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検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

長男ルイ ( ー一七二九 ) 出産。 ・一六五九年 ( ニ十五歳 ) 次男ルネⅡアルマン ( ー一六九四 ) 出産。『セヴィニエ夫人の肖像』。 以麦。ハリに宀疋住。 ・一六六一年 ( ニ十七歳 ) ・一六三四年 アンリエット・ダングルテールの侍女となる。 Ⅱマドレーヌ・ピヨシュ・ド・ラ・ヴェルニュ誕生 ( 三月十 ・一六六ニ年 ( ニ十八歳 ) プチ 『モンバンシェ公爵の奥方』匿名で発表。 八日受洗 ) 。 小リュクサンプール宮殿内で生れた。父マルク・ピョ ・一六六五年 ( 三十一歳 ) シュ・ド・ラ・ヴェルニュは小貴族。母イザベル ( エリザ・ヘートと 『アンリエット・ダングルテール伝』着手。 も呼ばれた ) ・ペナも小貴族。 ・一六六九年 ( 三十五歳 ) ・一六四〇年 ( 六歳 ) 父はバリのヴォージラール街に、大きな庭のついた土地と屋敷を買「ザイード』第一巻、スグレの著者名でパリのバルバン書店より出 プチ う。小リュクサンプール宮殿の向かいに当る。 版。 ・一六七一年 ( 三十七歳 ) ・一六四九年 ( 十五歳 ) 父死す。 『ザイード』第二巻出版。 ・一六五〇年 ( 十六歳 ) ・一六七八年 ( 四十四歳 ) 母はルノー Ⅱルネ・ド・セヴィニエと再婚。夫はセヴィニエ侯爵夫『クレーヴの奥方』。ハ が落ち着く。 人の夫の叔父に当る。マリ Ⅱマドレーヌ嬢はメナージュに師事し、 ・一六八〇年 ( 四十六歳 ) ラテン語、イタリア語などを習いはじめ、『グラン・シリュス』『ク レリ 親友ラ・ロシュフーコー死。サヴォワ公妃のために力をつくす。 ー』などの流行の小説を読むことを教わる。 ・一六八三年 ( 四十九歳 ) ・一六五五年 ( ニ十一歳 ) 夫、ラ・ファイエット伯爵死す ( 享年六十七歳 ) 。 ラ・ファイエット伯爵、ジャン日フランソワ・モチェ ( 一六 八三 ) と結婚。その妹はルイ十三世の寵姫で、シャイヨーの修道院・一六八九年 ( 五十五歳 ) 次男ルネ日アルマン結婚。『一六八八・、 ノ九年におけるフランス宮 長ルイーズ・アンジェリック・ド・ラ・ファイエット。 廷覚書』 ( 一七三一年刊 ) を書きはじめる。 ・一六五六年 ( ニ十ニ歳 ) ・一六九ニ年 ( 五十八歳 ) 母死す。 師であり親友であるメナージュ死す。 ・一六五八年 ( ニ十四歳 ) ラ・ファイエット夫人年譜 リのバルバン書店より発売。この頃より財政

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・一八〇一年 ( 十八歳 ) イタリア北部に駐屯。年末、病気のためグルノー。フルに帰る。 ・一八〇ニ年 ( 十九歳 ) リに赴き、 ヴィトリーニ・ムーニエを恋する。七月、軍職を辞し、パ 文学を志し、イタリア語、英語を学び、熱心に観劇し、みすからも ・一七八三年 劇作家になろうとする。従妹のアンデール・ルビュッフェルに恋し、 マリⅡアンリ・ ペール ( 筆名スタンダール ) は、一月二十三日グルその母親とも関係する。 ・一八〇三年 ( ニ十歳 ) ノープル市に生まれる。父は高等法院弁護士。母は医師アンリ・ガ ゅ・つとう 読書と創作。遊蕩。六月、グルノープルに帰る。 ニョンの娘。スタンダールは、母方の祖父の感化を受ける。のちに ・一八〇四年 ( ニ十一歳 ) 妹が二人生まれる。 ハリに戻る。劇作を試みる。新人女優メラニー・ギルべール ( 芸名 ・一七九〇年 ( 七歳 ) ルアゾン ) と識り、恋仲になる。 母アンリエットの死。スタンダールの幼年期に影響することの大き ・一八〇五年 ( ニ十ニ歳 ) い事件。 マルセーユのグラン・テアトルと契約したメラニーと同市に棲み、 ・一七九ニ年 ( 九歳 ) 食料品輸出入問屋の店員となる。 ライヤーヌ神父、家庭教師となる。三年間 ・一八〇六年 ( ニ十三歳 ) ・一七九六年 ( 十三歳 ) ふたたび軍職に就き、ナポレオンの下に従い、ベルリンに入城。経 十一月二十一日、グルノー。フル中央学校が開校し、同時に入学。 理補佐官。任地・フラウンシュヴァイヒ。 ・一七九七年 ( 十四歳 ) ・一八〇七年 ( ニ十四歳 ) デッサンと数学で優等賞。大嫌いだった叔母セラフィー・ガニョン ドイツの各地を旅行。シェイクスピア、ゴルドニを読む。ウイルへ の死。 ルミーナ・フォン・グリースハイム ( ミーナ ) に一一一口い寄る。 ・一七九九年 ( 十六歳 ) エコール・ポリテクニック ハリに出掛・一八〇九年 ( ニ十六歳 ) 中央学校を卒業し、理工科学校に受験するつもりで、 オーストリア戦役に従軍、ストラス・フール、ウィーン。ダリュ伯爵 けるが、受験しない。 夫人に恋慕。 ・一八〇〇年 ( 十七歳 ) ・一八一〇年 ( ニ十七歳 ) 9 叔父のビエール・ダリュ ( 陸軍省の高官 ) の紹介で、同省に見習と 一月、。ハリ。参事院書記官、帝室調度検査官となる。 川して入り、ナポレオンのイタリア遠征に加わり、十月、竜騎兵第六 八一一年 ( ニ十八歳 ) 連隊の少尉に任官。この年より日記を書き始める。 スタンダール年譜

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いて』を出版。 結婚。 ・一八〇九年 ( 四十ニ歳 ) ・一七九七年 ( 三十歳 ) 六月八日、 ハリでスタール夫人とのあいだの娘と思われるアルベル 一月、シラーの『ヴァレンシュタイン』の翻案『ヴァルスタン』を ンチーヌ・ド・スタール生まれる。「立憲クラ。フ」での政治的活動。出版。 ス翌年から選挙に立つが二度落選。 ・一八一〇年 ( 四十三歳 ) ン コ ・一七九九年 ( 三十ニ歳 ) この年「アドルフ』の原稿を浄書させる。 雪月四日 ( 十二月二十四日 ) 法制審議院議員に任命される。 八一一年 ( 四十四歳 ) ・一八〇〇年 ( 三十三歳 ) 五月九日、ローザンヌのクーロンヌ亭でスタール夫人と最終的に別 てちょう 一月五日、法制審議院で反対演説、ナポレオンの怒りをかい、翌々れる。妻シャルロットとドイツに向け出発。『セシル』『赤い手帖』 はっ 一八〇二年には同院を追放される。十一月ー翌一八〇一年六月、薄はこの年の終わりごろまでにまとめられたと思われる。 倖の女性アンナ・リンゼイとの恋。 ・一八一四年 ( 四十七歳 ) ・一八〇三年 ( 三十六歳 ) ハノーファーで『征服の精神と簒奪とについて』出版。四月、 一ー三月、アメリー ・フアプリとの結婚を計画。『日記』を書きは ハリに戻ってタレーランと会談。八月末レカミエ夫人との恋愛。政 じめる。十月十九日、ナポレオンと決定的に不和になったスタール 治的パンフレットを矢つぎ早に書く。 夫人が、フランス追放の命を受け、コンスタンとともにドイツへ向・一八一五年 ( 四十八歳 ) け出発。 三月、ナポレオンのエルバ島脱出に際して激しく攻撃するが、四月 ・一八〇四年 ( 三十七歳 ) 十四日チュイルリー宮廷で皇帝と会見するやたちまち変節して参事 一ー二月、スタール夫人とともにワイマール滞在。ゲーテ、シラー 院会員に任命され、「帝国憲法付加法令」の起草を命ぜられる。五 を知る、またヘルダーの著作に傾倒する。年末にちかくスタール夫月、『政治の諸原則』を出版。六月、ナポレオン皇帝退位、百日天 人はイタリアに向け・出発、コンスタンは。ハリに帰り、シャルロット 下が終わる。七月十九日、国王ルイ十八世により一時追放されイギ ( 今はデュ・テルトル夫人 ) と再会。 丿スに渡る。 ・一八〇六年 ( 三十九歳 ) 八一六年 ( 四十九歳 ) 十月十八日ー二十八日、シャルロットとの愛がよみがえる。十月三 一月、ロンドンに着く。六月、『アドルフ』を出版したのち帰国。 十日、後に『アドルフ』に発展する小説に着手。 翌年アカデミー入りを志したが失敗。以後死ぬまでに三度試みて三 ・一八〇八年 ( 四十一歳 ) 度とも失敗。 前年末よりこの年二月にかけてシャルロット病む。六月五日、領地・一 八一八年 ( 五十一歳 ) のプレヴァンでスタール夫人に知れるのを恐れシャルロットと秘密『立憲政治学講義』刊行をはじめる ( 全四巻で一八一九年に完結し ′ ) う さんだっ

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・一七四七年 ( 五十歳 ) ・一七五七年 ( 六十歳 ) 五月、『キケロ書簡集』第四、五、六巻を出版。『航海旅行総史』第『航海旅行総史』第十四巻を出版。 三、四巻を出版。 ・一七五九年 ( 六十ニ歳 ) オ ・一七四八年 ( 五十一歳 ) 『航海旅行総史』第十五巻を出版。以後、五巻追加され全一一十巻と レ『航海旅行総史』第五、六巻を出版。 なるが、プレヴォとは関係な、 ・一七四九年 ( 五十ニ歳 ) ・一七六〇年 ( 六十三歳 ) 『航海旅行総史』第七巻を出版 ( この巻で英語版からの翻訳の部分三月、『道徳世界』第一、二巻出版。ヒュームの『スチュアート家 終る。この後はプレヴォ一人で編集刊行をつづける ) 。 の歴史』の翻訳を出版 ( 全三巻 ) 。この年までに、シャンテイイ近 ・一七五〇年 ( 五十三歳 ) くのサンⅡフィルマンへ隠遁。同棲している未亡人の持家である。 『航海旅行総史』第八巻を出版。『フランス語小辞典』を出版。 そこで、コンデ家およびコンティ家の歴史の執筆を準備する。 ・一七五一年 ( 五十四歳 ) ・一七六ニ年 ( 六十五歳 ) ぶみ 一月、『イギリス文』 (r クラリッサ・ ーロウ』の翻訳 ) を出版。シェリンダンの『シドニー・ビダルフ嬢の回想記』の翻訳を出版。 この頃、ルソーとよく会う。『航海旅行総史』第九巻を出版。 ・一七六三年 ( 六十六歳 ) ・一七五ニ年 ( 五十五歳 ) ホークスワースの『アルモランとハムレット』の翻訳を出版。八月、 りゅう 『航海旅行総史』第十巻を出版。 リューマチ悪化。十一月二十五日、散歩の途中、動脈瘤の破裂で死 ・一七五三年 ( 五十六歳 ) す。 『航海旅行総史』第十一巻を出版。五月、『マノン・レスコー』決定・一七六四年 版を出版。 ・一七五四年 ( 五十七歳 ) 七月二十日、ローマ法王プノワ十四世より、ジェーヌの寺領の扶持 を受ける。『航海旅行総史』第十二巻を出版。『フランス語小辞典』 増補版を出版。 ・一七五五年 ( 五十八歳 ) 一月より八月まで、「外国通信」誌を発行。十二月、『グランデイソ ン』の翻訳を出版 ( 一七五八年に完結 ) 。 ・一七五六年 ( 五十九歳 ) 『航海旅行総史』第十三巻を出版。 『道徳世界』第三、四巻出版。『若い貴公子への手紙』の翻訳出版。 『コンデ家の歴史』出版。 ( 原好男編 )

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歴のはじまりであった。 ・一七八六年 ( 十九歳 ) 七月、ローザンヌでイギリス公使夫人のトレヴァー夫人と恋愛。十 一月、バリに戻る。 ・一七八七年 ( ニ十歳 ) ・一七六七年 三月、文名のあったシャリエール夫人とバリで相識る。以後およそ 十月二十五日、 ハンジャマン・アンリ・コンスタン・ド・ル・ヘック、七年間、コンスタンは何度かヌーシャテル近傍のシャリエール夫人 父ジュスト、母アンリエットの間にスイスのローザンヌで生まれる。の邸を訪れた。六月末から九月末までイギリスを放浪。 母は産後二週間たらずの十一月十日死亡。 ・一七八八年 ( ニ十一歳 ) ・一七七ニ年 ( 五歳 ) 二月、ドイツのプルンスヴィックに向かい、同地の宮廷の侍従とな る。 父の再婚。以後数年を父の任地のかわるに伴い、ベルギー、オラン ダ、スイスと転々と過ごし、ドイツ人、フランス人等々つぎつぎに ・一七八九年 ( ニ十ニ歳 ) 家庭教師を変えて教育を受ける。書物を濫読。 五月八日、プルンスヴィックでミンナ・フォン・クラムと結婚。ミ ・一七七九年 ( 十ニ歳 ) ンナ ( ヴィルヘルミーネ ) は器量も悪く、夫婦仲もよくなかった。 英雄物語『騎士』を書く。 妻を伴ってスイスへ旅行。 ・一七八〇年 ( 十三歳 ) ・一七九三年 ( ニ十六歳 ) 一ー三月、はじめてイギリスに旅行する。オックスフォードこ レ滞在。一月十一日、二歳年下のシャルロット・ド・ 帰途、オランダで、父の旧友の娘に淡い初恋。 マーレンホルツ夫人 ) を知る。 ・一七八ニ年 ( 十五歳 ) ・一七九四年 ( ニ十七歳 ) 二月から翌年五月にかけて、ドイツのエルランゲン大学に遊学。 ミンナとの離婚に努力する。スイスに帰り、九月十九日、はじめて ・一七八三年 ( 十六歳 ) スタール夫人と知る。シャリエール夫人と不和となる。 七月から八五年五月まで、約二年間エジンバラ大学で過ごす。この ・一七九五年 ( ニ十八歳 ) ころ彼は、賭事にふけり乱脈な生活に明け暮れするが、一方、知的、五月、スタール夫人とパリ着。スタール夫人の手引きによって、五 執政官政府の下で政治的な活動をはじめる。十一月、ミンナとの離 觴文学的な交友関係を結んだ。 ・一七八五年 ( 十八歳 ) 婚が成立。 ・一七九六年 ( ニ十九歳 ) 五ー八月、はじめてのパリ滞在、パリ大学に学ぶ。 ー十一月、プ リュッセルでジョアノ夫人と恋愛。以後二十数年間におよぶ女性遍五月、政治的パンフレット『現政府の力とそれへの結集の必要につ コンスタン年譜 かけ′ ) と やしき ハルデンベルク ( 当時

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1085 年譜 た ) 。事故で負傷、以後片脚が利かなくなる。この年の選挙には落 選したが、翌年には当選。 ・一八ニ〇年 ( 五十三歳 ) 『百日天下の回想』を刊行しはじめる ( 完結は一八二二年 ) 。 ・一八ニ四年 ( 五十七歳 ) ハリ区議員に選出され再び国会へ。七月、『宗教、その起 源・形態・発展についての考察』を刊行しはじめる ( 全五巻で、一 八三一年に完結 ) 。 ・一八ニ九年 ( 六十ニ歳 ) 八月、『文学・政治雑考』を出版。十月、『悲劇についての省察』を 出版。 ・一八三〇年 ( 六十三歳 ) 七月革命、ルイ・フィリップの即位。この七月王政の開始にあたっ て、ギゾーたちとともに重要な役割を演じた。十二月八日、死去。 国葬の礼を受ける。 ( 安藤元雄編 )

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はなやかな社交生活。喜歌劇の女優アンジェリ ーヌ・べレテールと「恋愛論』完成。有名な墓碑銘「生きた、書いた、恋した」を決め どうせい 0 同棲。ダリュ伯爵夫人こ言、寄っこ。ゝ、 ししロオカはねつけられる。八月、イる。 ティジョン、ドール、モレ、ジュネーヴ。 タリア旅行。モン・ハーレ、・ 八ニ一年 ( 三十八歳 ) カルポナ ミラノで旧知のアンジェラ・。ヒエトログルア ( ジナ ) に求愛し、思オーストリア官憲から炭焼党員と疑われ、ミラノを去った。パ丿 ダ いを果たす。イタリア各地を旅行し『イタリア絵画史』を書き始め帰り、十月、ロンドンに行って、シェイクスピア劇を見る。 ン タる。 ・一八ニニ年 ( 三十九歳 ) ス 八一ニ年 ( ニ十九歳 ) ふたたび社交生活、諸所のサロンに出没する。英仏の各紙に書評、 ナポレオンのモスクワ遠征に参加。同市に一カ月駐留。 時評を発表する。 八一三年 ( 三十歳 ) ・一八ニ三年 ( 四十歳 ) 一月、ハリに 帰還。四月、ザクセン戦役に出発。熱病に催り、ミラ 『ラシーヌとシェイクス。ヒア』第一部刊行。イタリア旅行。「ロシ ーニ伝』出版。 ・一八一四年 ( 三十一歳 ) ・一八ニ四年 ( 四十一歳 ) グルノープルで、ドーフィネ地方防備軍を編成。病気のためパリに クレマンティーヌ・キュリアル伯爵夫人 ( マンケ ) との恋愛。 ・一八ニ五年 ( 四十ニ歳 ) 帰り、連合軍のバリ入城に立ち合う。軍務を断念し、。ハ ミラノに住む。『ハイドン、モーツアルト、メタスタジオ伝』 ( 翌年「ラシーヌとシェイクスピア』第二部刊行。マチルド・デンポース キーがミラノで死ぬ 出版 ) を書く。 ・一八一七年 ( 三十四歳 ) ・一八ニ六年 ( 四十三歳 ) フランス、イギリス、イタリア旅行。八月、『イタリア絵画史』出イギリスに遊ぶ。キュリアル伯爵夫人と別れる。『アルマンス完 版 (> ・・ < ・ < 著 )。九月、「ローマ、ナポリ、フィレンツェ』成。 ( 初めて筆名スタンダールを用う ) 出版。 ・一八ニ八年 ( 四十五歳 ) 八一八年 ( 三十五歳 ) 正月にミラノに行ったが、オーストリア官憲から退去を命ぜられる。 「ナポレオン伝』執筆。中絶。三月、マチルド・デンポースキーに 二月、グルノー。フルでアントワーヌ・ベルテ ( ジュリアン・ソレル 熱烈な恋をする。 のモデルの一人 ) 処刑される。恩給が切れ、財政的に困窮する。 ・一八一九年 ( 三十六歳 ) ・一八ニ九年 ( 四十六歳 ) 七月、父の死にあい、グルノー・フルに帰ったが、遺産は借金ばかりアル。ヘルト・ド・リュバンプレとの恋。南仏旅行中、マルセーユで だった。年末『恋愛論』を書き始める。 『赤と黒』を着想。『ヴァニナ・ヴァニニ』を「バリ平論」に発表。 ・一八ニ〇年 ( 三十七歳 ) ・一八三〇年 ( 四十七歳 ) リを離れ、

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バルザック 1116 ・一八〇七年 ( 八歳 ) 六月、オラトリオ修道会の経営するヴァンドーム学院に寄宿生とな る。父ベルナール『盗難、殺人予防策覚書』出版。以後この類のパ ンフレット執筆数年続く。十二月、末弟アンリ Ⅱフランソワ生まれ る。母とサシェの貴族ジャン・マルゴンヌ ( 一七八〇ー一八五八 ) ・一七九九年 との不義の子供とされている。 五月二十日、トウールに父ベルナール日フランソワ ( 五十二歳 ) 、 八一三年 ( 十四歳 ) こんすい 母アンヌⅡシャルロットⅡロール ( 二十一歳 ) の第二子として生ま四月、濫読のためと思われる〈一種の昏睡状態〉に陥り、学院を出 れる。前年同月同日に生まれた長子が生後一カ月で死亡したのに懲て自宅に引き取られる。在学中曰意思論』を執筆したという。 りて、近郊のサンⅡシールⅡシュルⅡロワールの憲兵の家に里子に ・一八一四年 ( 十五歳 ) 出される。南仏の農家の出の父は、バルッサの姓をバルザックと変七月、トウールのコレージュで三年生をやり直す ( 九月まで ) 。九 えてルイ十六世側近の秘書となり、やがて革命・共和政府の官吏の月、アルトワ伯提唱の成績優秀な生徒に対する〈百合勲章〉をトウ り。ようまっ 道を歩み、この時トウール第二十二師団糧秣部長。母はバリの商 ールのアカデミーから授与される。十一月、父パリ第一師団の糧秣 家の出。神秘思想家の本も読む繊細な美人であった。 部長となり、一家でパリに赴く 。ルビートル私塾二年に編入 ・一八〇〇年 ( 一歳 ) ・一八一五年 ( 十六歳 ) 九月二十九日、妹ロールⅡソフィ生まれる。兄オノレと同じ所に里九月、ルピートル私塾を出てガンセー私塾に移る。シャルルマーニ 子に出される。 ュ校の修辞学級に通学。 ・一八〇ニ年 ( 三歳 ) 八一六年 ( 十七歳 ) 四月十八日妹ローランス生まれる。この時父親ド・バルザックと署十一月、中等教育を終え、代訴人ギョネⅡメルヴィルの事務所に見 名する。 習書記として入る。十一月、パリ大学法学部入学。かたわら博物館 ・一八〇三年 ( 四歳 ) やソルポンヌでキュヴィエやジョフロワ・ド・サンⅡティレール、 初めてパリに連れられ、母方の祖父母に会う。五月、バリの祖父死ギゾー、ヴィルマン、クーザンなどの講義を聴く。 亡。祖母がトウールに身を寄せる。妺ロールとともに乳母の所から 八一八年 ( 十九歳 ) 戻り、厳格な家庭教師ドラエー嬢の教育に託される。十一月、父が四月、ギョネⅡメルヴィルの事務所を辞め、公証人ヴィクトール・ 市の助役となる。 ハセの事務所に見習書記として入る。哲学に興味をひかれ「霊魂不 ・一八〇四年 ( 五歳 ) 死論」を執筆。 四月、ル・ゲー寄宿学校の通学生となる。 ・一八一九年 ( ニ十歳 ) バルザック年譜

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職業軍人となる。 ・一七一八年 ( ニ十一歳 ) 軍人として、オランダへ行き、多くの散文、詩を書く。 プレヴォ年譜 ・一七ニ〇年 ( ニ十三歳 ) 決闘、盗み、借金、詐欺にかかわり、ノルマンディーのジュミエー ・一六九七年 ジュにあるベネディクト派の僧院に逃げ込み、ベネディクト派の教 ころ アントワーヌⅡフランソワ・プレヴォ、四月一日、北フランス、ア団に籍を入れざるをえなくなる。この頃より文学に熱中する。 ルトワ地方 ( 現在のパ・ド・カレ県 ) のエダンの町に、プレヴォ家・一七ニ一年 ( ニ十四歳 ) の次男として生まれる。プレヴォ家は、十七世紀の初頭以来、その 一年間の修練期を経て、十一月九日、ベネディクト派のサンⅡモー 土地で要職を占めており、父、リエヴァン・プレヴォは、エダンのルの教団に入籍するため誓願式を行なう。ドン・ル・プレヴォと呼 リ・一丁ュク 裁判所の検事、国王顧問官、代官を勤める。母は旧姓マ ばれる。ルーアンのサン日トウアン僧院に派遣され、そこで、ジェ レ。兄弟はプレヴォをいれて五人。長男と五男は僧籍に入り、三男、ズィット派の僧侶と論争を行なう。 四男は、父親と同じく、地方官になる。姉妹も四人、一歳違いの妹・一七ニニ年 ( ニ十五歳 ) をのそき、他の三人は幼くして死ぬ。 べックの僧院で、以後三年間神学の勉強。 ・一七ニ四年 ( ニ十七歳 ) ・一七〇五年 ( 八歳 ) 工ダンのジェズィット派の経営する私塾に通い始める。 共作と考えられる『ローマの騎士ポンポニウスの冒険、または現代 ・一七一一年 ( 十四歳 ) 史』 ( 執筆二一ー二 (l) を出版。作品は反宗教的として物議をかも す。 母親および二人の妹の死。 ・一七一ニ年 ( 十五歳 ) ・一七ニ五年 ( ニ十八歳 ) スペイン継承戦争 ( 一七〇一ー一四 ) に、学業をすて、志願兵とし ( もしくは翌年 ) ノルマンディーのフェカンの僧院に滞在。ノルマ て従軍。アルトワ地方は、その戦場であった。 ンディーのセーの町に移り、『ド・トウの歴史』の翻訳を始める。 ・一七ニ六年 ( ニ十九歳 ) ・一七一三年 ( 十六歳 ) ュトレヒト講和条約後、軍隊を去り、 リのアルクール学院の修辞 リの北、ポーヴェジイのサンⅡジェルメールの学院で人文学を教 える。司祭となり、ノルマンディーのエヴルーの町に説教師として 学級に入学。 ・一七一七年 ( ニ十歳 ) 赴任。 三月十七日、ジェズィット派の教団に入る。十月、デカルトも学ん・一七ニ七年 ( 三十歳 ) だ、ラ・フレーシュ学院に派遣され、哲学を学ぶ。学院を逃げ出し、前年末もしくは年頭にパリに呼び戻され、プランⅡマントーの僧院

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コンスタン ンよりも十歳年長だった。。 シロンド党の幹部たちと親交のあ 政治家としてのコンスタン った彼女のあと押しで、コンスタンは一七九六年に最初の政 一七八九年のいわゆる「大革命」から一八三〇年の「七月治評論を発表して、政界に乗り出して行く。 一七九八年と九九年の選挙に立候補したときは二度とも落 革命」まで、フランスの政情が変転に変転を重ねた四十年間 は、ナポレオンをはじめとする大小さまざまの野心家たち選したが、まもなくプリュメール十八日のクーデターでナポ ビュナ コンシュル ンジャマン・アンリ・ レオンが第一総督の地位につくと、コンスタンは法制審議院 にとって、絶好の活躍舞台だった。バ コンスタン・ド・ルべック (Benjamin Henri Constant de の議員に任命される。しかしスタール夫人と同じく自由主義 Rebecque) も、その激動期を泳ぎぬいた政治家の一人である。的な立憲王制を主張する立場にいた彼は、ナポレオンへの権 一七六七年にスイスのローザンヌでフランス系の古い家柄カ集中に反対し、一八〇二年に法制審議院を追放される。翌 に生まれた彼は、生後まもなく母を失い、軍人だった父にと年、スタール夫人も国外追放にあい、彼女はコンスタンを連 もなわれてヨーロツ。ハ各地を転々としながら、次々と幾人かれてワイマールに亡命する。一八〇四年、イタリアに向かう の家庭教師によって教育を受けた。その間、十二歳で長編物スタール夫人と別れたコンスタンはパリに戻ったが、このこ 語を書くなど、早熟な才能を示し始めてもいたが、他方ではろからナポレオンの失脚までのほば十年間が、彼にとっては スタール夫人の支配からのがれるためのあがきの期間でもあ さまざまな女性との間の恋の遍歴も早くから始まっていた。 説中でもとりわけ彼の生涯を大きく左右したのは、一七九四年り、また『アドルフ』や『セシル』などの文学作品を執筆す に知り合ったスタール夫人である。フランスのロマン主義文る時期でもあった。 ナポレオンがモスクワで大敗するのを待っていたかのよう 学の生みの母とも一言うべきこの才女は、革命直前にフランス 一八一四年からコンスタンは政治活動を再開した。翌一 の首相だったスイスの銀行家ネッケルの娘であり、コンスタ 解説 安藤一兀雄