た。これほどまでにいとしいと思ったことはなかった。・彼も、 う一一 = ロうと、彼女はジュリアンの手をとり、彼のほうへ向きな マチルドにほとんど劣らず、狂おしい思いに駆られていた。おった。 もし彼女にうまくやってのけるだけの沈着さと勇気とがあっ 激しい動作のために、ケープがすこしすれた。ジュリアン ←たら、ジュリアンはむなしい芝居などほうりだして、彼女のは美しい肩を見た。すこし乱れた髪が、甘美な思い出をさそ ン 足下にひざますいただろう。だが、話しつづけるだけの気力った : タ スはあった。《ああ ! コラゾフ》ジュリアンは心のなかで叫彼は負けそうになった。《うかつに一言でももらしたら、 んだ。〈〈君がここにいてくれたら、僕の行動のしるべとして、 絶望のうちにすごしたあの長い日々がまたはじまる。レナー 君の一言が、どんなにありがたいことだったろう ! 》そう思ル夫人は、自分の心のままに振舞うために、理屈を考えだし いながらも、彼の声はこう言っていた。 たが、この上流社会の娘は、感動してもいい正当な理由がは 「ほかの気持はなくても、感謝の気持だけで、僕は元帥夫人っきりしたうえで、やっと感動するのだ》 に心を惹かれるのです。あの方は寛大な態度を見せてくれ、 一瞬のうちにこの真理をつかむと、一瞬のうちにまた、彼 けいべっ : たしかに 僕が軽蔑されているときに慰めてもくれました : は勇気をとりもどした。 うわ こちらにうれしい思いをさせてはくれても、永続きしない表 マチルドがにぎりしめている手を引っこめると、わざとら 面だけの好意というものがあります。そんなものはいつまでしい尊敬をこめて、すこし離れた。男の勇気としてこれ以上 も信用できません」 の勇気はあるまい。それから、長椅子の上に散らばっている 「まあ ! なんていうことを ! 」と、マチルドは叫んだ。 フェルヴァック夫人の手紙を残らす拾い集め始めた。そして、 「では、あなたはどんな保証をしてくださるのです ? 」と、 いかにも残酷な、ひどく丁寧な態度で、つけ加えた。 ジュリアンはするどく、決然とした口調で答えた。外交官的「ラ・モールのお嬢さま、この件につきましては、じゅうぶ な、慎重な一一一一口葉づかいを一瞬忘れたかのような語調だった。んに考えさせていただきます」彼は足早にそこを離れて、図 「いまのところはもとの立場を返してくださるお気持らしい 書室を出ていった。ドアがつぎつぎに閉まる音がマチルドの ですが、それが二日以上っづくという保証がどこにありま耳に聞こえた。 す ? どんな神さまが請け合ってくれるのです ? 」 《ひとでなし、平然としているわ》と、彼女は思った。 「わたしがこんなにまで愛していることと、あなたに捨てら 《まあ、わたしとしたら、なんということを ! ひとでなし れたら耐えられない不幸に陥ることが、その保証ですわ」そだなんてー しいえ、あのひとは賢くて、慎重で、善良だわ。
得したようには見えない。確実な終点でありながら、われわノールの住まいからずいぶん遠くに来ていることに気がつい れを慰めてもくれず、なだめてもくれない。誰もが平生は気た。さそ心配しているだろうと考えて、彼女のそばへ早く帰 にもかけずに忘れていて、ほんのいっときだけこわがるのろうと、疲れの許す限りで足を急がせたとき、馬に乗った一 だが、業にしても」と私は続けた。「やはりそういう馬人の男に行き遇った。彼女が私をさがしによこしたのである。 鹿げた矛盾を冒しているのだ ! まるで人生に終りがないはその男の話では、彼女は十二時間このかた、ひどい不安にと すだとでもいうように、人生に反抗しているではないか , りつかれている。ワルシャワまで行き、近在をたすねまわっ くもん わすかばかりの惨めな歳月を取り戻そうと、あたりに不幸をたあと、言うに言われぬ苦悶の状態で家に帰って来た。そし 撒きちらしているが、どうせそんなものは時が来れば奪い取て、村人たちが野原の四方八方に散らばって私を見つけ出そ られてしまうのだ ! ああ ! そんな無駄なあがきはやめようとしているのだった。この話を聞いて、私はます、何とも いまのこの時が流れて行くのを、自分の日々が次々とあつらいじりじりした気持でいつばいになった。エレノールに わただしく去って行くのを、楽しんで見送ろう。半分は過ぎ こうもうるさく監視されている自分に腹が立ったのだ。すべ てしまった生涯の、冷ややかな傍観者として、じっと動かずて彼女の愛情から出たことにすぎないと、 いくら自分に一 = ロい にいよう。人が横取りしようが、引き裂こうが、それで人生聞かせてもだめだった。その愛情なるものから、同じく私の が伸びるわけではない , そんなものをあらそってみても何すべての不幸も出たのではなかったか ? しかしさすがに気 と ) か になるんだ ? 」 が咎めたので、そんな気持はどうにかこうにか抑えつけた。 死の観念はいつも私を大きく支配して来た。。 とんなに情感彼女が気を揉んで苦しんでいるのはわかっていた。私は馬に が高まっているときでも、死を思うだけでいつもたちまち冷乗った。二人をへだてる距離をたちまちに駆け抜いた。彼女 静になった。このときもそれが私の胸にいつもの効果を及ばは喜びにわれを忘れて私を迎えた。その感動ぶりに私も感動 し、エレノールに対する私の気持もおだやかになった。苛立した。二人の会話は短かった。なぜなら、すぐに彼女は、私 ちがすっかり消えて、その錯乱の一夜の印象としては、甘い、が休息を必要としているに違いないと考えたからだ。そして フ ほとんど落ちついた気分が残っているだけだった。おそらく 私は、少なくともこのときは、彼女の心を傷つけるようなこ アは、私の感じていた肉体的疲労も、この落ちつきに力を貸しとを何も言わずにそばを離れた。 ていたに違いない 夜明けが近づいていた。すでに物の見分けがついた。エレ
スタンダール 548 あふ これが夫人をすこし安心させた。 そんな馬鹿なことが ! 」その調子には真心が溢れていて、冷 「梯子をあげておきます。物音で目を覚ました召使が見まわ然と聞き流せるものではなかった。 りにでも来ると、面倒なことになりますから」 夫人は答えなかった。彼は苦い涙を流した。まったく、も 「それより、出ていって。帰ってください」そう一一一一口う声には う話をする気力もなかった。 真の怒りがこもっていた。「ほかのひとのことなんか、どう 「それでは僕は、僕を愛してくれたたった一人のひとからも、 でもいいのです。あなたがこんな恐ろしいことをなさるのをすっかり忘れられてしまったんだ , これ以上生きていたっ 神さまがごらんになって、わたしを罰します。前にわたしがて、なんになろう ! 」だれか他人に出つくわすのではないか、 もっていた気持につけこもうなんて、卑法ですわ。わたしに という心配がなくなると、ジュリアンの勇気はなくなってし はもうそんな気持はありません。おわかりになって、ジュリ まった。恋、いのほかは、なにもかも消えてしまった。 アンさん ? 」 , 。長いあいだ声もたてすに泣きつづけた。夫人の手をと 音をたてないように、ゆるゆると、彼は梯子を引きあげた。ると、夫人はその手を引っこめようとしたが、ほとんどひき ゆだ 「旦那さまは町にいるの ? 」こんななれなれしい口をきいたつったように身をふるわせたあとで、その手を彼に委ねた。 のも、べつに夫人にたてつくつもりではなく、昔の習慣がっ真っ暗だった。二人はレナール夫人のべ ッドに、ならんで腰 い出たまでである。 かけていた。 「おねがいですから、そんな口のききかたはなさらないでく 《一年二カ月前とは、なんというちがいた ! 》と、ジュリア ださい。そうでないと、主人を呼びますよ。どんな結果にな ンは思った。すると涙がとめどもなく溢れた。《会わないで ろうと、あなたを追い出さなかったことだけで、わたしはも いると、こんなふうに、人間の感情なんて、なにもかも消え うあまりに大きな罪を犯しているのです。あなたはお気の毒てしまうのか ! 》 な方ですわ」と、夫人は、ジュリアンの自尊心が敏感なのを 「せめて、別れてからのことを聞かせてください」と、ジュ 承知のうえで、わざと相手を傷つけるようなことを言った。 リアンは、夫人が黙りこくっているのにとうとう当惑して、 親しい口のききかたをはねつけられ、あてにしてきた愛情涙でとぎれがちな声で言った。 きずな の絆をむざんに断ちきられてみると、ジュリアンの激しい恋 「お話ししますとも」と、レナール夫人はきびしい声で答え とが 、いは、狂おしいまでに燃えあがった。 た。その調子には、どこかそっけない、。 シュリアンを咎める 「なんですって ! あなたが僕をもう愛していないなんて、ようなふしがあった。「あなたがお発ちになったとき、わた
デルヴィル夫人は振り返って、ジュリアンだとわかると、 きにいた。「、い配しなくて いい。司教猊下が姿をお見せにな あらわ 激しい怒りを露にして言った。 るまでには、まだたつぶり二十分はある。それまでに気分を 「行ってください。あっちへ行ってください。なによりも、 なおすことだ。お通りになるときには、からだをかかえて立 たせてあげよう。年はとっても、丈夫だし、カはあるから ダこのひとに二度と顔を見られないようにしてください。あな 外たを見たら、はんとにこのひとはふるえあがってしまいます。ね」 ス あなたを知る前し。 こま、とても幸せなひとだったのに ! あな だが、司教が通りかかったとき、ジュリアンのからだのふ たのやり口はあんまりです。行ってください。すこしでもまるえがあまりに激しかったので、シャ神父は彼を紹介するこ だ恥を知る気持が残っているなら、あっちへ行ってくださ とを断念した。 「あんまり気を落とすことはない。またいい機会を見つけて あふ その口調には威厳が溢れていたし、そのときジュリアンもあげよう」とシャ神父は言った。 とても気弱くなっていたので、そこを離れた。《あのひとは、 一斤は六 ) の大ろうそくを神学校の礼拝 その夜、神父は十斤 ( 百 いつもおれのことを敵視していた》彼はデルヴィル夫人のこ 堂にとどけさせた。神父の言うところによれば、ジュリアン とを考えながら、そう田 5 った。 の配慮で、早く灯を消したおかげで節約できた分だというの ちょうどこのとき、聖体行列の先頭を行く僧侶たちの、鼻だが、これはまったくでたらめだった。哀れな青年は自分自 にかかった歌声が堂内に響きわたった。行列が帰ってきたの身火が消えたようにまいっていた。レナール夫人の姿を見て だ。シャ・ベルナール神父はなんどもジュリアンを呼んだが、 からは、なにも考えられなくなっていた。 すぐには当人の耳に入らなかった。神父はついに自分でやっ てきて、死んだようになって柱の陰に隠れているジュリアン 最初の昇進 の腕をつかんだ。彼を司教に紹介しようというのだ。 「気持が悪いのかい。働きすぎたからな」と、ジュリアンが 彼はおのれの世紀を知り、おのれの県を知っ た。おかげで金持になった。 青い顔をし、ほとんど歩けない状態なのを見て、神父はそう プレキュルスール 「先駆者」紙 一一一一口うと、彼に腕を貸してくれた。「おいで、わしのうしろに 聖水係の小さな腰かけがあるから、そこに掛けなさい。君の 姿はわしが隠してあげよう」そのとき、二人は正面入口のわ ジュリアンは、大伽藍での事件以来、深い夢想におちたま
す。こうしてヌムール殿は、はげしい苦しみをさらに強くすたまれぬお気持になって、そそくさとお戻りになりますが、 当のご本人にも、なぜお帰りになるのか、ヌムール殿に話を ることばかりをお思いになりながら、旅立たれたのでした。 させぬためかどうかもおわかりにならない有様です。お屋敷 クレーヴの奥方は、ヌムール殿のご来訪がひきおこした心 の乱れから、いささか気をとりなおされると、会うことをお近くにまいられますと、ヌムール殿がまだいられるかどうか と , つや がわかる手だてはないものかと見まわされましたが、。 ことわりになったさまざまの理由が心から消えてしまい、な にか過ちを犯してしまったような気がなさり、もしあえてならもういらっしやらないことがわかり、いささか胸をなでお さるなら、また、まだ充分間にあうのならば、ヌムール殿をろされるのでした。また、あまり長いことそこにいられなか ねた あんど ったのだなとも思われて安堵なさいます。もしかすると妬ま お呼び戻しになりたいほどのお気持になられるのでした。 ヌヴェールの奥方とマルチーグの奥方は、クレーヴの奥方しく思わなければならない相手は、ヌムール殿ではないかも のところから出られると、新しい王妃さまのところへ参られしれぬとまで想像されるのです。疑いなくヌムール殿だとお ました。ちょうど、クレーヴ殿もそこにおられました。王妃考えになりながらも、一方でなおもそれを疑おうとなさるの さまが、おふたりにどこにいらっしたのかとお尋ねになりまです。それにしてもあれだけ確かなことがいろいろとあるか し。いくら不確かな気持でいたいと望んでも、そういっ したので、クレーヴの奥方のところから参りました、奥方のらこよ、 ところで、大ぜいの方がたと午後のしばらくを過ごしまして、までもそのようなお気持ではいられまいともお考えになるの ヌムール殿だけをお残しして失礼してまいりました、とお答でした。いきなり奥方の部屋へまいられ、しばらくどうでも よいようなことをお話しになったのですが、やがて、奥方が えになりました。この奥方たちが、なんの気なしに申しあげ たこの一一一一口葉は、クレーヴ殿にとっては、どうでもよいことでなにをなさっていたか、だれとお会いになったかをお尋ねに なりたいお気持をおさえきれなくなられました。奥方はそれ はありませんでした。ヌムール殿が奥方に話しかける機会は 方 らのことを申し上げます。とはいえ奥方がヌムール殿のお名 いくらも見つけられると思ってはいられたのですが、ヌムー のル殿が妻の部屋にいて、しかもふたりきりで、寄せる思いの前をあげられないのがわかり、おずおすと、お会いになった たけをお話ししているかもしれないとお考えになると、それお方はそれですべてですかとお尋ねになります。なんとかし ク がいま、はじめてのことのように思われ、とても耐えがたくてその名を言わせたい、奥方の隠し立てに苦しみたくないも しっとほむら 盟思われて、嫉妬の焔が、かってないほどにはげしくむらむらのをとお思いになったからなのです。奥方はまことお会いし と燃えあがるのでした。これ以上王妃さまのところにはいたておりませんので、お名前をあげるわけにはまいりません。
つきまとったものだから、彼女もやむをえすもう来るなと言じているらしく見えるときも、同じように心が痛んだ。彼女 い渡したところ、男は彼女に対して無礼な冷やかしを浴びせの方が自分より善人だと思い、自分が彼女にふさわしくない ンかけ、私もこれには我慢ができないと思った。私たちは決闘のを情なく思った。愛しているのに愛されないというのは恐 タ 自分も怪我をした。この事ろしい不幸である。だが、もう愛してもいないのに情熱的に し、私は彼に重傷を負わせたが、 ス ン コ件のあとで私を見舞いに来たときの、エレノールの顔に浮か愛されるというのも実に大きな不幸である。私はエレノール んだ、動揺と、恐怖と、感謝と、愛清の入りまじった表情は、のために自分のいのちを危険にさらしたわけだが、彼女が私 ことわるのを押し切っ 言葉で言いあらわすことができない なしに幸福になるためなら、何度でもいのちを捨てたに違い て彼女は私の家に泊りこみ、私が回復するまで一刻もそばをなかった。 父の許してくれた半年の期限はもう切れていた。出発を考 離れなかった。昼の間は本を読んでくれたし、夜はほとんど えなければならなかった。エレノールはべつだん出発に反対 眠らすに看護してくれた。私のどんな小さな身動きにも注意 カオ しなかったし、それを遅らせようともしなかったが、 二カ月 を払い 、どんな望みも必す先まわりして叶えてくれるのだ。 かゆ たったらもう一度彼女のそばへ戻って来るか、それとも彼女 痒いところに手の届く親切さで、能力や気力をいつもの何倍 も発揮していた。私が死んだら自分も死ぬと絶えす約束するが私を追って行くのを許すかの、どちらかを約束させた。私 ので、私は心の底から動かされ、すまないという気持で胸がはおごそかにそれを誓った。彼女が自分自身と戦って、苦痛 をこらえているのを見ては、どんな約束でもせずにはいられ これほどやさしい愛情にむくい 痛んだ。これほど変らない、 るだけのものが、自分の中にあってくれたらと思って、思い なかったろう ! 彼女は私に行くなと要求することもできた はすだ。涙をこばされたら従わないはすはなかったのを、私 出や、想像力や、さらには理性やら義務感やらの助けを借り ようとしたのだが、無駄な努力だった ! 立場のむすかしさ、 も心の底で承知していた。彼女がそうした力をふるわなかっ たことをありがたく思ったし、そのためにいっそう彼女が好 いすれは別れなければならないという確実な見通し、それに もしかしたら、自分からは断ち切れない絆に対する何ともっきになったような気がした。それに私自身も、こんなにひた かない反抗、そういったものが私の内部をむしばんでいた。すら身を捧げてくれる相手と別れるのが、強くくやまれてな 因 5 知らすな気持を彼女に隠そうとしながら、自責の念にかららなかった。関係が長く続くということには、これほど深い れた。 , 彼女にとってそんなにも必要な愛を彼女自身が疑って何かがある ! それは知らぬまに、われわれの生活の欠かせ ない一部分となってしまうのだ ! われわれは遠くから、冷 しるように見えるとき、私は心が痛んだが、彼女がそれを信 き一さ
誇らしい思いで人びとの間を歩き、支配者のような目つきでとに入りびたりで過ごした。私に身を捧げたことで、彼女の 四彼らを見まわした。吸いこむ息が、それだけですでに喜びだ情愛はますますつのったように見えた。私が立ち去ろうとす った。私は自然の中へ飛び出して行き、自然が私に与えてくるときは決まって引きとめようとした。外へ出るときはいっ ン れた思いがけない恵み、広大な恵みに感謝を捧げるのだった。戻って来るかとたすねた。二時間別れるだけでも彼女には耐 ス ン えられなかった。私の帰る時間をくどいほど正確に指定した。 コ 私は喜んでそれを守った。彼女の示してくれる気持がありが 第四章 たかったし、嬉しかったからである。けれども、日常の暮し だれ 恋の魅惑よ、誰がおまえを描き出せよう ! 自然の定めての上のさまざまな問題は、好き勝手にすべてわれわれの望む おいてくれた相手をついに見つけたというあの確信、たちど ままになるものではない。自分の歩みがことごとく前もって ころに人生の上に降りそそぎ、その神秘を説きあかしてくれ決められ、自分の時間がことごとく数えられているというこ みいだ るかに見える、あの日の光、どんな小さなことにでも見出さ とは、ときには窮屈な場合もあった。することなすことを大 れるあの未知の価値、詳しいことはすべてその楽しさそのも急ぎで片づけなければならす、交際の大半を断ち切らなけれ のゆえに記憶に残らす、ただ魂に幸福の跡が一筋長く残るば ばならなかった。普通ならことわり切れないような何かの集 かりの、あのすみやかな時間の流れ、日ごろのやさしい気持りに知人から誘われたりすると、返事のしようがなくなって の中にふとわけもなくまじって来る、あの浮き浮きした気分、しまうのだ。そういう社交生活の楽しみなどは、もともとあ うれ 二人でいるときのあれほどの嬉しさ、離れているときのあれまり気乗りもしなかったのだから、エレノールのそばにいら ほどの望み、あらゆるくだらない心配ごとからのあの超越、れればべつだん惜しくもなかったが、同じ捨てるにしてもも まわりのものすべてへのあの優越感、いま自分たちの生きてう少し自由に捨てさせてもらいたかった。彼女のそばへ戻る にしても、もう時間が来たとか彼女が心配して待っていると いる場所に世間の手はもはや届かないという、あの安心感、 考えという考えを見抜き、感動という感動に答える、あの心 か考えずに、再会して味わうはすの幸福を想像するにもいち のかよい合し 恋の魅惑よ、おまえを味わった者が、おまえ いち彼女の苦しみなど思い浮かべずに、私自身の意志で戻る し、しオしエレノーレまよ を言いあらわせるはずはない ! のだったら、もっと楽しかったこ違、よ、 * * * 氏がさし迫った用事で、ひと月半ほど留守にしなけるほど私の暮しの中の強烈な喜びだったが、もはや目的では きずな なくなり、一つの絆となっていたのである。それに私は、彼 ればならなくなった。その間、私はほとんどエレノールのも
ばくはあとマノンのために下着と衣服を買うことしか用事 めました。氏はさらに話をつづけて、彼はそれからばくと ばくの美しい恋人に会えるかと思って、その足でレスコーのがのこっていなかったので、氏に、もしばくといっしょに あるじ 馬車製造人である家の主は、マノン何軒かの店にしばらく立ち寄ってもらえるなら、すぐにも出 家に寄ってみましたが、 もばくも見かけなかったと断言しました。そして、もしばく発できると言いました。氏はばくの提案を、彼の気前のよ らがレスコーに会いに来るはずだったのなら、彼の家に姿をさをそそるためだと思ったのか、それとも単に気高い心の動 見せなかったとしてもふしぎはない、おそらく、ほば同時刻きからかはわかりませんが、すぐに出かけることを承知して、 にレスコーが殺されたのを知ったにちがいないから、と言い彼の屋敷に出入りしている商人の店にばくを連れてゆきまし た。そして、ばくが買おうと思っていたのより高い値段の布 ました。主はさらに、レスコーの死の原因と事情について、 地を何枚も選ばせ、ばくが代金を払おうとすると、一文でも 知っていることを央く教えてくれました。 事件の二時間ばかり前、レスコーの友達の近衛兵がやってばくから受けとることを商人に固く禁じました。この行為が じつに気持のよい洗練された態度でなされたので、ばくは恥 きて、レスコーに賭博をしょ , っと一一一一口いました。レスコーがど んどん勝ったので、相手は一時間で百エキュ、つまり有金全すかしい思いをせすに、因 5 恵に甘えることができるように思 いました。ばくらは連れだってシャイヨへ向かい、そしてば 部を損してしまいました。その不幸な男は一文なしになった くは、出かけたときより安らいだ気持でそこに帰り着きまし ので、レスコーに負けた額の半分を貸してくれるように頼み ました。そして、そのことをめぐっていざこざが起こり、二た。 おおげんか げつ・ : っ 人はひどく激昂して大喧嘩になりました。表に出て決闘する ここまでの物語にシュヴァリエ・デ・グリュは一時間以上 のをレスコーがこばんだので、相手は頭をぶち割ってやるか らと捨てぜりふをのこして立ち去りました。そしてそれをそを要したので、わたしはここらで一服し、わたしたちとタ食 コ の晩のうちに実行したというわけです。氏は親切にも話のをともにしてくれるように頼んだ。こうした心づかいを見て、 ス レ 最後につけ加えて、ばくらのことをひどく心配していたし、彼はわたしたちが喜んで彼の話をきいたものと判断した。そ ン して、物語の続きにはいっそう興味深いものがあるだろうと これからもいろいろ力になりたいと言ってくれました。ばく ノ マ はためらわずに、氏にばくらの隠れ家のありかを教えまし断言し、夕食後、つぎのように語りつづけた。 彼は、ばくらのところへ来てタ食をともにしたいが、と 一一 = ロいオ ( した。
スタンダール 772 しよく だが、宮廷に関することとか、大臣のポストを得るとか、 嗇とよんでいるが、人間の性悪さを誇大視する考えかた、 失うとかいう段になると、サロンの紳士方も、空腹に責めたそれだからこそ、親父にとっては、おれが残してやる三、四 てられた先刻の二人の懲役囚とまったく同じ罪を犯すにきま百ルイの金がこのうえない慰めとなり、安心の種ともなるの っている : だ。日曜日の晩飯のあとなどには、親父はその金を、ヴェリ 自然法などありはしない。そんな一一 = ロ葉は、このあいだおれエール中に見せびらかしてまわるだろう。こんな金になるな を痛めつけた次席検事ぐらいが言いそうな時代がかった世迷ら、ギロチンにかけられる息子をもつのも、まんざらではあ い言さ。あいつの祖先は、ルイ十四世時代の没収財産のおかるまい、親父はそんな眼つきをするだろう》 げで金持になったんではないか。法というものは、かくかく こうした思弁は真実かもしれないが、 ひとに死ぬ気を起こ のことをしてはならぬと、刑罰で禁止する法規があってこそ、させる。こんなふうにして長い五日間がすぎた。マチルドが はじめて成立するものだ。法規以前にある自然なものといえ激しい嫉妬に身を焼いているのを見ると、ジュリアンは思い ば、ライオンの力とか、あるいは腹をへらしたり、寒さにふやりのある、優しい態度を見せた。そんなある晩、彼は本気 るえている者の欲求とか、要するに一言でいえば欲求だけだで自殺を考えた。レナール夫人が来なくなってから深い不幸 : そうだ、世間の尊敬を集めているひとだって、運よく現に陥って、気力がなくなってしまった。実生活でも、空想の 行犯で逮捕されすにすんでいる悪党にすぎない。社会がおれなかでも、もうなにひとっ心をなごませるものはなかった。 に差し向けた告訴人も、破廉恥な行為で金持になったのだ運動不足がたたって、健康がむしばまれ、ドイツ人学生のよ : おれは殺人罪を犯した。罰せられるのは当り前だ。たが、 うな、熱しやすく、ひ弱な性格になりかけていた。不幸な人 いっかっ この行ないを別にすれば、おれに有罪を宣告したヴァルノの 間の、いに巣くうもろもろの邪念を、気迫のこもった一喝でし ほうが、社会にとっては百倍も有害な奴だ。 りぞける、男性的な気迫を失いつつあった。 そうだ ! 》と、ジュリアンは沈んだ気持で、だが、別に腹《おれは真実を愛した : : : それはどこにあるのだ ? ・ とんな も立てないで、つけくわえた。《いくら欲が張ってはいても、 を見ても偽善ばかり、すくなくともべてんばかりだ。。 あいつらにくらべたら、おれの親父のほうがまだましだ。お徳の高いひとも、どんな偉人も、例外ではない》ジュリアン けんお れを一度も愛してはくれなかった。しかし、おれのほうでも、の唇は嫌悪でひきつった : ・《そうだ、人間は人間を信頼す 不面目な死にかたをして、親父の顔に泥を塗るのだから、おることができない。 ぎえんきん あいこだ。金に詰まるのを極端に恐れる気持、世間では吝 * * * 夫人は、哀れな孤児のために義捐金を募ったとき、 りん
五百フランの手紙の出所について、あれこれせんさくをし 言った。「お話がすんだら、お帰りになるのよ」 0- たあとで、ジュリアンは身の上話をつづけた。 現在わが身に なにを話しているのか自分でもわからずに、ジュリアンは、 しっと 興味のない過去の ルいろいろな陰謀のこと、当初に出会ったかずかすの嫉妬のこ起こっている事柄にくらべれば、まったく ダと、それから復習教師に任命されて以来の比較的静かな毎日生活を語りながら、彼はすこし理性をとりもどした。彼の注 ン 意はもつばらこの訪問にどういう決着をつけるかに注がれて のことを語った。 タ ス 「そのときでした」と、彼はつけくわえた。「長いこと消自 5 いた。「もうお帰りになるのよ」と、夫人は機を見てはたえ が絶えていたあとのことです。いまになってみればはっきりず、そっけない口調で、くりかえすのだ。 《このまま追いかえされたら、まったく目もあてられない , わかるんですが、僕をもう愛していない、僕なんかどうでも ししそう吾らせるためにされたんですね : : : 」このときレ 一生後悔で苦しめられる。二度と手紙ももらえないだろうし、 いっこの土地に帰ってこられるかもわからないのだ ! 》こう ナール夫人が彼の手をにぎった。「そのときでした、あなた 思うと、ジュリアンの清らかな心持はたちまち消えた。愛す が五百フラン送ってくださったのは」 「そんなことをしたおばえはありませんわ」 る女のかたわらに腰をかけ、かってあれはど深い幸福にひた ったこの部屋で、女を腕に抱かんばかりにし、深い闇のなか ハリの消印で、ポール・ 「疑いのかからないためでしよう。 とはいえ、先刻から女が泣いていることがはっきりわかり、 ソレルと署名のある手紙でしたよ」 おえっ この手紙の出所をめぐって、ちょっとしたやりとりがあっその胸の動きで女の嗚咽をじかに感じとると、情けないこと 、彼は一個の冷たい策略家に変わってしまった。神学校の た。二人の気持が変わった。知らないうちに、レナール夫人 もジュリアンもあらたまった調子をすてて親しい口のききか校庭で、自分よりカの強い仲間から、悪ふざけの対象にされ たときと同じくらい、打算的で、冷酷な気持だった。ジュリ たにもどっていた。おたがいに顔は見えなかった。それほど アンは話をなおもつづけ、ヴェリエールを出てからのみじめ 闇が濃かった。、こが、 た声の調子がすべてを語っていた。ジ リアンは恋人の腰に手を回した。これはすいぶん危険な仕草な日々のことを物語った。レナール夫人は思った。《そうす である。夫人はその腕をふりほどこうとしたが、そのとき彼ると、わたしのほうは忘れていたというのに、このひとは、 は巧みにおもしろい場面を話しだして夫人の注意をそらせて一年も別れていて、思い出のしるしとなるものもほとんどな とい , つのこ、・ ウエルジーですごした幸福な日々のことばか しまった。その腕は、忘れられたように、そのままの位置に り考えていてくれたのだわ》夫人の嗚咽はいよいよ激しくな おかれた。