いる ! オハラ氏がはにかんでいる ! この奇妙なはにかみ そ , つに、ゆっくりと一一一一口った。 をしかと見定めようと、彼女はもう一度夫を見た。たしかに、 「じゃあ、どうして彼女の話なんてするの ? 」 はにかんでいる。 「もちろん理由がある。あの女には困った趣味があるんだ。 「ねえ、誰に雇われてるの ? 」彼女はどなりつけるみたいに 非常に困った趣味だ」 言った。 ンは一一 = ロった。 「誰だってあるわ」ふざけた調子でアイリー 皮ま妻にむかって冷た 「『ある政府』に雇われてるそうだ」彳ー 「他人の悪口をでっちあげるんだ」 くはほえんだ。「なんでそんなことを一言うのかわからんが、 「そんなこと誰だってするわ。正常な人間のしるしだわ」 レ丿ノ。へがドイツで逮捕された事件にも、 「あの女は、自分が非難されるのを恐れて、他人の悪口をで三カ月前にカー っちあげるんだ。じつは、わたしに関する不諭央なうわさをわたしが関係していると言いふらしている」 アイリーンは下を向き、聞き間 ( 理いではないかとい、つよ , っ 一一 = ロいふらしている」 に、夫を見つめた。 こ、アイリーンはびつくりした顔をした。しかし、 意外な話し ぶさた 夫は彼女を見ていなかった。手持ち無沙汰な感じで両手を膝「お金の密輸で捕まった人 ? 」と彼女はきいた。 「そうだ、不正な為替レートで、現金の密輸をしたとかいう に置き、下を向いたまま、気取った感じで目の前に座ってい る。 やつだ。ドイツの話だ。リッペはたぶん絞首刑だろう。あの 政府はなまぬるいことはせん」 「どんなうわさなの ? 」ちょっとためらってから彼女はきい 「ばかばかしいわ ! ほんとにそんなことを言いふらしてる 「いや、たいしたことじゃな、 「でも、ど , つい , っ , つわき、なの ? 」 形勢が逆転した。夫にたいするこんな言いがかりを聞いて、 ばうっとなっていたアイリーンは、突然猛烈に腹が立ってき 「いつものやっさ。くり返すのもばかばかしい。確かな筋か た。何を言ったらいいかわからないが、何か言わないことに ら聞いたんだがーーっまりその、わたしが金で雇われてると は気がすまない。何を言おうか迷いながら、夫が適切な非難 報言いふらしているんだ」 の一 = ロ葉を見つけてくれないものかと、夫の顔を見つめた。こ 愛「誰に雇われてるの ? 」 んな忌まわしい一一 = ロいがかりにたいして何て言ったらいいのか、 突然アイリーンは、ショーンの奇妙なためらいに気がつい た。ついそ見たことのない光景だ。なんと、夫がはにかんで彼女にはとてもわからない
こそ、もうすこし「富の共有」の精神を身につけるべきだ。 社会のさまざまな利点を本能的に知りつくしているサーモン コミュニズム ( 共有財産主義 ) が時代の要請であるならば は、その小さな油絵、つまり、一ポンドの値打ちしかないか、 あるいは、わすか十五ポンドの支出で数千ポンドの儲けにな ( 彼はトリステイから、贋作は高度に道徳的な仕事なのだと、 ス イ 耳にタコができるほど聞かされている ) 、ぜひそうすべきだ。 るかもしれない油絵を、暗いまなざしでじっと見つめていた。 精巧につくられた「フレディ」という仮面の下で、苦悩と怒要するに、スタンプは生まれつき物わかりの悪い男なのであ あえ トリステイもフレデイも、アバショ りが冷たく抱き合って、苦しそうに喘ぎつづけていた。「こる。ほかの連中は の無頼漢に、なんとしても約束を守らせるのだ ! 」とフレデもヴォールもーー・ーみんなそれぞれの仕方で、その四つの壁で 世界に同化しているのに、ひとりだけ、 イは自分に言いきかせていた。即座に難点を指摘できるほど仕切られたエリート フレディは絵にくわしくないが、しかし、彼は鋭い鼻を持ち、どうしても同化しきれない愚鈍な男として、そこに座ってい るのである。 その鼻が、この絵は一級品ではないとはっきり告げている。 人間社会に迷いこんだ動物さながらの若い大男は、物一言う 明らかに失敗作だ。あるいは単純に、まだ末完成だ。彼はた んなるアラ深しではなく、本質的な欠陥を見抜くために、何背中をフレディ・サーモンに向け、話しかけられればすぐに 度も何度も絵を見つめ、それを見抜くとこんどは、相手を怒ふり返るそという感じでうずくまっていた。仲間外れの偏屈 らせすに欠陥を指摘して、かっ、今後の対策を示すにはどう者を絵に描いたようだ。敵意にみちた大きな肩は、よかれあ しししか、その一一一一口葉を見つけるために、さらにさらに見しかれ、とにかく自然界のものだ。自然界の衝動的な爆発力 と、暴力的な自由と、動物的な率直さをみなぎらせている。 つめつづけた。 しかし、もめごとの張本人である頑固者のスタンプは、所非保守的で、非論理的で、自然界に生きるものの基本的特性 かんべき 有権に関するこうした異端的な見解はまったく持ち合わせてをすべて完璧に備えている。彼はもっと大きな世界に住むべ トさいものだの、仕切り壁だの、理論だの、 いない。彼に言わせれば、あわれな画家がコソ泥に雇われたき人間なのだ。 / 人間の論理がつくりだしたものだの、そういったものはすべ だけの話だ。そして自分が描いた絵は、たとえいかがわしい 絵でも、とにかく自分の財産だ。自分はこの手仕事のためにて拒絶するのだ。彼はラクダのように、一生、野生動物のま までいるしかない まちがっても、馬みたいに調教されるこ こき使われているのであり、不法な薄汚い仕事にたいしては、 とはあり得ないのである。 合法的な仕事よりもたつぶり報酬がもらえて当然だ。それに、 というわけでスタンプは、背中に一発お見舞いされるのを スタンプの単純な考えによれば、むしろフレディ・サーモン
れている。しかし彼は、ト」 / 型飛行機のような動物たちの動き を、妻が養っている騒々しいスズメたちの動きを、別世界の めすらしい光景でも眺めるみたいに、ばんやりした無表情な 目で見つめている。小鳥たちの組織機能や営みの秘密を見極 めんとするかのように、見つめている。しかし、そうではな 皮よスズメたちを見てはいない。ほかの問題を見つめて いる。ある問題 ( スズメの問題と同じようなもので、たいし て重要な問題ではない ) の是非を検討しているのであり、頭 第一章 のなかで揺れ動いている判断が落ち着いて、評決がくだるの を待っているのである。 スズメたちはくちばしをつるはしみたいに使って、大きな どうやら、賽は投げられたようだーーー振り子はとまったよ す 固い。ハンのかたまりを砕いた。・ うだ。彼はきゅっと口を閉じて、椅子に深々と座り直し、ふ ヘイズウォーター地区緜 の地 ーに、オハラ夫人が置いたパンである。 ーみたいな四ッ たたび手紙をとりあげた。トイレットペ ) の家のバルコニ 区 オハラ夫人はありふれた小鳥が大好きだが、彼女の大きな散折版のタイプ用紙で、しわくちゃになってパリ ハリ音がする。 漫な頭では、小鳥たちがどうやってそれを運ぶのかという問 指先のすばやい運動で打ちこまれたスミレ色の活字が、ぶつ 題までは、考えが及ばない ハゲタカかカモメのエサと勘ちきら棒に並んでいる。 がいしているようだ。 手紙の最後には、。ヘンで・ ードカスターと署名され、 あまどい ハンのごちそうが始まると、小型飛行機が木々や雨樋の格その上の、タイプの部分の三行目の中央に、大文字で打たれ 納庫から飛び立って、バルコニーを襲撃した。降り立った小 たエレン・マリナーという名前がひときわ目立ち、「一緒に 鳥たちは無理からぬ不信感をもってオハラ氏を見つめ、それ連れてゆく」と書かれている。オハラはその名前をじっと見 報 から、オハラ夫人から課せられた難題の処理にとりかかった。つめた。手紙に書かれたその人物のことを、すっと考えてい の 愛 たのである。 一方、緑色の日除けの下に座っているショーン・オハラは、 小鳥たちの難題はすなわち自分の難題だとでもいうように、 テー。フルの電話のベルが鳴り、避難命令さながらに、スズ スズメたちをじっと見つめていた。膝の上には手紙が広げら メたちが一斉に飛び立った。ショーン・オハラは受話器をと 第四部ショーン・オハラ ひぎ
寄られて後すさりし、ひどいことを言われて泣き出したらしやく一言葉を見つけて言った。 「ここへ来るのがいやだと ? 」ドン・アグスティンがびつく 「ど、つした ? ど , っしたんだ ? 」ドン・アグスティンとい , つ、 りして聞き返した。教育のない人間が刑務所へ入れるのは特 いちばん大物の党員が叫んだ。すこぶる過激な大物党員で、権なんだぞ、とでも言いたそうな口ぶりだ。 水色の大きな目がいまにも飛び出しそうで、ロから耳へかけ シーが一一 = ロった。 「だと思 , つね」とドン て、ざっくりとした傷跡がある。 「ここへ来るのがいやだって ? 」ドン・アグスティンはまっ たく一一 = ロじられんとい , つよ , つにどなった。 「娘さん、どうしたんだ ? 」別の男が、やさしく慰めるよう に一一 = ロった。「かわいそ , つに ! さあ、さあ、 いい子だ、位く 女はまたわっと泣き出して、滝のような涙を流した。おか んじゃないよ ! 」 げで、ドン 、こ。年、か ) の・ ーシーはすこし気持ちが落ち着しオ ろうばい シーはびつくりした、と一一 = ロったくらいでは、その狼狽人間が自分と同じ過ちを犯して、いまいましい女の目と口に、 あらし ぶりを充分に伝えたことにはならない。彼は困惑の極にあっ またまたわけのわからん嵐を起こさせたのだ。 た。ゆでだこみたいに真っ赤になって、目をばちくりさせて 「われわれを危険人物と思ってるんだ ! 」パー シーは顔じゅ 女を見つめていた。大失態をして我を忘れた男の姿だ。根が う真っ赤にして、首まで真っ赤にして、言った。そして、ざ ばうぜん 生えたみたいに突っ立ったまま、泣きじゃくる女を呆然と見わめく一同にむかって、いたずらつばく笑いかけた。 つめていた。すさまじい涙の発作につづいて、すさまじい笑「おれたちを危険人物と思ってるだと ! 」ドン・アグスティ いの発作が起きてくれないかと、祈っているかのようだ。理ンがすっかり興奮してわめいた。「そんなことあり得ん ! 」 屈に合わないという点では、涙も笑いも大差ない。 女は同志 「いや、あり等る ! 」ハ シーが一一一口った。 たちの誤解を招くようなことをしてくれた。だからこんどは、 「しかし、信じられん ! おれたちは危険人物だと、彼女が その誤解をといてくれてもいいではないかというわけだ。あ言ったのか ? 」 り得ないことではない。 この自然児のような女には、きっと、 「いや、言ってはいない」とハ シーは認めた。「おれの記 報詩的正義のようなものが備わっているにちがいない ! その憶では、言ってはいない」 詩的正義が姿を現わし、すべての誤解がとけてくれるときを、 「一一一一日つは一丁、ない ! 」 2 彼はひたすら待った。 「一一 = ロうはすないさ ! 」ラモンという、若いカタロニア人のコ シーはよ , っ 「ここへ来るのが、いやなんじゃないかな」 / ー ミュニストが言った。派手なシャツを着て、びかびかの靴を
ルイス 410 「ほんとにすてきだわ」 「これ以外は、何も変わってないわ ! 」アグネスは馬鹿笑い 「いくらだか当ててみてよ ! 」 を発しながら大きな事務机を指さした。「どお、すてきでし 「わからないわ」 「ええ、すてきょ ! はんとにすてきだわ、アグネス ! そ「六ポンド十シリングよ ! 」彼女はまた馬鹿笑いを発し、か れに、とっても役に立ちそうだわ。誰かからのプレゼンん高い笑いが部屋じゅうに響き渡った。「ね、悪くないでし よ ? ・ 「アグネス・アイアンズからのプレゼントよ ! 」アグネスが 「すてきだわ」 「ゴルフの賞金で買ったのよ。五ポンド以上ももらったわ」 部屋に現われてからもう五分か十分経ったけれど、彼女はま 「まあ、ほんとに ! プロゴルファーになればいいのに。き だ何か言うたびに丐鹿笑いを発した。面白い冗談だろうがっ っとお金持ちになれるわ」 まらん冗談だろうが、この世はとにかく楽しくなくちゃいけ アグネスは頭を振った。 ない、物事はすべて楽しい面を見るよう努めなくちゃいけな 「そうね。だいぶ儲けさせてもらったわ。田舎のクラ。フだか といった信念に基づいているかのように、馬鹿笑いはさ プロ・アマ らにつづいた。 ら大したことはないけどね。オープントーナメント ( を問わす誰 彼女はゴルフの姿勢みたいに、脚を開いて立ったまま、し きる大て ) があったの。その賞金で五ポンド五シリングもらっ やっくりの発作に襲われたみたいに腹をかかえて笑っている。て、賭け試合で五十三シリング儲けたの。ね、悪くないでし よ ? しめて約八ポンド、ばかにしたもんじゃないわ ! 」 楽しそうな目は、遠くのバンカーを見つめるみたいに細めら 「ほんとにす・ ) こいわ」 れ、自分のプレゼントをじいっと見つめ、歯はすっかりむき こつけい 「それで彼女は、『机を買ったらどうかしら』って考えて、 出しだ。この世でいちばん滑稽なものが部屋にいて、ほんと はユーモア好きであるイギリス人を、休む間もなく笑わせてお誂え向きのが見つかったってわけ。ずっと前からこういう いるのだと、誰もが思ったことだろう。マーゴが声をかけなのが欲しかったの。ほんとに、こういう机って必要なのよね」 「もちろん必要よ。ほんとにすてきな木だわ」マーゴは机を かったら、アグネス・アイアンズはいつまでも笑いつづけて なでながら言った。 いたにちがいない こっとう 「すてきでしょ ? ね、骨董家具みたいでしょ , 「ずいぶん高かったんでしようね、アグネス」 いちだんとものすごい馬鹿笑いが彼女の全身を揺さぶった。 「気に入った ? 」 あつら も、つ
うた。一度、彼がチョコレートをめぐんでやると、老婆はす家の威信の問題にすぎないのだと、スペイン政府は考えてい る。要するに、たとえこの悪党どもが釈放されなくても、そ くにつばを吐きかけた。 シーが思うのは、もちろんもれ自体はたいした問題ではないのだ。スペイン政府の考えが 監獄に戻ってよかったとバー ス っとも静かなときか、ほんとに元気な気分のときに限られた。そういうものだということは、もう何度も証明されてきた。 うつじようたい いまさらどうなるものでもない。連中は絶望的なはど何もわ 一日の大半はひどい鬱状態にあった。朝から晩まできびし レし。しかない。そんなことは無理かっていない。現在の大英帝国の事実上の支配者である、 く人生を見つめているわナこよ、 な注文だ。しかし、見通しが悪くなるにしたがって彼は逆に「左翼勢力」と呼ばれるあの漠然とした絶大なる力も、スペ 元気が出てきた。マドリードの当局が態度を硬化させているインのばんくらどもには何の意味もない。連中はたぶん、労 がんめいころう 頑迷固陋な夢想家ど 働党と左翼勢力を混同しているのだ , のだろうということはすぐにわかった。 もちろん、ただちに彼を釈放するようスペイン政府に働きもの知恵遅れの頭には、話し合いの相手さえわからないのだ。 かける努力は続けられるだろう。そのうちきっと、彼を釈放自分が住んでいる現実世界・ーー法の世界の対極にある現実世 する適当な口実が見つかるはすだ。しかし、彼が悲観的にな界・・ーーのことがまったくわからないのだ。 ーしかーし、パ シーは同じ過ちを犯すつもりはない。自分は っていたことも事実だ。彼は英国国王陛下の政府の影響力を 過大視してはいなかった。悪名高きコミュニストの問題となスペインにいるのであり、頑迷固陋な政治家どももまた現実 しか、も こういうである。現実は現実として見つめなくてはならない れば、公使館や領事館はますます当てにならない。 ことはもう何度も起きていることであり、スペイン共和国政今回は、冶安警備兵が即死している。見通しが暗いというこ 府としては、たぶんこう考えているにちがいない。モスクワとはわかっている。こちらの言いぶんを述べる機会だってい 以外では何の社会的地位もないこういう連中のことを、英国っ持てるかわからない。一年以内に裁判が開かれれば幸運な 毟観的にならざる 国王が本気で心配するはすはないし、結局この連中は、イギほうだろう。そういうわけでパーシーは、 ふぐたいてん 丿スにとっても不倶戴天の敵なのだ。コミンテルンは英国国を得なかった。そして、自分が逮捕されたいきさつを思い出 王にたいしても、ロシア皇帝と同じ運命を通告した。そのコすと、生まれてはじめてといっていいくらいに意気消沈し、 ミンテルンの手先どもをイギリス政府が守ってやるというの渋い顔でばんやりと壁を見つめた。真実の男は、自分を甘や かすようなことはしないのである。彼はその高潔なる知性に は、そもそもばかげた話なのだ , ードカスターを解剖することを楽しん 威張りくさったイギリスの役人どもにとっては、これは国よって、
ルイス 522 に成りゆきを見守った。 しかしマーゴは、密輸団のワルどもの特別製の車をまだ見 「ほかの・も ) 開け・てみたほつがししオ」 つめていた。捕獲されたサメの死骸みたいに大口を開け、す 彼は密輸団の車の秘密の倉から、つぎつぎに箱を引っ張り つかり正体を暴かれた、大きな鳩グレーの殺人車を、ばかみ 出してはこじ開けたが、一箱残らすレンガしか入っていなか こ、ににやにや笑いながら見つめていた。それはヴィクター の信用まで失ってしまった。あまりのばかばかしさに、彼女 じちょ、つ からせき 「ごらんの通りだ ! 」彼は自嘲気味に、空咳みたいなかん高はとうとうげらげらと笑い出した。遠慮なく大声で笑い出し ードカスターの野郎が、 い笑い声をあげながら言った。「ハ た。二重底付きの車、しかし、中身は包装紙とレンガだけな レンガといっしょにおれたちを捨てたんだ。そしておれたちのだ ! 彼女は笑いつづけた。考えれば考えるほどおかしか は、治安警備兵を殺しちまったんだ ! 」 った。彼女はげらげらと笑いつづけた。 めいせき 彼女はちらっと彼を見たが何も言わなかった。彼女は明晰 な頭がこわかった。六フィートの美男子のいつもに似合わぬ 第八章 明晰な頭がこわかった。理由はちがうけれど、ちょうど闘牛 士が、冷静に前方を見つめる牛を恐れるみたいに、彼女はそ ードカスターは身の程をわきまえている。観 の明晰な頭を恐れた。 念的な正義などといった幻想が、筋金入りの斜に構えた彼の ードカスターは知らないと思うわ」と彼女は言った。 人生観を乱すようなことはない。彼は「正々堂々と戦った」。 「 , 知らない ? 」 いつものフェアプレーの精神に従って、真の「スポーツマ 「ええ、知らないと思うわ」 ン」として戦った。だから、すくなくとも自分のことに関し 「どっちだって同じこった」 ては、不当な扱いを受けているなどと嘆いたりはしなかった。 彼はレンガを吐き出して大口を開けている、ウソだらけの試合の結果 = ーーもちろん、生と死をかけた試合の結果ーー・を、 い一ぎよ 車にぶいと背を向けた。そして、羊飼いの小屋が見える、ま自分の政治的信念のために潔く受け入れた。もっといい加 すます恐ろしい感じを増してきた峡谷のほうを、いつもの自減な人間なら、もっと「幸福な戦士」になれたにちがいない 信が影をひそめた目で見つめた。雷鳴がひときわ激しくとど しかし、新たな試練は、彼の信念をさらに鍛える結果となっ ろき、彼の目が不安そうにゆがんだ。 たようだ。彼の高潔な精神は、新たな試練に会うたびに、ま 「たぶんあれが、地図に書いてある道だ」と彼は言った。 すます強固なものとなった。彼はますますきびしい目で人生
る野蛮に耐えなくてはならない彳 皮女は怒れる殉教者として「大丈夫、誰も殺されてないわ。ちょっと事故があったの」 ノブレス・オプ リージュ まつばづえ の自分を強く意識し、「貴人としての義務」を激しく感じな 「やつばり ! で、これは何だい ? 」ハ ーシーの松葉杖をと がら、コミュニスト仲間の女友達に慰めてもらおうと家を出りあげながら彼はきいた。 ス イ オいまや彼女の胸中は、自分が救わなければならない階級 「こんどは何を見つけたの ? ああ、それ ? にたいする階級的憎悪で煮えくり返っていた。 ードカスターの松葉杖よ」 「彼が来てたのか ? 」 第三章 「ええ、もちろん来てたわ ! 頭から落ちてきたのよ ! 」 「頭から ! 」トリスティはびつくりして彼女を見つめた。新 夜中に家に戻ると、トリスティが戸口で彼女を迎えた。表たな心配がむらむらと頭をもたげた。 の部屋で階段の足音を聞いてとんできたのだ。 , 彼女の身を心 「そうよ。ドライエリアの階段から落ちたの」 配して待ちわびていた様子だ。 「なんだって ! それで、怪我をしたのか ? 」 「無事だったか、ジル ! 」彼女の姿を見るなり彼は叫んだ。 「重傷よ」 「もちろん無事よ ! あなたは ? 」 「いき ( どこにいるんた ? 」 「一体何があったんだ ? 」彼女を中へ入れながら彼はきいた。「病院よ」 ーシーの血だらけの顔をふいた血だらけのタオルが椅子「病院 ? そんなに重傷なのか ? 」 の背にかかっている。トリスティはそれをとりあげた。 「ひどく動揺してるわ。でも、命に別条はないわ」 「部屋に入るなり目に入ったのがこいつだ」と彼は説明した。 トリスティは彼女の言うことがよく理解できないみたいに、 「それからこのありさまだ」 じっと彼女を見つめた。こんなふうにのんきに言われると、 彼は床を指さした。ドアの近くに、惨劇を告げる大きな血趣味の悪い冗談を聞かされてるみたいで、とてもほんとのこ 痕が残っている。ジリアンは事件の痕跡をきれいに始末してとだとは思えない。彼は長髪に指をからませてさかんにしご いくつもりだったが、最後になって忘れてしまった。 興奮したり困ったりしたときのいつものくせだ。ジリ ほおせつぶん 彼女は笑いながら彼の肩に手をまわし、頬に接吻した。 アンは彼を見ながら、なんてハンサムで善良な青年なんだろ , っと田 5 った。パ 「わたしが殺されたと思ったの ? 」 ードカスターのことをこんなに心 「何が何だかわからんよ」 配している彼を見て驚くと同時に、無性に腹が立った。
417 愛の報い マーゴは気を取り直した。彼女はやっとの思いでほほえみうこの話はやめましょ ! でもね、マーゴ、ひとつだけ気に ひどく陰気な笑いだーー、そして、水色のすこしこわい目なることがあるのよ」 で、弱々しくアグネスを見つめた。こういうときのアグネス「何かしら、アグネス ? 」 はほんとに手に負えないと思うし、おかげで、あとで必ずひ「ニセモノの絵を描くなんて、いけないことじゃないの ? あとで大変なことにならないの ? それに、 いくら外国人だ どい頭痛と耳鳴りに悩まされる。 「わたしはあんまり愛国者じゃないわ」最初は弱々しい声で、って、まだ生きてる人の絵なんでしょ ? 」 マーゴは突っ張った額の皮膚ーーー真ん中分けした、古金色 だんだん元気な声になりながらマーゴは言った。「ねえ、ア 苦しそ グネス、誰が芸術家で誰が芸術家じゃないなんてことは、どのまっすぐな髪の毛みたいに突っ張っているー・丨ーに、 , つで 7 も、 しいことじゃよ、 うにしわを寄せながらうなずいた。 オしかし、ら」 「もちろんいけないことよ、その通りよ。だから、ヴィクタ 「そうね、わたしもそう思うわ。あなたの一 = ロう通りだわ」 ーはすごくイヤがってるわ」 「でも、わたしがあなたのことを我慢してるっていう話なら、 どうしてあなたがわたしなんかに我慢できるのか、それこそ「でも、ほんとにマーゴ、見つかったら大変なことにならな わからないわ」 「あなたって、ほんとにやさしい人ね ! 」 「大丈夫だってヴィクターは言ってるわ」 「わたしはぜったい大変なことになると思うわ」 「たぶんわたしは、大英帝国の女じゃないのよ。きっとコス 「どうなったって構わないってヴィクターは言ってるわ」 モポリタンなのよ」 「まあ、ご立派なこと ! それであなたはどうなるの ? 」 「大英帝国の女 ! まあ、マーゴったら、すいぶんな言いか 「でも、見つかることはないと思うわ、アグネス。そんなこ たね ! 」 とにはならないと思うわ」 「あら、そう ? そうね、言いかたが悪かったわね。でも、 「どうしてそんなことにはならないの ? 」 とにかくわたしは、あなたほど英国海軍びいきじゃないわ」 「だって、いろんな人がやってるんですもの。この仕事には、 喉を詰まらせながらマーゴは言った。 トリストラム・フィップスも関係してるのよ」 英国産の。フルドッグが吠えるみたいな陽気な声がこれに答 えた。 アグネスはあらためて好奇心を示した。トリストラムとい 「わかったわ、いまのは聞かなかったことにしましょ ! う名前が彼女を刺激したようだ。 のど
433 愛の報い ころだな。きみはどう思ってるんだ、、、 ウイク ? 」 ばりときいた。 「おれはどう田 5 ってる ? もちろん、これで充分だと思って 「いや、なんでもない。アバショーの奥さんの、エリザベス る」 の。フローチのことさ」 う ) んく」 フローチの話をす「ほんとに ? スタンプは胡散臭そうに鼻を鳴らした。。 るのに、なぜこそこそ隠れなくちゃならんのだ。しばらく沈「フレディにも、完成したって言っただろ。おれにとっては 完成したんだ。すっかり完成したんだ」 黙があり、そのあいだもトリスティはじっと絵を見つめてい トリスティは何も言わすに、両手を固く握りしめ、目をば た。それからトリスティが口を開いたが、それは、待ちうけ ちくりさせながら、 ( まるで、絵の監視を頼まれたので責任 ていたスタンプの耳にひどく不央に響く内容のものだった。 「ヴィク、この絵はほんとに完成したと思ってるのか ? 」授を果たさなければならないとでもいうように ) じっと絵を見 あんしよう 業で暗誦の練習をさせられているすなおな小学生みたいなつめていた。 調子で、トリスティはきいた。ただし、その暗誦はひどく大「トリスティ、あのごろっき野郎どもがあんたを呼び出して、 おれにもっと佃ノ、よ , つに一一 = ロ , んって一一一一口ったのか ? 」いまいまし 変そうだし、その事実を隠そうともしていない そうにスタンプが一言った。「そういうことなのか ? 」 「どういう意味だ ? 」とスタンプがきいた。 「いや、ばくもこの絵は、ほんとにもう一日か二日かければ、 「これで全部終わりなのかという意味さ」 「ああ、全部終わりだ。これ以上何をしろってんだ ? 」スタすっとよくなると思うんだ。そう思わないか ? 」 「思わんね」乱暴な調子でスタンプは言った。「フレディは ンプは怒りを抑えた調子できいた。 「さあね。きみがゴッホだったらどうするか、という問題だ自分で言えないからあんたに言わせたんだ。ほんとは自分の ロで言いたかったんだ。おれにはちゃんとわかってる。あい ろうね」疲れたような声でトリスティは答えた。 「あんたはどう思ってるんだ、トリスティ ? ゴッホならまつには自分で一言う勇気がないんだ。はっきり言ってくれりや、 おれだって言いたいことがあったんだ ! そうすりや、はっ だやめないと思うのか ? 」 トリスティはためらった。団体精神と友情が心の中で葛藤きり言ってやったんだ ! 」 トリスティは答えなかった。困った顔をして床を見つめて し、結局団体精神が勝った。 「そうだね、もうすこしつづけたほうがいいかもしれないな、 「おれはなにも、こいつが一級品の贋作だとかなんとか言っ ヴィク。ど , つかな ? ま、よくわからんけど、むすかしいと かっと・つ