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検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」04 -イギリス3
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」04 -イギリス3

イプセンの『われら死者目覚める時』についての論文「イプセンの 士むこ曷載される。 新しい」劇」が「フォートナイトリイ・レウュー」し , 于 イプセンの影響の濃い戯曲「すばらしき生涯」を書く。これは現存 ジョイス年譜 せず。 ・一九〇一年 ( 十九歳 ) けんそう 八八ニ年 十月、アイルランド文芸劇場の偏狭な地方性を批判する「喧噪の時 二月二日、ジェイムズ・オーガスティン・ジョイス、ダブリン南郊代」を、学友スケフィントンのエッセイと合わせてバンフレットの ラスガー、。フライトン・スクエア西四十一番地で生まれる。父は市形で自費出版。 ・一九〇ニ年 ( ニ十歳 ) の収税吏。ジョイスは十人兄弟の長男。 二月、文学・歴史学会で、アイルランドの詩人ジェイムズ・クラレ 八八八年 ( 六歳 ) ンス・マンガンについて講演。五月、そのマンガン論を非公式の学 九月、イエズス会系クロンゴウズ・ウッド・カレッジに入学。成績 内雑誌「聖スティーヴンズ」に掲載。十月、イエイツと会う。十月 優秀。スポーツも好む。 ・一八九一年 ( 九歳 ) 三十一日、現代語学の・の学位をとり、卒業。十二月一日、 リで医学を修めようと、ダブリンを発つ。途中、ロンドンに立ち寄 六月、父失業し、家計窮迫のため、クロンゴウズ校を退学。アイル 、リに到着後、医 ランド革命運動の政治家バーネルの死に刺激され、 ーネルの政敵り、イエイツ、アーサー・シモンズたちに会う。 ーを糾弾する諷刺詩「ヒーリー お前もか ! 」を書く。これ学はすぐに断念。十二月二十三日、ダブリンに戻る。 ・一九〇三年 ( ニ十一歳 ) は現存せず。 、リに戻る。ジョン・シングと会う。 一月、再びダブリンを発ち、 ・一八九三年 ( 十一歳 ) 『若き日の芸術家の肖像』のスティーヴンが唱える美学の基礎とな 四月、ダ。フリンにあるイエズス会系のベルヴェディア・カレッジに る「パリ・ノート・フック」を作成。四月十日、母危篤の電報でダ・フ 入学。成績優秀。 リンに戻る。八月十三日、母メアリ・ジョイス死去。享年四十四歳。 ・一八九八年 ( 十六歳 ) ・一九〇四年 ( ニ十ニ歳 ) 九月、ダブリンにあるユニヴァーシティ・カレッジに入学。 ・一八九九年 ( 十七歳 ) 一月七日、自伝的作品「芸術家の肖像」を書き上げる。友人ジョ ン・エグリントンたちの創刊する雑誌「ダーナ」に原稿を送るが、 譜イエイツの『キャスリーン伯爵夫人』を反アイルランド的であると 抗議する学生たちの署名運動に同調せす。 掲載を拒否される。二月二日、誕生日に、「芸術家の肖像」を長編 ト説に書き改める決心をし、弟スタニスロースの案を受け入れ「ス ・一九〇〇年 ( 十八歳 ) 一月、学内の文学・歴史学会で論文「劇と人生」を口頭発表。四月、ティーヴン・ヒアロー」と改題する。二月十日、「スティーヴン・

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・一九〇八年 ( ニ十六歳 ) ヒアロー」第一章を書き上げる。三月から六月末まで、ドーキーに あるクリフトン・スクールの教師を務める。六月十日、ダ・フリンの三月、シング『海へ行く騎手たち』をイタリア語に翻訳。五月、虹 ーナクルと出会う。六月十六日、ノラとの最初の彩炎を患う。 路上で、ノラ・ ス ・一九〇九年 ( ニ十七歳 ) デイト。八月十三日、短編「姉妹」を「アイリッシュ・ホームステ イ ッド」紙にスティーヴン・ディーダラスの筆名で掲載。以後さらに、七月二十九日、長男ジョルジオを連れ、『ダブリンの人々』の出版 ジ 「イーヴリン」 ( 九月 ) 、「レースの後で」 ( 十二月 ) を同紙に掲載。交渉と母校の大学でのイタリア語の教職の可能性を探る、という目 ・ゴガティと一緒にサンディコ的で、ダ。フリンに戻る。結婚前のノラの男性関係に対する疑惑に脳 九月九日、友人の医学生オリヴァー ーヴのマーテロ塔に住み込む。ゴガティの友人サミュエル・トレンむ。八月十九日、モーンセル社との間で『ダブリンの人々』の出版 なかたが チも同居。九月十五日、ゴガティとの仲違いが決定的なものとなり、契約成立。九月九日、妹エヴァと長男ジョルジオを連れて、ダ。フリ マーテロ塔を出る。十月八日、ノラを連れてダ・フリンを発ち、大陸ンを去り、トリエステに戻る。映画館のないアイルランドに映画館 リを経由してチューリッヒに到着。ところが、あてにしを創設するため、トリエステの実業家たちに援助を仰ぎ、十月二十 へ渡る。 ていたベルリツツ・スクールの英語教師の職がなく、トリエステを一日、ダ・フリンに再び戻り、十二月二十日、映画館「ヴォルタ」を 経て、イタリアのポーラ ( 現在はユーゴスラヴィア領 ) に赴き、そ開館。 ・一九一〇年 ( ニ十八歳 ) このベルリツツ・スクールに英語教師の職を得る。 一月二日、妹アイリーンを連れて、トリエステに戻る。七月、映画 ・一九〇五年 ( ニ十三歳 ) 三月、トリエステの。ヘルリツツ・スクールに転任。七月二十七日、館「ヴォルタ」倒産。『ダブリンの人々』の出版、書き直し問題が 長男ジョルジオ誕生。十月、弟スタニスロースをトリエステに呼びこじれ、遅延。 ・一九一一年 ( ニ十九歳 ) 寄せる。 二月、モーンセル社から、『ダブリンの人々』の「委員室の独立記 ・一九〇六年 ( ニ十四歳 ) 三月、『、ダブリンの人々』の出版契約がグラント・リチャーズ社と念日」におけるエドワード七世に関する文章をすべて削除してもら . し学 / 。し との要求。八月一日、エドワード七世問題に関し、。ンヨ の間で成立。七月、ローマの銀行の文書課に職を得、ローマに移る。 ジ五世に直訴。 九月末、グラント・リチャーズ社、書き直し問題がこじれたあげく、 ・一九一ニ年 ( 三十歳 ) 『ダブリンの人々』の出版契約を破棄。 三月、トリエステの大学の成人講座で、ダニエル・デフォーとウィ ・一九〇七年 ( ニ十五歳 ) リアム・プレイクについて講演。七月、ジョルジオを連れて、ロン 三月、銀行を辞し、トリエステに戻る。五月、『室内楽』をエルキ ドン経由でダブリンに帰り、さらに妻ノラの故郷ゴールウェイを訪 ン・マシューズ社より出版。七月二十六日、長女ルーチア誕生。復 ね、先にルーチアを連れて帰郷していたノラと落ち合う。九月十一 職していたベルリツツを辞し、個人教授に転する。 - 一う

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に熱中。 ・一九〇三年 ( ニ十一歳 ) いよいよパリに移り、都合七年間にわたるヨーロッパでのポヘミア ン生活が本格的に始まる。あたかもパリはサンポリスム、アール・ ヌーポー、フォーヴィスム、キュビスム、シュールレアリスムと、 リの空気は つぎつぎに新しい芸術運動が起こった時期にあたり、 八八ニ年 十一月十八日、カナダのノーヴァ・スコーシア州アマースト沖に停若いルイスに決定的な影響を与える。パリがルイスの大学だった。 ・ヘルグソンやドイツ哲学の講義も聞き、ドイツ、スペイン、オラン 泊中の、父のヨット上にて生まれる。父はアメリカ人、母はスコッ チ・アイリッシュ系イギリス人。父は軍隊生活のほかは、親と義兄ダなど、旅行も盛んに行なった。 ・一九〇八年 ( ニ十六歳 ) の財産で一生を遊び暮らした奇人だったという。米国メイン州とメ 仕送りが打ち切られ、画家として身を立てるため帰英。一九〇五年 リーランド州で幼年期を過ごす。 から付き合っていたドイツ人女性ィーダとの間に子供ができ、これ 八八八年 ( 六歳 ) から逃れるためもあった。ルイスの女性関係は派手だったが、以後 一家は英国ワイト島に移る。 子供ができるとこれを認知せす女のもとを去るというパターンを何 ・一八九三年 ( 十一歳 ) 両親が離婚、母とロンドン郊外に移る。ひとりつ子であり、母の溺度かくり返すことになる。 ・一九〇九年 ( ニ十七歳 ) 愛をうけて育っことになる。 フォード・マドックス・フォード編集の「イングリッシュ・レヴュ ・一八九七年 ( 十五歳 ) 誌に短編小説を発表。フォードを介してエズラ・パウンドを知 ふたつの学校に通ったのち、名門パプリック・スクールであるラグ ビー校に入学するが、校風に反発、成績は二十六名中二十六位。伝る。パウンドはルイスの数少ない終生の友となる。 ・一九一〇年 ( ニ十八歳 ) 統的なイギリス社会に対する嫌悪の芽ばえ。 「トランプ」誌に短編小説を発表。 ・一八九八年 ( 十六歳 ) ・一九一一年 ( ニ十九歳 ) スレード美術学校に入学、一九〇一年まで学ぶ。画家を志すととも イギリス印象派の集まりである「第一回キャムデン・タウン・グル に、詩を書き始める。スレード校には、終生のライバルかっ友とな ープ展」に油彩を出品。以後、いろいろな展覧会に精力的に出品。 譜るオーガスタス・ジョンがいた 七月に小説『ター』を書き始める。九月、オリープ・ジョンソンと ・一九〇ニ年 ( ニ十歳 ) 大学へは行かす、友人とス。ヘインへ渡る。画学生の普通のコースでの間に男児誕生。 ・一九一ニ年 ( 三十歳 ) あるイタリアを避け、目当てはプラドー美術館。とくにゴヤの模写 ルイス年譜 でき

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確保のため、ます百部を出版。翌二月、引き続いて残りを出版。二版。 月二日、ジョイスの誕生日のパーティで、ルーチア、母を殴る。その ・一九三八年 ( 五十六歳 ) 結果、ニョンのフォレル博士の療養所に再び収容される。四月、チ 八月、ローザンヌへ。十一月十三日、『フィネガンズ・ウェイク』 ューリッヒに赴く。五月、長男ジョルジオ一家、アメリカに渡る。完成。 滞在は一年以上に及ぶ。六月、『天使ミカエルと悪魔ニックと誘惑・一九三九年 ( 五十七歳 ) する女マギーたちの黙劇』 (r フィネガンズ・ウェイク』の一部 ) 五月四日、『フィネガンズ・ウェイク』ロンドンとニューヨークで ーグで出版。七月中旬から八月中旬、ベルギー滞在。八月下旬、べ同時出版。八月、モントルー、 ローザンヌ、・ヘルン、チューリッヒ ぼつばっ ルギーからルクセン。フルク、メッツ、ナンシー、を訪れ、二十八日、を訪れる。九月、第二次大戦勃発し、ルーチアをラ・ポール近くの モントルーこ し到着。フォレル博士に会い、ルーチアを見舞う。九月療養所に避難させる。ルーチアの近くにいるため、ラ・ポールに滞 十五日、ルーチア、自分の病室に放火。九月二十日、ル ーチア、チ在。十月十五日、 、リに戻る。十二月二十四日、サン・ジェラン・ ューリッヒの精神病院に移される。九月二十八日、ルーチア、ユン ル・ピュイへ。ホテルに着くや、激しい腹痛に襲われる。 クのいる病院に移され、彼の治療を受けることになる。 ・一九四〇年 ( 五十八歳 ) ・一九三五年 ( 五十三歳 ) 十二月十七日、ルーチアをラ・ポールに残して、一家はチューリッ 一月十四日、チューリッヒのホテルにルーチアを引き取る。一月末、ヒへ 、リに戻る。二月、妹アイリーン、ルーチアをロンドンに連れて行 ・一九四一年 ( 五十八歳 ) く。三月十六日、ルーチア、アイリ、ーンに連れられてアイルランド 一月十日夜、激しい腹痛。一月十一日早朝、赤十字病院に運ばれる。 かいようせん・一う のプレイ ( ダ。フリン南郊 ) に行く。八月から十二月、ルーチア、イ検査の結果、病因は十二指腸潰瘍穿孔と判明。午前十時、手術。一 ギリスでウィーヴァー女史の保護下に置かれる。八月から九月、フ月十三日、午前二時十五分、死去。 オンテン。フローでハ ート・ゴーマン夫妻と過ごす。 ( 齊藤重信編 ) ・一九三六年 ( 五十四歳 ) 三月、ルーチア、 ハリに連れ戻されて三週間後、拘束服を着せられ て、精神病院に収容される。七月、ルーチアが装飾文字で書いた 『チョーサー・・ O 』出版。八月十八日、コ。ヘンハーゲンへ。 譜約一カ月滞在。九月十三日、 、リに戻る ・一九三七年 ( 五十五歳 ) 1 八月、チューリッヒへ。九月、フランスに戻る。十月、「。若く内気 なストリエラ』 ( 『フィネガンズ・ウェイク』の一部 ) ロンドンで出

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ロレンス 1156 王の治世の終わることを告げた。 しりえ 一 0 九四下前を見、後を見ては「前を見、後を見ては」はイギリスのロ マン派詩人シェリの『ひばりに寄せるオ 1 ド』からきている。 「天使たちが足を踏みい 一 0 九九下天使たちが足を踏みいれるのを : れるのをはばかる」というのはイギリス十八世紀の詩人アレグザンダ ・ポープの詩『批評論』中にある「天使たちが足を踏み入れるのをは ばかるところに馬鹿者はとびこむ」からきている。 二 00 下『ゴダイヴァ夫人』十一世紀の伝説的なイギリスの伯爵夫人。 夫がコヴェントリの住民に重税を課するのをいさめると、夫が白昼裸で 街を馬で乗りまわせば願いを聞きとどけるというのでその通りにしたと 一一天上メストロヴィッチ十九世紀末、オーストリアでの建築工芸運 動に加わったユーゴスラヴィア出身の彫刻家。この運動は「分離派」と 、過去の様式からの分離を目指した。 一二ハ上アステカの芸術十四世紀から十六世紀頃までメキシコに栄え た宗教芸術。建築と石彫が主体で、神像などグロテスクな表情を特色と する。 一二九上メアリ・スチュアートエリザベス朝時代のスコットランド女 王。多彩な情事ののちイングランドに逃げて、エリザベス女王によって 断頭台で処刑された。 一一一一六下プレイクの絵十八世紀末のイギリスの詩人、画家ウィリア ム・プレイクには蚤の魂を描いたものはないが、「蠅」という短い詩と それに関する挿絵がある。おそらく (flea) と「蠅」 (fly) をロレンス が混同したのであろう。 へティ・ソレルはジョージ・エ 一一 = 入下へティ・ソレルみたいに : びばう リオットの長篇小説『アダム・ビード』の女主人公。美貌の村娘で、地 主の孫息子アーサー・ドニソーンに誘惑され、捨てられたが、すでに懐 妊していたので、その子も殺してしまう。

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ハセジに移転し、およそ三年間ここで住んだのち、ようやく ェ」、十九歳のリディア、十六歳のエレン、十四歳のレティ ドローアー 餌普通の水準の住居チャベル通り ( 現在のクライド通り ) 十番スは「レース糸抜人」という記載がある。十年後の国勢調査 サーヴィス に居を構えた。 は、五十二歳のリディア ( ロレンスの祖母 ) を「家政婦」、 ス ン リディアの父ジョージの職業は、日給五シリング八。ヘンス二十四歳のレティス、二十一歳のジョージ、十九歳のメアリ フィッタ レ ・アン、十三歳のエイダの職業を、レース工場等の異なる ロの「整備工」だったから、二階に二部屋、階下に一部屋と台 所のある家屋の家賃の支払いにも十分とは言えなかった。。 シ職種の工員として記録している。レティスはおそらく、少な ヨージは、最後には総勢九人に増えた一家の暮しを支えるた くとも十四歳から二十四歳まで工員として働いていたので、 め、二十代半ばの牧師を下宿人にし、自らは十二年間、週に リディアを含めビアズォル家の娘たちは、結婚に逃げ場を求 六日無欠勤で働きながら、日曜日には素人牧師として精力的めない限り、同様の境涯に甘んじる他なかったのである。 な布教活動を行なったが、一八七〇年二月、つまりリディア リディアの矜り 十八歳の年に、作業中の転落事故のため歩行の自由を失って きせん しまった。見舞金の二十ポンドで八カ月間暮したあと、再度もとより職業に貴賤はなく、貧困もまた当事者の責に帰し ノッティンガム市スネントンに一家を引き連れて戻ったジョ 。ゝこ、。結婚前のリディアが住んだ家屋が、九歳から十九歳 ージの得た年金は、年額十八ポンド五シリングにすぎなかっ半ばまでを過したチャベル通りの二階屋を除き、当時の測量 たから、十九歳のリディアと妹二人は、父親に代り、レース地図等を参照して「スラム街」かそれに類した地域にあった ドローア つみとが し 工場の「糸抜人」に雇われて一家を支えねばならなかった。 と言わざるを得ないことも、むろん彼女の罪科ではない。 カカ 、学校をか 彼女が教師をしていたという話も正確ではなく、 4 、 し彼女の来歴は、ロレンスの生涯とその文学との関わりに ビュービル・ティーチャー 卒業した後、十二歳から二年半ほど「教員見習生」をつとおいては、彼の母親が同情すべき前半生を送ったという以上 あ めたというだけのことで、職務怠慢の理由で、代用教員の資の重大な意味を持っている。リディアは子供たちに対し、唖 ぜん 格も得ぬままこの職を追われたリディアは、以後は名ばかり然とするほど見事に、彼女の過去を隠し通したばかりか、逆 たん の塾を開いたり、家庭教師をしたりしたという。 に自らを貴種流離譚の主人公のごとく印象づけることにより、 成人するまでのロレンスに、謂わば虚偽で塗りこめた人生を なるほど、一八七一年の国勢調査の記録には、四十六歳の共有することを強いたからである。 エンジン・フィッ うわき一 ジョージ ( ジョンと誤記されている ) は「退職した機関整備彼女は、時にスノップと噂されるほど気位の高い女性だっ

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ド」「ザ・モーニング・テレグラフ」読し定的に記事を書く。『夜 の森』のフェッリクスのモデルとなった、出版業者グイードー・プ ルーノと知りあい、また、後にヒットラー「宮廷」の道化師として ーンズ年譜 有名になるブツツイ・、 ノンフステングルと恋愛関係に入る。 ・一九一五年 ( ニ十三歳 ) ・一八八九年 グリニッジ・ヴィレッジのワシントン・スクエアー、次に西十四番 父ウォールド・ ーンズと母エリザベス・チャッペル結婚 ( 後、離街に住む。十一月、詩集『嫌みな女たちの書』 ( 7- Book 。ト R きミ・ 婚 ) 。 ミ W 。ミ ) をプルーノの『呼び売り本』特別シリーズ第二〇号 ・一八九ニ年 として刊行するが、ほとんど売れす。 六月十二日、ジューナ・チャッペル・バ ・一九一六年 ( ニ十四歳 ) ーンズ、ニューヨーク近郊 ・レモンとグリニ コンウォールⅡオン Ⅱハドソンのストーム・キングに生まれる。一 シアター・ギルドの脚本リーダー主任コートニー ッジ・アヴェニューで事実上結婚生活 ( 後、一九一九年には離婚 ) 。 八九〇年六月、兄サーン、一九〇〇年一月、弟ゼンドン、一九〇一一 年、一九〇四年、異母弟サクソン、シャンガー誕生。ジューナ、十この年から翌年にかけて「ザ・ニューヨーク・モーニング・テレグ ラフ・サンデー ・マガジーン」誌に寸劇を発表する。 六歳まで当地と、両親の離婚後、ロング・アイランドで過ごす。一 時期、プラット・インステイチュート、アート・スチューデント・ ・一九一七年 ( ニ十五歳 ) うギ一 ーグに通う以外には学校教育は受けす、主に祖母ゼイデルにより短篇「兎」 ("The Rabbit") 発表。バーンズの最初の主要作品である。 ・一九一八年 ( ニ十六歳 ) 家庭教育を受ける。 ・一八九九年 ( 七歳 ) 二月、「受難劇」 ()A Passion P 一 a を ) を詩人アルフレッド・クレイン ーンズ最初の本格 イギリス、ジャマイカに家族旅行。当時、眼科医として成功した伯ポルグ主宰の雑誌「アザーズ」に発表。これはバ 父の援助もあり、暮らしむきはよかった。 的な戯曲である。短篇「馬たちに囲まれた一夜」 ()A Night Among ・一九一〇年 ( 十八歳 ) the Horses") でオー・ヘンリー賞を獲得。初期最高の詩「アンティ 祖母と父の取りきめで、父の愛人の弟 ( 五十二歳 ) のもとに嫁がさ ーク」 ("Antique") を書く ( 後に『一冊の本』 ( 」きをに収めら れ、プリッジボートに住む。 れる ) 。また、この年から二三年まで、リディア・ステップトウ ーズの寸劇を書き、その数篇を (Lydia Steptoe) の匿名で十作シリ ・一九一一年 ( 十九歳 ) 離婚し、ニューヨークへ出る。 ハリジャン」「ヴァニティ・フェア」「シャドウランド」「スマ ・一九一四年 ( ニ十ニ歳 ) ート・セット」誌等に発表する。 ・一九一九年 ( ニ十七歳 ) この頃、コラムニストとしての評判は高く、「プレス」「ザ・ワール ころ

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1169 年譜 日、『ダ。フリンの人々』をめぐってのモーンセル社との出版交渉が イギリス版出版。八月、緑内障のため、眼の手術 ( 第一回目 ) 。十 決裂。校正刷りは裁断される。その夜、家族を連れてダブリンを去月より約三カ月、家族と共にロカルノで休養。 る。以後二度とアイルランドの土を踏ます。 トリエステヘの帰途、 ・一九一八年 ( 三十六歳 ) ふうし 諷刺詩「バーナーからのガス」を書く。九月十五日、トリエステに 一月、チューリッヒに戻る。二月、ハロルド・マコーミック夫人よ り以後毎月経済的援助を受けることになる。ニューヨークの「リト ・一九一三年 ( 三十一歳 ) ル・レヴュー」誌に三月号より『ュリシーズ』の連載始まる。友人 レヴォルテラ高等商業学校の英語教師になる。午後は、個人教授。と劇団を創立、四月に第一回上演。演目はオスカー・ワイルド『真 女生徒の一人に恋心を抱き、「ジアコモ・ジョイス」と題する小品面目が肝要』。五月二十五日、『亡命者たち』を、イギリスのグラン を書く。十一月、グラント・リチャーズ社より手紙。『ダブリンの ト・リチャーズ社及びアメリカのヒュービシュ社より出版。 ・一九一九年 ( 三十七歳 ) 人々』を再見したいとのこと。十二月、エズラ・パウンドより手紙。 貴殿のことはイエイツより紹介されたのだが、手持ち原稿あれば送十月、マコーミック夫人からの援助打ち切られる、家族を連れてト 付されたし、とのこと。 丿エステに戻る。 ・一九一四年 ( 三十ニ歳 ) ・一九ニ〇年 ( 三十八歳 ) 『若き日の芸術家の肖像』を雑誌「エゴイスト」に二月二日号から六月、パウンドとイタリアのシルミオネで会う。七月、家族を連れ 連載。六月十五日、グラント・リチャーズ社より『ダブリンの 、リに移る。七月十一日、シルヴィア・ビーチと会う。八月十五日、 人々』出版。 ・ T) ・エリオットとウインダム・ルイスに会う。十二月二十四日、 、ウアレリ ・一九一五年 ( 三十三歳 ) ー・ラルポーと会う 六月、第一次大戦下、チューリッヒに家族を連れて移住。八月、パ ・一九ニ一年 ( 三十九歳 ) びんらん ウンド、イエイツ、エドマンド・ゴスたちの尽力により、英国王室二月、「リトル・レヴュー」誌連載の「ユリシーズ』、風紀紊乱の罪 文学基金より援助金七十五ポンドを受ける。九月、『亡命者たち』で有罪判決を受ける。五月、マルセル・プルーストと会う。十月、 完成。 『ュリシーズ』の原稿完成。 ・一九一六年 ( 三十四歳 ) ・一九ニニ年 ( 四十歳 ) 八月、パウンド、イエイツたちの尽力により、英国王室基金より百二月二日、誕生日、シルヴィア・ビーチのシェイクスビア書店より ポンドの補助金を受ける。十二月二十九日、ニューヨークのヒュー 『ュリシーズ』出版。 ビシュ社、『若き日の芸術家の肖像』を出版。 ・一九ニ三年 ( 四十一歳 ) ・一九一七年 ( 三十五歳 ) 三月十日、『フィネガンズ・ウェイク』起稿。六月から八月、家族 二月十二日、 丿ェット・ウィーヴァ、「若き日の芸術家の肖像』 と共に ( ジョルジオを除く ) 英国サセックスのポグナーに滞在。

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ロレンス 1222 ・一八八九年 ( 四歳 ) 五月、ポヴェイル公立小学校幼児部に入学。 ・一八九一年 ( 六歳 ) ロレンス年譜 ウォーカー通り三番に転居。 ・一八九八年 ( 十三歳 ) 七月、ポヴェイル公立小学校を卒業。九月、ノッティンガム・ハイ ・一八四六年 スクールに入学する。 六月、アーサー・ジョン・ロレンス、ノッティンガム州ブリンズリ ・一九〇一年 ( 十六歳 ) に生れる。 夏、ハグズ農場に住むチェインバーズ家の人々との親密な交際が始 ・一八五一年 七月、リディア・ビアズォル、マンチェスター市アンコウッに生れまる。九月、ノッティンガム・ハイスクール卒業後、ノッティンガ る。 ム市内の外科医療器具会社に勤務する。十月、次兄ウィリアム・ア ーネスト死去。冬、肺炎に催り生死の境をさまよう。 ・一八七五年 十二月、アーサーとリディア、ノッティンガム市スネントンの教区・一九〇ニ年 ( 十七歳 ) 冬、イーストウッドの小学校の教員見習生となる。 教会で結婚する。 ・一九〇四年 ( 十九歳 ) ・一八七六年 三月、イルキストンの教員見習生センターで講習を受け始める。十 九月、長男ジョージ・アーサー、。フリンズリに生れる。 二月、国の奨学生試験に最優秀の成績で合格、補助教員の資格を得 ・一八七八年 る。この年ロレンス家、リンクロフト九十七番に転居。 六月、次男ウィリアム・アーネスト、ノッティンガム州サットン・ ・一九〇五年 ( ニ十歳 ) イン・アッシュフィールドに生れる。 春、詩を書き始める。六月、大学入学資格を得る。 、八ニ年 ・一九〇六年 ( ニ十一歳 ) 三月、長女エミリー・ウーナ、同右に生れる。 くじゃく 四月、『白い孔雀』を書き始める。九月、ノッティンガム・ユニヴ ・一八八五年 ーヾート・リチャーズ、ノ アーシティ・カレッジに入学。 九月十一日、三男としてディヴィド・ ・一九〇七年 ( ニ十ニ歳 ) ッティンガム州ィーストウッド、ヴィクトリア通り八に生れる。 十二月、「序曲」ノッティンガム・ガーディアン紙の懸賞小説に入 ・一八八七年 ( ニ歳 ) 六月、次女レティス・エイダ、同右に生れる。ロレンス家、ほどな賞。 ・一九〇八年 ( ニ十三歳 ) くザ・。フリーチ五十七番に転居。

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一七一一ポープ『批評論』 ルサージュ『ジル・プラース』 ( 一七イングランドとスコットランド合同 一七一九デフォー「ロビンソン・クルーソー』 一五 ) スウイフト『ガリヴァ旅行記気・トムソン『四季』 ( ー三〇 ) 近松「心中天網島』 ( 二〇 ) ハノーヴァー朝始まる ( 一四 ) 一七四ニ =-2 ・ヤング『夜想詩』 ( ー四五 ) プレヴォー『マノン・レスコー』 ( 三一 ) ・ウォルポール首相となる ( 二一 ) 一七四七リチャードソン「クラリッサ・ ーロウ』 ( ー四八 ) ヴォルテール『カンディード』 ( 五九 ) 米、十三州植民地出そろう ( 三二 ) 一七四九フィールディング「トム・ジョーンズ』 オーストリアのマリアテレジア、プロ ルソー『新エロイーズ』 ( 六 一七五一グレイ〕。墓畔の哀歌』 秋成「雨月物語』 ( 六八 ) イセンのフリードリッヒ即位 ( 四〇 ) 一七五五・ジョンソン「英語辞典』 。ヘイン「コモン・センス』 ( 七六 ) 仏、「百科全書」刊行開始 ( 五一 ) 一七六〇スターン『トリストラム・シャンディの生涯と意見』 ( ー六七 ) レッシング「賢者ナータン』 ( 七九 ) 七年戦争勃発 ( 五六 ) 一七六四ウォルポール『オトラント城』 シラー「群盗』 ( 八一 ) 露、エカテリーナ二世即位 ( 六二 ) 一七六五 ーシー『イギリス古謡拾遺集』 ラクロ『危険な関係』 ( 八二 ) 産業革命始まる ( 六四 ) 一七六六 ゴールドスミス「ウェイクフィールドの牧師』 ジェイムズ・クック、オーストラリア 曹雪芹「紅楼夢』 ( 九一 ) 一七七一スモレット『ハンフリー ・クリンカー』 サド「悪徳の栄え』、ヘルダー 丿ンなどを探険 ( 六八ー七一 ) 一七七七シェリダン「悪口学校』初演 『ヒュ。ヘーリオン』 ( 九七 ) 第一次ポーランド分割 ( 七二 ) ンズ『おもにスコットランド方一言による詩集』 0 ・・プラウン『ウィーランド』米、独立宣言 ( 七六 ) 一七八九プレイク『無垢の歌』 フランス革命勃発 ( 八九 ) 一七九一ポズウエル『サミュエル・ジョンソン伝』 ジャン・パウル『巨人』 ( 一八〇〇 ) 一七九四ゴドウイン『ケイレプ・ウィリアムズ』ラドクリフ〕。ュドル ノヴァーリス『青い花』 ( 〇二 ) フォ城の秘密』 ゲーテ「親和カ』第一部 ( 〇九 ) ナポレオン、プリュメール十八日のク 一七九八ワーズワス、コールリッジ『叙情民謡集』 ホフマン『悪魔の霊薬』 ( 一四 ) 、馬琴 ーデター ( 九九 ) 一八〇〇ェッジワース「ラックレント城』 『南総里見八犬伝』 ( 一四ー四二 ) トラファルガー沖の海戦 ( 一八〇五 ) ハイロン『チャイルド・ ハロルドの遍歴』 ( ー一 アイヒエンドルフ『 - 予感と現在』 ( 一五 ) ラッダイト連動起こる ( 一一 ) 一八一四スコット「ウェイヴァリー フランクリン『自伝』 ( 一八 一六オースティン『エマ』 アーヴィング『スケッチブック』 ( 一九 ) ワーテルローの戦い ( 一五 ) スリット『イ、ギリ ・シェリー「フランケンシュタイン』ハ・ グリポエードフ『知恵の悲しみ』 ( 二四 ) ス詩人論』 南北『東海道四谷怪談』、プーシキン 一八ニ〇キーツ〕。レイミア、イザベラ、聖女アグネス祭の前夜、その他「エヴゲニー・オネーギン』 ( 二五 ) ハイネ『歌の本』 ( 二七 ) の詩集』、シェリー『プロメテウス解縛』、マチューリン『放浪 レオバルデイ「カンテイ』 ( 三 者メルモス』 ゴーゴリ「検察官』 ( 三五 ) 一一クレア『村の詩人』、ゴールト「教区年代記』 スタンダール「パルムの僧院』 ( 三九 ) 米、モンロー宣言 ( 二三 ) ラム『エリア随筆』 ( ー三三 ) ツルゲーネフ「猟人日記』・ハルザッ 一八ニ四ホッグ『義とされた罪人の手記と告白』 ( 〇七 )