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検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

417 赤と黒 やみ 臓は異様に高鳴った。夜になった。闇が濃くなりそうなので、でした。。 、 , シュリアンは自分の気の弱さに腹をたてて、こう思 った。《十時が鳴る瞬間に、决行しよう。今日一日中、夜に うれしくなり、胸の重荷がおりた気持だった。空には熱風に あらし なったらやろうと誓っていたことじゃよ、 オしか。それが駄目な 追われて、大きな雲が乱れとび、嵐の前ぶれのようだった。 二人の女はおそくまで散歩をつづけた。その夜はこの二人のら、部屋にもどって、ピストルで脳天をぶちぬくまでだ》 挙動が、ジュリアンにはどれも奇妙に思えた。二人はこの天期待と不安とがまじった最後の一瞬は、興奮のあまりジュ リアンはほとんどわれを忘れた状態だった。頭上の大時。ゝ 一三ロ、カ ~ 候を楽しんでいたのだ。こうした天候は、細やかな、いに作用 十時を打ちはじめた。運命の鐘の音がひとつひとっ胸に響き し、愛する喜びを大きくするようである。 やっと、三人は腰をおろした。レナール夫人がジュリアンわたり、いわば肉体的な衝撃を感じさせた。 すわ シュリア 、十時の鐘の最後の一打ちがまだ鳴っているうちに、 の傍に、デルヴィル夫人が友人のとなりに坐った。。 ンは、これから決行しようと思うことに気をとられて、話題ジュリアンはっと手をのばして、レナール夫人の手をとった。 シュリアンは、なにをしてい 夫人はすぐに手を引っこめた。。 がみつからなかった。会話がだれてきた。 《はじめて決闘するときは、やはりこんなにがたがたふるえるのかはっきりわからないまま、その手をまたっかんだ。気 が転倒してはいたものの、つかんだ手が氷のように玲たいの て、みじめな気持になるのかな ? 》と、ジュリアンは思った。 に驚いた。ふるえる手に力を入れて、その手をにぎりしめた。 もともと自分のことも他人のこともすぐには信用しないほう 振りほどこうという最後の努力が感じられたが、けつきよく なので、自分の心の状態を見つめずにはいられなかった。 とんな危険もまだましだろうと思っその手は彼に残された。 死ぬほどの苦しさに、。 彼の心は喜びにあふれた。レナール夫人を愛していたから た。なにか急用で、レナール夫人が仕方がなく庭からいなく 、と、なんどねがつではなく、恐ろしい責め苦が終わったからである。デルヴィ なり、家に入るようになってくれればいし たかしれなかった。あまりに強く感清を押し殺したので、ジル夫人に勘づかれないように、なにかしゃべらなくてはいけ ュリアンの声までひどく変わってきた。やがてレナール夫人ないと思った。すると大きくて張りのある声が出た。逆に シュリアンはそれにはすこしも気づレナール夫人の声は内心の動揺をあらわにしていたので、デ の声もふるえてきたが、。 ルヴィル夫人は友人の気分が悪くなったのかと思って、家に かなかった。義務感と気おくれとの争いがあまりにも重苦し やかた くて、自分以外のことをかえりみる余裕がなかった。館の大入ったらとすすめた。ジュリアンは危険を感じた。《もしレ ナール夫人がサロンに帰れば、おれはまた、昼間味わった恐 時計が九時四十五分を告げたのに、彼はまだなにもできない

2. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

の手紙には、ばくの恋敵の約束がくわしく書かれていました。 「いや、いや」と、ばくはもじりつづけて答えました。 彼は金はいくらかかっても惜しまないと述べていました。そ して、マノンが屋敷を手に入れると同時に一万フラン払い あなう ヴ 思いません、オピタルこそ、 その金額が減ればすぐに穴埋めして、いつも彼女の手もとに レ あなたの心にあの男の姿を刻んだ愛の矢であろうとは。現金でそれだけの額があるようにすると誓っていました。屋 敷入りする日もそれほど先に延ばされてはいませんでした。 「だけど、家具付きの屋敷に馬車一台、三人のお仕着せを着準備のため二日だけ待ってくれと言い、通りと屋敷の名前を た従僕となれば、ずいぶん心をそそる矢だよ。愛の神だって、書きしるしたうえで、もしマノンがばくの手から抜けだせる これほど強力な矢ははとんど持っちゃいないさ」 ならば、二日目の午後、そこで待っているからと約束してい マノンは彼女の心は永久にばくのものであり、ばくの矢以ました。ばくの手から逃げだせるかどうかだけが心配であり、 その点どうか安心させてほしいというのです。他の点すべて 外は絶対に受けつけないだろうと断言しました。 「あの男がわたしにした約束は」と、彼女は言いました、 については、彼は確信があるようでしたが、もしばくから逃 「愛の矢じゃなくて復讐への拍車だと言ったほうがいいわ」 げるのが困難と予想されるなら、逃亡をたやすくする方法を ばくは彼女に、屋敷と馬車を受けとるつもりかと尋ねまし見つけるから、とつけ加えてありました。 ′ : つかっ 彼女はねらっているのは彼の金だけだと答えました。む ・は父親より狡猾でした。彼は金を払う前に獲物を手 に入れようとしていたのです。マノンがどうふるまったらよ ずかしいのは、一方は除いて、もう一方だけを手に入れるこ とでした。そこでばくらは・がマノンに書くと約束した ばくらは協議しました。ばくはこの計画を彼女の念頭 手紙が着き、彼の計画が完全に明らかになるのを待っことに から去らせようとなおも努力して、いろいろな危険を描いて しました。じっさいマノンはその翌日、お仕着せを着ていなみせました。ですが、なにものも彼女の決意をゆるがすこと い従僕の手から手紙を受けとりました。その男はじつに巧みはできませんでした。彼女は・に宛てて短い返事を書き、 誰もそばにいないとき、マノンに話しかける機会を見つ指定の日に。ハリに行くのはむずかしくはないので、確信をも けたのです。彼女は返事を待つように言って、すぐにばくのって彼女を待っていてくれてよいと保証しました。それから ところにその手紙を持ってきました。そして、ばくらはいっ ばくらはつぎのように手はすを決めました。すなわち、ばく しょにそれを開いて見たのです。愛の決まり文句以外に、そはただちに出発して、どこか。ハリの反対側の村に行って新し

3. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

ろしい状態に逆もどりだ。この手はほんのしばらくにぎった 夫人はといえば、手をジュリアンにゆだねたまま、ばんやり 絽だけだから、勝利をひとっ確保したうちには入らない》 と、時がすぎるにまかせていた。土地の伝承によると、シャ デルヴィル夫人がサロンにもどったらとまたすすめたとき、 ルル豪胆公 ( 叶衄紲紀 ) が植えたという大きな菩提樹の下で ジュリアンは自分にゆだねられていた手を強くにぎりしめた。すごした数時間は、彼女にとって幸福のひとときだった。菩 だいじゅ ン レナール夫人は、腰を浮かしていたが、 坐りなおすと、絶提樹の厚い茂みを吹き抜ける風のうなり、下葉に落ちはじめ タ ス え入りそうな声で言った。 た雨滴の間遠な音に、うっとりと聞き入っていた。ジュリア 「はんとうに気分がすこし悪いわ。でも、風に当たっているンは気づかなかったが、彼をすっかり安心させるような出来 ほ、つが」刄持がいいのよ」 事があった。風のために足もとでひっくり返った花瓶を起こ この一一一一口葉がジュリアンの幸福を確実にした。幸福はこのとそうとしたデルヴィル夫人に手を貸すために、レナール夫人 きその絶頂に達した。彼はしゃべり、自分を偽ることも忘れは立ち上がり、彼からいったん手をはなさなければならなか ったのだが、 た。聞き手の二人にはこのうえもなく好ましい人間のように 坐りなおしたかと思うと、まるでおたがいに了 思われた。しかし、とっぜんの雄弁には、まだいささか勇気解すみのことのように、なんのこだわりもなく彼にその手を に欠けるところがあった。デルヴィル夫人が、嵐の前ぶれみ返してきたのである。 こ、に、強く吹き出した風になやまされて、一人さきにサロ 真夜中はとっくにすぎていた。いよいよ庭を引きあげなけ ンへもどるのではないかと、心配でならなかった。そうなれればならなかった。三人は別れた。レナール夫人は愛する幸 ば、レナール・天人とき、しむかいになってしま , つ。さっきは、 福にわれを忘れ、世間知らずだったので、ほとんど自責の念 ほとんど偶然に、行動を起こすだけの盲目的な勇気もあった にかられることもなかった。夫人は幸福のあまり、眠れなか のだが、い までは、なんでもない言葉さえ、レナール夫人に った。ジュリアンは、弱気と自尊心とが一日中、心のなかで 一一一口う元気がないように感じられた。夫人からちょっと叱られ交した闘いのために疲れはてて、深い眠りにおちた。 ただけでも、負けてしまいそうだったし、手に入れたばかり 翌朝、五時に起こされた。レナール夫人が知ったなら、気 の勝利もむなしくなりそうだった。 の毒な話だが、彼は夫人のことなどはまるで考えもしなかっ デルヴィル夫人は、かねがねジュリアンを子供のように無た。 彼は自分の義務を、しかも英雄的な義務をはたしたのだ。 器用で、面白味のない青年と思っていたが、 運よく、その夜こう思うと幸福でいつばいになって、部屋に鍵をかけて閉じ おおげさ ぶくんたん は、彼の感動的で大袈裟な話しぶりが気に入った。レナール こもり、新たな喜びをおばえながら、崇拝する英雄の武勲譚 かぎ

4. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

えると、ジュリアンの眼には、ヴェリエール近在の田園風景だ。それに失敗すれば物笑いになる、というより劣等感にと 炻がけがらわしく思えた。・ ウエルジーには、こ , っした苦い思い らわれる、そう思うと、心からすべての喜びも急に消えてし 出のあとはない。生まれてはじめて、敵の姿を見ないですんまった。 そんなときジ ダだ。レナール氏はよく町へ出かけて行ったが、 ン ュリアンは大胆にも読書にふけった。横倒しにした花瓶にラ タ ス ンプを隠すほど注意をしながら、夜だけ読書することにして したが、まもなくそれもやめて、十分眠るようにした。そし て昼間、子供たちの勉強の合間に、彼の行動の唯一の規範で あり、熱狂の対象であった書物を持って、この岩陰に来た そして失意の折には幸福と陶酔と慰めを、同時に見いだした。 翌日、レナール夫人と出会ったときのジュリアンの眼つき ナポレオンが、女について述べていることや、その治世に は変わっていた。これから戦わなければならない敵のように リ ) の価値に関する種々の批評夫人をじっと見つめた。前日とはうって変わったこのまなざ 流行した小説 ( 2 社物。など →つ、つ・はい などを読んで、同年輩の青年ならだれでもとっくに知ってい しに、レナール夫人は狼狽した。優しくしたつもりなのに、 るはずのことがはじめて、すこしはわかった。 腹をたてているようすなのだ。夫人は彼の眼をまじまじと見 ばだいじゅ 酷暑がやってきた。家からすぐ近くにある大きな菩提樹のないわけにいかなかった やみ 下で、タ涼みをするのが日課となった。その闇が深かった。 デルヴィル夫人がいるおかげで、ジュリアンはあまり口を ある夜、ジュリアンは元気づいてしゃべりまくった。うまくきかずにすみ、それだけ自分の思いに没入することができた。 話す、しかも若い女性を相手にうまく話す喜びに酔いしれてその日一日、彼の唯一の関心事は、魂を鍛えてくれるあの霊 いた。身振りをしたはずみに、レナール夫人の手にふれた。感の書を読むより、おのれを強くすることであった。 す 庭におくべンキ塗りの木椅子の背にのせられていた手であっ 子供たちの勉強はずっと早目に切りあげた。それからレナ ール夫人の姿を見かけると、名誉 ( 嫉栄しを思う心がまざま その手はすばやく引っこめられた。しかしジュリアンは、 ざと目覚め、今夜はなんとしてもにぎった手をこちらにおい 手がふれても、その手を引っこめさせないようにするのが、 ておくようにしなくてはならないと決、いした。 ひ 陽が沈み、決定的な瞬間が近づくにつれ、ジュリアンの心 自分のみ ( 義務 定観念にな。ているたと田 5 った。義務ははたすべき 9 田園の一夜 ゲラン氏画『デイドン』、愛らしい素描ー シュトロンべック

5. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

には、歩いて数日もかかるような広大な不毛の原野や、非常感じさせようとしました。そして、すこしでも彼女を居心地 に高くけわしいので、屈強で元気盛んな男でもそれをたどるよくさせられると思う手段をなんでも使うことを、無理やり のは容易ではないと思われる山々を越えてゆかねばなりませ承知させました。ばくは彼女の手を、燃えるような自分のロ んでした。けれども、ばくはこの二つの方策をうまく利用でづけと熱い吐息で温めました。そして一晩じゅう、彼女のそ きるだろうとあてこんでいました。つまり、蛮人たちに道案ばで眼を覚まし、神に彼女に安らかで平和な眠りをあたえて 内をさせ、イギリス人たちに居住地に迎えてもらうというこ くださるよ , つに祈りました。ああ、神よ ! ばくの願いはな とです。 んと激しく、まごころから発したものであったでしよう , ばくらはマノンの気力が彼女を支えられるかぎり、つまり だのに、あなたは苛酷なまでの裁きによって、それをききと 当時の一里は四・四四 どけないことに決められたのです ! ) 歩きました。というのは、この比類な キロなので、約九キロノ い恋人は、もっと早くとまるのを辛抱強く拒んだからです。 どうかこの命のちちまるような物語を、手短に終わらすこ だがついに疲労に負けて、彼女はもうこれ以上一歩も進めな とをお許しください ばくのお話しする不幸は類例のないも いと打ちあけました。もう夜になっていました。ばくらは身のでした。一生涯、 ばくはその不幸を泣き悲しむように定め を隠すため木一本見つけることができないままに、広大な原られています。ばくはたえすそれを記憶のうちにしまってい 野の真中に坐りました。彼女の第一の心づかいは、出発前にるのですが、それでもそれを人にお話ししようとするたびに、 彼女が手すから巻いてくれた、ばくの傷の包帯を取り替えるばくの魂は恐怖にたじろぐかのようです。 ことでした。ばくがいくら彼女の意志に反対してもだめでし ばくらは夜の一時を静かに過ごしました。ばくはいとしの た。自分の身をいたわることを考える前に、ばくが楽になり、恋人が眠りこんでいるものと思い、その眠りを乱すことを恐 傷も危険がないのを見とどけたいという彼女の願いを退けたれて、少しも息をしないようにしていました。と、夜明けに コ ら、彼女を完全にがっかりさせて殺すようなものだったでし なってすぐ、彼女の手にさわってみると、その手が冷たく震 ス レ よう。ばくはしばらくのあいだ彼女の意志に従いました。そえているのに気がっきました。ばくはあたためようとして、 ン して無言で、心に恥じながら手当を受けました。 手をばくの胸に近づけました。彼女はその動作に気づき、ば ノ マ だが、マノンの愛情が満たされたとき、今度はばくの愛情 くの手を握ろうと努力しながら、か弱い声で自分の最期のと 2 かはげしく燃えあがる番でした , ばくは着ているものをみきが来たように思うと言いました。ばくは初めその言葉を不 んな脱いで、それを彼女の下に広げて固い地面をやわらかく仕合せのときにありがちな文句ととって、やさしい愛の慰め

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とられていたジュリアンは、無意識のうちにレナール夫人の 、耳のつけ根まで赤くして、玄関口にたたずみ、呼び鈴を どうてん 手を離してしまった。この仕打ちに哀れな女の心は動潁し、押すことさえできすにいたあの若い職人姿だった。 テルヴィル夫人 そこに自分の行く末をはっきり見る思いがした。 自分の立場をあれこれ考えているうちに、・ ジュリアンの愛情に確信があったら、おそらく夫人の貞節の征服は思いとどまるべきだと、った。レナール夫人が自 ンは、彼に抵抗するだけの力をえたであろう。これきりで彼を分に好意を寄せていることに気づいているらしいからだ。そ ス 失うのではないかという懸念から、夫人は清熱に駆られて、 うなれば、レナール夫人のほうにもどらざるをえない ジュリアンがばんやり椅子の背にのせたままでいる手を、もの女の性格について、おれはなにを知っているだろう ? 》と、 う一度にぎろうとさえした。これが若い野心家を目覚めさせジュリアンは自問した。《ただこれだけだ。旅行前は、おれ た。食卓で、子供たちとともにテープルの端に坐っているとが手をにぎると、女が引っこめた。ところが今はおれが手を き、いかにも保護者然と微笑を浮かべて、自分を眺めやるあ引っこめたら、女のほうからおれの手をとって、強くにぎり しめる。これまで女から受けた軽蔑をそっくり返上するのに の尊大な貴族たちに、このようすを見せてやりたいものだと しい機会だ。これまでどれだけ男をこしらえた女か、わかっ 思った。《この女はおれをもう軽蔑できまい。そうなれば、 この女をものたものじゃない , おれを可愛がる気になったのも、会うの この女の美しさにこたえてやらねばならない にするのがおれの務めだ》こんな考えは、友人のあけすけなが簡単だからというだけの理由からかもしれない》 悲しいことに、これこそ過度の文明がもたらす、不幸なの キ日。言を断かされる前だったら、頭に浮かばなかっただろ である ! すこしでも教育を受けた青年は、二十歳になると とっぜんこう決心すると、これは愉央な気晴らしだった。 心の自然の動きを失ってしまう。心の自然の動きがなければ、 《この二人の女のうち、どちらかをものにしなくてはならな恋愛はしばしば退屈きわまる義務にしかすぎない い》デルヴィル夫人にむしろ言い寄ってみたい気がした。夫《なんとしてもこの女をものにしなければならない理由がほ 人のほうが気に入ったからというのではなく、夫人は学識をかにもある》とジュリアンのつまらぬ虚栄心が囁きつづける。 尊重された家庭教師としての自分しか知らす、レナール夫人《将来出世をしたとき、なぜ家庭教師という卑しい職業につ とが こわき いたかと咎められても、恋ゆえに身を落としたと言い逃れで にお目見えしたとき、たたんだラシャの上衣を小脇にした製 きるわけだ》 材所の職人としての自分を見たことがなかったからである。 ジュリアンはふたたびレナール夫人の手を離し、それから だが、レナール夫人がいちばんいとしく田っ・姿は、まさし

7. 集英社ギャラリー「世界の文学」06 -フランス1

バルザック 852 かっています。自分で自分の過ちを償おうとするでしよう。 彼女の目に涙が見えました。彼女は見晴らし台へ登ってゆき、 そして自分の行動や一一一一口葉に責任のとれる人間として扱ってく なおも牧草地ごしに私を見ていました。私がフラベールへの れたといって、あなたが好きになるにきまっています」 道に出た時、月に照らし出された彼女の白いドレスがまだ見 「五日間もお会いできす、お声も聞けないんですか ! 」 えました。それから、ややあって彼女の部屋に明りがっきま 「わたしにおっしやる一一 = ロ葉には、そんなに熱をこめないよう にしていただきたいですわ」と、夫人は言いました。 「ああ、ばくのアンリエット ! 」と、私は心のなかで独りご 私たちは黙って、見晴らし台を二周しました。それから彼ちました、「この地上で輝いたことのあるもっとも純粋な愛 女が私に命令の口調で言いましたが、その口調が私に、自分をあなたに , の魂が完全に彼女に支配されていることを思い知らせました。 私は一歩ごとに振り返りながらフラベールへ帰って行きま 「夜も更けました。さあ、お別れいたしましよう」 した。私は自分のなかに、なんといっていいかわからないあ 私が彼女の手に接吻しようとすると、彼女はためらい、そる満足を感じていました。すべての若者の心に疼いている献 ゆだ れから私に手を委ねて、懇願するような声で言いました。身への欲求も、私にあってはながいあいだすっと弾みのつか 「わたしが自分から差し出すときしか、手を取らないでいた ない力だったわけですが、それにもついに輝かしい前途が開 だきたいんですの。わたしの自由意志を残しておいていただ けてきたのです ! ただの一歩で新しい生活へ踏み入った聖 きたいわ。そうでないとわたしが、あなたの所有物というこ職者さながらに、私は聖別され、新しい信仰に身を捧げたの あらが とになのて、それは許されないことですもの」 でした。「ええ、奥さん ! 」というただの一言が、ましがた 「さようなら」と、私は夫人に言いました。 い恋情を自分ひとりのために、いにしまっておくこと、友情に 私は彼女があけてくれた、下の小さな通用門から外へ出まつけこんでこの女を一歩一歩その恋に引きずりこもうとし した。それを閉めようとする時、彼女はもう一度その門をあないことを私に誓わせたのでした。目覚めさせられたあらゆ け、こう言いながら私に手を差し出しました。「ほんとうをる高貴な感情が、私自身の内部でその入りまじった声を響か ほしくず 一一一口うと、あなたは今晩とても親切にして下さったのね。わたせていました。狭苦しい私の部屋へ戻る前に、私は星屑をま しの末来を慰めて下さった。さあどうそ、手をお取りになっ き散らした夜空の下でうっとりとなって、なおも私の内部の やまばと て、さあどうぞ ! 」 あの傷ついた山鳩の歌う声、あの無邪気な打明け話の飾り気 私は何度も彼女の手に接吻しました。そして目を挙げると、のない語調に聞き入り、いずれも私に向かってくるはすのあ うず

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スタンダール 426 るこの男を馬鹿にしてやるには、現にその面前で、細君の手のだー ジュリアンが留守のあいだ中、夫人は耐えられない をにぎるのも一案ではないか ? そうだ、やってみよう。さ ほどの不幸にさいなまれ、いろいろと思案していたのだった。 んざん侮辱されたんだから》 《なんてことでしよう ! わたしがひとを愛する、恋をする こう思うと、ジュリアンにはもともと欠けている、いの平静なんて ! 夫のあるわたしが、 ほかの男を好きになるなん さは、たちまち吹きとんでしまった。不安にとりつかれ、ほて ! でも、うちのひとには、こんなに暗いっきつめた気持 かのことはなにも考えられず、ただレナール夫人が手をまかを一度も感じたことはない。ひっきりなしに、。 シュリアンの せてくれるようにとねがった。 ことばかり考えているのだもの。でも、ジュリアンは、けっ レナール氏は政治の話をしながら、腹をたてていた。ヴェ きよく、わたしを尊敬している子供というだけだわ ! この 丿エールの二、三の実業家がとうとう自分より金持になって、気違いじみた気持も一時的だろう。わたしがこの青年にどん わたしが 選挙で自分の妨害をしようとしている。デルヴィル夫人は町な気持を抱こうと、うちのひとには関係がない , 、 , シュリアンはこの舌に、ら、 長の一一一一口うことを傾聴してした。。 ジュリアンとするような空想的な話などは、レナールには退 らして、自分の椅子をレナール夫人の椅子に近づけた。闇が屈にきまっている。あのひとはお仕事のことばかり考えてい すべてを隠してくれた。思いきって、夫人の洋服の袖からむるので、あのひとからなにかをとりあげて、わたしがジュリ き出しに出ている美しい腕のそば近くに手をもっていった。 アンにあげてしまうことにはならないわ》 ほお そばく 胸がさわぎ、頭に血がのばった。その美しい腕に頬を寄せる この素朴な心の純潔さは、かって経験したこともない情熱 と、彼は思いきってそこに唇を押しあてた。 にかきみだされてはいたものの、偽善のために汚されてはい レナール夫人は震えあがった。夫がすぐそこにいるのだ。 なかった。夫人は自分を欺きながら、それと気づかなかった ててジュリアンに手をあたえると同時に、彼をすこし押しが、 道徳的本能はやはりおびやかされていた。こうした心の かっと、つ のけた。レナール氏があいかわらず成り上がり者の平民や過葛藤になやんでいるとき、ジュリアンが庭に出てきた。声が ンののし 激革命派を罵っているあいだ、ジュリアンは自分にゆだねら 聞こえたかと思うと、もう傍に来て坐っていた。すると、夫 れた手に、熱烈な、すくなくともレナール夫人にはそう思わ人の心はこころよい幸福感にうっとりしたが、この幸福感は、 せつぶん れるような接吻を浴びせた。しかし、哀れなことに夫人は、 ここ二週間来夫人を魅惑するより、むしろ驚かせたものだっ 、、。ゝナ . よゝっこ。しカー ) 、ー ) ま、ら 宿命的なその日の昼間、自分でそれとも知らずに愛していた ・大人にはなにもかも思しカレオカオ 男が、ほかの女を愛している証拠を見せつけられてしまった くすると、こんな考えが浮かんだ。《ジュリアンの姿さえ見 そで

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実しきって、疑惑も嫉妬も知らないあの確実な愛を理解さし、もとどおりのはればれとした表情になっていました。し せて下さいました。 かしその顔色が、一応鎮められたものの消しとめられたわけ 、つカカ ではない昨夜の苦しみを、ありありと窺わせるのでした。彼 ある深い憂愁が私の魂をむしばんでいました。こうした家女は夕方、足の下でかさこそと音を立てる秋の落葉のなかを 庭内の生活の眺めは、まだ若くて社会的な感情の動揺に慣れ散歩している時に、私に言いました。「苦しみは無限なのに、 ていない心に嘆かわしい影響を残しました。社会への門出に喜びには限りがありますの」この一言こそは、束の間の至福 よど しんえん あたってこんな深淵、底知れなし、冫、 、架淵、水の澱んだ海にぶっとの比較によって彼女の苦悩を明らかにするものでした。 かるとは。さまざまの不運のそんな恐ろしい競合が無限にい 「人生を悪く一一一一口うものではありませんよ」と、私は彼女に一 = ロ ろいろな考えを私に暗示し、私は社会生活への第一歩を踏み いました。「あなたは恋をご存知ないけど、恋には天に届く 出したその時から途方もなく大きな物差しを手にしたのです。までの光輝を放っ逸楽があるものです」 それにくらべれば、ここに報告するその他の場面は取るに足「それは言わないで ! 」と、彼女は言いました、「そんなも りないものとならざるを得ませんでした。私の浮かぬ顔を見のを少しも知りたいとは思いません。グリーンランド人もイ て、シェッセル氏夫妻は私の恋がはかばかしく進展していなタリアへ移せば死ぬでしよう ! わたしはあなたのそばにい いものと判断し、私はいかなる点でも、自分の情熱のためにると気分が落ち着いて幸せで、あなたになら考えていること わが愛するアンリエットの評判を損なわないという幸運に恵を何でも言えるのです。わたしの信頼をこわさないでいただ そうりよ まれました。 きたいの。どうして僧侶の徳と自由な人間の魅力とを持って いただけませんの ? 」 その翌日客間にはいってゆくと、そこに彼女がひとりでい 、かずき ました。彼女は私に手を差し出しながら、しばらくの間じっ 「そうすれば、あなたが盃に何杯もの毒を飲ませるので どうき と私を見つめて、こう言いました。「このお友達は、どうしす」と、私は彼女の手を取って、せわしい動悸を打っている てもわたしを困らせるほど優しくして下さるのかしら ? 」目私の心臓に押し当てながら彼女に言いました。 百 間が急にうるんで、彼女は立ち上がり、それから絶望的な哀訴「またそんなことを ! 」と、まるでなにか烈しい痛みでも感 谷 じたかのように手を引っこめながら、彼女は叫びました。 の口調で私に言いました。「二度とあんなお手紙は下さらな いで ! 」 「それではあなたは、わたしの傷口の血をお友達の手で止め モルソフ氏の態度は慇懃でした。伯爵夫人も元気を取り戻てもらうという、悲しい喜びまでわたしから取り上げてしま いんぎん

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ンは、あと十五分もマチルドがうるさく言っているあいだ、 やっとのことで、マチルドが弁護士とともに出ていった。 レナール夫人のことばかり考えていた。マチルドの一一 = ロうことジュリアンは、弁護士のほうにはるかに強い友情を感じてい にときどき答えはしたが、われにもなく、ヴェリエールの寝た。 一室が思いだされて、そこから心をそらすことはもうできなか ンった。オレンジ色のタフタの掛布団の上におかれた、ブザノ スソンの新聞が眼に浮かんだ。わなわな震える白い手がそれを にぎりしめ、レナール夫人が泣きぬれている姿が見える : 一時間後、熟睡していたジュリアンは、手の上を涙が伝っ 涙が魅力的な顔を伝わって落ちるのを、ひとつひとっ追った。ているのを感じて眼を覚ました。《ああ ! またマチルドか》 ラ・モール嬢は、ジュリアンから同意を得られないまま、 と、完全に覚めやらない頭で考えた。《定石どおり、泣き落 弁護士をよび入れた。幸い、この男は一七九六年のイタリアとしの手で、おれの決心を揺がしに来たか》またもや愁嘆場 遠征に従軍した旧大尉で、マニュエル ( フランスの自 ) とは戦友がはじまるかと思うと、うんざりして、眼もあけなかった。 の間柄だった。 女一房から逃げだすべルフェゴールラフォンテーヌ作。人間の夫生 形式上、弁護士は囚人に決心をひるがえすようにすすめた。 話 ) の詩句が思い浮かんだ。 ジュリアンは、敬意をもって応対するつもりで、詳細にその 聞きなれない嘆息が聞こえた。眼をあけると、レナール夫 人だっこ。 理由を説明した。 「なるほど、そんな考えかたもありますな」と、最後にフェ 「ああ ! 死ぬ前にあなたにもう一度会えるとは。夢ではな リックス・ヴァノ氏も言った。これが弁護士の名だった。 いだろうか ? 」ジュリアンは夫人の足もとにひれ伏した。そ 「しかし、控訴期間はまだまる三日ありますし、わたしの義してわれに帰った。 務ですから、毎日ここへきます。それにここ二カ月のあいだ 「許してください。あなたから見れば、僕はただのひと殺し に、牢獄の下で、火山が爆発すれば、あなたは救われるかもです」 しれない。また、病死という可能性もありうるわけですから 「じつは : : : 控訴してくださるようにと、わたくし、おねが いにまいったのです。そのおつもりがないことは存じていま な」と、弁護士はジュリアンの顔を見つめて言った。 : 」涙にむせんで、それ以上一一 = ロ葉がつづかなかっ ジュリアンは弁護士の手をにぎった。「感謝します。あなすけれど : たはりつばな方だ。このことは忘れません」