リポンは、マーク夫人が考えていたより厄介な代物である洗礼式には出て来るだろうし、研究に夢中のポールは時間の ことなど忘れていてやって来ないだろう、来るとしても遅刻 ことが判った。もちろん天候のせいもある。上端だけにとり しゆす つけられていた繻子のリポンは、華やかに風に吹き流され、するだろうと思った。ドーラはトビーを探し求めて、仕事か ク むち はためき、鞭のような音を立ててぶつかりあうので、鐘は花ら眼を離してばかりいたし、マーク夫人はマーク夫人で、司 嫁というよりもメイ・ポールみたいに見えた。しかし手に負教が来はしないかと見てばかりいるので、仕事は一向はかど マ ゅうべ らない えなかったリポンも、マーク夫人が昨夜、鉛筆でつけておい た小さな十字のしるしの通りにすこしずつ絹地に縫いつけら仕事中も、マーク夫人はドーラに話しかけていた。ドーラ れてゆくたが、 。ゞ、そのあとでも、はためいている輪が風の力は、あまり耳を傾けていなかったが、間もなく、自分が非難 を受けやすいので、ざっと縫いつけた個所ーーー特にドーラのされているのだと気がついた。マーク夫人は、これは自分の やった個所ーー は、何度も吹きちぎられてしまった。ジェイ意見だがと言ったり、他人から聞いた話だがと断ったりしな うまや ムズが、手押車を厩の中庭に入れたらどうだろう、あそこな がら、いろいろとお説教をはじめた。はじめはかなり遠まわ らそんなに風が来ないから、と言ったが、マーク夫人はすっ しな言葉づかいだったが、だんだん露骨になってくる。ほか かりあわてていて、いっ司教が現れないものでもないと考えの場合だったら、ドーラは憤慨したろう。しかし今は、予一言 ていたので、このまま段庭の上の人目につくところに置きた者としての役割の責任の重さに夢中だったし、自分は潔白だ いと答える。 という気があるので、聞き流している。なるほどトビーに抱 不安のため、普段よりいっそう無器用になっているドーラ擁を許しはした。しかしその抱擁というのは、大計画の添え は、あるリポンで困り切っていた。不注意に、よじれたままもののようなものにすぎない。そして、若い男を追いまわし 縫いつけてしまったので、もう一度すっかり糸をほどかねばているとマーク夫人がほのめかすのを聞いたとき、ドーラは、 ならぬ。彼女の汗ばんだ手のなかで、リポンはすこしずっ黒自分はもっと高潔な仕事をしているのに、不当に非難されて ずんできた。トビーに宛てた手紙は、まだポケットのなかに いると思った。いかにも貞淑な女らしく憤慨したドーラは、 ある。トビーがどこにいるか判れば、なんとかマーク夫人に マーク夫人が何とかして道徳的な教訓を述べようと、無器用 言いわけをして、ちょっと行って渡すつもりだったが、こんに、まわりくどくしゃべるのに、ほとんど耳をかさなかった。 な騒ぎの最中では、彼の居所など誰も知らないようだし、そ「こんなこと申しあげても、気になさらないでね」とマーク れに彼はちっとも姿を現さない ドーラは、トビーはきっと夫人は一言う。「結局、あたしたちはここでお祭り騒ぎをして
593 鐘 「もちろんこれは正式の会堂じゃありません」とマーク夫人「計算してるんです」とマーク夫人が言う。彼女が夫をちょ っとのあいだ、好奇心のこもった目つきで見まもる様子は、 は、声をひそめはしないで言う。「つまり献堂式をしていな ドーラには、優しさが欠けていると思われた。マーク夫人は いから。でも、普段のちょっとした勤行はここでいたします。 たた 窓をこっこっと叩きもしないで引き返し、「さあ、僧院へ行 ミサのときには僧院のほうの会堂に参ります。それに他の礼 拝のときも、希望者は参列できますけれど。ここでは、日曜って、ポールのところを訪ねましよう」 だれ マーク夫人が夫を眺める様子や、色の褪せた娘つばい夏服 の朝の特別な礼拝がおこなわれて、会員の誰かのお話がある を着て、がっしりとした体つきで汗をかいているのを見て、 のよ」 ドーラはこの人に対し、初めて、ほんのちょっぴり好意と興 二人は別のドアから出て、すぐに、敷石が敷いてある玄関 に出た。マーク夫人は社交室のドアをあけた。明るいワニス味を感じ、「あなた方お二人は、ここへいらっしやる前、何 塗りの腕木がついている、現代ふうの布張りの椅子が、ささをしておいででしたの ? 」と訊いた。このことを思いついた やかな円形に並べてある。それはどう見ても、黒ずんだ羽目とき、そう訊かすにはいられなかったのだ。 「ねえ、あたしのことを、きっと、おもしろみのないお馬鹿 板とは、不調和である。 「本式に家具を備えつけたのはこの部屋だけね」とマーク夫さんだとお思いになるでしようけれど」とマーク夫人は言っ た。「でも、ここでは以前の暮しのことには触れないことに 人は言った。「気晴らしの時間にはみんなここに来て、ゆっ なっています。これも、守らなければならない、ちょっとし くりとくつろぎます。樫の羽目板は、もちろん、一兀からのも た信仰上の規則なの。ゴシップは禁物ってわけね。みんなが のじゃありません。十九世紀の末にここが喫煙室に使われた 他人の生活について質問するとき、それは本当にきれいな動 とき、張ったんですって」 機からかしら ? あたしだったら、决してそうじゃな、 二人は露台に出て、右手の石の階段を降りはじめた。 「あれが事務室」とマーク夫人は言って、角にある大きな部はじめは単なる好奇心でも、すぐに意地わるに変ってしまい ます。お判りになるわね。ここの段々にお気をつけになって。 屋の窓を指さす。「夫がなかで働いているのが見えますわ」 彼女らは窓の一つに近づき、明るい部屋のなかを見た。テ草がばうばうですから」 もみ 二人は段庭の僧院のほうの側まで歩いてゆき、乾き切った ープルと塗ってない樅材の戸棚がある。たくさんの書類が、 長く伸びた草に悩まされながら、石の段々を下ってゆく。 みんなきちんと積んであるらしい。マーク・ストラフォード こみち 段々は堤道へ通じる小径に達している。ドーラは汗をかき、 がテー。フルの一つに向って、頭を垂れている。
いた。露台のへんである。ドーラは探すのをあきらめて、とグリーンフィールド夫人のお知りあいだから。めいめい懐中 電燈を持って。そのあいだに、マーク夫人は紹介をなすって ばとば段庭を戻ってゆく。石が足に痛かった。 灯りのともっている部屋は、一対の大きなガラスのダブ下さい」と言った。 「ばくもゆこ , つ」とポールが一一 = ロ , つ。 ' 伐が妻がなくしたものは ル・ドアを通って、右手の露台にまっすぐに通じている。ダ 。フル・ドアはまるで、階下で活躍したのと同じ芸術破壊者が何でもみつけ出せると信じていることを、ドーラは知ってい こ。ほかの二人ではなくて、夫が靴をみつけてくれればいし 最近はめこんだばかりのように見えた。その明るい部屋に大 勢の人が集まっているのが、ドーラには見える。彼女はためと彼女は思った。そうすれば、機嫌がよくなるだろう。 ドーラは、泥まみれのやぶけたストッキングをはいている、 らいはしなかったけれども、まごっいてつまづき、つまづき 濡れていて冷たい脚をぶらぶらさせながら、相変らず自分の ながら眼を覆った。 目にいる馴染みのある顔、つまりマーク夫人の顔をみつめて 誰かが腕をつかまえて、部屋のなかへ入れてくれた。それ蔔 いた。そしてドーラは、蔔 目に立っている大勢の人にみつめら はマーク夫人で、「かわいそうに。おどかして追い出すつも りはなかったのよ。ごめんなさい、 ドーラ。庭で迷いはしなれている。ドーラには彼らを見る勇気はなかった。でも今は かったでしようね」 何もかも恐しくて、他人が何を見ているのか、何を考えてい 「ええ、でも靴をなくしましたの」ドーラは言った。足はもるかは、ほとんど気にならない 「あたしたちの仲間に御紹介しなければ」とマーク夫人は言 うすっかり冷えて、濡れている。彼女は本能的に前へ進み、 っこ。「トビーはも , っす・んだのよ」 テープルの端に腰かけた。みんながまわりに集まって来た。 ドーラはマーク夫人を眺めつづけ、化粧をしていない薔薇 「靴をなくした ? 」とポールは不満そうな声で言いながら近 づいて来て、ドーラの前に立った。 いろの顔が、きらきら光っていて生毛が多い感じになってい 「石段の近くのへんで、蹴るようにしてぬいだの。小径のとること、編んだ金髪はほどいたらすいぶん長いにちがいない かいきん ことに注意していた。マーク夫人は青い開衿シャツを着てい ころです」とドーラは言った。「でも、みつからなかった て、茶いろい木綿のスカートをはいている。脚は毛深くて、 の。」この説明がすこぶる簡単なことは、奇妙なことだが、 ズックのスリッパをはいている。 鐘彼女の気持をほっとさせた。 ジェイムズ・テイバー 。ヘイスが近づいて来て、「捜索隊「こちらはピーター・トプグラス」とミセス・マークは言っ を一山山しきしょ , っ , ばくとトビーの二人で。ばくたちはもう、 た。眼鏡をかけている、せいの高い禿げ頭の男が、体をゆら
マドック 774 キャサリン、それにトビーがあわてて出て来た。汽車はうな 「そう。じやさようなら」とポールが言った。「キッスする り声をあげて駅にはいって来た。 なんて茶番じみたことはごめんだからな」 ポールは、前のほうに近くて、機関車に向いあっている、 「まあ、ポール、そんなひどいことってないわ」とドーラが 隅の席がある一等の車室の、空いているのを見つけようとし言った。涙が頬をつたって流れた。「いらっしやる前に何か 一て、一生けんめいだった。マーク夫人がキャサリンを急がせ優しいことをおっしやって」 てプラットフォームに直行させる。それにはシスター・アー ポールは冷い眼で彼女を見て、「うん。君はいま困ってい シュラが付き添った。マークとトビーは出札口に行った。マるもんだから、ばくに慰めてもらいたがってる。だが去年の ーク夫人はドーラを見て、キャサリンを正反対の方向に誘導三月、ばくが家に帰って、君が逃げてしまったと知ったとき、 して行った。マークは妻についてゆき、数枚の切符を渡した。誰も慰めてくれる者はいなかったんだぜ。そうだろう。よく トビーが姿を現し、ドーラを見て顔をそむけ、気乗りのしな考えてみたまえ。いや、ばくの体に触ったって駄目さ。今の しやりよう い様子で手を振り、それから一人で一番ちかい車輛に乗りばくは君に何の性的な魅力も感じてやしないからね。ときど こんだ。マーク夫妻はキャサリンにちょ , つどよい席をしばらき、これからさきも感じることがあるかなあと思 , っことがあ く探していたが、見つかったので、マーク夫人がキャサリンるよ」 を押し入れ、自分も乗り込んだ。彼らはドアを閉めた。シス 「ドアを全部閉めて下さい」と。ハディントンにこれまで一度 ター・アーシュラがプラットフォームに立って窓ごしにほほ しか行ったことのない赤帽が叫んだ。 えみながら彼らに話しかけていた。マークがトビーを探しに マークは踏み板から足をはずすとドアを閉めた。そしてト やって来て、見つけ、ドアをすこしあけて、片足を踏み板にビーこ、 しいま話したことを大声で笑いながら立っていた。 かけて話をしていた。 「ごめんなさい、ポール」とドーラが一言った。 ポールは荷物をしまいこみ、窓をあけるとそこにもたれて 「それつばっちのことですむと思っているのか ? 」とポール ドーラに顰め面をした。彼は言った。「あした三時ごろナイ が言った。「真剣に考えろと言いたいよ。君にそれができれ ップリッジに来てもらおう。そこで待ってるよ」 ばの話だがね。」彼は紙入れのなかを探っていたが、 「判りました」とドーラが一言った。 ここに君が考える材料がある。ロンドンで返してくれ。いっ 「荷物のことで言いつけたこと、みんな判ってるね ? 」 もばくが持ち歩いているものだから」と言って、彼女に封筒 「ええ」 を渡した。笛が鳴り、汽車は動きはじめた。
たず いで泣き出しそうになりながら言った。 いっか機嫌がいいときに、神を信じているかどうか、ぜひ訊 「ハンカチでいいのよ」とマーク夫人はささやいて、励ます ねてみよう。あたしがこのことを知らないのは、おかしな話 だもの。 ように微笑する。 ドーラはポケットのなかを探し、あまりきれいでない小さ ドーラはとっぜん、前の列にいる修道女が振り向いて自分 つま なハンカチをみつけて、頭にのせた。マーク夫人は爪さき立 を見ていることに気がついた。その尼はかなり若くて、大柄 ちで帰ってゆき、尼はもういちど振り向いて満足そうにした。 な顔は薔薇いろだし、きびしくて熱心な目つきをしている。 ドーラは激しく顔を赤らめて、前をみつめる。ポールの表 礼拝をしているまわりの人々とはすっかりかけ離れた態度で ( こういうことは礼拝が職業の人にはよく見かけられる ) 、す情が変ったのは判るが、わざと彼のはうを見ないでいる。彼 こしのあいだドーラを、ほほえみは浮べずにただじろじろと女は前にある椅子の背を握りしめた。ラテン語の呟きは終り ドーラは、スカートが そ , つにない 我慢ができないほど窮屈 見ている。それから向き直って、すぐ後ろにひざまづいてい るマーク夫人に、肩ごしに何かささやく。マーク夫人も身をで、ストッキングに伝線病がゆっくりとひろがってゆくのを / イヒールでひざまづいている ねじるようにしてドーラを見た。ドーラはびつくりして、顔意識している。脚が痛いし、、 がほてった。彼女らの視線には、絶対にこうしなければならことの辛さがとっぜん意識される。彼女は部屋のなかを、狂 ったように見まわしはじめた。それは礼拝堂のようには見え ぬというような、冷静で厚かましい感じがある。ドーラは、 第一つけい なかった。それは、半ば不吉で半ば滑稽な異端の信仰をかく マーク夫人が立ちあがって、いくつかの椅子をそっとまわり、 あわ 背後から自分の肩によりかかるようにするのを、今まで一度まっている、みじめで憐れな、見捨てられた応接間にすぎな ドーラは急を深く吸いこみ、立ちあがった。馬鹿ばかし も相手から逃げおおせたことがない者が味わうあきらめの気 ハンカチを頭からすばやく取り、そっと戸口へ歩み寄って、 持で、見まもっていた。ドーラは身をねじって、マーク夫人 部屋の外に出た。 にささやかれる言葉を聞きとろうとした。 見おばえのない回廊にいることに気がついたが、ドアを一 その声は思ったよりずつ 「何ですの ? 」ドーラは言ったが、 っ二つ押してみたあとで、石敷きの広間へ戻る道を見つけた。 と大きな声になった。 鐘「シスター・アーシュラが、頭を覆っていただきたいと申しその広間は露台に通じているのである。追いかけて来る足音 はないかと耳を澄ませても、そんな物音はちっとも聞えない 「てますのよ。ここではそういうことになってますから」 「何も持ってません ! 」とドーラは、当惑と腹立たしさのせ広間はたいそう広くて、装飾はない。花も絵もない。彫刻し
「どうも、きれいな建物じゃないわね」とマーク夫人は言っ 「ええ。ベネディクト会にはいるときは、定住誓願の誓いを 立てますから。つまり最初の誓いをたてた建物のなかに、一て、「これは、尼さんたちが外部から来た人々と話をしに来 生いるということ。亡くなれば、尼さんの墓地に埋葬されまる客間なのよ。橋のところには来訪者の会堂があって、あた したちも僧院の信仰生活に加わることができます。尼さんた ちの会堂は、壁のあちら側の大きな建物。木の間がくれに、 「まあ、そっとする話 ! 」 「静かに」とマーク夫人は小さな声で言った。二人は堤道の瓦ぶきの屋根がちょっと見えますでしよう」 二人は煉瓦の建物の端にある緑いろの扉からはいった。長 山而に岦した。 いくつものドアが ドーラには今、湖からすぐのところに聳え立っているようい廊下がつづいている。そして廊下には、 に見えた高い壁が、実は水際から五十ャード以上引込んでい並んでいた。 「客間を一つ、お目にかけましようね」とマーク夫人は、今 るのだということが判った。小石でざっと舗装した小径が、 湖の岸から二本、通っている。一つは僧院の壁に沿って左手度はほとんど囁くようにして言う。「まだ御主人の邪魔をし たくありませんもの。あっちの端にいらっしやるのよ」 一つは大きな門のほうへ。その巨大な木の扉はしつかり 二人は最初のドアからはいった。と、ドーラは小さな四角 と閉ざされていた。 「この扉は」とマーク夫人は言って門を指さし、依然としてい部屋のなかにいた。その部屋は椅子が二つのほか、ほんと うに何もない部屋で、床にはリノリュウムがつやつや光って 小声で話をする。「聖職志望者の入会のときのほかは、絶対 しゃ にあかないのよ。かならず朝早くおこなうというきまりの儀いる。椅子は、向う側の壁の上半分を蔽う、大きな白い紗の 式ですの。なかなか印象的なのよ。そうね、でも一、二週間カーテンを背にして、片側に引き寄せられている。 マーク夫人は前へ進んで、「部屋のあちら側の半分は尼僧 したらあけられるわけだけれど。新しい鐘が届くとき、この 道を通りますから。鐘が、聖職志望者あっかいされるわけ院の囲みのなかなの。」彼女は紗のカーテンの木の枠を引張 った。するとそれはドアのように開いて、九インチの間隔の ね」 てつごうし 二人は、壁と湖の中間を通っている小径にそって、左に折鉄格子が現れる。格子のすぐ向うにも、もう一枚、紗のカー 鐘れた。ドーラは、平たい屋根のある長い長方形の煉瓦の建物テンがあって、向うの部屋の様子がばんやりと見える。 「ほら」とマーク夫人は言った。「尼さんが向う側でカーテ を見た。それは壁の外に、まるで無用の長物といった感じで ンをあければ、格子越しに話ができるわけです。」彼女はカ くつついている。 かわら ささや おお
ーテンをしめた。これらすべてのものは、ドーラにとっては、 た。「こういう考え方に馴れるのこま段。ゝ し。日カカカるか、もしれ士 せんわね。さあ、ポールのところへゆきましよう。いちばん 信じられないほど無気味に見えた。 ク 「尼さんとお話をなさりたいんじゃないかしら ? 」とマーク端の客間で仕事をしていらっしやるのよ」 夫人は言った。「でも、尼僧院長はきっとおにしくていらっ マーク夫人はノックをして、ドアを開けた。最初の部屋と マ しやると思うわ。ジェイムズやマイクルだって、ときどきしそっくり同じ部屋である。ただ、 大きなテープルが据えてあ かお目にかからないようにしてますのよ。もちろん、マザって、ポールが仕事をしている点が違うだけだ。紗のカーテ ・クレアはあなたにお会いして、ちょっとお話しなさるのンはしめてあった。 を、非常にお喜びになるでしようけど」 ポールとドーラは二人とも喜んだ。夫はテープルから顔を ドーラは驚きと怒りでかっとなった。「尼さんにお話しす上げて、妻をみつめながら微笑した。彼が仕事をしていると ることなんて、何もありませんわ」と彼女は、口調が荒ら荒きの満足そうな様子は、、 しつもドーラにとって、子供つばく らしくならないように努力しながら言った。 てしかも胸を打つものである。彼女は今、彼がこんなに堂々 「あたしはただ、いろんなことについて御相談なさったらい とした様子で仕事をしているのを見て嬉しかったし、すぐに いと思っただけなのよ」とマーク夫人は言う。「尼さんたち彼を誇らしく思い マーク・ストラフォードやその他の退屈 はみな、賢い方ばかりですし、世のなかのことについてよく な男たちよりもはっきりと優れている、卓越した男だと思っ 御存知なのはびつくりするくらいなのよ。それに尼さんたちた。ドーラには、ゆきがかりを忘れて現在の瞬間に生きると は、どんな話を聞いても、決してたじろぎませんから。みん いう能力があって、そのせいで大失敗をするほうがすっと多 なはしよっちゅうここへ来て、脳みごとを聞いていただき、 いけれど、しかし、 別に計算づくではなく相手に親切を尽す、 自分を善良な人間のほうによりぬいていただきますのよ」 ということになる。過去のことを覚えてないから、寛大にな ふくしゅうしん 「相談したい心配事なんてありません」とドーラは言った。れる。復讐心もないし、くよくよ考えもしない女なのだ。 彼女は敵意に燃えていたし、こう答えるときも、身ぶるいし部屋のなかへはいってゆくとき、彼と彼女のあいだには、今 ていたくらいである。尼さんから、あたしの心に干渉されるまで何のわだかまりもなかったようであった。 くらいなら、地獄に行ったほうがまし、と彼女は思った。二 「ばくの調べてる古文書が、ここにすこしあるんだ」とポー 人は廊下へ出た。 ルが低い声で言う。「とても貴重なものでね。持ち出すこと 「もう一度よくお考えになるといいわ」とマーク夫人は言っ はできない。」彼はテー。フルにかがみこんで、数冊の、皮装
毛の束が、 ほぐれながら長い束になって、両肩のあいだに垂ちょっとお天気の話をした。それから、ドーラとマーク夫人 れている。仕事に打ち込んでいるため、ドーラとマーク夫人は通り過ぎてゆく。 がごく近くに来るまで気がっかない。ぶら下っている杏の実「キャサリンは、なかにはいることで興奮しているわね。お の、粉を吹いたような輝きの下で、仰向いている彼女の黒い恵みがあの子にありますように」とマーク夫人は言った。 髪の頭は、ドーラにはスペイン風に見えたし、またしても美「今はあの子にとって、とてもわくわくするときですもの」 しいと感じられた。彼女の、こちらを見ていない顔には、人「よかにはいる ? 」とドーラはたずねた。 「あら、御存知なかったわね」とマーク夫人は言いながら、 なかにいるときと違って、神経質な自己防衛の表情がなかっ ドーラを門のほうに連れてゆく。「キャサリンは尼さんにな たし、もっと強くて威厳のある、そして悲しみをたたえた感 じだった。ドーラはこれを見て、もういちど、奇妙に不吉なる気なのよ。十月に僧院にはいるつもりでいますの」 。尸カら出た。ドーラは網の下の人影をもういちど見 予感を感じた。 二人よ 1 ゝ ようとして振り向いた。たったいま耳にしたニュースは、彼 「こんにちは、キャサリン ! 」とマーク夫人は大声で言った。 あんど おび 「あなたのところへドーラをお連れしましたよ」 女を驚かせ、怯えさせた。一種の奇妙な安堵と、それからも キャサリンは飛びあがってあたりを見廻し、驚きの表情をつと漠然とした苦痛ーーたぶん、まるで自分の内部で何かが あわ 浮べた。なんて神経質なんだろう、とドーラは思った。ドー 破壊されそうな、隣れみと恐布のまじりあった、はなはだ漠 ラがほほえむ。キャサリンも、網越しにほほえみ返した。 然とした苦痛を感じた。 「ひどど、昱いでしょ , つ」とドーラは一 = ロった。 キャサリンは、洗いざらしたせいで色が薄れた、花模様の オープンネックのワンピースを着ている。咽喉は日やけして、 「さあ、時間ですから」とカウンターの向うの男が言った。 茶いろになっているが、顔の青白さは日ざしに抵抗している ドーラは気の毒なことをしたと思って、急いで立ちあがり、 あお ゅうべ ようだ。そのせいで、ドーラが、昨夜見た蒼ざめた顔のまま自分のグラスを戻した。彼女はこの「白いライオン」の、黒 である。彼女はドーラに語りかけながら、日よけ帽をうしろずんだワニスを塗った酒場に残っている、ただ一人の客であ ひも 鐘に押しやった。それは紐でとめられ、肩のところの大きな髪った。彼女は日ざしのなかへ出てゆき、宿屋のドアが自分の うしろで閉ざされて、差し込み錠がかけられる、悲しい音を の束の上に乗っている。彼女は黒いほっれた前髪を額からか 聞いた。二時半である。 きあげ、汗で濡れた茶いろい手をドレスで拭った。彼女らは めぐ
なかには、ドーラが置き忘れるのを見ていた人がいたのであナイップリッジにあるポールのアバートは、最初は眩しい位 る。ただし、日よけの帽子はどこへ行ったのか、ついに判らの感じだったけれど、やがて、まるで美術館のような生気の ないものに見えてきた。しかし、インバーのこの部屋には、 ないのだが。ドーラは、昼食の前に駅へ行って、スーツケー こんせき スを持って来ると約束した。そして、こうしてもらえば、ポポールは自分の痕跡をすこしもとどめていないのである。彼 ールにとっても都合がいい。彼は、仕事に取りかかるため僧の話では、毎日どの部屋も掃除をしなければならぬというこ 院のほうへ立ち去った。マーク夫人はきっと、途中でドーラとだったが、その仕事はいま、任せられたわけだ。掃除用の を彼の所へ連れて来てくれるにちがいない、と彼は言った。プラシが踊り場のところにおいてあるのは、とうに気がつい 今朝はポールは優しかったし、ドーラは、あたしが帰って来ていた。彼女は部屋を入念に掃除した。それからべッド・メ うれ たせいで彼はとても嬉しいのだと、今までよりもはっきりと イキングをして、ポールの衣類を丁寧に始末する。野の花で 気がついてした。彳 、 ' 皮を喜ばせたということを、彼女は非常に丹念に花束をこしらえ、それを浴室から持って来た歯磨用の 単純にそしてごくあっさりと喜んでいた。このことと、日のコップに生けた。なかなかすてきな感じ。部屋を美しくする 光と、そして彼女の不屈の生命力のせいで、ドーラはほとんために、ほかに何かすることはないかしらと彼女は考えてい ど陽気な気分にさえなっていた。彼女は湖の近くの草地で、た。 ドアにノックがあって、マーク夫人がはいって来た。ド 野の花をすこし摘み、それから部屋へ帰ってマーク夫人を待 っている。 ラは飛びあがった。マーク夫人のことなどすっかり忘れてい まわ たのだ。 部屋のなかを見廻していると、こういう限られた空間にも ういちど住むのは楽しいことだ、ちょっと工夫をこらして好「ご免なさいね、お待たせして」とマーク夫人は言う。「用 きなように飾ることができるもの、という感想が浮んだ。飾意はできまして ? 」 ありがと , つ。こギ、い十すことドーラは一一 = ロって、ジャケ り気のない部屋は、ポールと出会う前にロンドンで住んでい ットを取りあげ、肩に羽織る。 た、さまざまの下宿を思い出させ、郷愁のようなものを味わ わせてくれる。ペイズウォーターやピムリコやノッティン 「こんなことを申し上げても、気になさらないでね」とマー 鐘グ・ヒルの、みすばらしい居間兼寝室。ああいう部屋を自分ク夫人は言った。「ここでは、花は飾らないことになってま わず オスすの。」彼女はドーラの花束を、非難の目つきで見ていた。 で、それとも友達に頼んで、ほんの僅かのお金をかけ、。、 ターその他のいろいろな突飛なもので飾るのはとても楽しい 「万事、できるだけ簡素にしておくんですのよ。つまり、厳
ゆらさせながらドーラにお辞儀をした。 シスター・アーシュラはドーラにほほえみかけた。黒っぱ まゆ 「それからこちらが、あたしたちのリーダーのマイクル・ い半円形の眉で、まるで命令を下すような表情をする。ドー とび 。」鳶いろの髪をきちんと分けていない、鼻の長い男が、 ラは、あたしはこの女をあのハンカチの件のせいでぜったい ク ひとみ ぐっと寄り目になっている青い瞳で、くたびれたような、不勘弁しないだろうと思った。 安そうな、微笑を浮べた。 「お目にかかれて嬉しいわ」とシスター・アーシュラは言っ マ 「ひげの人がマーク・ストラフォード。 」髪がばさばさで、 て、「お祈りのときいらっしたわね」 ひげが赤い、すこし皮肉つばい表情の大男が、近寄って来て ドーラは怒りと当惑がいりまじって、顔を赤くし、なんと ドーラにうなづく。消毒剤の臭いがぶんぶんする男だ。 か微笑を浮べた。 「わたしはつまり、ミスター・ミセス・マーク」とマーク 「それからこちらは」とマーク夫人は言う。「キャサリン・ フォーリー ストラフォードが一言った。 あたしたちの小さな聖女。きっと好きになると 「こちらはパッチウェイ。あたしたちの菜園の堅固なる櫓思いますわ、あたしたち同様に。」 ドーラは顔を向けて、長 日約「詩篇」 ) 。」おんばろの帽子をかぶったきたない身なりのい顔の、なかなかの美人を見た。 六十一の三 男が、不機嫌な顔でドーラをみつめた。まるで、何にも属し 「ムフ晩は」とドーラが一一 = ロ , つ。 ていないし、属していないことにも無関心のような感じであ「今晩は」とキャサリン・フォーリ ーが一一一一口った。 る。 この娘は本当はちっとも美人じゃないらしいとドーラは考 「こちらはポプ・ジョイス神父様。あたしたちの聴罪師でい えて、ほっと安心した。娘の顔には何かおすおずした、ゆが まばゅ らっしやる。」ちょうど部屋にはいって来て、僧衣を着てい んだ感じがあって、そのせいで、眩いほどの美しさというわ る聖職者は、ドーラに駈け寄って握手した。顔はふくれてい けにはゆかなくなっている。娘の微笑は暖かい感じだが、ど て、眼は確信ありげに輝いている。ほほえむと、黒ずんだロこかうちとけない。冷たい海のような、灰いろの大きな眼は、 が、埋めてある箇所の多い歯でいつばいであることが判る。 ドーラにみつめられて視線をそらした。ドーラはそれでも、 彼はそれから、鋭い視線でドーラを見た。その目つきはどう この娘が、すこし自分を脅かしていると、漠然と感じた。 も、こちらのうさんくささを見すかすような気がする。 「ゆで卵か何かいかが ? 」とマーク夫人は訊ねた。「六時に 「それからこちらはシスター・アーシュラ。通いの方ですけ肉料理つきのお茶をいただいて、終疇のあとではミルクとビ どね。僧院との連絡係としてたいへん有能なのよ」 スケットだけということになってますのよ。」彼女はサイ やぐら