキュレイシ こんどハ ーリングのスティックで叛乱をおこすとき、 のこと ? はじめて会った日の朝、きみはばくに、 とスティーヴンは言った、。 とうしても密告者が必要になった生クラスはどこかときいたつけね。第一音節にとても強いア あのころ、きみは ら、ばくに言ってくれ。この大学で二、三人はみつけてあげクセントをおいていた。覚えてるかい ? ファーザー 叙品されていない修道生、神学生 るよ。 イエズス会士をみんな「神父」 ( には正しくはミスターを用いる ばくにはきみがわからんな、とディヴィンが一一一一口った。 呼んでいたけど、覚えてるかな ? ばくはきみのことを考え あるときはイギリス文学の悪口を一一一一口うかと思うと、こんどはてみることがあるんだ。この男は一一 = ロ葉づかいほど無邪気なの またアイルランドの密告者の悪口だ。きみの名前といい、考だろうかってね。 えかたといし : きみはほんとうにアイルランド人なのか ばくは単純な人間だよ、とディヴィンが言った。きみ も知ってるだろう。あの晩、ハーコート・ストリートで、き いっしょに紋章登記所にきてくれれば、うちの系図をみの私生活について打ち明けられたとき、正直いって、ステ 見せてあげるよ、とスティーヴンは言った。 ィーヴィ、ばくはね、夕食が咽喉をとおらなかったよ。まっ たく気分が悪かった。あの晩は遅くまで眠れなかった。どう じゃあ、ばくらの仲間にくわわれよ、とディヴィンが 言った。きみはなぜアイルランド語を習わないんだ ? なぜ、してばくにあんな話をしたんだ ? たった一回出たきりで連盟の講習会から抜けたんだい ? ありがと、つ、とスティーヴンは一一 = ロった。ばくは怪物と いうわけだね。 理由のひとつはきみも知ってる、とスティーヴンは答
ルソーもきみのように、とスティーヴンは言った、感笑いは、まるで象のいななきみたいだった。その学生は体じ 、 : やがてこみあげてくる笑いをおさえ ゅうをゆすってしたが、 情的な人間だったろうね。 また こんなやっ、くたばっちまえ ! とクランリーが露骨ようと、股のつけねを愉央そうに両手でこすった。 リンチが目をさましたな、とクランリーが一一一一口った。 に言った。もうこいつになんか話しかけるなよ。まったく、 しびん リンチは返事がわりに体をのばすと、胸をつきだした。 テンプルに話しかけるくらいなら、汚い溲瓶でも相手にして リンチが胸を張ると、とスティーヴンは言った、人生 るほうがまだましだぜ。帰れよ、テンプル。たのむから帰っ への社 = 「ロしなるね てくれよ。 リンチは音高く胸をたたいて言った。 きみなんかぜんぜん相手にしてないよ、クランリー だれか、おれの胴まわりに文句でもあるのか ? とテンプルは答えると、クランリーが振りかざした板のとど ク一フンリ ーがこの挑戦を受けて立ち、ふたりで取っ組みあ かないところまで逃げてから、スティーヴンのほうを指さし いをはじめた。もみ合って顔が紅潮してくると、ふたりは自 5 た。彼こそ、ばくがこの学園で出会った唯一の、個性的精神 をはすませながら体を離す。スティーヴンは、競技をみるに の持主だよ。 とクランリーが叫んだ。夢中で、他人の話など耳にはいらないようすのディヴィンの 学園だと , 個性的だと , ほ , つにかがみこんだ。 帰れ、この野郎、おまえはまったくの阿呆野郎だ がちょ・つ おとなしい鵞鳥どのはいかがかな ? と彼はたすねた。 ばくは感清的な人間だよ、とテンプルが言った。まっ たくうまい表現だ。ばくは感情家たることを誇りに巴うね。署名はしましたかな ? ディヴィンはうなすいてから、言った。 彼はこそこそと球技場から逃げだしながら、するそうな微 像 山目 で、きみのほうは、スティーヴィ ? 笑をうかべている。クランリーはばんやりと無表清な顔でそ の 家 スティーヴンは首を振った。 れを見送った。 きみもすごいやつだな、スティーヴィ、とディヴィン 見ろよ ! と彼は言った。あんなこそこそしたやっ、 の は口から短いパイプを離しながら言った。いつもひとりきり 見たことあるかい ? でさ。 若その言葉に応じるかのように、奇妙な笑い声があがった。 世界平和のための請願書に署名したのなら、とスティ 剏目びさしのついた帽子をまぶかにかぶり、壁にもたれていた かんだか ーヴンは言った、きみの部屋で見た小さな手帳、あれはもう 学生の声だ。筋肉質のがっちりした体から湧きあがる甲高い
ジョイス 154 れこれ話しかけてはおれをひきとめるけど、それが胸も肩も ねえ、お客さん、いつもの娘よ ! きようの初物なの。 むきだしなんだから、おれは妙な気がした。そして、おれに、 このかわいい花束、買ってよ。ねえ、お客さん。 疲れたでしようから、ここに泊まっていったら、なんて一一一口う 少女のさしだす青い花と、若々しい青い瞳は、一瞬、純朴 んだ。家には自分ひとりきりで、亭主は朝、自分の妹を見送さそのもののように思われた。しかし、立ちどまると、たち りにクイーンズタウンにでかけたというんだな。それでね、まちそのイメージは消えて、目のまえには、みすばらしい服 スティーヴィ、話してるあいだじゅう、女はおれの顔をみつと、湿ってばさついた髪と、おてんば娘の顔だけが残った。 めたままで、しかもこっちにびったりくつついて立ってるか 買ってよ、お客さん ! いつもの娘を忘れたの , ら、息づかいまで聞こえてくる。そのうちにお碗を返すと、 お金がないんだ、とスティーヴンは言った。 おれの手をとって敷居のなかにひつばりこもうとしながら、 このかわいい花束、買ってくれない ? たった一ペニ こ , っ一 = ロ , つじゃよ、 オしか。「ね、はいって、・旧まってきなさいよ こわがることなんかないわ。あたしたちだけなんだから いま言っただろう、とスティーヴンは少女のほうにか はいりはしなかったよ、スティーヴィ。お礼を言って、がみこみながら言った。お金がないんだよ。ほんとうにない また歩きだしたけど、体じゅう、かっかしてたな。最初の曲んだ。 がり角でふり返ったら、女はまだ戸口に立っていたよ。 そうなの、でも、いっかはきっとはいるわね、と少女 そのディヴィンの話の最後の一一 = ロ葉が、いま、スティーヴンはしばらくして答えた。 の記億のなかでさざめきはじめた。話に出てきた女の姿がう たぶんね、とスティーヴンは言った、でも、はいりそ うもないな。 かんでくるにつれ、それは、かって学校の馬車でクレインの 村を通りすぎたとき、家々の戸口に立っているのを見かけた 彼はすばやく少女のそばを離れた。少女の馴れ馴れしさが 百姓女たちの姿とかさなって、彼女の民族の典型のように、あざけりに変わりはしないかと不安だったし、彼女が花をほ そして自分自身の民族の典型のように思われてくる。この蝙 かのお客、たとえばイングランドからの観光客とかトリニテ 。もり 蝠のような魂は、闇と秘密と孤独のなかでおのれ自身にめざ イ・コレッジの学生に売りつけようとするまえに、その場か てくだ ら立ち去りたかったからだ。。 クラフトン・ストリートを歩し めると、手管を知らぬ女のような目と声と身ぶりで、見知ら ぬ者をベッドに誘うのだ。 てゆくあいだ、貧しさにうちひしがれたようなその一瞬の光 だれかの手が腕に触れ、若々しい声がとびこんできた。 景は、、いにまとわりついて離れなかった。通りの先の角のと
から、すこしでも父のことに触れられたりすると、彼の落ち こんなふうにはまりこんでしまうんだ。きみはホルダーを使 おくびよう つきはたちまち失われてしまう。彼は臆病に沈黙をまもり ながら、ヘロンがつぎになんと言うのか待ちかまえた。けれ タバコはやらないんだ、とスティーヴンは答えた。 ひじ そうさ、とヘロンが言った。ディーダラスは模範青年ども、ヘロンは意味ありげに肱でつついて、こう言った。 しり おい、するいそ、ディーダラス , でね。タバコもやらず、バザールにも行かず、女の尻も追い ど , っして ? とスティーヴンは一言った。 かけなきや、悪態ひとつつきやしな、 虫も殺さぬ顔をして、とヘロンが言った。しかし、す スティーヴンは首を振りながら、このライヴァルの、上気 こままえみかけるいやつだな。 した、表情ゆたかな、鳥みたいにとがった顔し。。 なんのことを言っているのかしらねえ ? とスティー 、ウインセント・ ヘロンが名前のみならず、顔までも てした。。 その鳥に似ていることは、つねづね不思議でならなかったヴンはすまして言った。 ヘロンとま。 へ、おとばけだな、とヘロンが応じた。おれたちは見た し色の薄いくしやくしゃの髪が逆立った冠毛のよ 鷺のこと うに額にかかり、額はせまく骨ばっていて、やせたかぎ鼻がんだよなあ、ウオリス ? すごくかわいいこじゃないか。そ より目ぎみの大きな目のあいだにつきだしている。目は明るれに、根ほり葉ほりきいていたぜ ! 「で、スティーヴンはな い色で無表情な感じだ。ふたりのライヴァルは学校では仲がんの役をなさいますの、ね、ディーダラスのおじさま ? ス ティーヴンはうたいませんの、ディーダラスのおじさま ? 」 よかった。教室ではならんで席につき、礼拝堂でもいっしょ きと、つ なんてね。おやじさん、例の片眼鏡で彼女をじっとみつめて にひざますき、祈疇が終われば昼食をとりながらおしゃべり いたから、もうきみの正体もお見通しさ。ばくなら平気だけ する。いちばん上の学年の生徒たちがばっとしない鈍才そろ 削いだったので、スティーヴンとヘロンはその年からもう、事どね。まったくすごい美人じゃないか、なあ、ウオリス ? ーーとびきりだな、とウオリスは静かに答えながら、また 家実上、生徒たちの指導者になっていた。校長のところにいっ ホルダーを口の端にくわえた。 しょにでかけて臨時の休みをもらってくるのも彼らならば、 知らない相手が聞いているというのに、こんなふうに露骨 日だれかの罰を軽くしてやるのも彼らだった。 にからかわれたせいで、一瞬の怒りがスティーヴンの心をつ そうそう、とヘロンがふいに言った、きみのおやじさ 若 らぬいた。彼にとっては、女の子がしめす関心や好意は、け んが講堂にはいってゆくのを見たぜ。 っしてからかいのたねにすべきものではなかった。彼はこの スティーヴンの顔から微笑が消えた。生徒や教師のだれか
ジョイス 176 すなわち ? とリンチが言った。 女を例にとろう、とスティーヴンが言った。 こういう仮説なんだ、とスティーヴンははじめた。 よし、 , 文でい , っ ! とリンチが勢いこんで言った。 てつくず 、トリック・ダン病院 鉄屑を積んだ大きな荷馬車がサー ギリシア人でも、トルコ人でも、中国人でも、コプト 人でも、ホッテントットでも、とスティーヴンは言った、みの角からあらわれ、スティーヴンの話のつづきを、けたたま んなそれそれにちがった種類の女性美を讚美している。これしく耳ざわりな金属音でかき消した。リンチは耳をおおい じゃあどうも、出口のない迷路みたいなものだ。しかしね、荷馬車が通りすぎるまで何度もくり返し、ののしりの声をあ 出口はふたつあると思うんだ。ひとつはこういう仮説だ。っげた。それから、乱暴にくるりと向きをかえた。スティーヴ ンも向きをかえ、相手の鬱憤が晴れるまでしばらく待った。 まり、男が讚美する女の肉体的特質はすべて、種族繁栄のた もうひとつの出口はね、とスティーヴンはくり返した、 めの女のさまざまな機能と直接むすびついているというもの だ。これはそうかもしれない どうやら、リンチ、世界はき こういう仮説なんだ。つまり、おなじ対象がすべてのひとに みが想像するよりすっと憂鬱なところらしいな。ばくとして美しく見えるわけではないにしても、美しい対象を讚美する すべてのひとは、その対象のなかに、あらゆる審美的な認識 は、この出口は好きじゃない。行きつくさきは美学じゃなく のさまざまな段階を満足させ、またそれと一致する特定の関 て優生学だからね。迷路から抜けでれば、こんどはま新しく みいだ けばけばしい講義室で、マカンが片手を『種の起源』のうえ係を見出しているというものだ。きみにはある形をとおし におき、片手を新約聖書のうえにおいて、講義してくれるわて見え、またばくにはべつの形を通して見える、知覚できる もの相互のこの関係こそが、したがって、美にとって必要な けだ。きみがヴィーナスのふくよかな脇腹を讚美するのは、 特質にちがいない。さてここで、わが旧友聖トマスに戻って、 彼女がきみのためにたくましい子孫を生んでくれると感じた からだし、豊かな乳房を讚美するのは、彼女がきみときみのまたちょっぴりお知恵を拝借することになる。 リンチが笑い声をあげた。 子供のためにたつぶり乳をだしてくれると感じたからだ、な まったく笑ってしまうよ、と彼は言った、きみは陽気 んてね。 そんなことを一一一一口うなら、マカンは硫黄みたいなまっ黄な肥っちょの坊さんみたいに、しじゅうアクイナスの引用ば 、か、ノ、お」。、刀 、げじゃ、こっそり笑ってるのかい ? 色な嘘つき野郎だ、とリンチが力をこめて言った。 マカリスターのやつなら、とスティーヴンは言った、 まだもうひとつ、出口は残っている、とスティーヴン ばくの美学理論をアクイナスの応用と言うだろうね。美学の は笑いながら言った。 ふと
1165 解説 は、どうすればいいのだろう ? 濃くなったタ闇につつま けれども、たえず現在のなかを ( あたかもわれわれの現実 れていると、自分の属している民族の思念や欲望が、蝙蝠の人生のように ) 進むスティーヴンの内面にすべてを託して、 のように、暗い田舎道や、水際の木陰や、水たまりだらけ作者が解説を控えているこの小説にあっては、スティーヴン の湿地のそばをかすめとぶのが感じられるようだった。 の行末を含めて、あらゆる解釈は読者次第といっていいのか もしれない この小説は、振りかえって一行めを読みはじめ 家庭と宗教と祖国を捨てる決意を固めたはすのスティーヴるたびに、読者のひとりひとりがふたたび新しい意識のなか ンは、ダイダロスの飛翔とは対照的なこの蝙蝠の姿のなかに、 に、そして新しい物語のなかにめざめるようつくられた、開 厭うべきかもしれないけれど、またそこからしか新しい可能 かれた世界だからである。 性も生まれてはこない、現実の生のいとなみの深い意味を見 てとっているかのようだ。あるいは、そのような卑俗ないと なみにひそむ豊穰な輝きを明るみに出すことこそ芸術家のつ 『肖像』につづく『ュリシーズ』では、なによりもます、こ ほの とめなのだと彼の肩ごしにそっと仄めかしているのは作者そんどこそ卑俗な現実がどっしり腰を据えているようだ。 のひとかもしれない。 ン、 : をに みを 『ュリシーズ』以後 上 / 虹 ~ 名のジョイスを認め 4 尽力したアメリカの詩人・批評」豕 」工ズラ・パウンド ( 左端 ) らと 中 / 家族とともに 前列右より時計回りに妻ノラ、 長女ルーチア、ジョイス 長男ジョルジオ ( 一儿二四年ごろ、。ハリ ) 下 / / 孫のスティーヴンと イ ( 一九三八年 )
イプセンの『われら死者目覚める時』についての論文「イプセンの 士むこ曷載される。 新しい」劇」が「フォートナイトリイ・レウュー」し , 于 イプセンの影響の濃い戯曲「すばらしき生涯」を書く。これは現存 ジョイス年譜 せず。 ・一九〇一年 ( 十九歳 ) けんそう 八八ニ年 十月、アイルランド文芸劇場の偏狭な地方性を批判する「喧噪の時 二月二日、ジェイムズ・オーガスティン・ジョイス、ダブリン南郊代」を、学友スケフィントンのエッセイと合わせてバンフレットの ラスガー、。フライトン・スクエア西四十一番地で生まれる。父は市形で自費出版。 ・一九〇ニ年 ( ニ十歳 ) の収税吏。ジョイスは十人兄弟の長男。 二月、文学・歴史学会で、アイルランドの詩人ジェイムズ・クラレ 八八八年 ( 六歳 ) ンス・マンガンについて講演。五月、そのマンガン論を非公式の学 九月、イエズス会系クロンゴウズ・ウッド・カレッジに入学。成績 内雑誌「聖スティーヴンズ」に掲載。十月、イエイツと会う。十月 優秀。スポーツも好む。 ・一八九一年 ( 九歳 ) 三十一日、現代語学の・の学位をとり、卒業。十二月一日、 リで医学を修めようと、ダブリンを発つ。途中、ロンドンに立ち寄 六月、父失業し、家計窮迫のため、クロンゴウズ校を退学。アイル 、リに到着後、医 ランド革命運動の政治家バーネルの死に刺激され、 ーネルの政敵り、イエイツ、アーサー・シモンズたちに会う。 ーを糾弾する諷刺詩「ヒーリー お前もか ! 」を書く。これ学はすぐに断念。十二月二十三日、ダブリンに戻る。 ・一九〇三年 ( ニ十一歳 ) は現存せず。 、リに戻る。ジョン・シングと会う。 一月、再びダブリンを発ち、 ・一八九三年 ( 十一歳 ) 『若き日の芸術家の肖像』のスティーヴンが唱える美学の基礎とな 四月、ダ。フリンにあるイエズス会系のベルヴェディア・カレッジに る「パリ・ノート・フック」を作成。四月十日、母危篤の電報でダ・フ 入学。成績優秀。 リンに戻る。八月十三日、母メアリ・ジョイス死去。享年四十四歳。 ・一八九八年 ( 十六歳 ) ・一九〇四年 ( ニ十ニ歳 ) 九月、ダブリンにあるユニヴァーシティ・カレッジに入学。 ・一八九九年 ( 十七歳 ) 一月七日、自伝的作品「芸術家の肖像」を書き上げる。友人ジョ ン・エグリントンたちの創刊する雑誌「ダーナ」に原稿を送るが、 譜イエイツの『キャスリーン伯爵夫人』を反アイルランド的であると 抗議する学生たちの署名運動に同調せす。 掲載を拒否される。二月二日、誕生日に、「芸術家の肖像」を長編 ト説に書き改める決心をし、弟スタニスロースの案を受け入れ「ス ・一九〇〇年 ( 十八歳 ) 一月、学内の文学・歴史学会で論文「劇と人生」を口頭発表。四月、ティーヴン・ヒアロー」と改題する。二月十日、「スティーヴン・
で長生きもできたし、いろいろいいこともやってきたさ。 ☆ 父親とふたりの旧友がカウンターから三つのグラスをとり あげ、過去の思い出のために乾杯するのを、スティーヴンは スティーヴンは母と弟といとこのひとりを静かなフォスタ しんえん ながめていた。運命の深淵が、というより気質のちがいが、 ・プレイスの角に待たせて、父親とふたりで階段をのばり、 彼らとスティーヴンとをへだてていた。自分の心のほうが彼柱廊を進んでゆく。柱廊では高地出身の衛兵がゆっくりと行 らの心より年老いているような気がした。自分の、いは、若い ったりきたりしている。大きなホールにはいってカウンター 大地をてらす月のように、彼らの争いや、幸福や、悔限を、のまえに立っと、スティーヴンはアイルランド銀行頭取あて つめたくながめているのだ。彼らに見られるような生命のざの合計三十三ポンドの為替をとりだした。出納係がその奨学 わめきも、青春のざわめきも感じたためしがなかった。他人金とエッセイの賞金の金額を紙幣と硬貨ですばやくわたして とのつき合いの喜びも、荒々しい男性的健康の活力も、息子 くれる。彼はわざと平然とその金をポケットにいれ、父親がし としての情愛も、縁がなかった。自分の心のなかでうごめくきりに話しかけている愛想のいい出納係が幅の広いカウンタ のは、ただ、つめたく残酷で愛を知らない情欲だけだ。子供 ーごしにのばしてきた手と握手し、出納係が彼のかがやかし 時代は滅びて消えうせ、それとともに単純な喜びを味わう心 い将来を祈ってくれるのを黙って聞いた。父親と出納係が話 力いカら - も失われて、自分はいま貝殻みたいな荒涼たる月のように人す声を聞いていると、彼はいらいらして、じっと立っていら 生のなかを漂っているにすぎない れなくなった。しかし出納係はほかの客を待たせたまま、 まは時代がちがいますから、男の子には金の許すかぎり最上 おまえは青白く疲れはてているのか の教育を受けさせるのがいちばんです、などとしゃべってい 像 ・肖 天にのばって地をみつめ る。ディーダラス氏はそれからもホールを歩きまわって、あ の 家 ~ 久もなくさすら , っことに : たりや天井をながめまわしながら、早く出ようとせつつくス 術 ティーヴンにむかって、われわれはいま昔のアイルランド議 の 「月に寄せて」 日 ・はシェリ ーの断章 ( ) をひとりつぶやいた。そ会の下院 ( 一八 9 〇年、イギリス ( (,) に立っているのだと説明した。 と題するもの 若こに交互にあらわれる、人間の悲しい無力感と、人間をこえ 神よ、われらを助けたまえ ! とディーダラス氏は敬 た活動の巨大なサイクルとを思うと、ひえびえとした気持に虔な口調で言った。なあ、スティーヴン、昔のヒーリー ・グラタンやチャールズ・ ッチンスンやフラッドやヘンリー なってきて、彼は自分の人間としての無力な悲しみを忘れた。