世には何か暗い力があるのね。それがおそろしく意地悪く、 心から愛するナターナエル ! お察しのように、私たち、 陰険に私たちの心のなかに一本の糸をひそませて、その糸で 私とロータール兄さんは、暗黒の力だの激情だのといった題 がんじがらめにして、ふだんならそんなところに踏み込もう かんじん とは夢にも思わぬ、危険がいつばいの邪道に私たちを引きず目についてきちんと論じ合いました。肝腎な点はまあなんと か書きとめましたけれど、書き終ったいま、こうしたことが り込むのね きっとそんな暗い力が、私たちのなかで、まるで私たち自とても意味深長に思えます。ロータールの最後の言葉はよく 身がそれを造りでもしたかのように、私たちの自我になるの分りませんが、兄が何を考えているかぐらいは、大体察しが です。だからこそそのカの存在を私たちは信じるのだし、そっきます。でも兄の言っていることは皆ほんとうだという気 れがあの秘密の作業を遂行するのに必要とする場所を設けてがします。後生ですから、あのいまわしい弁護士コッペリウ やるのね。確固とした、晴れやかな人生を通じて鍛えた意識スのことも、晴雨計売りジュゼッ。へ・コッポラのことも、き たた を手放さずに、正体不明の邪悪な力の作用をたえすそれだけれいさつばり頭のなかから叩き出しておしまいになって。あ あした異形の者どもはあなたに何ひとつ手出しできやしない のものとして認識し、気質や天職の命ずるがままに入ってい った道を、歩一歩、着々とたどってゆく器量さえあれば、あのだと承知して下さいね。相手の邪悪な力を信じさえしなけ の不気味な力は、きっと私たち自身の鏡像となるはずの形姿れば、やつらは実際に、あなたの邪魔立てなんかできっこな むな いのよ。もしもお手紙の行間にお心の深い動揺が語り出され をあがきもとめながら空しく没落してしまうのです。 ロータールが補足していますけれど、たしかにあの暗い魂ていなかったら、あなたの身の上にこれほど切なく心が痛む の力は、私たちが自分からそれに身を捧げてしまうと、外界のでなかったら、私はきっと砂男の弁護士だの、晴雨計売り が私たちの人生行路に投げかける異形の姿を私たちの心の内コッペリウスだのなんて、鼻先で笑いとばしていたと思いま 部に引き入れて、そのために、ほんとうは私たち自身が精神す。元気を出してーーさあ , 私はあなたの守護霊みたいに、お傍に幽霊になって出てや の火をかき立てているのに、例の姿から精神が口をきいてい ろうと思っています。そうして憎たらしいコッペリウスが夢 るのだと、妙な思いちがいをしてしまうことになるのです。 男 わたしまばろし 砂あれは私たち自身の自我の幻像なのよ。あれの私たちの心のなかであなたを煩わせに近づいてきそうになったら、ゲラ こゲラ大笑いして追っ払ってやるつもり。私はコッペリウスに にたいするひそやかな親密さと深い影響は、私たちを地獄。 てのひら こ、つこっ 投げ込むか、そうでなければ天国で恍惚とさせるかするのね。したって、彼のむかっくような掌にしたって、ちっとも布 さ著 )
ていなかった。聞くところによると、彼は当地でピエモンテな、クソ落着きに落着きはらった、いかにも女つばい分別の の器械技師というふれこみの看板を掲げ、その名もジュゼッ 持主なんだなって。その私でさえが、お手紙の冒頭には、ほ ショッグ ペ・コッポラと名乗っているという。 んとうにものすごい衝撃を受けました。自 5 もできませんでし かたき ばくはあいっと断固一戦をまじえて父の仇をとることにき た。くらくら目まいがしました。 めた。うまくゆくかどうかは分らないけれど。 こんな怖ろ ああ、心から愛している私のナターナエル , 母にはこのおぞましい怪人物出現の話はしないでおいてく しい出来事があなたの人生に踏み込んできたなんて、そんな れー。ーばくの愛しいクララによろしく。クララにはもっと気ことがあっていいものでしようか ! あなたから離れてしま 持の落着いたときにお手紙します。ご機嫌よう、以下略。 う、もう二度とお顔を見られない、そんな考えが灼けつく短 刀の一撃みたいに胸内を走りすぎました。 私はやみくもに読みふけりました , クララからナターナエルへの手紙 いやらしいコッペリウスの描写にはそっとします。これで ほんとうにずいぶん長い間お手紙下さらなかったのね。ではじめてあなたのやさしいお父さまがこんな怖ろしくもむご も、あなたが私のことをお忘れではないとは信じています。たらしい亡くなり方をされたのを知りました。お手紙は兄宛 あ なぜってあなたは、この前のお手紙をロータール兄さんに宛てなのでロータール兄さんに渡し、兄はなんとか私の気持を てようとしたのに、宛先を兄のかわりに私にしてしまったんしすめようとしてくれました。でもだめです。不吉な晴雨計 ですもの。きっと私のことがかっちりと頭に灼きついている売りのジュゼッペ・コッポラがいたるところ行く先々につき からね。私、よろこびいさんでお手紙開封しましたけれど、 まとうのです。お恥しながら白状してしまいます。あのジュ 「ああ、ばくの親愛なローターレ ノ ! 」というお言葉を読んで、 ゼッペ・コッポラは、すこやかな、いつもなら穏和そのもの やっと間違いに気がっきました の私の眠りをさえ次々に奇怪な夢の形で襲って台なしにして その先は読ますに、お手紙は兄の手に渡すべきだったのでしまいかねません。 しよう。でも、あなたはふだんよく子供みたいにゃんちゃな でもじきに、翌日にはもう私のなかで何もかもがすっかり 男 砂調子で私の悪口をおっしやってたでしよう、きみはまるで、 一変していました。コッペリウスが何か悪さを仕掛けにくる 家がくすれ落ちょうとしているのに窓のカーテンのゆがんだ にちがいないというあなたの妙な予感などどこ吹く風、クラ ひだ まっすぐ 襞をきちんと真直にしてからすたこら逃げ出す例の女みたい ラは例によって極楽トンボの陽気な気分だ、なんてローター おそ
もうとおいとおい昔のことです。そのころの女の人は、着私をあんなに元気にしてくれた飲み物は、間違いなくそのと 囲ているものも、今のあなたとはまるで違っていました。あのきの蜂蜜から作られたものです。」 とうやらまだあのときの若い娘のことを考え 雨姫の方は、。 ころは女の人たちがときどき来てくれましたので、みやげに ム 新しい草木や穀物の苗や種をもたせました。するとまた、おていたらしく、こう尋ねた。あの娘さんの前髪は、今でもあ く・いつ ュ礼だといって、できた作物をもってきてくれたものです。あんなに美しい栗色の巻毛なのかしら。」 の人たちが私のことを忘れなかったように、私の方もあの人「それは一体だれのことですか。」 たちのことを忘れることはありませんでした。ですから、あ「あなたの言い方をすれば、ひいおばあさんという人です の人たちの畑に雨が不足することなどなかったのです。とこ 「ああ、雨姫さま、では今はもうそうではありません」とマ い、だれ一人と ろが、もうすいぶん前から疎遠になってしま ーレンは答えた。そしてこのときばかりは、不思議な力をそ して私のところには来なくなりました。それで私は、暑さと なえたこの女性よりも、自分の方がいくぶんまさっているよ 退屈のあまり、正体なく眠り込んでしまったのです。そのた うな気持になった。「ひいおばあさんはもうおそろしく歳を めに、悪賢い火男がすんでのところで勝利を収めそうになっ とってしまい、ました。」 たというわけです。」 しオオ「歳をとるって」と、美しい女性は尋ねた。老いというもの 話のあいだに、マーレンも目を閉じて仰向けに横こよっこ。 まわりにはしっとりと露がおり、美しい雨姫の声はかぎりなを知らなかったので、雨姫にはマーレンの一一 = ロ葉が理解できな かったのだ。 く甘く、親しみがこもっていた。 マーレンは説明するのにずいぶん骨を折った。「い、、 「その後もう一度だけ」と雨姫は話をつづけた、「これもも うずいぶんと昔のことですが、娘さんが来たことがあります。か」とおしまいにマーレンは言った「髪が白くなり、目は充 あなたに本当によく似た人で、着ているものもほとんど同じ血し、醜くて愚痴ばかりこばすようになると、これが私たち はちみつ でした。私はその人に蜂蜜をもたせてやりました。それが私のいう歳をとるということなのです。」 「そうでした」と雨姫は答えた、「やっと思い出しましたよ。 から人間の手に渡った最後の贈り物です。」 「どうかお聞きください」とマーレンは言った。「本当に不人間の女たちのなかに、そういう人も混じっていました。で 思議なめぐり合わせです。その娘さんというのは、私の大切も、それならひいおばあさんを私のところへ連れて来てくだ き」し もう一度明るくて美しい人にしてあげます。」 な人のひいおばあさんだったに違いありません。そして今日、
さて、わが『復讐された兄弟の亡霊』に戻ろう におのれ自身をパロディー化しているので、まあふつうの諧たまえ ! じゃ、ないか。 上演は、私がそれまでに見たなかでも最高 謔とはちょっと毛色がちがうけれども、だと。ー、ー素頓狂な 思想や考え方に何ができる ? 大公はそれだけでは物足りずにすばらしいものだった。それなのに観衆はわが主人公が一 ン マ 、実際、おそろしくも実際、贈悪の矛先をすばり私と私の言しゃべるたびにどっとばかり笑いころげるじゃないか。す フ おんど きみがローマに来る前のことだが、 るとピストーヤ大公が桟敷にいて、その度に大爆笑の音頭を 毟脚に向けてきた ! とっているのが目にとまったんだ。こうなったらもう間違し 私の身におそろしいことが起ったのだ。私の悲劇のなかでも ふくしゅっ どう悪どく持って回ってふざけたからくりを仕掛け 一番すてきな ( 『白い黒ン坊』は別格としてだ ) 『復讐されはよい。、 た兄弟の亡霊』が上演されたときのことだ。俳優たちはつねたのか分らんが、この世にもむごたらしい中傷の縄を私の首 にない上出来だったよ。俳優が私の科白の隠された意味をこに掛けてよこした元凶はやつだったのだ。大公がローマから 、、、消えたときにはどんなにせいせいしたことか ! でもやつの れほど理解してくれたことはなかったし、身のこなしとし これはど真にせまって悲劇的だったこ精神は、あのいまいましい老山師の、気ちがいチェリオナテ 見得の切り方といし とは、ない この機会に言わせてもらえば、ジーリオ君、イ野郎のなかに生き続けていて、チェリオナティはみごと目 ろみ きみは身ぶり、殊に大見得に関しては、もう一息といったと論見が外れはしたものの、いっぞや人形芝居小屋で私の悲劇 ころがあるね。当時のわが悲劇役者はシニョール・ツェッキを笑いものにしようとしやがったのさ。これだけはたしかだ おおまた が、どうやらバスティアネッロ大公もまたまたローマに化け ェッリ、これが両の脚を大股びらきにひろげ、足裏はしつ い。だってやつの宮殿に入っていった例の面妖な りと舞台の上に根づかせて、両手を高々と虚空に上げ、胴体て出るらし オしカチェリオナティはきみをつ 〉止拠じゃよ、ゝ。 だけをじりじりとこちらに向けて回すと、顔ごと背中越しに仮面行列がしし言 ねら かっ′ : っ ふり返る恰好になり、こうして観客には、身ぶりと表情の演け回しているが、攻撃の狙いはこの私だ。やつはすでにきみ めちやめちゃ を舞台から放り出して、きみの座元の悲劇を滅茶滅茶にする 技とで二重の動きをするヤヌスそっくりに思えたものさ。 てきめん ことにまんまと成功した。そして今度は、きみの頭のなかに こういうのが実に効果覿面なんだが、しかし私が〈彼ハ 絶望シハジメル ! 〉とト書に書いていたら、その度にこいっ王女の幻像だの、グロテスクな幽霊だのといった、ありとあ 耳の裏にちらゆる奇天烈なものを詰め込んで、きみが芸術にすっかりそ をやらかしてもらわなくちゃいけないんだ。 こんたん ゃんとそう書きとめておいてだな、ジーリオ君、何とかしてつばを向けるようにしようって魂胆だ。私の忠告通りにした シニョール・ツェッキエッリみたいな絶望の演技をしてくれまえ、ジーリオ君、ちゃんと正気に返って、葡萄酒じゃなく ほ - 一、き
てなければ気がすまないとあせりにあせる。それなのに口をけるようにしてさしあげるためにも、このナターナエルの物 あ 出そうな一一 = ロ葉はどれもこれも、色褪せ凍てついて死んでいる語をいかに手際よく 独創的かっ印象的にはじめたものか よう。あなたはありたけの力をふりしばって一言葉を探し、吃と、私としてはさんざん頭をひねったものだ。 ン マ は、うまい書き出しの定 「むかしむかしあるところに」 り口ごもる。すると友人たちの分別臭い質問が氷の風のよう フ 「小さな地方都市 00 に」 に内、いの狂熱に入り込み、揚句には狂熱の炎も消えそうにな石だが味も素気もなさすぎる , これは遠回しにクライマックスをにおわせて多少はま る。しかし、もしもあなたがひとまずさっと一触、奔放なタ あるいはいきなりズ、、 ハリ、「〈とっとと失せやがれ〉、 ッチでその心像の輪郭を描きなぐっておけば、あとはすこし ふんめ ずつ熱をこめて色を重ねてゆきさえすればいいのだ。すると大学生のナターナエルが憤怒と恐怖の形相もすさまじくそう あや ・」、なは 友人たちはそのくさぐさの形姿の生きいきとした綾に心を奪叫ぶと、晴雨計売りのジュゼッペ・コッポラは : われて、あなたと同様、あなたの情緒のなかから生れた映像どうか の真只中にいる自分に気がつく , 実際私は、大学生ナターナエルのすさまじい形相にどこか 私の場合には、読者よ ! 実を一一一一口えば若きナターナエルの珍妙な点が感じられるような気がしたので、はじめはそう書 たず ことではないのである。 とはいえご存知のよう いてみた。しかしこの物語は笑い。 物語を誰に訊ねられたわけでもない かがよ ささかなりとあの内心の映像の綾なす耀いに映えていそうな に、私は作家という因果な種族の一人、この手合いときては、 のうり 前にも書いたように、自分が何事かを胸に蔵っているとなる言葉が、私の脳裡にはうかんでこなかった。果然、私は書き と、傍にやってくる人間はもとより、はては世のなかの人間出しをあきらめた。 親愛なる読者よ ! どうか、わが友人口ータールがかたじ 全体が「一体、どういうことなんだ ? 話を聞かせてくれな いかね、おい ? 」と訊ねているような気がしてならないのでけなくも教えてくれた右の三通の手紙を、あの心像の大体の ある。 輪郭と考えていただきたい。そして以下に物語を進めながら、 私はなんとか、すこしずつこれに色を重ねてゆくつもりであ かくて私はナターナエルの不運な生涯の物語を、なんとし てもお聞かせ申し上げなければならぬ破目に立ちいたった次る。 ひょっとすると私は、すぐれた肖像画家のように、実物を 第だ。ナターナエルの物語のふしぎさ、珍しさに私の魂はす とり - 一 つかり虜にされてしまった。だからこそ、読者よ ! しかも知らなくても実物そっくりだと、いやあまっさえその人なら あなたが世にも珍しいこのふしぎな物語にすんなりついてゆもう何度もお目に掛ったことがあると読者が思い込んでくれ ただなか こころ ども
ホフマン 768 いりひ 落日の光の射し込む、ちいさな親しげな部屋のなかだった。夢を見ているこの世ならぬ魔法の庭園が、ようやくうかび上 ほおづえ 彼女は右手で頬杖をつきながら、背の低い安楽椅子に腰を下ってきたのだ。キラキラと煌めく空中楼閣が城門を開き、そ まきげ していて、その白い指の間から褐色の捲毛が気まぐれそうに こから色とりどりの陽気な人びとが流れ出てきて、楽しげな ひと さか巻いてあふれ出していた。 左手は前掛けの上に置かれ、歓声を上げながらその美しい女にこよなくみごとな豪奢な贈 もてあそ じゃれるように絹の帯を弄んでいた。帯は、締めているそ物を捧げるのだった。だがこの贈物こそは、心の奥底から彼 しんかん こが のほっそりした身体から解けかかっているのである。その手女の胸を震撼させている、なべての希望、なべての焦れる望 し ギャザー ゆり の動きにつられるように知らず識らず、襞をたつぶりあしみそのものだったのだ。波打っ百合のように、めくるめくよ むなもと らった衣裳の下からわずかにのそいた小さな足の爪先が、ひうな胸許を覆うレース飾りが高々とはげしく盛り上り、ほの よこひょことかすかに上下していた。打ち明けて言おう。彼かに色づく肉色が頬を明るませた。い まこそ音楽の秘密がめ 女の姿の全体の上には優美の、この世ならぬ愛らしさの輝きざめて、天上の楽の音を奏でながら至高者の言葉を語り出し ′一うこっ か鋳込まれていたので、私の心は名状し難い恍偬に打ちふるたからだ。 信じて頂きたい、 いまや私自身もまたあのふ えた。私はギューゲスの指環が欲しいと思った。彼女に私のしぎな鏡の反映のなかで、ほんとうに魔法の庭園のさなかに 姿が見えないでいて欲しかったのである。私の目差しにふれあったのだ」 るやいなや、夢の像のように彼女はたちまち虚空にかき消え 「まったくこの本は」とお婆さんは本をパタンと閉じて、眼 てしまうのではないか。それが私にはこわかったのだー こ鏡を鼻から外しながら言った、「いやに調子よくべらべらと まほえ よなく優雅なあまい微笑みが口元と頬のまわりに戯れている。まくし立てたもんだねえ。だけどさあ、なんのことはない、 ためいき かすかな溜息が紅王のように赤い唇の間から洩れ出ると、愛これだけめったやたらに美辞麗句をならべ立てて、結局言わ がくぜん めいそう 神の燃える矢のように私の身体に命中した。私は愕然とした。んとするところは要するに、腰を下して瞑想に耽りながら空 なんだか狂熱の歓喜の激烈な痛みにつれて彼女の名を声高に中楼閣を組み立てている美しい女の子ほど優美なものはない 呼んでしまったような気がしたからだ ! / ' 刀ノイー ゝ皮女が私に気し、センスと分別のある男にとってそれほど危険な誘惑はな がついた様子はない。私のほうを見ていなかったのだ。そこ ということでしかないんだね。先刻も一言ったけど、これ で私は勇を鼓して、こちらにじっと向けられているように見はそっくりあんたに当てはまるよ。あんたがそこで、王子さ える彼女の眼のなかをのそき込んだ。するとそのこよなくあまがどうとやらの、王子さまの奇術がどうとやらのと、ほざ まやかな鏡の反映のなかに、その天使の像の人がうっとりと いていたことは、まるつきり、あんたがひたっていた夢の世 ルビ かたち つまさき きら
木道はますます暗くなって行く。そして最後にすべてはまわ輝かしい眺めだった。暫くの間ばくらは身じろぎもしなかっ りから閉じられた小さな広場で終るのだが、そこには孤独のた。やがて彼女が話し始めた。私、月の光のなかを散歩いた しますと、きっと、きっと、亡くなった人たちのことを思い 持っ戦慄が漂っている。ばくはまだありありと感じるのだが、 ば出さずにはおれませんの。死についての思い、未来について はじめて、ある日盛り、この小広場に足を踏み入れた時、 の思いが、きっと、私の心をゆさぶります。私たちが無とな くはどんなにか深い内密の感情に襲われたことだったろう。 ばくがある時かすかに予感したのは、そこがばくにとって、るはすはございませんわ ! 彼女は深い思いのこもった声で 言いがたい至福さと苦痛の交錯する場とならずにはいないで続けた。けれども、ヴェルテル、私たちはまたお会いするの あろうということだったのだ。 でしようか。また互いに相手をその人だと判るのでしようか どうお思いでしよう。どうお考えでしよう。 ばくはおよそ三十分ばかりも別れの、そして再会の、切な ロッテ ! ばくは彼女に手を差しのべ、今にも溢れ出よう くも甘やかな思いを心に反芻していただろうか。ばくは二人 この地上 が台地に登ってくるのを聞きつけた。ばくは二人のもとへ急とする涙とともに言った。お会いできますとも ! かなた ぎ、身をおののかせながら彼女の手をとって口づけした。ばでも、またあの彼方でも、必すまたお会いできますとも , ばくはそれ以上、一言葉を続けることができなかった くらが台地に立った時、丁度月が灌木におおわれた丘の蔭か ああ、ヴィルヘルム、ばくが心おののく別れを胸にひめてい ら姿を現わした。ばくらは様々なことを話し合いながら、 た、まさにその時に、彼女がこの問いを口にしなければなら つの間にか小広場にある荒れたあずまやに近づいていた。ロ ッテはなかに入り、腰を下ろした。アルベルトがその脇に坐なかったとは ! そして亡くなった懐かしい人たちは、と彼 り、そしてばくもそれに続いた。ゞ ばくは揺れ動く気持女は一一一一口葉を継いだ、私たちのことを知っていてくれるのでし ようか。私たちが心安らかなひと時、あの人たちのことを暖 脳にせめられ、長く坐っていることができなかった。ばくは立 の かい愛の気持とともに思い出していることを、あの人たちは ち上がり、彼女の前に立ち、あちこちと歩きまわり、また腰 テ を下ろした。ばくはもういたたまれなかった。彼女はばくら感じていてくれるでしようか。静かなタベ、母が遺していっ ヴの注意を月の光の美しい働きに向けさせた。壁のように立ちた弟妹たち、今は私の子供となった弟妹たちの間に坐り、み 若並ぶ樵の樹々の並木道の果てに、月の輝きに照らし出されて、なが、かって母をかこんだように、今は私をかこんで集まっ 台地の全体の姿が浮び上がっているのだった。ばくらのすぐておりますと、おお、いつも、私のまわりには母の姿が漂う まわりには深いタ闇が迫ってきていたので、それはなお一層のです。私はこがれる思いの涙とともに空を見上げ、そこか せんりつ わき
それでも、君らはそれを妄想と呼ぶのか ? 君らでのみ、私は仕合せなのです。悩みも楽しみもあなたの眼の の安気な生活のなかでの言葉の遊び , 妄想 ! おお神前でこそ味わいたいと思うのです。 そして天なる父よ、 テよ ! あなたの御眼にも私の涙は見えましよう。人間をかく あなたがそういう息子を追われたりなさることがあるでしょ ゲもあわれな存在としてお創りになったあなたが、何故その上うか ? 容赦なき同胞までもお与えにならなければならなかったので しようか、人間に残されたわすかばかりの持ち物、あなたへ 十二月一日 のわすかばかりの信頼さえも奪い取る同胞までも ! すべて を愛する神よ ! あなたへの信頼なのです。何故と言って、 ヴィルヘルム ! 先便で報告したあの男、あの仕合せな薄 つる 神よ、利き目も著しい薬草の根、葡萄の蔓の切り口からした幸者は、ロッテの父のところの書記だった。ロッテヘの情熱 たる薬液への信頼は、取りも直さす、私たちを取り囲む万物を胸に養い、それを隠しおおそうとし、だが隠し切れず、職 ちゅそせい のなかに私たちが日々必要とする治癒蘇生の力を秘めて置かから追われ発狂した。この事務的な一言葉から、アルベルトが れたあなた御自身への信頼に他ならないのではないでしよう いとも冷静にこの話を物語った時ばくがどんなに激しく心を か。父よ ! 私の見知らぬ父よ , かっては私の魂を充たし、動かされたかを、察してくれたまえ。君もアルベルト同様冷 今は私から顔をそむけられる父よ ! 不 ムをあなたのみもとへ静に読んでいるのかもしれないが お召し下さい , 沈黙をお破り下さい ! あなたの沈黙も、 渇いている私の魂をもはや地上につなぎとめることはできま 十二月四日 せんー丨ーひとりの父が、たとえ神ならぬ人間の身であったと しま しても、思いがけす一民ってきた息子がその首にすがってこう ああ、君、ばくはもうお終いだ。ばくにはもう堪え切れな 叫ぶ時、どうして怒ることができましよう。戻って参りまし 今日ばくは彼女のそばに坐っていた。 た、わが父よ、あなたの意志に従えばもっと長く続けるべき彼女はピアノに向かい、様々な旋律を、そして、その表現の であった遍歴を中断したからと言って、どうか叱らないで下すべてを , すべてを、そのすべてを , ねえ、君、ど ひぎ き」し , 世界は何処へ行っても同じでした。辛苦と労働は報 うすればいいのだ ? ーー彼女の小さな妹がばくの膝の上でお 酬と喜びによってむくわれます。しかしそんなものは私にと人形のおめかしをしていた。ばくの眼には涙が浮んだ。ばく って何ほどの意味がありましよう。あなたのおられるところは顔を伏せ、見るつもりもなく彼女の結婚指輪が見えーー涙
ら母がせめてひと時なりとも私たちを見てくれることを、心さいましたが、滅多と読んで下さることはございませんでし から願わずにはいられません。お母さまに代って弟妹らの母 た。というのも、あの輝かしい魂を持ったお母さまとお話し テとなりますと、母のいまわの際に誓った言葉を、きっと守ろすることが何よりも大事だとお思いになったからではないで ゲうと努めている私を見てほしいと心から願うのです。そうい しようか ? 美しく、、い優しく、生き生きと、いつも働き続 う時、どんな思いに動かされて私は叫ぶことでしよう。お許けたあの方 ! 神さまは私の熱い涙を御存知です。私はよく おんまえ し下さいまし、貴いお母さま、私が弟妹たちにとって、お母寝床のなかで、神さまの御前に身を伏し、お母さまに劣らぬ さまがそうであったようによき母ではありえないことを。あ人間にして下さいましと願って、涙を流さずにはいられなか あ、ですが、私はわがカの及ぶ限りのすべてをしております。ったのです。 着せ、食べさせ、更に、そうしたことのすべてにもまして、 ロッテ ! ばくは叫びながら、彼女の前にひざますき、そ むつ いたわり、いつくしみ育てております。私たちの仲睦まじい の手をとって尽きぬ涙で濡らした。ロッテ ! 神の祝福とお きょ みたま もし貴 様子を見てさえ頂けるならば、聖い愛するお母さま、お母さ母上の御魂は必すあなたを見守っておいでです。 つら まは、最期の辛い涙をこめて子供らの良き行末をお祈りにな方に母と知合いになって頂けたのでしたなら。ばくの手を熱 った神さまに、必す厚い感謝と栄光とを捧げられることでしく握りしめながら彼女が言ったーー母は貴方に知って頂くに よラっ ふさわしい人でした , ばくは、自 5 も絶えなむと思った。 そう彼女は言ったのだよ ! おお、ヴィルヘルム、誰が彼この言葉以上に、より偉大な、より誇りうる一言が、ばくに 女の一一一一口葉をくりかえしえよう ! どうして冷たい死んだ文字ついて言われたことはなかったーー彼女は続けた。そしてそ が高揚する魂のこの世ならぬ美しさを表現しえよう。アルべ の母が、まだ生の盛りにあって逝かなければならなかったの ルトが穏やかに彼女の言葉をさえぎった。 興奮なさり過ぎでです。一番下の子がまだ六カ月にもならぬといううちに , あなた すよ、ロッテ。貴女にとってとても大事なお気持だというこ長く病みはいたしませんでした。母は心静かに、神さまにお がんぜ とは判り・ # ( す・が、、も , っ少一し おお、アルベルト、と彼女まかせいたしておりました。オオ こ。こ子供たちが、なかでも頑是 は言った。貴方も覚えていらっしゃいますわね。お父さまが無い子のことが、痛ましく心にかかっていたのでした。最期 ご旅行に出ると、夜、小さな子供たちを寝かせたあと、円い が近づいて、母が、みなを連れていらっしや、 と一一一一口い、私 . 小さなテープルを囲んで、いつも私たち、お母さまとご一緒が何も判らぬ下の子たちと悲しみに取り乱した上の子たちを に坐ったものでした。貴方はよくためになるご本をお持ち下部屋に入れました。みなが病床のまわりに並び、母は手を挙
ゆる ことがよく分ったよ。赦してやろう。そこで、私の寛大さ、 ぐりと口を開けてほかでもないその連中をばかんとながめて やさしさが際限のないものであることをきみに分ってもらう いたし、大公が何か並外れた人間、てつきり魔術師かなにか ために、きみの一生のうちにめぐり遭える最高の幸運を私か にちがいないと思い込んでしまったのだからね。すいぶんお らさし上げよ , っ ! どけたことをしこたまやってのけたが、たしかこんなのがあ 『白い黒ン坊』の役を上げるのだよ。 や いや カーニヴァル この役を演れば、至高のものを憧れるきみの心の渇きは癒さ ったよ。一度謝肉祭のときにコルソのど真中にオレンジの実 れるだろう , そうはいってもわが子ジーリオよ、きみはをまき散らしたら、あッという間になかから可愛らしいプル こびと いま悪魔に絡みつかれているのだ。詩文芸にたいする、私のチネラの侏儒どもがひょこひょことび出してきて、大向うを わ 悲劇、私という人間にたいする地獄の陰謀が、きみを殺人のやんやと湧かせたのだ。大公の日く、これなるはローマ中で しかしなんだって 道具として利用しようとしているのだ。 いちばんあまい果実にござるだとさ。 きみは一体、あ 私は、大公の気ちがいじみた愚行ばかり述べ立ててきみを退 のバスティアネッロ・ディ・ビストーヤ老大公の話を聞いた かんじん ことがないのかね ? 老大公は、仮面のおどけ者どもが入り屈させて、この男が危険人物であることを物語る、肝腎の話 想像がつくだろうが、 込んでいった例の老宮殿に住んでおったのだが、もう何年もをさっさと言っちまわないのだろう ? このいまいましい老いばれは文学や芸術のありとあらゆる良 前のこと、ローマから跡形もなく消えてしまったのだよ。 こしたんたん どうだ考 さて、この老バスティアネッロだが、これが実におかしき趣味を葬り去ろうと、虎視眈々だったのさ ? えられるかい、やつは、こと演劇の話となると、仮面喜劇の な変人で、一一一口うことなすこと、なんでもへんちくりんな具合 に並外れているのだ。自分の口から言うには、さる遠い見知肩ばかり持って、悲劇といえば古典悲劇一辺倒、焦げ臭い脳 一ごっ。む らぬ国の王家の出で、三百歳か四百歳にはなっているという髄にしか孵せないような悲劇は真平御免蒙る、とこう来たも のだが、私が知っている司祭は大公をこのローマで洗礼したのだ。そもそも私にはあの男が何を言わんとしているのかさ けんぞく なぞ つばり分らなかったね。だが、最高の悲劇は一種独特な諧 女というのだね。大公はよく、故郷の彼の一家眷族から謎めい ぎやく とやっこさんが た流儀で受ける訪問のことを話していたが、実際、彼の屋敷謔によって生み出されるのにちがいない、 、ヒ めんよう ふうてい ンには、突然いとも面妖な風態をした連中がよく姿を見せては言い張るのに及んで、やっと分ってきたよ。それも 市人〕信じられなし 、、ほとんど口にできん・ーー私の悲劇が また、来たとき同様ふいと消えてしまったものだよ。 やつの言うには、すこぶる 用人や御殿女中にへんてこな服を着せるのなら、 いとも簡単かね ? 私の悲劇がだよ みんな なことじゃないかね ? だって民衆はびつくり仰天、あんっきに諧謔的だとさ。悲劇的パトスがそこでは無意識のうち かえ いわ