解説 佐藤朔 スタンダール ってベルリンに入城した二十三歳のスタンダールにとっても、 『赤と黒』という題名 軍服は栄光にみちみちた将来を約束しているように見えたの 『赤と黒』という小説の題名は、謎めいていて、魅力的であにちがいない。 る。この色彩は、何を意味するのか。これについてこれまで 黒衣を着たジュリアン 多くの研究者が、さまざまの解釈をくだしているが、決定的 なものはまだない しかし、スタンダール自身から解釈を聞 一八二七年、若い神学生のジュリアンにとっては、僧衣を いたという友人フォルグの証言が、一番穏当のようだ。 着る身は、栄達を夢見させた。そして一日も早く司教になる 「赤は、 ( 主人公の ) ジュリアンが、もっと早く生まれてい ことを願っていた。ナポレオン没落後、王政復古の時代にな たら、軍人になっただろうということだ。ところが、彼が生って、田舎町の製材所の三男坊ジュリアンとしてみれば、出 きていた時代では、僧衣、つまり黒を着なければならなかっ世するにはまず神学校に入って、司祭になることだった。っ たのだ」 まり黒い僧衣を身にまとうことであった。それより他に手段 がなかったのである。 ジュリアンが崇拝していたナポレオンの頃の軍服が、果た して赤であったかどうか、赤とは軍人が着用している勲章の この頃の僧侶階級には派閥があり、ジェズィット派とジャ せんさく 色ではなかったか、などと今日なお詮索がつづいている。しンセニスト派がはげしい勢力争いをしていた。そのために政 、そうりよ 説かし、どうやら赤は軍人、黒は僧侶のことで、当時の若者た治的な陰謀策略が行なわれ、ジェズィット派の僧侶のなかに は、したたかな悪僧も少なくなかった。だから黒衣を着て出 ちにとっては、どちらも出世の早道、いや唯一の道のように 思われた。ことに貧乏な下層階級の青年たちにはそう見えた世するには、徒党を組んで、自分の出世の妨げとなる人物を たた ようだ。一八〇六年に、経理補佐官として、ナポレオンに従叩きつぶさなければならなかった。僧侶のなかには清廉潔白 なぞ ころ
ラ・ファイエット夫人 ちょう 夫人の寵もうけた。こうしてパリでの貴族たちの生活にまじ 才人、文人の中で育った才女 わるようになったとき、プロヴァンスの名家の出のイザベ ハリの左岸にある美しいリュクサンプール公園の北側に走ル・ペナと出会い、再婚する。そして最初に生れた娘が、後 っている静かなヴォージラール街に、その公園と反対側をさの『クレーヴの奥方』の作者となるマリーⅡマドレーヌであ : っとっ らに北に折れる道がいくつかあるが、そのひとっ細いフェルる。一六四〇年に前記のヴォージラール街に宏壮な邸宅をつ ー街との角あたりに、 かってのラ・ファイエット夫人の屋敷 くり、そこに一家は移り住むようになった。この屋敷には、 があった。そのフェルー街を下るとすぐ教会の横手に出る。 後に古典悲劇の理論家となったアベ・ドービニャック ( 一六 この教会がサンⅡシュルピス教会で、ラ・ファイエット夫人〇四ー七六 ) 、詩人のヴォワチュール ( 一五七八ー一六四八 ) 、 が一六三四年三月十八日、生後はじめての洗礼を受けた教会また古典主義文学の理論家となったシャプラン ( 一五九五ー である ( 父の葬儀も、彼女の結婚式も、また二人の子供の洗一六七四 ) などの当時の才人たちが集まったという。一六三 ネもこの教会で行なわれた ) 。父のマルク・ピヨシュ・ド・ 五年には二番目の娘、エレオノールⅡアルマンドが、三六年 ラ・ヴェルニュは、ト貴族の軍人であった。軍人といっても、 には三番目の娘、イザベルⅡルウィーズが生れた。 築城術や数学の知識が深く技術面で優れていた。はじめクロ 一六四九年に、父マルク・ピヨシュが死ぬ。母のド・ラ・ ード・ベルナールというやはり小貴族出の娘と結婚したが、 ヴェルニュ夫人は、まだ若々しく、しかも財務に才を発揮し 説早く死に別れている。一六三〇年、マルク・ピヨシュは、出たという。おそらくマリー Ⅱマドレーヌはこの才能を母親か 世して、リシュリュー宰相の甥、プレゼ侯爵の息子の家庭教ら受けついだと思われる。この少女はまた当時のベストセラ プチ ばうだい 師に選ばれ、軍隊生活を離れて、 小リュクサン。フール宮殿に ーズの厖大な小説『グラン・シリュス』 ( 一六四九ー五三 ) 住まうようになり、またリシュリューの姪デギュイヨン公爵を書いたスキュデリー嬢 ( 一六〇七ー一七〇一 ) の当代の代 解説 プレシューズ 川村克己
1043 谷間の百合 訳注 七穴ⅱ・ナカール氏ジャン日バチスト・ナカール ( 一七八〇ー 一八五四 ) 。当時の著名な医学者で、王政復古時代のはじめに、マレー 地区に移転してきたバルザック一家と親しくなった。バルザックは終生、 彼を主治医としたばかりでなく、この献辞を書いた頃は財政的にも負う ところがあった。 七瓮上ナタリ ー・ド・マネルヴィル伯爵夫人『人間喜劇』の再出人物 の一人で、『結婚契約』、『ガンバラ』、『イヴの娘』にも登場する。一 ちょうじ 〇二年にポルドーで生れ、二二年に社交界の寵児ポール・ド・マネルヴ イルと結婚したが、母のエヴァンジェリスタ夫人と二人で、夫を破産さ せて国外へ追放する。のち、フェリックス・ド・ヴァンドネスと情交を けっぺっ 結び、この作品に記されているとおり訣別した後も、彼の結婚生活の邪 魔をする。 フェリックス・ド・ウア 七〈九上私の過去を知りたいと言われた : ・ ンドネス ( Ⅱ私 ) は、『人間喜劇』にきわめて頻繁に登場する再出人物 である。彼の生涯は作中に詳しく記されているが、この手紙を書いた頃 ( 一八二七年 ) は、すぐれた外交官として社交界の花形の一人であった。 七八七ページの家系図参昭。 七九一一下シャルルシャルル・ド・ヴァンドネスフェリックスの兄で 伯爵。のちに家督を継いで侯爵となった。『人間喜劇』にきわめて頻繁 に登場する再出人物の一人で、「三十女』によれば一八二八年にデーグ 訳者後記この翻訳は BaIzac Le Lys dans la vallée, éd. Classiques Ga 「 nie 「 . 1 ま 8 を底本として使用し、プレイヤード版、クリュプ・フラ ンセ・デュ・リー ヴル版、・ ヒプリオフィル・ド・ロリジナル版、各全集 本を参照しました。 ころ ルモン侯爵夫人の愛人となり、『イヴの娘』や「・ヘアトリックス』によ れば、一 八三六年にケルガルーエ提督夫人と結婚した後もその関係がっ とどろ づいた。外交官として活躍し、社交界に華々しい令名を轟かせた後、保 守護教派のリーダーとなる。 七九四上ポン日ル日ヴォワプロアの西南二十五キロにある町。ただし ここの・ヘネディクト修道会士たちの経営する中学が、オラトリオ会士た ちの手に移った事実はないという。 七九五下即興詩人の熱い炭火を押しつけました「イザャ書」第六章五ー 七節によれば、天使が赤熱した炭火をイザヤの唇に押しつけて、彼が神 の預一一 = ロ者となるように浄めたという。 七九五下ルピートル塾一八〇四年から一八一五年にかけてマレー地区 に実在した私塾で、バルザック自身、一八一五年年初から秋まで寄宿し ていた。塾の経営者ジャックⅡフランソワ・ルピートルは、実際にノノ ザックの父の友人であった。 七九五下タンプル寺院十二世紀にイエルサレムで結成された〈タンプ ル教団〉の建立になり、一七九二年、〈第二革命〉の民衆によって逮捕 されたルイ十六世と王妃マリ Ⅱアントワネットがここに幽閉された。 今日のパリ第三区区役所の所在地にあったが、一八〇八年にとり壊され 七九六上王妃マリ Ⅱアントワネットを奪い返そうとした時代ルイ十 六世処刑後の一七九二年冬、ジャルジェーとトウーランが王妃を救出し ようとする陰謀を企てた。実在のルピートルは、王政復古後、この陰謀 に加担したことを自慢していたが、事実は金のために動いたのだという ; 力ある 七九六下パレ日ロワイヤル今日の国立フランス劇場のある一郭。一六 三二年時の宰相リシュリュ ーによって建てられた宮殿で、一時幼いルイ 十四世が住んだのでこの名がある。のちォルレアン公家の邸宅となった が、一七八一年ルイⅡフィリップ・ドルレアンが改築して店舗と歩廊を つくり、以後一八三八年まで、賭博場も存在してパリで最もにぎやかな 遊興の場所となった。 一七八六年にパレⅡロワイヤルに 七九七上フレール・プロヴァンソー
人とも取り返しのつかない一 = ロ葉を口にしてしまったのである。 似ていた。 口をつぐむことはできても、忘れることはできなかった。長ある朝、エレノールからすぐ来てくれという手紙をもらっ いこと互いに言わずにすます事柄はあるものだが、いったんオ こ。「伯爵が」と彼女は言った。「あなたをお招きしてはいけ タ 持ち出したら最後、あとはどこまでもくり返すほかはない。 ないと言い出したの。そんな横暴な命令なんか聞きたくない ス 私たちはそんな具合に、無理な関係のうちに四カ月を送っわ。わたし、あの人が追放されたときもついて行ったし、財 コ た。ときに楽しいことがあっても、完全に自由だったためし産も救ってあげたし、何から何まで尽したのよ。あの人はも く、相変らす喜びに出会ったにしても、もはや魅惑は感 う、わたしがいなくてもやって行けます。でも、わたしはあな じなかった。エレノールはそれでも私から離れなかった。ど たがいなければやって行けないんですもの」。こんなわけの れはど激しいいさかいのあとでも、彼女はまるで二人の仲がわからない計画はやめさせようと、私がどんなに食い下がっ 円満この上ない場合と同じように、やはり私に会いたがり、 たかは、容易に察しがつくと思う。世間の目のことを持ち出 やはりこまごまと時間の約束をした。私はよく、私自身の出してみた。「世間の目なんか」と彼女は答えた。「いままでだ 方そのものが、エレノールをいつまでもそんな気持にさせてって一度もわたしを正当に扱ってくれなかったわ。十年間ど おく一因ではなかったかと考えたものである。私の愛し方がんな女よりも立派につとめを果たして来たのに、世間は相変 彼女の愛し方と同じだったら、彼女ももっと冷静だったろうらすわたしに当然の地位を与えてくれなかったわ」。子供た し、自分の直面している危険についても自分で反省したに違ちのことも考えなさいと言ってみた。「子供たちは * * * 氏 ところが、し 、つさいの用心が彼女にとって腹立たしの子なのよ。認知してくれたの。あとの世話も見てくれるで かったのは、その用心が私の方から出て来たからである。自しよう。不名誉にしかならない母親のことなんか忘れた方が、 分の犠牲など計算もしなかったのは、その犠牲を私に受け入子供たちもすっとしあわせになれるわ」。重ねて頼みこんで れさせるのに夢中だったからである。私に対して冷たくするみた。「聞いて頂戴」と彼女は言った。「もしわたしが伯爵と 暇もなかったのは、私を逃がすまいとすることに、全時間 別れたら、わたしに会ってくれないの ? 会ってくれない 全精力をついやしていたからである。あらたに定められた出の ? 」くり返しながら、彼女はそっとするほどの烈しさで私 発の時期が迫って来る。それを考えると、私は楽しさとくやの腕をつかんだ。「いや、とんでもない」と私は答えた。「あ しさの入りまじったものを感じるのだった。病気を確実に治なたが不幸になればなるほど、僕はあなたを大切にします。 すには苦しい手術を受けなければならないという人の気分にでも、考えてください : : 」。「何もかも考えたわ」と彼女は
さお あまり真っ青になって心配されているので、一同も声をのんしてほしいと言われるのはヌムール殿にきまっていると信じ でしまわれました。侯は他のどのお方よりも早ばやとご退出て疑いませんでした。、、 ノヤトラールさまは、意地亜 5 いよろこ になり、見つからないお手紙は、家に置き忘れたのではない びを感じながら、お手紙は王太子妃さまのお手もとにお渡し かと思われ、そそくさと屋敷に戻られます。なおもお探しに申しましたと返事をいたします。公達はこの返事をたずさえ じゅうぼく なっているところに王妃さまの従僕頭がやって参り、デュて、シャルトル侯にお伝え申しあげます。その返事を聞いて、 ゼス子爵の奥方から、至急お知らせすべきことと存じというさきはどまでの不安はいっそう高まり、それに新たな心配ま 口上で、つぎのような伝一言をもって参りました。侯がポームで加わります。どうしたものかと大分長いこと決めかねてお の球戯場にいらっしやった間に、懐中から艶めいたお手紙をられましたが、 このように困りはてた有様から抜けでるのに 落とされたことを、王妃さまのところで話した者があり、そ手を貸してくれそうなのは、ヌムール殿をおいてほかにはな のお手紙にあったことのあらましが話題になっており、王妃 いとお考えになりました。 さまはたいそうそれをごらんになりたく思い、侍従のひとり 侯はヌムール殿のところに馳せ参じました。お部屋にお入 のもとにお使いを出されてたすねられたところ、シャトラー りになったのは、もう夜が白じらと明けそめる頃でした。ヌ ルさまの手にすでに渡っているとのご返事が返ってきたとのムール殿はやすらかにおよっておいでです。前の日にごらん ことでした。 になったクレーヴの奥方のご様子が、ただただ心楽しい思い 従僕頭はなおもそのほかのことどもを、いろいろ申しあげ出ばかりを残してくれましたので。そんなところをシャルト たものですから、シャルトル侯はもうすっかり度をうしなっ ル侯に目を覚まされましたのに、びつくりなさいます。この うたげ てしまわれました。すぐさま屋敷をお出になると、シャトラように憩いをかき乱しに来られたのは、さては響宴のときに きんだち ールさまの親しい友である公達のもとにお越しになりました。申したことへの腹いせのおつもりかとたずねられました。し 方尋常でない時刻になっておりましたが、 寝ているのを起し、 かしシャルトル侯のお顔を見れば、ここへ来られたのは、ほ まじめ のシャトラールさまのところにお手紙をとりにいってくるよ , っ かでもない、まったく真面目なことなのだとおっしやってい にとお命じになりました。もっともだれが頼んだのか、だれるように見てとれました。シャルトル侯は申されます。 クが手紙を落としたのかはお話しになりませんでした。シャト 「私の生涯でもっとも重大な用件をうちあけるためにまいっ あて たす 別ラールさまは、お手紙はヌムール殿宛のものであり殿が王太 たのです。あなたの援けが必要になった時になってはじめて、 子妃さまに慕われていると思いこんでいたものですから、返 このようなことを申すのでは、ありがた迷惑なのはわかって つや ころ
「とんでもございません、宮さま。宮さまは娘を少し買いか 王太子さま 方がお出にならなかったことを知られましたが、 のところでの例のやりとりが、奥方の前で話されたことなどぶりすぎておいでです。ほんとうに具合が悪うございました。 なのに、このひとは、私がやめさせなければ、昨夕のすばら ご存知ありません。公のためにお出でにならなかったのに、 しいおたのしみを、すっかり拝見したいとばかりに宮さまに そんな幸福者なのだとは、つゆお考えにもなりません。 翌日、ヌムール殿が王妃さまのもとに参上し、王太子妃さお供してでかけたに違いございません。そしてひどい顔つき まとお話をなさっているとき、シャルトルの奥方とクレーヴのまま、皆さまの前に出ていったことでございましよう」 王太子妃さまは、シャルトルの奥方のお話をお信じになり の奥方がうちそろってお見えになり、王太子妃さまのそばに お出でになりました。クレーヴの奥方は病みあがりめいて、ました。ヌムール殿も、どうやら本当らしく見えるので、た むぞうさ いそうがっかりなさいました。それにしても、クレーヴの奥方 そのお顔つきはそのご衣裳 少し無造作ないでたちでしたが、 ほお が頬を染められたのを見て、王太子妃さまのおっしやること とは , つらはらでした。 も、まんざら当っていないわけではないとも思われるのです。 王太子妃さまはクレーヴの奥方に申されます。「お病気だ クレーヴの奥方は、サンⅡタンドレ元帥のお屋敷に伺わな ったとは信じられないくらい、お綺麗ですね。コンデ親王さ まがあなたに、踊りの集いについてのヌムールさまのご意見かったのは、ヌムールさまのせいだと思われては困ると、は をお知らせしたものだから、サンⅡタンドレ元帥のところへじめのうちはお考えでしたが、そのあとで母君がヌムールさ まのお考えを、すっかりくつがえすようなことをおっしやっ 伺えば、元帥に対する好意をお見せすることになると、思い たのには、なにやら悲しいものをお感じになりました。 込んでいらっしやるのでしよう。それでお出にならなかった セルカンの和議は不調に終りましたものの、和平の交渉は のですね」王太子妃さまは、ものの見事に見抜いてしまわれ、 しかもヌムール公の面前でおっしやったのでクレーヴの奥方なおもひきつづき行なわれて、二月の末には、カトーⅡカン プレジで講和会議が再開される運びとなりました。代表とし 方はさっと顔をお染めになりました。 の 、にて前と同じ方がたが赴かれました。こうしてサンⅡタンドレ シャルトルの奥方は、その瞬間、娘君がなぜ踊りの集し ヌ元帥は不在となられましたので、ヌムール殿にとってこの上 一行きたがらなかったか、わけがおわかりになりましたが、 いがたキ レ なく恐ろしい恋敵の厄介ばらいが、やっとできたのです。 クムール殿が自分と同じにおわかりになるといけないので、さ も本当のところをお話し申しあげますというロぶりで、王太なにしろ元帥は、奥方に近づく方がたを注意深く見張ってい られたし、そしてぐんぐんと奥方に取り入っていきそうでし 子妃さまにお話しになります。
せできない方がよいと心に決められるのでした。ですから、来上りましたお屋敷をぜひ見ていただきたく、 妃君がたと晩 さんうたげ ご親友で、なにひとっ隠しだてをなさったことのないシャル 餐の宴にお出ましくださるよう国王さまにお願いするのでし 人トル侯にさえ、お話しにならなかったのです。まことに分別 た。この元帥は、浪費とも申せるような華華しいご出費の出 あるお振舞いで、公がクレーヴの奥方を恋い慕われているこ来栄えを、クレーヴの奥方に見ていただくのもまた心うれし 工とは、ギュイーズ殿を別として、だれひとりお気づきになるく思っていられるのでした。 ひ ) ろ ア方はおられませんでした。奥方も心を惹かれておいでなのに、 その宴に定められた日に先立っ数日前のこと、日頃ご健康 フ 公の素振りにとりわけ注意してごらんにならなかったら、なのすぐれぬ王太子さま ( ア ソワ。一五四四ー六 b 、 ) がご不央になられ、 かなかお気づきにならなかったかも知れません。でも、よく どなたともお会いになりませんでした。王太子妃さまだけは、 ごらんになっていらっしやったので疑いようもありません。 一日じゅうおそばにつきそっていられましたが、夕方になり ど ひかえ はかに口説かれることがありますと、いつも母君に申しあまして、ご気分がよくなられましたので、控の間に集まって ー ) レっ おおみやびと げていたのですが、この殿のお心を自分がどう思っているかおいでの大宮人たちをすべて招じ入れられました。王太子妃 を、お話しする気にはならないのです。べつに隠しだてをなさまがお部屋にもどってまいりますと、そこにクレーヴの奥 さるおつもりはっゅなかったのですが、母君には黙っておい方や、たいそう親しくされている女君たちがおいででした。 いし・よう ででした。しかしシャルトルの奥方には、公のお気持も、娘もう時刻も遅くなっていますし、ご衣裳もととのえられて 君が公に心を惹かれていることも、わかりすぎるほどにわかおりませんので、王妃さまのもとに参上するのはおとりやめ っておいでです。よくおわかりになっているだけに、 母君は になり、今日はお伺いいたしませんからとおことわりをおさ たいそう胸を痛めておいでです。ヌムール殿のようなお人にせになって、サンⅡタンドレ元帥の踊りの集いのために選び 慕われ、またこちらも憎からず思っていらっしやることで、たいから、それにクレーヴの奥方にさしあげる約束もあるか この年端もいかない娘君がどれほどのつびきならない場にい らと、宝石をもってお来させになるのでした。おふたりで宝 られるかが、よくお察しがつくのです。しかもそれから数日石選びにかまけていらっしやるとき、コンデ親王がお見えに 後に起った事で、娘君も好いているのではというご懸念が、 なりました。この方はやんごとないご身分なので、どの方の 間違いのないものであることを思い知らされたのです。 ところへもお出入りご自由なのです。王太子妃さまは親王に おっとぎみ なにかと機会あるごとに、華やかな暮しぶりを見せびらか向かって、おそらく夫君のお部屋から参られたのでしよう しになりたがっていられるサンⅡタンドレ元帥は、近ごろ出が、あちらでは皆さま、なにをなさっていらっしゃいますか ばん
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ら、サッシェへの道を辿りました。それからやっと、樹齢百したな、猟犬が獲物を嗅ぎつけるみたいに」 年を越える大木で飾られた庭園に着き、フラベールの館だと この最後の一一一 = 口が気に入りませんでしたが、私は館の名前 わかりました。私が到着したのは、ちょうど鐘が昼食を知らと持主の名前を尋ねました。 せている時でした。食事が終ると、私がトウールから徒歩で「あれはクロシュグールドでしてな」と、彼は私に言いまし やって来たとは思ってもみなかった主人が、私を領地の周辺 た、「モルソフ伯爵の所有になるしゃれた家で、このひとは に案内してくれ、そのどこからも、ありとあらゆる形で谷間 トウーレーヌでも由緒ある家柄の当主じゃが、一門の家運が が見渡せました。目はしばしば、はるか地平線上に見えるロ興ったのはルイ十一世の時代で、名前そのものが、紋章と盛 ワール河の金色の帯に惹きつけられましたが、そのきらめく 名のもとになったある事件に由来している。つまり、絞首台 逆波を縫って、舟の帆が、風に吹かれるままに遠ざかって行 にかけられたのに命をとりとめた人物の子孫でしてな。それ く幻想的な模様を描き出しているのでした。ある岡の頂に登でモルソフ家の紋章は〈短カ目ノ筋交イ字形ノ黒十字模様 - もと / 、し って、私ははじめて、花で蔽われた基杭の列を台金として、 ヲ金地ニ浮カシテ、中央ニ根モトヲ断チ切ッタ金色ノ百合ノ アンドル川によって嵌めこまれた切子細工のダイヤモンドと花ヲアシラッタ図柄〉で、それに銘として、〈神ョ、ワレラ もいうべきアゼーの城を眺めました。ついで眼下にサッシェ ガ主ナル国王ニ加護アラセタマエ〉とある。伯爵は革命下の の館のロマンチックな偉容が見えましたが、こちらは軽薄な亡命から帰って来て、この領地に腰を落ち着けた。あの資産 人々には荘重すぎるが、魂に悩みを秘めた詩人たちにはなっは、ルノンクール家の出の、つまり廃絶しかかっているルノ 力いちょう 、カ - 一三口一三ロ ) ~ 皆周こみちた憂いの漂う住居でした。ですから私 ンクールⅡジヴリー一門の出の奥さんのもので、モルソフ夫 は、後になって、この館の静けさや、枝の落ちた大木の群れ人は一人娘なのさ。一家の財産の乏しさが、二つの家名の華 さび や、この淋しい谷間にみなぎった何かしら神秘的なものを愛やかさといかにも奇妙な対照をなしておるので、誇りからか、 したものです ! とはいっても隣の岡の中腹に、私の最初のあるいは必要に迫られてかも知れんが、夫妻はすっとクロシ いちべっ 百一瞥が見つけ、選びとったあのかわいらしい館が見えるたびュグールドで暮していて、誰とも付き合ったりしない。今ま の に、私はうっとりとしていつまでも見とれるのでした。 ではそれでも、プルポン王家への忠誠ということで、そんな 谷「やあ ! 」と私の宿の主人が、私の年頃ではいつでもありあ孤立した暮しも正当化できましたがな。しかし国王が帰還さ うず りと表情に出てしまう、あの疼くような欲求を私の目のなかれても、あのひとたちの生活はまず変わるまい。去年ここへ あいさっ に読みとって言いました。「遠くから美人を嗅ぎあてられま移って来た時に、私は挨拶をしにあのひとたちを訪ねて行き
バルザック 1116 ・一八〇七年 ( 八歳 ) 六月、オラトリオ修道会の経営するヴァンドーム学院に寄宿生とな る。父ベルナール『盗難、殺人予防策覚書』出版。以後この類のパ ンフレット執筆数年続く。十二月、末弟アンリ Ⅱフランソワ生まれ る。母とサシェの貴族ジャン・マルゴンヌ ( 一七八〇ー一八五八 ) ・一七九九年 との不義の子供とされている。 五月二十日、トウールに父ベルナール日フランソワ ( 五十二歳 ) 、 八一三年 ( 十四歳 ) こんすい 母アンヌⅡシャルロットⅡロール ( 二十一歳 ) の第二子として生ま四月、濫読のためと思われる〈一種の昏睡状態〉に陥り、学院を出 れる。前年同月同日に生まれた長子が生後一カ月で死亡したのに懲て自宅に引き取られる。在学中曰意思論』を執筆したという。 りて、近郊のサンⅡシールⅡシュルⅡロワールの憲兵の家に里子に ・一八一四年 ( 十五歳 ) 出される。南仏の農家の出の父は、バルッサの姓をバルザックと変七月、トウールのコレージュで三年生をやり直す ( 九月まで ) 。九 えてルイ十六世側近の秘書となり、やがて革命・共和政府の官吏の月、アルトワ伯提唱の成績優秀な生徒に対する〈百合勲章〉をトウ り。ようまっ 道を歩み、この時トウール第二十二師団糧秣部長。母はバリの商 ールのアカデミーから授与される。十一月、父パリ第一師団の糧秣 家の出。神秘思想家の本も読む繊細な美人であった。 部長となり、一家でパリに赴く 。ルビートル私塾二年に編入 ・一八〇〇年 ( 一歳 ) ・一八一五年 ( 十六歳 ) 九月二十九日、妹ロールⅡソフィ生まれる。兄オノレと同じ所に里九月、ルピートル私塾を出てガンセー私塾に移る。シャルルマーニ 子に出される。 ュ校の修辞学級に通学。 ・一八〇ニ年 ( 三歳 ) 八一六年 ( 十七歳 ) 四月十八日妹ローランス生まれる。この時父親ド・バルザックと署十一月、中等教育を終え、代訴人ギョネⅡメルヴィルの事務所に見 名する。 習書記として入る。十一月、パリ大学法学部入学。かたわら博物館 ・一八〇三年 ( 四歳 ) やソルポンヌでキュヴィエやジョフロワ・ド・サンⅡティレール、 初めてパリに連れられ、母方の祖父母に会う。五月、バリの祖父死ギゾー、ヴィルマン、クーザンなどの講義を聴く。 亡。祖母がトウールに身を寄せる。妺ロールとともに乳母の所から 八一八年 ( 十九歳 ) 戻り、厳格な家庭教師ドラエー嬢の教育に託される。十一月、父が四月、ギョネⅡメルヴィルの事務所を辞め、公証人ヴィクトール・ 市の助役となる。 ハセの事務所に見習書記として入る。哲学に興味をひかれ「霊魂不 ・一八〇四年 ( 五歳 ) 死論」を執筆。 四月、ル・ゲー寄宿学校の通学生となる。 ・一八一九年 ( ニ十歳 ) バルザック年譜