イタリア - みる会図書館


検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1

主要登場人物 わたし の哀しみと、旅ごころにとらえられ、イタリアへ フローラの小間使。 この物語の主人公。父親に穀つぶしと言われて、向かう。恋あり、冒険ありの道中の末、ローマへ レーオンハルト 世間に出ていつばしの人間になってみせるつもり 到着するが : 領主。フローラをつれて、イタリアへ恋の逃避 で、ヴァイオリンを手に、故郷の村から自由な世フローラ 行をする。 たど 界へとさまよい出る。ウィーンへ辿りついて、伯 伯爵令嬢。〈わたし〉の住みこんだ館の令嬢。美しいひと ( アウレーリエ ) やかた めい 爵家の館で庭師の見習いになるが、館に住む″美レーオンハルトとわりない仲に。彼とともに画家 伯爵家の館にひきとられている娘で、門衛の姪。 しいひと″に恋こがれるうちに収税吏に任命され、 に変装してイタリアへ向かう。 ロゼッテ 毎日、自分の花園の花を捧げる。が、かなわぬ恋 】の 家 伯爵 令嬢 レーオンハルト 恋 フロ 美しいひと 〈わたし〉のあこがれつづける女。 ラ - イ汐ノ - あこカ わたし

2. 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1

アイヒェンドルフ 978 大きな銀のポ かなり歩いたとき、わたしはひろやかな空気の中でヴァイオようど日曜日で教会へ出かけるらしかったが、 ンをとりだして、歌った。 タンのついた古めかしいフロックコートを着用におよび、非 常に重みのある銀のにぎりをつけた長い籐のステッキをたす ひばり森も野原も さえていた。銀のにぎりは日をうけて遠くからもうまばゆく 天も地もみな御手にして 光りかがやいていた。わたしはすぐ、きわめて礼儀正しい口 やさしくばくをみそなわす 調でたずねてみた、「イタリアへ行く道はどれか、わたくし におきかせいただけませんでしようか ? 」ー。ー農夫は立ちど 神さまをただたたえるばかり まって、わたしを見つめ、下唇をぐっと突きだしてやおら思 いにふけり、それからまたわたしの顔を見つめた。わたしは 館も庭もウィーンの塔も、とうに背後の朝もやにかくれて しまっていた。頭上には空高く数かぎりないひばりが喜びのもう一度いった、「イタリアへ、橙のしげるイタリアへの道 「ふん、おめえの橙がどうしたと ! 」と 声をあげていた。わたしは緑の山々を抜け、陽気な町や村のなのですが。」 農夫はいって、すんすん歩いていってしまった。この男なか ほとりを通りすぎて、イタリアへの道をくだっていった。 なか威厳ありげにみえたので、もっと応対を心得ているもの と思っていたのだが さてところでどうすればよかったか ? くるりと向きをか しかしこれは具合の悪いことだった , じつはどの道を行えて、村へ帰ったものか ? そうすればみなからうしろ指を ったらいいのか知らないのだということを、まだ全然考えてさされるにきまっていた、小せがれどもがわたしをとりまい もみなかったのだ。早朝の静けさの中には人っ子ひとり見あて、はねまわりながらこんなことをいうにきまっていた、ホ 、一しレ、う イ、ようこそお帰り ! 世間の様子はどんなかね ? 胡椒菓 たらす、道をたすねるすべもない、 しかもほど ) からぬとこ ろで国道はいくつもの新たな道にわかれ、それがこの世の外子のみやげでもくんないのかね ? ーー選帝侯の鼻をした例の ときど 門衛は、世間の消自 5 にはなかなかよく通じていたが、 へ通じてでもいるかのように、高くそびえ立っ山々をこえて きこんな話を聞かせてくれたものだった、「収税吏殿 ! イ はるか彼方へのびていたのだ。つくづくながめやっていると、 タリアはすばらしい国ですそよ。そこでは一切合財神さまが めまいを催さんばかりだった。 ようやくひとりの農夫がこちらへむかって歩いてきた。ちょろしくとりはからってくださる。ひなたであおむけに寝っ と - っ

3. 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1

アウスティーナとの情事も含めて民衆生活の観察者であった生活を営むようになった結果、生活における私的側面の比重 が、それらすべてを引っくるめてゲーテの関心の所在を問えが増大すると共に、すでに数年来不安定であったシュタイン あら ば、それは南の国で初めて露わに現れてくる豊かな生命の諸夫人との関係も決定的に終った。 一相ということであり、しかも、シチリアにおける原植物幻視 イタリア旅行前に計画された最初の著作集八巻は、一七八 が示すように、その多彩きわまりない諸相を一つの根元的な七年から九〇年にかけて順調に出版された。しかし八九年に 生命の発現としてとらえることであった。。 ケーテはカール・ 完成、著作集に収められた『タッソオ』においてすでに、イ アウグスト宛の手紙で、自分はヴァイマルへ芸術家として戻フィゲーニエの精神的双生児である公女は世界の崩壊を押し ると述べたが、 それはもはや政治行政の実務から身を引きた とどめることができない。またイタリアで完成ないしは推敲 いという引退の希望の表明であると同時に、そうした生命のされた『エグモント』と『ファウスト断片』も、イタリア旅 諸相の探究が今後の自分の中心課題となるだろうという積極行という仕合せな非日常的生活のなかでのみ一瞬よみがえり 的意志のひそかな表明でもあった。。こが、 オその意志が現実化 えた輝きに過ぎなかった。総じてこの著作集は、三十九歳を される前に、彼は生涯での最大の内的危機を迎えることとな目前にしてイタリア旅行を終えたゲーテの、いわば生の中仕 る。 切りであり、彼の末来を示すものではない。 ゲーテが四十歳を迎える一七八九年に始まったフランス革 危機の時代ーーーフランス革命の勃発 命によって、ヨーロツ。ハは以後一八一五年のウィーン会議決 ヴァイマルに戻ったゲーテは、文化学術関係およびイルメ着に至るまでのおよそ四半世紀の大動乱の時期を迎えること ナウ鉱山事業を除いたすべての公職から事実上退いたが、 枢 になる。度重なる戦乱は、フランスのみならずドイツにおい 密会議を構成する大臣という肩書と収入は残り、またカー ても十七世紀以来の近世秩序の社会的基盤を崩壊させ、近代 ル・アウグストの私的友人としてさまざまな公的問題の相談社会成立のための条件を整えた。その意味でこの四半世紀は 相手である点も変らす、さらに宮廷人としての生活にも基本単なる混乱の年月ではなく、近世秩序から近代秩序への転形 的には変化なかった。ただし帰着後一カ月を経ずして、たま期であった。そしてゲーテもまた当然のことながら、その転 たま知り合った十四歳年下の貧しい女性クリスティアーネ・ 形期を生き、それと対峙することによって自らの作品を生成 ヴルピウスを、いわばヴァイマルでのファウスティーナとしさせて行くこととなる。しかしその初期、一七八九年から九 て家に入れ、翌年には長子アウグストを得て、事実上の家庭四年に至るフランス革命進行の時期は、ゲーテにとってその あて ばつはっ

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いらしい女中がはいってきて、食事の給仕をした。わたしは らした壮麗な壁かけがかかっており、部屋の中央には焼肉、 ぶどう ケーキ、サラダ、果物、葡萄酒、チョコレートを山と盛った ご婦人むきの話題をいろいろ考えて彼女に話しかけたが、彼 テーブルがあった。腹の底からほくそ笑みがわきあがるよう女にはことばが通じなかった。彼女はただ、わたしが舌つづ な光景だった。ふたつの窓のあいだには、床から天井までもみを打ってたいらげているのを、珍奇なものでも見るように とどくほど巨大な鏡がつるしてあった。 横目でじろじろとながめていた。ともかく食事はとびきり上 はっきり白状するが、わたしはじつに満足だった。幾度か等だった。すっかり満腹して立ちあがると、女中はテープル ぐんと伸びをし、悠然とした足どりですましてわたしは室内からあかりを取りあげて、別室へわたしを案内した。その部 を歩きまわった。すると、一度その巨大な鏡に自分の姿をう屋にはソファーと小さな鏡と、緑色の絹のカーテンのついた みごとなべッドがあった。ここへ寝るのかと手まねでたすね っしてみたいという気持ちに、わたしは矢も楯もたまらなく なった。たしかに、レーオンハルト氏の新しい服はわたしに ると、彼女はそうだというしるしにうなすいてみせた。だが しつくり似あっていたし、イタリアへ来たせいか目。 、艮ま何か実のところ、寝るのは不可能だった、というのも、彼女が根 火のように熱烈な表清をたたえるようになった。しかしそのでもはえたようにわたしのそばに立ったまま動こうともしな ほかの点では、故郷にいたときと別段かわりのない青二才で、かったのだから。とうとうわたしは食事をした部屋から、葡 ただちがうところといえば、唇の上にようやくいくらかのう萄酒をみたした大きなグラスをもってきて、彼女に、「ゴキ ・ノッテ チシマ ゲンヨウォ休ミ ! 」と呼びかけた。この程度のイタリア語は ぶひげがばうっとはえてきたくらいのことだった。 もうおばえていたのである。だが、こういってひと自 5 に葡萄 そのあいだ老婆はひっきりなしに、歯のない口をもぐもぐ させていたが、その様子はまるで自分の垂れさがった長い鼻酒を飲みほしたとき、だしぬけに彼女は忍び笑いをはじめ、 の先を噛んでいるようにしかみえなかった。それから彼女は真っ赤になり、食事をした部屋にはいるとドアをびたりと閉 すわ わたしを坐らせ、骨と皮ばかりの指でわたしのあごを撫でるじてしまった。何を笑うことがあるのか ? とわたしは驚い ポヴェ 者 とうやらイタリアの人間はみな気がふれているら しいながら、ロもとの片方をて考えた、。 と、オ気ノ毒ナオ嬢サマ ! と、 ら 頬半分はど引きあげてにたりとし、赤い眼でいかにもいわく 、ら の 御者がすぐまたラッパを吹きたてるのではないか、今はた ありげにわたしを見つめた。そしてやっと膝を深くかがめ、 だそればかりが気がかりだった。窓辺によって耳をすました 9 部屋から出ていった。 用意のととのったテープルの前に腰をおろすと、若いかわが、おもてには物音ひとっきこえなかった。ラッパを吹くな 1 三ロ ほお たて

5. 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1

ほ - つ。はっ きだった。これはまったく驚くべきことだった ! というの蓬髪をふりみだしてうろうろと歩きまわり、はだけたスカー もわたしはイタリアをとっくりながめようと思って、十五分フをしどけなく黄色い肌に垂らしていた。円卓のまわりには ごとに眼をかっと見ひらいていたのだから。しかしそうやっ 青いシャツを羽織った旅籠屋の下男たちがすわってタ食をし ていっとき前を見ているかと思うと、たちまち十六本の馬のている最中で、ときおりわたしを横目でじろりと見た。彼ら まんじ べんばっ 脚がさながら網細工のようにかなたこなた卍どもえと入りみはみな短く太い辮髪をつけており、まるで身分のある若い紳 だれ、眼はすぐまたおばろにかすみ、ついには手のつけよう士がたのようにみえた。 それではおまえは、とわたしは ほおば もないほど法外なこらえるすべもない眠りに落ちてしまうのがつがっ口に頬張りながら心のうちで思った、それではおま だった。昼か夜か、雨か晴か、テイロールかイタリアか、どえは、とうとうその国にやってきたのだそ、うさんくさい連 ねずみ うだろうとわたしは委細かまわす、あるいは右あるいは左、中が鼠おとしや気圧計や画をかついでいつも村の牧師のとこ あるいはのけざまに御者台から下へとぐらついた。さらにとろへ来ていたものだが、 その連中の生まれた当の国にいるの きには帽子が頭から吹き飛ぶほどすさまじい勢いで、がくり だぞ。一度暖炉のうしろから這い出ると、まったく、なんと とのめったので、ギドー氏が車の中で悲鳴をあげたことさえ いう経験を積むことだろう ! めいそう あった。 こうして食いかっ瞑想にふけっていると、それまで広間の こういうわけで、自分でも何が何やらわからぬまま、わた暗い片隅で酒を飲んでいたひとりの小男が、突然くものよう しはロムバルディアと呼ばれるイタリアのなかばを占める地にするするとわたしめがけて近よってきた。まったくのちび 域を通過してしまっていたが、やがてある晴れた日ぐれどき、で背中にはこぶがあり、それでも頭はぞっとするような大頭、 とある田舎の旅籠屋の前に車をとめたことがあった。駅馬は鼻はローマ風の長い鷲鼻、赤い頬ひげがまばらにはえ、まる あらし 駅舎のあるすぐ次の村に、もう二、三時間したら来るようにで嵐のあとのように、粉をふりかけた頭髪はどこもかしこも えんびふく とたのんであった。それで画家たちは車をおりて旅籠屋の個逆立っていた。着ているものは古めかしい色のさめた燕尾服 室にはいり、そこでしばらく休息し、手紙を幾通かしたためと短いフラシテンのズボン、それにすっかり黄色に変色した 、り ることになった。わたしにとってはこれは願ってもない幸い 絹の靴下をはいていた。彼は一度ドイツに行ったことがあり、 、り の で、すぐいそいそと広間へ出かけた。やっとまたのんびりく ドイツ語がよくわかるのを得意にしていたのだ。わたしのそ うれ つろいで飲み食いできるかと思うと、嬉しくてたまらなかっ ばに腰をおろすと、彼はあれこれと根掘り葉掘り聞きただし た。広間の光景はかなりふしだらなものだった。下女たちは たが、そのあいだ中ひっきりなしに嗅ぎたばこをくんくんい 1 一 = ロ 、わし・は議は

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くせもの と思えば深謀遠慮もただならぬ曲者の導師であり、根拠のなるふたごと鳥との相関関係にふれておきたい。 かいぎやく い夢想に酔いしれているかと思うと生活の現実にどっしりと 諧謔による生還 足をふまえている。一人の人物のなかに、相反する二つもし ン エヴァンズⅡプリチャードのヌアー族神話分析によれば、 マくはいくつもの性格がこともなげに共存し、それがお互いし フ . ちょうろう ふたごの生物学的例外性、神秘性は「双子は鳥である」とい ホ嘲弄しあい、嘲弄することによって反語的に支えあってい う慣用句に表現されており、「つまりヌアー族は、ふたごを る。まさに作中のある人物のいう、シャム双生児もかくやと 鳥と同じように、『上界の人びと』『神の子供たち』とみなし ばかりの「慢性一一元論」である。 ひとつの胴体に二つの首が生えている。錬金術の寓意画にているのである。」さらにレヴィⅡストロースによれば、ふ この小説の時代にいくぶんさかのたごは地上の人間に対しては「天上性」としてとらえられ、 出てきそうな奇形児だが、 天上の鳥に対しては地上性としてとらえられている、「精霊 ばる十六、七世紀のイタリアでは、そんなふたごのテーマが コメディア・デッラルテの舞台の人気レバ と人間の中間的地位」の保持者である。 『プランビラ王女』には、ジーリオがピストーヤ宮に迷い込 キアーリ修道院長の「白い黒ン坊」もみるからに反語的なタ とりか ) イトルだが、 邦訳『ゴルドーニ劇場』の解説者田之倉稔氏にんで貴婦人たちに鳥籠に閉じ込められてしまう場面がある。 ジーリオは「世にも名高い悲劇の主人公、白い黒ン坊」であ よれば、ゴルドーニその人の「ヴェネッィアの双子」や「二 おりろ、つ′ ) く く′・は。し 人の主人を一度に持っと」をはじめとして、はては「ヴェネる自分が、滑稽な「黄色い嘴の鳥」として格子檻の牢獄に しかしそうだろうか ツィアの三つ子の兄弟」という三重人格の喜劇にいたるまで、押し込められたのが業腹で仕方がない 当時のイタリアには人格の、したがってまた存在の二重性、直前に大魔術師ヘルモートの朗唱した詩では、「このとき妖 精の妙なる手に紡がれた / 網に極彩色の鳥が捕らえられる」 多重性を主題とする双子幻想がうようよしていたという。 ローマが舞台の『。フランビラ王女』が、この十六、七世紀のではなかったか。つまり、天上界に焦がれるジーリオは、 イタリアのコメディア・デッラルテの記憶に立って構想され自分が鳥として貴婦人Ⅱ妖精の紡いだ網に捕らわれて天上界 たのはいうまでもない。両者のつながりは『。フランビラ王 にげんに来ているのを、牢獄の「檻」という冥府のなかに閉 女』の随所にみられるが、ここではひとつだけ、田之倉稔氏じこめられたと誤認しているのである。この倒錯を正置に置 が前記『ゴルドーニ劇場』の解説「ゴルドーニとふたごのドき換えるには、認識の当事者がその大仰な悲劇役者気取りを ラマトウルギー」に一一一一口及している、ヌアー族の神話にみられ自己否定し、いわば「殺さ」なくてはならない ゞ ) つつ ) 0

7. 集英社ギャラリー「世界の文学」10 -ドイツ1

ゲテ 1210 しかし、それにもかかわらす、革命の報に接した時、ゲー考の軸として自然というカテゴリーを選んだことの必然的結 テは深く動揺する。多くのドイツのインテリゲンチャたちが果であったとは、必すしも一一一一口えない。すべてを根元的生命た 革命を歓迎するなかで、ゲーテは当初より騒乱の行きつく先る自然の諸相として見るならば、歴史もまた自然史の一環で てんぶく 一は現存秩序の顛覆、つまりは彼自身を支えている社会的経済あり、フランス革命もまたナポリのヴェスヴィオ火山の噴火 的基盤の壊滅であることを見てとり、深い不安にかられた。 と何ら変らぬ一現象であって、ゲーテはそれをも生命の壮絶 それは革命に対する原理的批判であるよりもます、生活を脅なる噴出として、かってヴェスヴィオの噴火を観察したと同 かされることへのむしろほとんど肉体的な恐怖であった。そじように、ひたすら感嘆して眺めることもできたはすである してその背後には、さらにある基本問題が隠れていた。 し、さらに一歩進んで、彼自身が当時のいくつかの詩で暗示 イタリアから戻ったゲーテは世界のさまざまな事柄を根一兀しているように、自らも渦中の人物となり「厚顔快活に」そ 的生命の多彩な顕現として見る態度を固めていたが、それはの動乱を楽しむこともありえたはずであった。しかしそれを 彼が自分の思考世界から原理的に社会というカテゴリーを排妨げたのは、彼がその時すでに手にしていたクリスティアー 除したということである。しかし他方ゲーテも含めてすべてネと息子アウグストとの幸福な家庭生活であった。別の言葉 の人間は常に社会内存在であり、生活において社会的問題とで言えば、彼は思においては原理的に社会を排除し自然を 無関係ではありえない。その結果、イタリア旅行以降のゲー基本カテゴリーとしながら、現実には社会の最小単位である テの社会問題についての発言は、けっして原理にはさかのば家庭に心地よく身をゆだねていた。革命騒ぎは折角のそれを らない目先の技術論に強く傾斜する。 ( そうした技術論がも脅かすことになる。自然の破壊力が家庭にまで及ぶのは、困 う一度人類史の大きな背景のなかに置き直され、その意味がるのである。彼を革命反対派にしていたのは、政治的信念で 問い直されるためには一八二一年の『ヴィルヘルム・マイスはなく生活保守主義、あからさまに言うならば彼の自己保身、 ターの遍歴時代』初稿を待たねばならない ) 。そして、技術より正確に一一一一口うならば彼の存在の奥深くにあるほとんど生物 論では処理しえない巨大な社会事象であるフランス革命を前的な自己保存本能であった。 こうして革命との原理的対決を回避した結果、『大コフタ』 にした時、彼は深い恐布に襲われ、貴族たちの生活態度改善 で革命勃発を回避できるかのような、歴史の進行の前には全 ( 一七九一 ) に代表されるいわゆる「革命劇」その他、この く無意味な精神論を口走ることになった。 時期にフランス革命に関係して書かれた作品群は、すべて歴 カカ だが、このことをして、イタリアから帰った彼が自分の思史事象としての革命の本質に関わることができなかった。数

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ホフマン 712 世もないていたらくで、周囲の誰にも負けじと息を吹きかけ、 を堰いて、水面にさざ波を立てさせるのと似ています。 チェリオナティ親方、あなたはまさか、不し ムこは、うわべの現〈殺シチマエ ! 〉と絶叫するのですけれども、するとその瞬 われ せんりつ 象のなかにしか存在せす、そのモチーフをもつばら外界から 尸に無気味な戦慄に襲われて、恐怖のあまり、ドイツ人の感 しか得ていない茶番のおかしさを理解するセンスがない、な覚には生得のものであったはすの、あの情緒が皆目あらわれ どとはお田じ 、いにならないでしような。また、そういう茶番の出る余地がなくなってしまうことになるのです」 おかしさを人生のなかに迎え入れるすぐれたカがあなたがた 「情緒だって」とチェリオナティはにつこりと笑って言った、 イタリア人にはあることにこの私が目をつぶっている、など「情緒ねえ , ・ では、情緒たつぶりのドイツ人さんよ、き とはお田じ 、いになりますまい。ですが、チェリオナティ、そこみが劇場のイタリア式仮面人物をどう考えているか、ひとっ ハンタローネだの、。フリゲッラだ 聞かせてくれないか この茶番のおかしさには、 はどうか大目に見て頂きたいが、 もう一つ、あなたがたの喜劇役者には欠けているところの情の、タルターリアだのといった連中のことだがね ? 」 「いやはや」とラインホルトが答えて、「ああいう仮面役た 緒なるものを付け加えることがどうあっても必要だと断言い ちょ、つろう たしておきましよう。情緒こそはわれわれの冗談を純正なるちは、滑稽きわまる嘲弄や、正確に的を射たイロニーや、 ものたらしめるのですが、それは、あなたがたのプルチネラ このうえなく自由な、というよりはこのうえなく破廉恥な、 やその他さまざまの種類の仮面の動きの原動力たる猥褻の原と言しオし。 、こ、まどの上機嫌のどっさり隠されている宝庫だと思 し、かわりに、あなたがたを 理にあっては姿をひそめてしま、 いますよ。そうはいっても私の考えでは、あれが要求してい 狂気や殺人にまで駆り立てるところの、あの激昂や憎悪や絶るのは、人間の天性そのものよりはむしろ人間の天性のなか きようそう あらわれ 望のそっとするようなおそろしい狂躁が、ありとあらゆるのさまざまの外面的現象であり、より簡潔かっ正確に一言えば、 まっただなか それはそれと 道化面や茶番の真只中にひょいと顔をのそかせるのです。謝人間そのものよりは人間たちなのですね。 ろうそく 肉祭の当日、人びとが銘々一本の蝦燭を手に持って、他の人して、チェリオナティ、私があなたがたイタリア国民のなか かいぎやく ろうぜき に深甚な諧謔精神の持主はいないのではないかと思うほど の蝦燭の火を吹き消そうとするとき、狼藉のかぎりの、うか ′一うししう ノーテンキ れきった歓呼の声を張り上げどよめくすさまじい哄笑を発の能天気だとはお思いにならないで頂きたい。見えない教会 やっ は国民の区別を知りません。それはどこにでも同志を持って しながら、〈蝦燭ヲ持ッテナイ奴ハ殺シチマエ ! 〉とコルソ 、ですか、チ います。 それはそうと、チェリオナティ親方、つつみ隠 中がおそろしい胴間声に打ちふるえるとき、いし エリオナティ、私とて民衆の狂気のよろこびにすっかり身もさす申し上げるなら、あなたはそのお人柄と活動の全容をも せ わいせつ あら

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ゲテ 1206 範を発見したと信じたのである。 にのみ存在する計算可能なものとして把握することを目指す この時期、新作の出版など世間的な意味における作家活動のではなく、それ自体自然存在である人間と外界の自然との はほとんど休止状態であったが、しかし作品の執筆それ自体交感を基礎として、自然と人間の直感的把握を探るものであ 一は多忙で多彩な日常のなかでも中断することはなかった。 った。社会のなかでの啓蒙主義的改良を目ざす活動に疲れた 「冬のハルツの旅」など折々の生活や公務旅行途上などにお時、ゲーテの心は自然存在としての自己を知るための自然研 いて作られた数多くの詩は、かって疾風怒濤期の詩の力強さ 究へと向いたのである。 がひたすら若い自我の内面を内側から突き上げるものであっ 八〇年代半ばゲーテの疲労の色は濃かった。八六年九月、 たのに対し、人間を越える、より大きな自然と、そのなかにゲーテは長期の賜暇を乞う手紙を残し、またシュタイン夫人 生きる人間の運命を歌って、広壮たる力強さと宇宙的感情に にも手紙で出発を告げるのみで、匿名でイタリアに旅立った。 かっと ) っ 充ちている。戯曲では、現実的葛藤の解決に対する合理主義 イタリア旅行 的思考の限界と心情倫理の勝利を、女主人公の高貴な魂の在 りようを通じて提示する古典的調和劇の傑作『タウリスのイ 一七八六年九月から八八年六月に至るイタリアへの旅は、 ウ工、不ツィア フィゲーニエ』の散文稿が完成した。小説としては、啓蒙主ゲーテの生涯にとって大きな転換期であった。。 義的改良可能性への信頼と共和主義的理想によって導かれるに二週間あまり滞在したのち、十月二十九日ローマに到着し 『ヴィルヘルム・マイスターの演劇的使命』が書き始められたゲーテは、主としてドイツ人画家たちの交友圏に身を置い て、古典古代とルネサンスを対象に綿密な美術研究に努め、 す・いこう しかし『演劇的使命』は、主人公がその目標たる国民劇場そのかたわら著作集のための自作の推敲に , 、従事した。翌八七 の創設に至ることなく、 八〇年代半ばに中断される。そして年一月『タウリスのイフィゲーニエ』韻文稿 ( 決定稿 ) を完 公務上の必要から始まった自然研究が八〇年代初めころより成、二月中旬ローマ民衆の祭りであるカーニヴァルを見物し 本格的なものとなって行った : ケーテはその多彩な活動にもて多くの素描を描いたあと、二月末ローマ滞在を一応打ち切 かかわらず、本来的な歴史研究には生涯従事したことがなか ってさらに南へ向けて旅立った。 ったが、それは彼が心の一番の奥で自己を歴史的存在として ますおよそ一カ月のナポリ滞在、そして一カ月半のシチリ ではなく、常に自然存在であるとしていたためである。そしア旅行、そのあとまた半月の再度のナポリ滞在で終るこのお てその自然研究は、近代自然科学のように自然を人間の外部よそ三カ月の南方への旅において、ゲーテの主たる関心は南

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1207 解説 ケーテにあった。以前と同じドイツ画家コロニーに居を定めたゲーテ 国の民衆の生活と、同じく南の自然に向けられた。。 とってローマが何よりも古典古代の文化と文明の記憶に満たは、古代とルネサンスの芸術研究を続けると共に、素描、油 された都市であったのに対し、ナポリにおいては民衆も町も絵、水彩画、彫塑などの実技修得に励み、同時に古く疾風怒 遺跡も、みな自然の一部なのであった。更にシチリア最大の濤期に書き始められながら中断していた『エグモント』の完 町パレルモでは繁茂する南国の多彩な植物に囲まれるなかで、成に努め、さらにイタリア喜歌劇の影響下に小喜歌劇の習作 すべての植物の原形たる「原植物」を幻視し、またホメロスを試みた。またファウスティーナと呼ばれる愛人を通わせて いたとも推察される。二月、二度目のカーニヴァルを観察し に触発されて『ナウジーカ』断片を書き、そして偽名といっ わりの口実を設けて詐欺師カリョストロの実家を訪ねる。魔たゲーテは、それについてのほとんど自然観察のごとき冷静 せんしよう 術師を僣称してヨーロツ。ハの宮廷社会を遍歴したカリョスで包括的な記述を記したのち、四月二十三日ローマを発ち、 -L—ロよ、。 ケーテにとって現存秩序崩壊のきざしを担う人物と六月十八日ヴァイマルに帰着した。 以上、一年十カ月にわたるイタリアへの旅行の間、ゲテ して、深い関心の対象であった。 南方の旅から戻っての第二次ローマ滞在はほとんど一年間は文学者であるよりむしろ古典古代とルネサンスの美術研究 にわたるが、それは旅というより半ば定住者としての生活で家であり、植物と地質を中心にした自然学者であり、またフ 豊ぎい」、上 / 『若きヴェルテルの悩み』 一七七五年版扉銅版画による 中 / ロッテのモデル、 イシャルロッテ・プフ 、 ~ = の肖像画 。 ( 下 / ロッテのモデル、 ' ) シャルロッテ・プフの家 w_LOTTE