ダンスとしこたま飲んだワインに身体中が火照り、ナター 「お別れです、お別れです」 しゅうち ナエルはふだんなら手綱をはなしたことのない羞恥をかなぐ やけくそに絶望的な声で叫び、オリュンピアの手にロづけ 彼の燃える唇を迎えた りすてていた。彼はオリュンピアの傍に腰を下してその手にをし、身をかがめて口をもとめたが、 , ン マ 手を重ね、かっかとのばせ上って愛の言葉をしきりに語りかのは氷のように冷たい唇ではないか , フ オリュンピアの冷たい手にふれたとき、ナターナエルは腹 の底からゾッとして、突然、死せる花嫁の伝説を思いうかべ それはしかし、彼にもオリュンピアにも皆目訳の分らない た。さるにてもオリュンピアは彼をしつかり胸に抱きしめて 口説き文句だったのである。いや、もしかするとオリュンピ めく アのほうは分っていたのかもしれない というのも彼女はナおり、ロづけをするうちに唇には生命の温もりさえもが萌し ターナエルの眼をしつかり見据えて、何度となく「ああ、あてきたようだ。 ためいき あ、ああ ! 」と溜息を吐いたからである。 スパランツアーニ教授が誰もいなくなったサロンのなかを ゆっくりとこちらへやってきた。足音がうつろにがらんと反 するとナターナエルはそれに応じてこんな風に言った。 「おお、すばらしい、天上の女よ ! あなたは愛の約束され響した。教授の身体は、灯に映えてゆらゆらと大きくゆれる 影の戯れに囲まれて、おぞましい、幽霊のような気配をただ た彼岸からやってくる光だ ばくの全存在を鏡と映してい よわせた。 る淵のように深い心だ」 ばくを愛してるね、オリュンピア ? 「ばくを愛してるかい そんな文句をさらに言いつのるのに、オリュンピアはその さあ言ってくれたまえ , ばくを愛してるね ? 」 たびに、ただ「ああ、ああ ! 」と深い溜息を吐くだけだった。 ナターナエルはそうささやいたが、オリュンピアは立ち上 りながら、ただ「ああー・・ーああ ! 」と溜息を吐くばかり。 スパランツアーニ教授が幸福にひたっている二人の傍を何 度か通り過ぎ、奇妙に満脱した面持ちで微笑をうかべた。ナ「そうとも、ばくの愛らしい、すばらしい愛の星よ」とナタ ーナエルは言った、「きみはばくの目のあたりに昇ってばく ターナエルはこの世ならぬ世界に身を置いていたが、ふとス を照らしてくれるだろう。ばくの心を永遠にこの世ならぬ浄 ハランツアーニ教授の家のなかが妙に暗いのに気がついた。 らかなものに変えてくれるだろう ! 」 あたりを見回すと、おどろいたことに、し 、ましも最後にのこ った二台の燭台の灯が燃え落ちて消えようとしている。音楽「ああ、ああ ! 」オリュンピアは相変らす溜息をくり返すだ けだった。ナターナエルが後についてゆくと、オリュンピア も舞踏もとうに終っていた。 ひと きギ一 こだ きょ
、とど - っ、つ と、明るく敏い洞察力にあふれた吾性とをそなえ持っていた。ウスのことも、クララの分別臭い手紙のことも、きれいさっ いらだ もうろうとして夢想に耽っている連中は、彼女にあうと手もばり消え失せてしまったからだ。あの苛立った気分もどこへ ンなくやられてしまった。というのも、もともとクララのつつやらであった。 マ ましい天性はおしゃべりには無縁ながら、ロにこそしなくて さるにてもナターナエルが友ロータールに宛てた手紙のな フ まなざ いたず . ら まがまが も、明るい眼差しと繊細で悪戯っ子そうな微笑みがこんな風かで、いまわしい晴雨計売りコッポラの姿がまことに禍々し に語っていたからである。 くばくの人生のなかに押し入ってきた、と書いたのは、まさ 「ねえ、皆さん ! どうしてあなた方は、そんなっかのまに に言い得て妙だったのである。 消え去ってしまう影のようなものを生命も活力もある現実の最初の日から、ナターナエルが別人のようにすっかり様子 もの 姿と見てくれなんて、私に要求なさるのかしら ? 」 が変ってしまっているのが、まざまざとみてとれた。誰しも あ そういうわけで、なかにはクララを悪しざまに、冷たい、 がそう感じたのである。ナターナエルは陰気な夢想に沈み、 感情のない、散文的な女さ、と言う人もないではなかった。 これまでにはついそ見掛けなかったような奇妙な振舞いに及 しかし一方では、人生を清らかな深みで理解している人たちんだ。 が、この心やさしくかしこい、子供つばい娘をことのほかい あらゆるものが、人生の全体が、ナターナエルには夢と化 つくしんでいた。とはいえ誰にもまして彼女を愛するのは、 し、予感と化していた。一一一一口うことはいつもきまっていた。人 けんさん はればれと力強く学問芸術の研鑽に活動するナターナエルで間は誰しも、自分の意志でやっているのだと称しながら、実 あった。 は暗黒のカの残酷な戯れにあやつられており、その力にどう あらが クララは恋するナターナエルに心を捧げ切っていた。だか抗ってみても無駄なのだし、運命が定めた道に柔順にした がわぬわナこま、 らナターナエルが身内からはなれたとき、彼女の人生にはは レし。しかない、そう一一一一口うのだ。あまっさえ勢いあ じめて暗雲の影が射した。そのナターナエルの腕のなかに彼まって、芸術にしたって、学問にしたって、自分の意志のま ′ごっ - 一つ 女はどんなに恍偬としてとび込んでいったことか。ローター まに創造していると考えるのはおよそ愚の骨頂だとまで言い ル宛ての最後の手紙に約束した通り、ナターナエルはいま故つのった。つまり彼に言わせるなら、精神の熱狂のなかでこ 郷の町の母の部屋に本当に帰ってきたのである。事態は、ナそ人は創造に携わることができるのだが、その精神の熱狂は ターナエルが予想していた通りだった。というのもクララに当事者の内部からやってくるのではなく、私たち自身の外部 にある何か高次の原理に感応して起るからなのである。 再会した途端に、ナターナエルの念頭からは弁護士コッペリ
眼がひきつるようにぎらぎらと輝き、それがナターナエルの それにコッポラがいまテー。フルの上にならべているレンズ 炻ほうをいっせいに見詰めるのだ。 は、ちっとも特別なものではなかった。すくなくとも眼鏡の こじれたよりを戻そうとばか とうしてもテー、、フルから目をように化物じみた風清はな、。 ンそれでいてナターナエルは、。 マ 外らすことができなかった。コッポラは次々に眼鏡をならべり、ナターナエルはコッポラの品物を何か買ってみることに フ ちょう るばかり。すると眼鏡の燃えさかるような視線はいよいよも した。一挺の小体な、みごとな仕上げの携帯望遠鏡を手に取 のぞ のすごくぎらぎら交錯し合い、血のように赤い光の束をナタり、調子を試してみようと窓の外に向けて覗いた ーナエルの胸に突き立てる。気も狂わんばかりの恐怖に圧し 生れてからこの方、ナターナエルは事物をこれほどきれい ひしがれて彼は叫んだ。 に、するどくはっきり押し出すレンズにお目に掛ったことは 「やめてくれ ! やめるんだ、この怪物めが ! 」 ない彳。矢らぬ間にスパランツアーニの部屋のなかを覗い ナターナエルは、もうテープル中がすっかり眼鏡だらけなていた。いつものようにオリュンピアがちいさなテープルの てのひら のにも気がっかすに、なおも眼鏡を取り出そうとポケットに 前にすわり、左右の掌を組んで腕をテー。フルの上に載せて 手をさし込むコッポラの腕をむすとばかりつかんだ。コッポ かたず ラはしやがれたおそましい笑い声を立てると、やんわりとそ いまやナターナエルは、はじめてオリュンピアの固唾を呑 の手をふりほどいて言った。 むはど美しい目鼻立ちを目のあたりにしたのである。奇妙な 「ああー そんならここにきれいなレ あなた要らない ことに、眼だけがへんに据わって死んだもののようだ。それ ンズあるよ」 でいてレンズを通してじっと目を凝らすと、オリュンピアの コッポラは眼鏡をすっかりかき集めて内ポケットに蔵い込眼に濡れた月光が宿っているような気がしてきた。いま わき むと、今度は上着の両脇のポケットから大小さまざまの望遠めてその眼に視力の光を灯したばかりだとでもいうようだっ た。オリュンピアの眼光はいまや生きいきと燃え上った。ナ 鏡を取り出した。とにかく眼鏡さえ消えてくれればいいのだ、 とナターナエルはホッと一息つき、クララの言葉を思い出し ターナエルは天女のように美しいオリュンビアに目を据えな せき ながら、あやしい妖怪変化といったところでもつばら自分のがら、魔法に掛ったように窓際に釘づけになった。耳元で咳 ばら 心の迷いから出てくるもの、コッポラは至極まっとうな技師払いをする気配があり、彼は深い夢から喚びさまされるよう のろ 兼眼鏡屋であって、彼がコッペリウスの呪わしい分身だの亡 にわれに返った。コッポラがすぐうしろに立っていた。 三ドウカーテンね」 霊だのなどであろうはずはない、 と思い直すのであった。 「三ツエキーネ ( の とも
あの目玉ーー目玉を盗った。 呪われたーーー地獄の亡叫び続け、あたりかまわず翠固をふり回した。大勢が寄って たかって床にころがして縛り上げ、ようやく狂人を押え込む 者めーーやつのあとを追えーーーオリュンピアを取り戻してく れ , ーーほら目玉はそこだ のに成功しこ。 ナターナエルはしだいに一一 = ロ葉を失っておそろしい獣の呻り ナターナエルは、血まみれの目玉が二つ床の上にごろんと 声を出しはじめた。こうしてむごたらしい狂気のうちに暴れ ころがって、じっと自分のほうをみつめているのに気がつい た。するとスパランツアーニが怪我をしていないほうの手で回りながら精神病院に運ばれたのである。 それをむずとっかんで彼のほうに投げつけたので、目玉はナ不幸なナターナエルの身の上にそれからどんなことが起っ はっし たか、その後日譚を続ける前に、読者諸君よ、諸君があの機 ターナエルの胸に発止とばかり命中した。 かぎつめ この瞬間、ナターナエルは狂気の灼きつくような鉤爪にが械工学と自動人形製造の達人たるスパランツアーニにすこし ばかり寄り道することをお望みとあらば、しかと確一一 = ロ申し上 っしとばかりつかまれた。狂気は胸底深くまで食い入って、 げることができる。いまやスパランツアーニは傷もすっかり 思慮分別をズタズタに引き裂いた 「フィーーーフィ・ーーーフィー 火の輪よーー火の輪ーー火の全快していた。その間に彼は大学を辞職しなければならなか ひ った。ナターナエル事件が衆目を惹き、 ( オリュンピアがた 輪は回れ、ぐるぐる回れーーーたのしいなーーーおもしろいぞ , かわい 木のお人形さん、フィ、きれいな可愛いお人形さん、ぐまたま居合わせていた ) まっとうなお茶の会に集った人びと に木の人形を生きた人間に見せかけたのがもっての外のペテ るぐる回れーーー」 とりぎた ンだと、もつばら取沙汰されたからである。 そう言いながらナターナエルは教授めがけてガバと身を投 げ、相手の咽喉をしめ上げた。放っておけば彼はスパランツ法律家たちの極一言するところでは、このペテンは公衆を相 アーニをしめ殺してしまっていたかもしれない。だが物音に手に演じられ、それも、いまになってこそ猫も杓子もさかし おびき寄せられて大勢の人がどやどやと押し入ってき、暴れらぶって、いぶかしげに思われた節々をあれこれ引き合いに めいせき たす 狂うナターナエルを引きはなして教授を救け出すと、こちら出しはするものの、誰一人として ( 何人かの頭脳明晰な学生 は別として ) ペテンに気がっかなかったほど巧妙に計画され はすぐに傷の介抱をした。 男 たのだから、精巧な、それだけに厳罰に処さるべき犯罪だ、 一方、さしも屈強なジークムントでさえも、荒れ狂う狂人 をとり鎮めるには四苦八苦の態であった。ナターナエルはおというのである。 もっとも、どうもあやしかったと言う連中にしても、それ そろしい声をあげて、「木のお人形さん、ぐるぐる回れ」と たん
主要登場人物 ナターナエル ナターナエルの母に引き取られた遠縁筋に当る 大学生。陰気な夢想家。オリュンピアに恋し、 一家の孤児。クララの兄。 コッペリウス 気がふれる。 クララ 老弁護士。妖怪じみた怪人物。 ナターナエルの婚約者。深いやさしい女の情緒ジュゼッペ・コッポラ ピエモンテの器械技師で晴雨計売り。 と明るく敏い洞察力にあふれた悟性をそなえ持つ。 ローター スパランツアーニ コッペリウス コッポラ イ Y の スパランツアーニ教授 イ・ ナターナエル 物理学教授。カリオストロの肖像にそっくりな 人物。 オリュンピア スパランツアーニの娘。 ジークムント ナターナエルの友人。 オリュンピア クララ
クララはやさしくそ ク一フ一フーーーーーク一フ一フ ! 」 るのか、そもそも彼女の愛を破壊する怖ろしい運命を予告す「ああ ! きまじめ る、むごたらしい形象でクララを不安がらせて、どういうこの胸に手を当て、低い声ながらとてもゆっくり生真面目な口 とになるのか、しかと見当がついたわけではないというのに。 調で言った、「ナターナエル 私の大好きなナターナ工 そんな途方もない 馬鹿げたーー気違いじみたお とぎばなし ナターナエルとクララは二人して家の小庭園に腰を下ろし伽噺は火のなかに放り込んでおしまいなさい」途端にナタ ーナエルは怒り狂ってびよんとばかりとび上ると、クララを ていた。クララは上機嫌だった。というのもナターナエルが 突きのけて大声で叫んだ、「この生命のない、呪われた自動 例の詩を書いていたその三日間は、彼の夢想だの予感だのに マット 脳まされすにすんだからだ。ナターナエルのほうもいつもの人形めが ! 」 ふかで ナターナエルは走り去った。深傷を負ったクララは苦い涙 ように面白い話を生きいきと楽しく話してくれたので、クラ を充した。 一フはこ , つ一一 = ロったほどだ。 「ああ、ナターナエルは私を愛していなかったのだわ。あの 「やっとあなたらしいあなたにお目にかかれたわ。私たち、 おえっ 人には私の気持がわかってないのだもの」と声を上げて嗚咽 とうとうあの贈らしいコッペリウスを追いはらってしまった のよ。挈」 , つでしょ , っ ? 」 あずまや ロータールが庭園の亭に入ってきた。クララは、、 このときナターナエルはやっと例の詩をポケットに入れて がた起った事件をロータールに聞かせないわけにはいかなか きたのを思い出し、詩を読み上げようと思った。さっそく詩 った。ロータールは心から妹を愛していた。クララの悲嘆の 稿を取り出して読みはじめた。いつものように退屈な代物だ 声は一語一語火花のように胸底に落ちたので、ロータールが ろうと観念したクララは、黙って編物を編みはじめた。 けれども暗雲がしだいにもくもく黒々と立ち昇ってくるにひさしい間心中ひそかに夢想家肌のナターナエルに抱いてい こ憤懣は、ついにめらめらと火の手を上げて、狂暴な激怒の つれてクララは靴下の編物を膝の上に置き、ナターナエルのオ 眼をじっと見つめた。彼は自分の詩にとめどなくのばせ上り、発作に変った。 たぎ しやくねっ 両の頬は内心の灼熱の色に真紅に火照って、眼から涙が滾ロータールはナターナエルの部屋にかけ込み、愛する妹に 男 砂り落ちるー・ーとうとう朗読を終り、ぐったりと疲れはてて溜よくも馬鹿げた振舞いをしてくれたな、とはげしい言葉でな じった。いきり立ったナターナエルのほうも同じように応酬 息を吐くとー・ー彼はクララの手を取って、絶望の悲哀にかき した。决闘は避けられなかった。翌朝、二人は庭園の裏手で、 くれるように長嘆自 5 した。 ひぎ
むち るナターナエルの憤懣はしだいにやる方なく嵩じ、クララは颱風が怒りの鞭をくれたようなものすごいどよめきだ。だが、そ うつくっ クララでナターナエルの暗い、鬱屈した、退屈な神秘主義 にの荒れ狂うどよめきの間を縫ってクララの声が聞こえてくる。 「あなたには私の姿が見えないの ? あなたはコッペリウス ンたいする嫌悪を抑え切れなかった。 マ こうして二人は知らず識らずのうちに、ひそかに疎んじ合に騙されているのだわ。あなたの胸のなかでそうして燃えて フ うようになった。実はナターナエル自身も認めないわけには いるのは私の眼ではなかったの。あれは、あなたご自身の心 いかなかったのだが、 空想のなかのおそましいコッペリウス臓の血の熱い滴だったのよ 私には眼があるわ、さあ、ち の影はすっかり色褪せてしまっていたのだ。コッペリウスが ゃんとご覧なさいな ! 」 残酷な運命の操り人形として登場してくる彼の詩のなかで、 ナターナエルは思う、「あれはクララだ。ばくは永遠に彼 この操り人形に生きいきとした彩りを帯びさせるのに、。 とう女のものだ」 かするとかなり難儀するのだった。 すると火の輪のなかにその考えがぐいと食い込んだように しんえん そのうちナターナエルは、コッペリウスが自分の愛の幸福火の輪が動かなくなり、真黒な深淵のなかでどよめきはもう を邪魔立てするだろうという例のいやな予感を主題にした詩ろうと消えてゆく。ナターナエルはクララの眼を覗き込む。 きずな を書こうと思いついた。ナターナエルは、誠実な愛の絆に結 だが、クララの眼をしてこちらを親しげに見つめているのは ばれる自分とクララの姿を描いた。だが、 ときおり二人の生死神だ。 活に黒い手がぬっと押し入ってきて、二人の間に花咲いた詩を書いている間、ナターナエルは冷静に重に構えてい よろこ すいこうちょうたく 歓びをむしり取ってゆく。最後に二人が晴れの婚礼の席に 彼は一行一行を念入りに推敲し彫琢した。韻律にがん じゅんこ かいちょ ) っ 立っと、怖ろしいコッペリウスがあらわれてクララの愛らし じがらめに縛られて、全体が純乎として整然たる諧調にと とのうまでは気が気でなかった。。 、眼にさわる。するとその眼がナターナエルの胸のなかに、 たが、さて仕上げ終ってく きようがく 血なまぐさい火玉のように、火花をとばしながら真赤になっ だんの詩を朗読する段となると、彼は恐怖とはげしい驚愕 わし いったい誰の声なのだろ てとび込んでくる。コッペリウスはナターナエルを鷲づかみに襲われた。「この陰鬱な声は、 にしてめらめら燃える火の輪のなかに投げ込む。すると火の う ? 」と彼は叫び声を上げた。 あらし 輪は、嵐のように猛烈にぐるぐる回りながら、すさまじい轟しかしまもなく、彼にはまたもや全体が非常に成功した詩 き」ら・ おん 音とともに彼を引き攫ってゆく。白髪の真黒な巨人さながら、のように思われ、クララの冷たい心にこれで火を点けてやら たけり狂う闘技のさなかに仁王立ちになった逆巻く巨浪に、 なければ、と思い立った。なんのためにクララを燃え上らせ ・一う うと 」い、か , っ だま っ
811 砂男 かしこいクララにはこうした神秘的熱狂がどうにも鼻持ちけたわけではなく、この種の秘密を彼女に手ほどきしてやろ ならなかった。しかし反論したところで無駄のように思われうという努力を放棄したのでもなかった。 た。ナターナエルは、コッペリウスが悪しき原理だと一言うの 翌朝、ナターナエルはクララが朝食の支度を手助けしてい だった。あのカーテンの陰で盗み見をした瞬間に、彼はそうるところへやってきて、いろいろな神秘学書から引いた章句 直感した。やがてあのおそましい悪霊はむごたらしいやり方を片端から読み上げたものだから、クララはついに音を上げ で二人の愛の幸福を妨げるだろう。そんな風に彼が論じ立てた。 うんめん 「だけどねえ、ナターナエル、、 たとキスクラ一フははじめてきっと、なって一一 = ロった。 しくら悪しき原理云々のこと コーヒー かたき、つ 「そうよ、ナターナエル ! あなたのおっしやる通り、コツであなたをけなしたからって、その仇討ちを私の珈琲にとる ものかしら ? だってそうじゃないの。あなたのお望み通 ペリウスは悪の原理ね。コッペリウスは、人生のなかにはっ きり目に見える形で入り込んでくる破壊的なカみたいな、おり何もかもほっぱらかしにして、そのご本を読み上げている そろしい力をふるうかもしれないわね。でもそれは、あなた 間中、あなたの眼のなかを覗き込んでいなきゃならないとい じゅ・はく うんじゃ、珈琲が火に巻かれてしまって家中が朝食にありつ が彼の呪縛を頭のなかから追い出してしまわないからなの。 けなくなってしまうのよ ! 」 あなたが彼の存在を信じているかぎり彼は存在しているのだ ナターナエルはパチンとけたたましく本を閉じ、不機嫌も し、威力をふるうのだわ。あなたの固定観念こそが彼の力な むき出しに自室に閉じこもった。ふだんならナターナエルは のよ」 ナターナエルは、クララが悪霊の存在を彼自身の心のなか趣き豊かな生きのいい文章を書いて並々ならぬ才腕を発揮し、 だけに限定しているのですっかり腹を立てて、悪魔だの無慈クララはうっとりとしてそれに聴き入ったものである。だが 力いしゅ・つ いまや彼の詩作は暗く晦渋で、無定形であった。クララは 悲な魔力だのについての神秘的教説を総動員して巻き返そう としたが、 クララはこれに冷淡なそぶりで水を差して煩わし思いやりからロにこそしないが、自分の詩がどれほど味気な そうにさえぎった。 いものか、ナターナエルにもよく分っているはすだった。 ふんまん クララには、退屈ほど我漫のならないものはなかった。眼 ナターナエルにはそれが憤懣やる方ない思いである。冷た かき かたく つきもロのきき方も、彼女のどうしようもない精神の眠気を い不感症の心にはこうした深遠な秘密は牡蠣のように頑なに 自然に打ち明けてしまうのだった。実際ナターナエルの詩は 口を閉ざしているものなのだろう、と彼は考えた。そうはい ってもクララがその手の天性下等な人種だとはっきりきめつおそろしく退屈だった。クララの冷たい散文的な心清に対す
気に入りの猫と遊んだり、。ヘー ーナイフや何かをいじくり りのままに思い出しはしたが、 それでもこうつぶやくのだっ 回したり、こほんとわざとらしく咳払いをしてあくびを噛みた。 殺したりするようなこともしないーーー。要するに 、何時間 「言葉がなんだーーー一言葉なんて , 彼女の天上のもののよ も目を据えて微動だもせずにじっと恋人の眼のなかを覗き込 うな眼の色は地上のどんな言葉よりも雄弁に物を言う。そも んでいた。そして彼女の眼はいよいよ燃えさかり生きいきしそも天上の子ともあろうものが、い じましい地上の必要から てくるのである。 線引きされた狭苦しい輪のなかに身を沈めるなんて、そんな しまいにナターナエルが立ち上って、その手とおまけに唇ことができるもんか ? 」 にもキスをすると、やっと「ああ、ああ ! 」と声を出し スパランツアーニ教授は、令嬢とナターナエルとの関係に それから「おやすみなさい、愛しいお方 ! 」と言うのだった いたくご満脱の様子だった。教授はナターナエルにはっきり しるし した好意の徴をあれこれみせ、ナターナエルがとうとう意を 「おお、きみの心はなんてすばらしく、なんて深いんだろ決して、遠回しながらオリュンピアと結ばれたい旨をほのめ かしたときには、満面をほころばせて、娘のことは一切娘の ナターナエルは下宿の部屋に帰るとそう叫んだ、「ばくの自由に任せてあるから、と申し述べた。 心を分ってくれるのはきみだけだ。きみ一人だけだ」 これを聞いて勇気百倍、胸に火と燃える欲望のおもむくが 日に日にオリュンピアと・伐の間にま、、 どんな思いがけぬ共ままに、ナターナエルは、さっそく翌日にもオリュンピアに、 ひごろ 鳴が打ち明けられたことか。ナターナエルは、思うだに内、い 日頃あのやさしい愛の眼差しがいつまでもあなたのものでい ・ごっこっ の恍忽にわななきふるえた。彼には、オリュンピアが彼の作 たいのと語っている心の丈をはっきりと口に出して言ってく 品を、彼の詩才そのものを、彼自身の胸の奥処から語ってく れと、そう懇望してみようと、いにきめた。 ゅびわ れているように思えた。それどころか、彼女の声が自分の心 彼は母が別れるときに贈ってくれた指環を探した。オリュ の底から出てくる声のように思えた。実際そうだったのにちンピアにそれを自分の献身の徴として、彼女とともに芽生え いのち というのも、前にも述べたように、オリュンピアた燃える生命の徴として捧げるつもりだった。指環を探して 男 砂は一言も口がきけなかったからだ。ナターナエルのほうも、 いるうちにクララやロータールの手紙が何通も出てきたが、 たとえば朝目がさめたばかりのときのようなすがすがしい頭糞を食らえとばかりに放り出し、くだんの指環が見つかると もと の冴えた瞬間には、オリュンピアの受動性と無ロのことをあそれをポケットに、一目散にオリュンピアの許へとかけつけ
827 砂男 , つ、クララだとも と深い溜息を吐いた ! 」ジークムントは彼にそれ以上しゃ ふかで 「ばくの , ーーーばくのクララ ! 」 べらせなかった。深傷を負わせる想い出がナターナエルの胸 きたい ひん 危殆に瀕した友に家までつき添ってきて、誠実に安否を気 にあざとくめらめらと燃え上るやもしれぬのを案じたからで 遣っていたジークムントが部屋に入ってきた。ナターナエルある。 はジークムントに手をさし伸べて、「ありがとう、よくこの幸せな四人が農園に引越そうとする日のことであった。ち ばくを護ってくれたね」 ようど昼食時に四人は市内の大通りをあるいていた。どっさ 狂気の徴候はすっかり消えていた。ナターナエルはほどな り買物をした後のことである。市場には市役所の塔が巨大な くして、母や恋人や友人たちのかいがいしい介抱のおかげで影を投げかけていた。 元気を取り戻した。 「見て ! 」とクララが言った、「もう一度あの塔に登って、 さるほどに一家には幸運が舞い込んできたのである。それ遠くの山を見渡してみましようよ ! 」 というのもさる年取ったつましい伯父が死に、その人の遺産善は急げ , とばかりナターナエルとクララのご両人は塔 など誰も当てにしてはいなかったのに、すくなからぬ財産と に登り、母は女中を連れて家に帰る。仰山な階段を登るのが 一緒に市内にほど近い快適な郊外の一角の農園が母の手に遺 うんざりのロータールは下で待っているつもりだった。 贈されたのであった。母も、ナターナエルも、それにいまや やがて恋人同士は二人して手に手を取って塔の最上階の高 彼が結婚の相手に予定しているクララも、ロータールも、そ廊に上り、霞たなびく森林地帯をながめやった。背後には青 そび ろってここへ移り住むつもりであった。 い山脈が巨大都市のように聳え立っている。 「ほら、あのおかしなちいさな灰色の茂みをご覧なさいな。 ナターナエルはかってないほど和やかになり、無邪気にな っていた。彼はいまはじめて、クララの天女のように純粋な、 ほんとうに私たちのほうにあるいてくるみたいだわ」とクラ 一フが一一一一口った。 すばらしい魂をしみじみと味わった。ほんのわずかでも彼に おも 過去を想い出させる当てこすりを口にする者はいなかった。 ナターナエルは機械的に上着のポケットを探り、コッポラ わき のぞ クララが ジークムントが別れを告げにきたとき、はじめてナターナの望遠鏡をみつけると、それで脇の方を覗いた レンズの真前に見える , エルは言った、「ねえ、きみ、ばくは邪道に踏み迷ってた。 途端に身体中の血管がびりびり けいれん 挈ごっはく でも、ありがたいことに、おりよく一人の天使に導かれて光痙攣しーー彼は死人のように顔面蒼白になってクララを凝視 こみち の小径にたどりついたんだ , ああ、天使というのは、そしていたが、いきなりぎよろぎよろ光る眼から。ハッと火の手 まも