ポードレール - みる会図書館


検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」07 -フランス2
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」07 -フランス2

1407 文学作品キイノート 4 Ba ″ル / シャノいレ・ポードレー ) レ ごとに整理して並べ、最後に末発表のも た。そこでそれ以来、この散文詩集は二 のを置いたリストを自分で作っていた。つの名前をもっことになってしまったが、 これはただの心おばえの一覧表かも知れポードレール自身はさまざまな題名を考 ポードレールは『悪の華』の初版を出ないが、見方によっては、詩人が当初のえたあげく 、『バリの憂鬱』を最も好ん した一八五七年ごろから、このような散計画を縮小して、これだけで散文詩集をでいたらしいので、いまではこの名で呼 文詩集をまとめる計画を少しすっ固め始まとめるつもりになってしまっていたこぶ人の方が多い。その方が詩人の意図に めていたらしい。その計画は『悪の華』とを示すのかも知れない。晩年の彼は極もふさわしいだろう。 の再版が出た一八六一年ごろから、ます度に金に困っていたから、新しい本が出 ますはっきりしたものとなって行く。彼せるものなら一刻も早く出したかったろ《解説 は何度か、すでに書き終えた、あるいは ポードレールは『パリの憂鬱』の序文 これから書こうとする、散文詩の題名の 現在読むことができる『パリの憂鬱』の中で、「私たちのうちで、かって野心 リストを作っている。そのような草案のは、 : オードレールの死・後すぐにミシェ に燃えていたころ、リズムや韻がなくと ひとつに、「一 一二」までの番号をふつ ル・レヴィ書店から出た全集の中で、編も音楽的で、柔軟であるとともにぎくし じよじよう ンヴィルとシャル たものがあり、『悪の華』初版がちょう者のテオドル・ド・ やくとしていて、魂の抒情的衝動、夢 けいれん ど百篇の詩からなっていたことを考えるル・アスリノーがまとめたものである。 想のうねり、意識の痙攣にびったり適合 と、ここでもポードレールは、できれば二人の編者は前記のポードレール自筆のするような、一種の詩的散文の奇跡を夢 百篇ぐらい散文詩を制作して、『悪の華』 リストに従って作品を配列し、冒頭にみなかった者があるだろうか」と述べて に匹敵する総合的な重みのある書物をつ 「アルセーヌ・ウーセイに」と題する序いる。つまり、韻律の規則を離れた散文 くり出したいと考えていたと想像できる。文を置き、末尾には草稿の中から見つかで書くことによって、伝統的な詩よりも ただし、こうした草案の大部分は、計った「エビローグ」と題する韻文作品をもっと近代人の精神の動きに密着した 画倒れに終ったようだ。死ぬまでに彼が置いて、首尾一貫したかのような体裁を書法を見つけ、そこにこそあたらしい 残した散文詩は、新聞や雑誌に発表したととのえたが、この「エピローグ」は、 《詩》の可能性を見出したいと望んだの ものが四十五篇 ( そのうちの多くが何度実は『悪の華』のために書きかけたものだ。 も発表を重ねている ) 、未発表のものがであったことがいまではわかっている。 すでにロマン主義文学の時代に《詩的 五篇、計五十篇にすぎない。最晩年のポ題名については、二人の編者は勝手な散文》と呼ばれる作例がなかったわけで ポードレール自・身も、アロイジ ードレールは、この五十篇をほば発表誌命名を避けて『小散文詩』とだけしるし 考察する。 〈〈成り立ち》 みいだ

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ていたとすれば ( ポードレールは「皮肉」という一一一一口葉でそのするような、垂直の方向の夢を見るーーーすべを、彼はアメリ のろ ことを表現したが ) 、一つの詩が、詩人の内面からほとばし力の「呪われた詩人」エドガー・アラン・ポーから学んだに る痛切な祈りであると同時にパロディでもあり演技でもある違いない 一という事態が生じ得るのである。 レ 『悪の華』の成立 このような書き方をするためには、詩人が密室にこもった ポードレールの詩作はかなり早い時期から始まっていたと ポり、山頂に君臨して下界を眺めおろしたりするようなわけに おだく は行かなかったろう。詩人は身をもって現実の汚濁を生きな見られる。日付のわかっている限りで最も早いものは、彼が うめ まだ十九歳だったときに書いた「あるクレオールの貴婦人 ければならす、そのあらゆる呻きゃあらゆる怒りがことごと に」である。この若書きのソネットが、三十六歳になって初 く無益に終るかも知れないことを覚悟の上で、無限の空と無 しんえん めて編んだ詩集『悪の華』に収められているという事実は、 ド、冫、冫の間にかろうじてぶら下がっていなければならない しよ、つふ あへん 阿片を吸ってみたり、娼婦を買ってみたりといった、青年期この詩集の性格を考える上で見落せない。 一八四二年に帰国したポードレールは生父の遺産でピモダ の彼の最初はちょっとした不行跡が、やがて現実の地獄の相 を彼の目に見せるようになる。たしかに彼は、「小口マン派」ン館の優雅な暮しをする一方、文学青年の一人として次々と 詩作を試みたに違いない。当時の友人だったエルネスト・プ と呼ばれるポヘミアン芸術家たちと親交があり、彼らと同じ ように。ハリの街なかの屋根裏部屋に生きていた。『悪の華』ラロンがのちに証一一一一口するところによると、一八四三年までに のある部分をいろどる悪魔主義的もしくは怪奇趣味的な要素は『悪の華』に収められたものもそうでないものも含めて十 六篇の詩がすでに存在し、会合の席などで作者によって朗読 は、むしろこうした小口マン派の文学風土全体の特徴であっ ホードレール たことを言い添えておこう。また、同じくそうした風土の中されるのを聞いたおばえがあるという。また、 : ンヴィルとともに日取。初の『ポ から、一八四八年の二月革命の前後に、二十七歳のポードレの死後すぐにテオドル・ド・ ードレール全集』を編集し、かたわらこの詩人の伝記を綴っ ールがかなり過激な理想主義的革命派の態度をとったこと、 ざせつ たシャルル・アスリノーは、一八四三年から四四年にかけて それが結局は挫折と失望に終り、ナポレオン三世の登極によ って完全についえ去ったこともしるしておくべきだろう。その時期にすでに『悪の華』所収の詩の大半が作られていたと して恐らく、そういう地獄の中で青白い夢を見るーーそれも、述べている。 たが、これらの作品はそう順調には印刷されなかった。 逃避としてでなく、むしろそれによって地獄をいっそう深く イロニー

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しようとするのに対抗することであった。しかしこの一一 = ロ葉を、 篇と、再版のために制作されて未完のまま放置された「エピ ローグ」の草稿とを訳出して、あり得たかも知れない理想のポードレールの親友バルべー・ドルヴィーが応援のために書 ぜんばう き送った、《ここには一つの「秘密の建築」、詩人が熟慮の上 『悪の華』の全貌をしのぶよすがとした。むろんポードレー ーレ はっきりと 7 ルには、これ以外にも初期作品や晩年の戯詩など、多数の韻で意図的に計算した一つの設計図があることが、 レ 文作品があるが、『悪の華』という詩集に多少とも明確なか見て取られるだろう》という一言葉と読み合わせると、『悪の 華』全体を支配する構築意図をことさらに強調する考え方が ボかわりのある作品はこれでほば網羅し得たものと思う。 こうして一応まとまった詩集『悪の華』を、さてどのよう生まれて来る。そのような構築意図を、むろん無視してはな ホードレールは『悪の華』を に読み、どのように受けとめるかは、訳者の側の、そして読らない。すでに触れたように、 : 己リこ田、いの注意を払い、この詩集が 者の側の課題であろう。かってポードレールは、『悪の華』編み直すたびに詩篇の酉歹し糸 . 一冊の書物として読み通されたときの効果を重に計算して 初版が裁判にかけられた際に書いた「弁護士のためのおばえ いた。だがその点を強調しすぎて、ここに収められている一 がき」の中で、次のように述べた。 つ一つの作品があらかじめ定められた設計図のそれそれの部 くり返すが、この「書物」はその全体において判断さる分として書かれたように考えるのも、やはり行き過ぎだろう。 これらの作品は、書かれたときは、あくまでも一つ一つの独 べきである。 神をけがす一一 = ロ葉に対しては、私は天国へのあこがれを対立した詩篇だったのだ。たとえばバルザックの『人間喜劇』 わいせつかしょ が巨大な全体をなしているからといって、それを構成する長 置するであろうし、猥褻な個所に対してはプラトニックな 短の小説を一篇ごとに読むのがいけないということにはなる 花々を対置するであろう。 およそ詩というものが始まって以来、あらゆる詩集はみまい。もしもこれら百数十篇の詩篇に一貫したものがあると なこのように作られている。しかし「悪のうちにある精神すれば、それはまさにそれらのすべてを書きしるした詩人ポ ードレールの、矛盾と動揺の総体を背負った近代的な魂であ の動揺」を表現するための書物を、ほかのやり方でまとめ ったろう。『悪の華』 Les Fleurs du Mal とは、その題名の ることは不可能だったのだ。 示すように、作品の一つ一つを一輪の「花」 fleur として、 この言葉が書かれた直接の動機は、この詩集の中から検察それらさまざまな花を咲かせた土壌の全体を読み取るべき書 当局が幾篇かの「猥褻な」作品だけを勝手にぬき出して処断物なのだ。その意味では、現代のわれわれの文字づかいから

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1359 解説 心』 Mon 08u 「 mis nu などの手記にもさまざまな手がかが詩句を単位としてまとまらすに、リズムを無視したように りが残されている。だが、 それらの著作も理論書として書か次の行や次の詩節につながったり、途中で切れてしまったり れたわけではないから、その中にしかるべき線を引こうとすする ) もあれば、 いかにも軽い歌謡調もある。 ると幾通りも引ける。そしてそれ以上に、詩集『悪の華』そ だが、『悪の華』によってポードレールが示したものは、 れ自体がかなりの矛盾を含んだ本であって、そこからカトリ まさにそうしたあらゆる矛盾の総体であり、あらゆる書法の いてき ック的ポードレール像を引き出すこともできれば悪魔主義的せめぎ合いだった。彼は単に恣意的にそれまでの詩に異議を ポードレール像を引き出すこともできる。理想へのひたすら唱えたのでもなく、また、ほんの思いっきを振りまわすこと な探求があれば、一切をむしばむ憂鬱の毒もあり、底なしので独創的であろうとしたのでもない。むしろ十六世紀から十 やみ 絶望の闇もある。『悪の華』の一字一句の多義性を分析する八世紀に至るフランスの詩の伝統を充分に受けとめた上で、 だけで一冊の本を書いた学者もいる。詩句の書き方一つをとそれと現実とのへだたりや矛盾を一身に引き受けて行ったの ってみても、たとえばラシーヌのそれにも比較される古典主だ。この態度自体が、一方ではきまじめそのものでありなが アレクサンド一フン こつけい 義的な格調の十二音綴詩句があるかと思うと、ロマン主義風ら、同時に他方では滑稽でもあるという二重性をすでにもつ。 プロザイスム の絶叫調もあり、また、散文主義と呼ばれる手法 ( 文の意味そして詩人自身がそうした楯の両面を自分ではっきり意識し たて 上 / リョンの 王立中字校時代の ホードレール 中 / 生父ショゼフ フランソワ・ホードレール と思われる肖像画 下 / 継父 ジャック・オーピック将軍 ( 一八五一一年撮影 )

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1363 解説 られた大作「旅」と言い、絶望の色がいっそう濃くなってい 間にさらに十四篇の新作詩篇を発表するが、そのあと彼の韻 るのが感じられるが、何と言 0 ても注目されるのは「。ハリの文詩の創作力はめ 0 きり衰えて行ったように思われる。何よ 情景」の部の新設であり、ここに加えられたヴィクトル・ユりも貧困と病気とが、彼の精神を急速に追いつめた。そして ゴーへの献辞をもっ三篇の新作だろう。これによってポード 彼自身も、残された文筆上のエネルギーを、散文詩と、翻訳 レールは、「憂鬱と理想」の延長線上で、彼の詩法が文字通や評論とにそそいでいたようだ。しかし、彼にと 0 ての唯一 り同時代の現実に真向から立ち向かう力を持 0 ていることをの韻文詩集たるべき「悪の華』を、より完全な、いわば決定 言明したわけであり、再版を初版に比べて ( 禁断詩篇の削除版とも呼べる形でもう一度刊行したいという意志は、一 にもかかわらず ) 遙かにスケールの大きいものとなし得たの二年の書簡に早くも現れ、最後まで消えることがなかった。 である。このあと彼は『バリの憂鬱』を形づくる散文詩におそれは一つには金のためであったに違いない ( 彼はこの晩年 いて、こうした方向をさらに深めるばかりでなく、そのプロを、自己の著作集の出版交渉についやしている ) が、少なく ザイスムによってフランスの詩法の変革を決定的にして行く とも詩人ポードレールにしてみれば、この詩集を自分の遺産 ことになる。 として、 リの読書界に堂々と認知される形で残したかった この再版の刊行後、ポードレールは一八六三年初頭までののだ。プーレⅡマラシの証言を信ずるなら、一八六四年にバ 上 / 『悪の華』の出版者 プーレⅡマラシ 中 / 「ポードレール全集』を 編集し、伝記を綴った シャルル・アスリ / ー 下 / ードレール全集』の 編集者の一人て詩人の 」テオドル・ド・パンウイル

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リを去ってプリュッセルに移ったポードレールは、新作をは かっているので、現在では学問的な版を編む人のほとんどが さみこんで決定版の形をととのえた『悪の華』著者本を所持『悪の華』再版と並べてこの詩集を採録している。構成は、 が、ん していたといわれ、死後の版権競売の記録にも、新作十一篇序詩一篇、「禁断詩篇」六篇、「女性詩篇」六篇、「画讚詩篇」 こつけい 7 を挿入した「悪の華』一冊の存在がしるされている。ただし三篇、「雑詩篇」四篇、「滑稽詩篇」三篇、計二十三篇だが、 レ ドこの本は現在伝わっていないし、問題の十一篇がどの作品で、内容的に見ると、これを直ちに『悪の華』と同列に扱ってい いかどうかは疑わしい。まず、この詩集の巻頭にある「刊行 ポその挿入位置がどこであったかはわからない。ポードレール の死後、バンヴィルとアスリノーの編集により、ミシェル・ 聿名のはしがき」には、《ここに収めた扁はポードレール氏 レヴィ版「ポードレール全集』の一巻として一八六八年に出が『悪の華』決定版に採録すべきだと考えなかったものであ た『悪の華』 ( 通称第三版 ) は、再版をさらに大幅に増補し り、そこからこの表題が説明される》としるされている。か て序詩ほか百五十一篇から成るが、この版の構成はどうやら りにこの言葉をそれほど厳密には受け取らないことにすると し ずさん 編者の恣意によるらしく、校訂も杜撰で、今日ではほとんど しても、収録作品の中に六篇の禁断詩篇が含まれているほか、 信用されていない。著者自身が自分の意志で編集し校正した既刊の『悪の華』から「わがフランソワーズへのほめ歌」が ここに移されている事実は、やはりこの詩集が詩人にとって 「悪の華』の最後の形は、やはり一八六一年の再版しかない のである。 は『悪の華』決定版とは別の位置をもつものだったことを裏 しかしポードレールは、死の前年に当る一八六六年、病に づけるし、さらには偶成詩や戯詩のたぐいが数篇入っている ことも気になる。 倒れて言語障害におちいる直前の段階で、韻文作品を二つ これに対して十六篇から成る『新・悪の華』はどうかとい の形にまとめて発表している。一つはプーレⅡマラシが秘 密出版に近い形で刊行した詩集『漂着物』 Les Epaves であうと、発表形態が独立の単行本ではないこと、作品の取捨や り、もう一つは若い詩人力チュール・マンデスが分冊形式で配列が編者カチュール・マンデスの手になり、総題も彼の提 刊行した『現代高踏詩集』 Le Parnasse contemporain 第一案によるものであること、ポードレールが病気のため校正を 集の中にポードレールが寄稿した、「新・悪の華』 Nouvelles 他人にまかせたのではないかと見られること、などが大きな 弱点だが、 もともと原稿はポードレール自身がまとめてマン Fleurs du Mal と題する作品群である。 このうち『漂着物』は、ポードレールが自分の意志で編デスに送ったものだし、総題にはポードレールも同意した上 と、つ力い 集・校正し、韜晦的な注のいくつかを自分で書いたことがわでその字配りを自分で指図しているし、本文校訂の不備も作

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1361 解説 八四五年以降、せいぜい一年に一つか二つ程度が、あまり目《近くミシェル・レヴィ書店から出る詩集「冥府」からの抜 立たずに雑誌に 発表されるだけだった。美術批評家としての粋》という注がついていたところを見ると、出版計画はかな 活動は一八四五年から始まっているのだが、詩人としての作り熟していたと思われる。だがこの計画も結局は実現しなか 品はもつばらポードレールの交際範囲の中で知られていたに った。同年秋から翌年にかけて、 : ホードレールは先輩詩人の とどまる。それでも一八四五年には「レスポスの女たち」 テオフィル・ゴーティエにあてていわゆる「十二詩篇」を送 Les Lesbiennes という題で詩集の近刊予告を出し、翌一 る ( ゴーティエの編集する「パリ評論」誌に載せてもらうつ 四六年にもこの予告をくり返したが、実現しないまま、一 もりだった ) が、このときも総題には「冥府」を考えていた。 めいふ 四八年には今度は「冥府」 Les Limbes と題する詩集の近刊 『悪の華』という総題が初めて用いられたのは、それから三 を予告したらしい。少なくとも一八五〇年にはやはり「冥年後の一八五五年に、当時の一流総合誌「両世界評論」の六 府」の題で予告が出て、《これは現代青年の動揺と憂鬱の表月一日号に詩十八篇が一挙掲載されたときである。この十八 現となるはずという説明がついている。実際、翌一八五一年篇の中にはさきに「冥府」十一篇のうちにあったものもまじ 四月九日付の「議会通信」誌に、「冥府」の総題のもとに十っているので、このころにははば詩集の構想が確定したもの ・ドービニエからの 一篇の詩 ( いずれも『悪の華』所収 ) がまとめて発表され、と見てよい。初版の扉にあるアグリッパ 上 / オンフルールにあった オーピック家の別荘 「玩具荘」 正面は母カロリーヌ 中 / 一ル露・の詩人て友人の テオフィル・ゴーティエ ボードレールは『悪の華』て 彼に献辞を捧げた 下 / 一八五〇生代の フランスの 代表的な文芸批評家 サントⅱプーヴ

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1412 シャノりレ・ポードレール ⑤オンフルールの別荘 「玩具荘」の中 ⑥「ポードレールの恋人」と題する ジャンヌ・デュヴァルの肖像 ・マネ筆 ) ( 一八六一一年、エドワー ⑦ボードレールの自画像 ( 一八五七年頃 ) ⑧ポードレールが学んだ頃の ・グラン山亠子 ハリの名卩校ルイ・ル ⑨モンパルナスの墓地にある オービック家の墓 ホー、ドレーールーこ、に眠る ⑩ポードレールが シーシュに酔いながら描いたという 自画像 ( 一八四四年頃 ) ノレ 卩↓、 0 ( ) いい AUPICK. ! = ( に、ール川 V ハ、を、 A 一日 . 、い、日トーす一を、 0 0 い輯二、をい , 町行ト 0 ド円を、ル ! ネ、 0 い工 0 も一ト ? : ドⅢ 51- き ( 家 A に上、ル新「市い冒 RF 、一ト引内 0 い ーい PO 第い、、は鳳 Y ド 5 を - 区は日印 . 、、「口ム津ドい DE 、 LE ( 正、、にゑをは - い 0 をし日 ) EE . 、 ! , なーい : し人いス ! ・ト・ ~ しい短み、れロ′、入じを一灑 11A 、、 可仁 / 担し只 EVX - -1 を -3 宿第

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ェビグラフも、「読者に」と題する序詩も、このときから登ぶべき人々ーーの、統治体制の総仕上げとしての文化統制で 硯場するのである。こうしてようやく一八五七年二月には原稿あったことは明白だろう。それも著者の罰金三百フランが嘆 がまとまり、同年六月、長い難産を経た詩集『悪の華』の初願によって五十フランに減額されているところなど、一罰百 ・プロワーズ書店から発行され戒的な意図が見えすいている。現にこの裁判から三年後には、 一版がプーレⅡマラシ・エ・ レ た。一千三百部が印刷され、そのうち一千百部ほどが発売さ文部省が詩集『悪の華』に対して、ポードレールに補助金二 ポれたものと見られる。 百フランを支給しているのだ。のちにポードレールが、アカ 初版の内容は序詩のほかに百篇が「憂鬱と理想」「悪の華」デミー・フランセーズに立候補するという無謀な突撃を試み たのも、このような仕方でいけにえにされた人間のしつ。へ返 「反逆」「酒」「死」の五部に編集されていた。若年の日の作 しの意図がなかったとは言えまい。たが、いまになって振り 品を丹念に収めていることと言い、詩篇群の配列に糸力し酉 慮が見られることと言い、ポードレールがこれをもって自己返ると、このとき裁かれたポードレールとフロべールは、一 の魂の総合的な表現としようと考えたことは明白である。の方が詩の分野で、他方が小説の分野で、十九世紀の文学の転 ちに再版を編んだときも新作を加えながら綿密に詩篇の再配回点に身をもって立った人物なのだから、検察側も結構目が 置を考えているし、最晩年に今度こそ決定版たるべき『悪の高かったものだという皮肉な見方も成り立つのである。 華』を夢みながら、それに収めないつもりの詩篇を『漂着 再版から『新・悪の華』へ 物』にまとめていることを考え合わせると、『悪の華』はど ともあれポードレールは初版から四年後の一八六一年二月 うやらポードレールにとって、最後まで自分の「唯一の韻文 に、削除を命ぜられた六篇を除き、あらたに三十二篇を加え 詩集」となるべきものとして構想されていたのだ。 一八五七年の『悪の華』裁判は、単なる風紀取締ではなかて、序詩ほか百二十六篇による『悪の華』再版一千五百部を った。同じ年にフロべールの『ポヴァリー夫人』が裁半 に同じ書店から出版した。今度の編集は六部に分かれ、「憂鬱 かけられて無罪となっているが、そのときの検事が『悪のと理想」「バリの情景」「酒」「悪の華」「反逆」「死」の順と 「悪 なっているが、「酒」と「反逆」の中味には変更がなく、 華』の論告をも担当し、ポヴァリー裁判での失点回復を賭け て今度は有罪判決をかちとっているところを見れば、これがの華」も禁断詩篇が除かれただけにとどまるから、大きな変 ナポレオン三世をかついでいる人々ーーー政治的な保守派や反化はもつばらほかの三部にある。「憂鬱と理想」で加えられ た名作「秋の歌」などの恋愛詩と言い、「死」の末尾に加え 動派というよりも、むしろ文化的な体制派、権力派とでも呼

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この部はポードレールが生前に発表した作品のうち、前 掲の「新・悪の華」に洩れたものを集め、その中からい わゆる偶成詩もしくは戯詩のたぐいを除き、これに遺稿 から『悪の華』再版のエ。ヒローグとして書かれた未完成 の草稿を加えて編成した。配列は、『漂着物』所収の五 篇はその掲出順、次の二篇は『悪の華』第三版における 掲出順により、テクストは底本どおりとして訳出する。 最後の「〔エピローグ ( 草稿 ) 〕」はプレイアード叢書の新 版ポードレール全集における校訂に従う。なお、『漂着 物』については「解説」を参照