ポーランド - みる会図書館


検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

く冷たく狭くなるようにしたのである。 つけ、ふたたび掴んで、上着をばりつといわせ、左手で殴り、 ちょうど一台の装甲車が 「オストマルク」だったと思右手で支え、右手で支えたまま左手で落とし、落ちるところ リッター小路からふたたび郵便局を目ざしてごろごろをさらに右手でひっ捕え、右と左と同時に拳を固めておどし と進んできた、そのとき、ずっと前から生きていないみたい つけ、次のその拳を大きくふりかぶって、ヤン・プロンスキ だったばくの伯父ャンが右脚を銃眼に突きだしたのである、 ばくの伯父、オスカルの推定上の父を殴ろうとした 装甲車がそれを見つけて、射撃してくれといわんばかりに脚そのときがたがた音がした、おそらく天使が神の名誉のため をあげたのである。それとも、流れ弾がそれを憐れんでふく ) がたがた音を立てるように、そのとき歌声がした、ラジオ かかと らはぎか踵をかすめて傷を負わせ、その傷が大げさにびつこでエーテルが歌うように、そのとき。フロンスキーに命中しな をひく兵隊に後退を許可するのを望んでのことだったかもし かった、そのときコビュエラに命中した、そのとき一発の榴 れない。 弾が大げさにばくたちをからかった、そのとき煉瓦が笑って このように脚をだしておくことは、ヤン・。フロンスキーに 割れ目を作り、破片は埃になり、装飾は粉になり、木材は斧 とって、永いあいだつづいては骨の折れることだったのだろを発見した、そのときおどけた子供部屋全体が片足でびよん う。彼はそれをときどき中断せねばならなかった。彼は背中びよん跳ねた、そのときケーテ・クルーゼ人形がはじけ飛ん を下にして引っくり返ったとき初めて、両手でひかがみのと だ、そのとき揺り木馬が通り過ぎ、騎手が乗っていたら放り ころを支えることによって、めくら撃ちゃ狙い撃ちの銃弾に だそうとした、そのときメルクリン積み木箱の中で構造の失 対してふくらはぎと踵を差出しておくことが、ずっと楽につ敗が暴露し、ポーランド槍騎兵は同時に部屋の四隅を全部占 づけられ、成功の見込みも大きいということがわかった。 領したーーーそのときついに玩具を載せた棚が倒れた、そして ばくはヤンの性質をよく知っていたし、今日でもよく知っ鉄琴は復活祭を鳴らし始め、手風琴は開いて叫び声をあげ、 鼓ているのであるが、自分の上司である郵便局書記のプロンストランペットはだれかのためになにかを吹いたようである。 太 キーがこのようにあさましくやけつばちな格好をするのを見すべてが同時に音を発した、それは練習中のオーケストラで の キたとき、コビュエラが激怒した気持ちもよくわかった。門番あった。それは叫び、はじナ、、 ししななき、鳴り響き、粉々に は一跳びで立ちあがり、二跳び目にばくたちのところへきて、なり、破裂し、軋り、金切り声をあげ、高い音でびいびいさ すでにばくたちの上に蔽いかぶさっていた。そしてャンの上えずった、そしてずっと低いところで土台を掘り起こした。 たた しかし、ばくの所へは、三歳児にふさわしく、榴弾が撃ちこ 着と上着もろともャンを掴み、その包みを持ちあげて、叩き きし おの

2. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

グラス 700 てしまっていた。 鉛の兵隊でいつばいの子供の天国から別れねばならぬとき、 負傷者のそばにいる男たちに見つからないようにして、ば どんなにつらかったか想像すると、ばくは少し意地の悪い喜 そうきへい くは郵便物の倉庫を逃げだした。太鼓は見殺しにした。そしびを感じた。おそらくその子は数人の槍騎兵をズボンのポケ よう亠こい てもう一度、ばくの推定上の父であり伯父であるヤンを探し、 ットに突っ込んだことだろう、後にモドリン要塞をめぐる戦 門番のコビュエラを探した。 しで、ポーランド騎兵を強化することができるよ , つに。 三階に中央郵便局書記ナチャルニクの官舎があった、彼は オスカルは多すぎるほど鉛の兵隊のことを語っているが、 早目に家族をプロンベルクかワルシャワに送りだすことがでそれでもこのことだけは白状しないわけにはいかない。すな きた。最初ばくは中庭に面した倉庫をいくつか探したが、 ャわち、玩具や絵本や遊戯板を載せた棚のいちばん上に小型の はちみつ ンとコビュエラがナチャルニクの官舎の子供部屋にいるのを楽器が並んでいて、蜂蜜色のトランペットが 一本、戦闘行為 発見した。 に従順な、つまり砲弾が炸裂するたびにちりんちりんと鳴る そこは気持ちの良い明るい部屋で、愉央な壁紙が貼ってあ鉄琴と並んで音もなく立っていた。色どり鮮やかな手風琴が ったが、残念なことに、数個所流れ弾で傷がついていた。二右外のほうにすっかり伸び切って傾いていた。両親は彼らの つの窓の前に、平和なときならば、腰をおろして、ヘヴェリ後継者に、ちゃんと四本弦を張った本式の小さなヴァイオリ 、 ' ウアイオリンと並んで、白 ウス広場を眺めながら、楽しい一時を持っことができたろう。 ンを贈るほど常軌を逸してした。。 まだ傷のついていない揺り木馬、いろいろのポール、徒歩や い無傷の縁を見せ、転がるのを防ぐために数個の積み木で囲 馬に乗った逆立ちした鉛の兵隊でいつばいの騎士の城、鉄道まれてーーだれも信じようとしないだろうがーー白と赤にニ のレールとミニチュアの貨車のつまった蓋のあいたポール箱、スを塗った。フリキの太鼓があったのである。 多かれ少なかればろばろになった数個の人形、雑然とした人 ばくは最初、自分のカで太鼓を棚から引きずりおろそうな おもちゃ 形の部屋、つまり玩具の洪水から、中央郵便局書記ナチャル どとはしなかった。オスカルは自分の勢力範囲の狭いことを ぜいたくぎんまい さっち ニクが贅沢三昧に育てられた二児の、一人は男で一人は女の 、い得ていたから、背が低いために二進も三進も行かなくなっ 子の父親であるにちがいないことがわかった。この子供たちたときには、進んで大人の好意にすがることにしていたので 。、ワルンヤワに疎開し、、、 フロンスキーの兄妹と似ているにちある。 がいない二人の兄妹とばくが出会わないですんだことは、な ャン・プロンスキーとコビュエラは、床まで開いている窓 んとも幸いなことだった。中央郵便局書記のいたずら小僧がの下三分の一を隠している砂袋のうしろに伏せていた。左の

3. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

おおわらわ りと認めた。ャンはそうした非難をはねつけるのに大童だ当たりに近い所に、中ぐらいの大きさの窓のない部屋が見つ 艸った。だれもそんな話し こ耳を貸さす、彼は、地下室から、窓 かった。その部屋には弾薬箱を引きずっている男もいなかっ ロの並んだホールの正面の窓の前に、砂袋を運ぶ仕事を命じ たし、砂袋も積んでなかった。 ス せんたくかご られた人びとの列の中に押しこまれた。この砂袋やこれと似 いろいろの切手を貼った手紙を満載した車つきの洗濯籠が たがらくたが窓の前に積みあげられ、書類戸棚のような重い床の上にぎっしり並んでいた。その部屋は天井が低く、壁紙 家具が正面玄関の近くに押してこられた、いざとなったら、 は代赭色だった。ト クしゴムの匂いがした。裸電球が一つとも すぐバリケードを築いて、入口全部をふさごうというのであっていた。オスカルはスウィッチを探すには疲れすぎていた。 る。 はるか遠くから、聖マリア、聖カタリナ、聖ヨハネ、聖。フリ せいかし ばくがだれなのかを訊ねた人があったが、 ャンの返事を待ギッチ、聖バルバラ、聖三位一体、聖骸の鐘がうながしてい っている暇などなかった。人びとはいら立ち、大声でしゃべた、九時ですよ、オスカル、寝なければいけませんよ るかと思うと、極端なほど気を配って小声になったりした。 くは郵便籠の一つに横になり、同様に疲れ切っている太鼓も ばくの太鼓とばくの太鼓の悩みは忘れられてしまったようだ ばくのそばに寝かせて、眠りこんだ。 った。ばくの腹の前のあのスクラップの盛りあがりをまた見 られるものにしてもらおうと、ばくが当てにしていた門番の ポーランド郵便局 コビュエラの姿は依然として見えなかった。多分郵便局の二 階か三階で、ホールの配達夫や窓口係と同様に、 ' 弾丸を防ぐ ばくは手紙のいつばい入った洗濯籠の中で眠った。ロッチ ュ、ルブリン、ルウオウ、トルニ、クラカウ、チェンストホ ことができるというはちきれそうな砂袋を、熱、いに積みあげ ていたのだろう。オスカルがそばにいることはヤン・プロンヴァ向けの手紙もあったし、ロッチュ、ル。フリン、レンベル スキーにとってやっかいなことだった。そこではばくは、ほク、トルニ、クラカウ、チェンストホヴァからきた手紙もあ った。しかしばくはマトカ・ポスカ・チェンストホヴスカの かの人がミション博士と呼んでいる一人の男からャンが命令 を受けた瞬間をとらえて、人ごみの中にまぎれこんだ。ポ 夢も見なかったし、黒い聖母の夢も見なかった。ばくは夢の てつかぶと ランドの鉄兜をかぶったミション氏はたしかに郵便局長だ中で、クラカウに保存されているピウスッキ元帥の心臓も、 、 ) し。よ、つ と思われたが、彼を注意深く避け、何度か探したあげく、ば トルニを有名ならしめた胡椒入り菓子もかじらなかった。相 くは二階に通じる階段を見つけた。そして二階の廊下の突き 変らず修繕してもらえないばくの太鼓のことも、けっして夢 たいしゃ

4. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

き盛りだった、まだ四十五になっていなかった。彼の眼は青れて立っている親衛隊防郷団の人びとによって閉鎖された、 く、髪は栗色で、手入れの行き届いた両手は小刻みにふるえ若者もいれば、腕章をつけ保安警察の騎銃を持った一家の父 親もいた。遠まわりになるがこの封鎖を迂回してレームから ていた。そしてこんなに気の毒なほど汗をかかなくてもよか 郵便局にたどりつくことは容易だったろう。ャン・プロンス ったならば、父親と推定される男の隣に坐っているオスカル が嗅がねばならなかったものは、オーデコロンであって、冷キーは防郷団員のところへ歩み寄った。意図は明らかだった、 彼はそこに留められ、たしかに郵便局の建物からへヴェリウ たい汗の匂いではなかったろう。 材木市場でばくたちは下車し、古町通りに沿って徒歩で下ス広場を監視させている彼の上役たちの眼の前で、追い帰さ れることを願っているのだった。そうすれば、彼は撃退され って行った。風のない晩夏の夕暮れだった。旧市内の鐘がい た英雄といった顔で、なかば面目を保ち、彼をここに運んで つものように八時ごろ青銅の響きで空を満たした。鐘の響き きた五番線の同じ電車に乗って家へ帰れるというものだ。 はたちを舞いあがらせた、「おまえの冷たい墓に入るまで、 防郷団の人たちはばくたちを通してくれた。おそらく、三 常に誠実で正直であれ」と鐘は歌った。その響きは美しく泣 きたいくらいだった。しかしいたるところ笑い声でいつばい歳の少年の手を引いた身なりのよい紳士が郵便局へ行くつも だった。陽に焼けた子供たちを連れた女、ラシャの海浜マンりだなどとはまったく考えもしなかったのだろう。彼らは丁 、色とりどりのビーチボールや帆船が、たくさんの水から寧な態度で、ばくたちに注意するよういってくれた。そして あがったばかりの人をグレトカウやホイプーデの海水浴場か彼らが、待て、と怒鳴ったのは、ばくたちがすでに格子の門 ら運んできた市電からはきだされた。もう眠そうな眼をしたを通り正面玄関の前に立っていたときだった。ャンはあやふ いち ) ゃな態度で向きを変えた。そのとき重い扉が細目に開かれ、 若い娘たちがよく動く舌で苺アイスクリームをなめていた。 十五歳の娘はウェーファーをとり落とし、すぐかがみこんでばくたちを中へ入れてくれた。ばくたちはポーランド郵便局 そこで躊躇して、そのの薄暗く、ひんやりと心地よい窓口の並んだホールに立って どろどろのアイスを拾おうとしたが、 太融けて形の崩れたアイスを、舗道とこれからそこを通る人の キ ャン・プロンスキーは彼の同僚から必すしも好意的に迎え 靴底とにゆだねた。やがて彼女も大人になり、もう路上でア 皮らは彼を信頼せす、すでに彼を られたわけではなかった。彳 イスクリームをなめることもないだろう。 諦めていたようだった。しかも、郵便局書記プロンスキーは シュナイダーミューレン小路でばくたちは左に曲った。小 路を出たところにあるヘヴェリウス広場は、分隊ごとに分かずらかるつもりなのだ、とみんなが疑っていたことをはっき くめ・いつつ

5. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

で呼吸しなくてもいいようにと願ったのである。 もっとさっさと、もっと・目癶凭的 - に、もっと三癶いあいだじゃが ばくの祖母のスカートの下に入るためなら、ばくはできる いも色のスカートの下にばくが入っているのを我慢してくれ 限りのことをした。ばくは、オスカルにもぐりこまれたとき、 入場許可を得るために、もっと愚かなゴム毬といっしょ 彼女がそれを好まなかったと言うことはできない。彼女はた に愚かなトリックを使う必要はすこしもなかった。太鼓を持 ちゅうちょ た躊躇してみせただけで、たいていはばくを拒否した。おって床の上を辷って行き、一方の足を折り敷き、一方を家具 そらく、半分でもコリャイチェクに似た人だったらだれにでで踏ん張って、祖母の山のほうに身体を動かし、足もとにつ おお も、隠れ場所を提供したことだろう。ただ、放火犯人の指も、 いたら太鼓の撥で四枚の蔽いを持ちあげる、そして祖母の下 いつも不品行なマッチも持たないばくだけは、この要塞を占に入り、四枚のカーテンを同時におろし、ものの一分も静か けあな 領するためにはトロヤの木馬を思いっかねばならなかった。 にしていて、毛孔という毛孔を開いて呼吸すれば、四季を問 まり びまん オスカルは本物の三歳の子供のように、。 コム毬で自分が遊わす常にあの四枚のスカートの下に瀰漫している、少し酸っ んでいるのを見る、そして、あのオスカルがたまたま毬をスばくなったバターの烈しい匂いを満喫することができるのだ カートの下に転がし、祖母がたくらみを見破り、毬を返してった。それからやっとオスカルは太鼓を叩き始めた。オスカ よこす前に、丸い口実の後を追って、スカートの下にもぐり ルの祖母がなにを聞きたがっているかはわかっていたから、 こむ姿を目にする。大人たちがその場にいると、祖母はばく ばくは十月の雨の音を叩いた。コリャイチェクが追いつめら とど が長いあいだスカートの下に留まるのをけっして許さなかつれた放火犯人の匂いといっしょに彼女の下にもぐりこんだあ たび 大人たちが彼女を軽蔑し、当てつけがましく、彼女の秋のとき、じゃがいもを焼く焚き火の向こうに彼女が聞いたに のじゃがいも畑での花嫁時代を思いださせ、生まれつき白い ちがいないあの雨の音に似せて。細かな横雨をばくは・フリキ ためいき ほうではない祖母をいつまでも真っ赤にさせたからである。の上に降らせた、するとばくの頭上で溜息とお題目が大きく 一八九九年にばくの祖母が雨の中に坐り、コリャイ 鼓その色は、ほとんど髪の白くなった六十歳の女の顔に似合わなった。 チェクが乾いた所に坐っていたとき大きくなった溜息とお題 のないこともなかった。 しかし祖母のアンナが一人だけのときにはーーーそういうこ 目をここであらためて確認することは、読者のみなさんにお とはまれであったが、 ばくの可哀そうな母の死後はますますまかせしよう。 まれになり、毎週立ったラングフールの市の露店をやめなけ ばくが三九年の八月、ポーランド人居住区の向い側でヤ ればならなくなってからは、ほとんどなくなった。。ーー彼女は ン・プロンスキーを待っていたとき、ばくはしばしば祖母の よう一い

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真夜中ごろ、月に二度か三度、ヤンの指がうちの居間の窓 うにべッドを脱けだし、もちろん太鼓を持たず、人に見られ ガラスを叩くのが聞こえた。そんなときマツェラートはカー ないようにしてテー。フルの下の影になった片隅にたどりつく テンを押しのけて、窓を細目に開けた。二人ともいつまでも ことができるのは、ほんとうにまれなことだった。 おろおろしていたが、又こ、。 彳しとちらからともなく歩み寄っ 前にすでにお気づきになっているとおり、ばくにとっては て、こんな遅い時間なのに、スカート遊びを提案するのだっ 以前からテー。フルの下が、すべての観察に、つまり比較する た。グレフを八百屋の店から呼んできた。彼が承知しないとのに、いちばん好ましい場所であった。それにしても、ばく きには、ヤンだからという理由で承知しなかったり、かっての可哀そうな母が死んでからというもの、なにもかもなんと のポーイスカウト隊長である彼はーー。彼はそのグループをい 変ってしまったことだろう ! ャン・プロンスキーは、テー つのまにか解散してしまったーー慎重でなければならなかっ ブルの上では慎重に勝負しながら次から次と負けつづけ、下 ふと・もも たし、そのうえスカートが下手でそれほどやる気もないとい では大胆にも、靴を脱いた靴下て、ばくの母の太腿のあいだ う理由で、承知しなかったときには、たいていは。ハン屋のアを占領するなどということをもうやらなかった。あの年月の レクサンダー ・シェフラーが二人の相手をした。たしかにパ スカート遊びのテープルの下には、愛はともかく、エロティ おやじ ン屋の親父もばくの伯父ャンと同じテーブルに向い合うこと ックなどというものはもはや存在しなかった。六本のズボン ひろ を好まなかったが、遺産のようにマツェラートに受け継がれの脚が股を拡げ、さまざまな矢はず模様を見せ、六本のなに たばくの可哀そうな母に対するある種の愛着と、個人で店をもはいていないか、ズボン下を愛好する、多少の差はあれ毛 やっている商人は団結しなければならぬというシェフラーのの生えた男の脚が、下では偶然触れ合うことさえもないよう 主義から、脚の短いパン屋はマツェラートに呼ばれると、ク に努力する一方、上では胴体、頭、腕へと単純化され拡大さ ラインハンマー通りから飛んできたのであった。そしてうちれて、政治的理由から禁止されねばならなかった遊びに熱中 あおじろ 力しカ し、勝ったり負けたりするたびごとに、弁解したり凱歌を奏 鼓の居間のテー。フルに席を占め、蒼白い、虫に刺された粉をこ 太 ねる指でカードを混ぜ、バンのように飢えた人びとに配った したりしていた。たとえば、ポーランドはグランの手を負け の のである。 ダンツイヒ自由市はたった今、大ドイツ帝国に対してダ ・フ イヤの手で簡単に勝った、というぐあいである。 この禁止されている遊びはたいていは真夜中過ぎにやっと この演習のような遊びの終る日がくるかもしれぬというこ 始まり、シェフラーがバン焼き部屋にもどらねばならぬ朝の とが予想されたーーあらゆる演習がある日終り、そしてもっ 三時に中断されたから、ばくが寝間着のまま音を立てないよ かたすみ

7. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

グラス 668 ではなく転任させられたのであるが また、あの中年の司 緑の木彫りは引きつづき海洋博物館に陳列されたままだっ 祭は彼女の足もとで死に、一人の工科大学の学生、二人の大 た。オリーヴァの州立博物館、肉屋小路の市立博物館、アル 学入学資格を取ったばかりのペ トリ高校の最上級生の横死が トウスホーフの管理者はこの男狂いの女を引き取ることを拒 つづき、四人の誠実な、たいていは結婚していた博物館守衛んだからである。 も死んだのである。 博物館の守衛にはなり手がなかった。木彫りの少女の見張 どの人も、工科大学生も、晴れやかな顔で死んでいたが、 りを拒んだのは守衛たちばかりではなかった。ここを訪れる その胸には、海洋博物館でしか見いだすことのできぬ種類の人たちも琥珀の眼の光っている部屋を避けて通った。等身大 鋭い物体が突きささっていた、すなわち、水夫用ナイフ、敵の彫刻に横から必要な光を与えているルネサンスふうの窓の ーもり・ やりさき 船を引っかける錨、銛、黄金海岸の細かな彫刻のある槍先、うしろは長らくいつも静かだった。埃が積もった。掃除女も 帆布を縫う針である。そして最後の高校最上級生だけは最初もうこなかった。かってはうるさいほど押しかけた写真家た に自分のポケットナイフ、次にコンバスを使わなければならちも、その一人が、船首像を撮影した後まもなく、たしかに なかった、彼の死ぬ直前に、博物館にあった鋭い物体はすべ自然死ではあるが、その写真との関連で人目につく死を遂げ て鎖につながれるか、ガラスケースに蔵われるかしたからでたので、自由市、ポーランド、ドイツ帝国、いやフランスの ある。 新聞にさえ、人殺し彫刻のフラッシュ写真を提供しなくなり、 殺人捜査班の警官はいずれの死の場合にも悲劇的な自殺と彼らが保存していたニオペー像を抹殺し、その後はただ、幾 発表したが、町では、また新聞紙上でも、「デ・グリーネ・ 多の大統領や国家元首や亡命国王の到着や出発の模様を撮影 うわき」 マリエルが自分の手でやったのだ」という噂がもつばらだっするだけとなり、ときどき計画される鳥類の展覧会、党大会、 た。ニオペーは、男や少年を生から死へ追いやったといって、自動車競走、春の洪水を商売にして生きたのであった。 本気で疑われたのである。人びとはあれこれと議論し、各新そのようなわけで、もはや給仕になるつもりもなく税関に 聞には、わざわざニオペー事件のために、自由な意見発表のも絶対に勤めようとしないへルベルト・トルツインスキーが 欄が設けられ、さまざまな不吉な出来事が話題になった。時博物館守衛の鼠色の制服を着て、みんなが「少女の快適な部 代にふさわしくない迷信について市当局は談話を発表し、 屋」と呼んでいるあの陳列室のドアのそばの革の椅子に席を わゆる不気味な事件がほんとうに生じたと証明されないうち占めるまで、こんな状態がつづいた。 は、軽率な行動に出ないようにと注意した。 ヘルベルトがはじめて勤めに出る日に、ばくはさっそくマ

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ルネフは研磨機のスウィッチを入れ、青灰色のカーボランダ をたちまち思い浮べ、砂採取場のほうへ馬首を向けているこ の像に、今度ポーランドの記念物保存係が、金めつきをほどム円盤を二人用石壁をのせるトラバーチン台座の上でキイー きんばく こしたがっていたわけがはっきりわかった。しかし、金箔をキイーと回転させ始めたが、しまいに眼は機械に向けたまま、 つけた馬と騎手の話を聞きながらも、ばくは依然としてあの研磨音をしのぐ大声で叫んだ、「一晩寝てよく考えてごらん。 ちよとした考えをやめるどころか、ますます重要になってく蜂蜜を舐めるのとはわけがちがう。どうしても考えが変らな るその考えをもてあそび、そして、コルネフがばくに彫刻用けりやまたおいでよ、見習いでもしてみるがいいさ」 の三脚式点刻機を説明し、十字架にかけられた主の左向きや石工の言うことを聞いて、ばくはばくのちょっとした考え 右向きの種々の石膏見本をこっこっと叩いたとき、ばくは、早を一週間にわたって吟味し、毎日、クルト坊やのライター石 アからは、「あ とビットヴェークの墓石を比較した。マリ くも、考えを簡潔に表現した、「あなたは、では弟子をやと すね うつもりがあるんですね ? 」。 ばくのちょっとした考えがつんたはあたしたちの臑かじりなのよ、オスカル。なにか始め せき たらどう ! お茶かココアか粉乳でも ! 」と、小言をくらっ いに堰を切ったのだ。「あなたは、弟子を探しているように たが、それでもなにも始めなかった。闇商売に乗り気を示さ お見受けしますが ? 」。コルネフは、うなじのねぶとの上に 貼った膏薬をこすった。「つまり、よろしかったら、ばくをぬこんなばくを、グステはさかんに賞めてくれ、外地にいる 弟子にしてくれませんか ? 」。この質問はまずかったので、夫のケスターを手本として推薦した。ところが、息子のクル トにはさんざん苦しめられた、彼はばくのことなどすっかり ばくはすぐに言い直した、「ばくの力をあまり見くびらない でください コルネフさん ! そりや、脚はたしかに少々弱無視して数字の列をでっちあげては紙面に書きこんでいたが、 いです。でも、腕のカではひとにひけをとりませんよ ! 」。ちょうどばくが多年にわたって、マツェラートを無視してき たのと同じゃり口だった。 自分の決断力に感激し、すっかり夢中になってしまったばく ばくたちは昼食をとってした。、 、クステは呼び鈴を切ってし は、左の二の腕をむきだしにし、小さいながらも牛肉のよう きようじん 、 ' ヘーコン付き掻き卵を食べているところをお客 太に強靭な筋肉をコルネフにさわらせようとした。しかし彼まってした、。 キ がさわろうとしなかったので、今度は貝殻石灰石の上の浮彫に邪魔されたくなかったからだ。マリーアが言った、「ねえ、 り用のみを掴み、その六角柱の金属をばくのテニスポールほオスカル。こんなおいしいものを食べられるのは、あたした ためいき ちからこぶ どのカ瘤の上ではすませて納得させようとした。ばくがこちが手をこまねいていないからよ」。クルト坊やが溜息をつ いた。ライターの石が十八に下落してしまったのだ。グステ のデモンストレーションをなかなか中止しないでいると、コ

9. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

味し、ついでにその鏡でもってーーーわたしの患者は今でもそ った下着は息子のクルトとオスカル氏に着せてしまっていた ため、寒かったのである。明け方、二人の勇敢な尼僧が引きのときのことを思いだして、ぞっとするらしいが とら 戸が少し開いているのに気づき、車内を清掃し、湿りきったる彼を捉え、三角形の顔にあいてる細眼でもってさりげなく としゃ ふんべん 藁や、大人と子供の糞便や、社会民主党員の吐瀉物を線路上冷然と観察したということである。 シュトルプからシュテッティンへの旅は、二日かかった に捨てた。 シュトルプで列車はポーランド将校の検閲を受けた。それ依然として、たびたび不本意に停車し、落下傘兵用ナイフと けんじゅう と同時に、暖かいスープと麦芽コーヒーに似た飲みものとが自動拳銃で武装したあの未成年者たちの訪問も、たび重な 配給された。マツェラート氏の車内の死体は、伝染病の危険るにつれしだいに慣れてしまったが、しかし、訪問時間はだ を考慮して、差し押えられ、衛生兵が板にのせて運びだした。んだん短くなった。旅行者には、もうこれ以上奪われるもの がほとんど残っていなかったからである。 尼僧たちの取りなしで、高級将校は身内の者たちが短い祈り わたしの患者の主張によれば、彼の身長は、ダンツイヒⅡ を捧げるのを許可した。それからまた、死んだ男の身体から、 靴、靴下、服などを脱がせることも許された。わたしの患者グダニスクからシュテッティンへの旅のあいだ、つまり一週 間のうちに九ないし十センチメートルも伸びた由である。と このあと、板の上の はこの剥ぎとり場面のあいだじゅう きようかく じようたい かたい 上腿と下腿が伸び、胸郭と頭は、しかし、ほとんど 死体にセメントの空袋がかぶせられたーー・裸にされた男の姪 を観察していた。この若い娘の名は、レックだったのに、彼伸びなかったという。その代り、患者は旅行中背中を下にし はこの娘を見ているうちに、激しい嫌悪と魅力に同時に襲わて寝ていたのに、背中のやや左上寄りにできたこぶが大きく なって行くのを妨げようがなかった。さらにまた、マツェラ れて、あのルーツィエ・レンヴァントを想起した。わたしは、 ート氏が認めるところによれば、シュテッティン以後 ルーツィエを模写して紐で作った作品を、サンドイッチを食 べる女、と名づけている。車中のあの少女は、剥ぎとられてつのまにかドイツの鉄道職員の手にこの輸送は受け継がれて 太 いたーー苦痛が高まり、ただ家族のアルバムを繰っているく いく叔父を目前にして、ソーセージをはさんだパンを掴んで、 の キ 薄皮もろともその。ハンを平らげることはせず、むしろその剥らいではごまかせなくなってきた。彼は何度も間断なく叫び つづけねばならなかった。彼はその声でどこかの駅の窓ガラ ぎとりに参加し、叔父の衣服の中からチョッキを受けつぎ、 スに被害を与えはしなかったーーーマツェラートの一一 = ロ葉、ばく 持っていかれたニットスーツの代りにこのチョッキを身につ け、そう不似合いでもない新しい装いを懐中鏡にうっして吟の声からは、もうガラスを破る力が失われてしまったのだ

10. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

グラス 880 シュテルテべーカーのことを思いだしたという。 激しく四肢が痛んでいるときにも、彼に幾多の楽しい力し このシュテルテべーカーによく似た若者がマリーア・マッ かしまた、もの思いに耽らせる時間を贈ってくれたのであっ エラート夫人の手からリュックサックを引ったくろうと思い ついに事実、引ったくったとき、マツェラート氏は運よくい わたしの患者がさらに言いたがっているのは、車輛の震動、 てんてつ こうさてん ちばん上にのっていた家族のアルバムを、とっさにリュック転轍機や交叉点を越えるときの衝撃、貨車のたえず震動する からみだした。最初そのリーダーは怒りそうになった。し前車輛の上にずっと横たわっていたことなどが、彼の成長を かし、わたしの患者がそのアルバムを開いて、若者に彼の祖促進した、ということである。これまでのように横に大きく 母アンナ・コリャイチェクの写真を示したところ、若者は自なるのは止まってその代り背丈のほうが伸びてきた。炎症を 分のおばあさんのことを思いだしでもしたのか、マリーア夫起こしていたわけではないが、腫れあがっていた関節がゆる 人のリュックサックから手を離し、自分の角ばったポーランやかな感じになった。彼の耳や鼻や生殖器までが、聞くとこ ド帽に二本指を当てて敬礼し、マツェラート 一家に向ってろによれば、貨車の震動のもとに成長を示した由である。輸 ド・ヴィズエニア 「さようなら ! 」と言ったかと思うと、マツェラートのリュ送が順調に進行しているあいだは、マツェラート氏ははっき ックサックの代りに、他の旅行者のトランクを掴み、部下をりとした痛みを感じなかった。再三バルチザンか青年団の訪 従えて車輛を去った。 問を受けて、列車が停車したときにだけ、彼は刺すような引 ちんつう アルバムのおかげで一家の手に残ったそのリュックサック つばるような痛みを感じ、既述のように鎮痛作用のあるアル の中には、若干の下着類のほか、食料品店の帳簿と売上げ税バムでもって、これに耐えたということである。 納入証書、貯金帳、ルビーの首飾りなどが入っていた。この ポーランドのシュテルテべーカーのほかにも、なお数人の 首飾りはマツェラート氏の母上の形見で、わたしの患者は、 青年盗賊と一人の初老の。ハルチザンが、その家族の写真を賺 これを消毒剤の袋の中に隠しておいたのである。さらにまた、 ったアルバムに興味を示したそうである。老戦士は、とうと ラスプーチンの抜粋とゲーテの著作とを半々に含んでいるあう坐りこんでしまい、煙草をくわえて、入念に一枚もおろそ の教養書も西方への旅に参加していた。 かにせす、アルバムをめくっていた。祖父コリャイチェクの ーア・マツェ わたしの患者の主張するところによれば、彼は旅行中すっ写真に始まり、おしまいのスナップ写真、マリ と、たいていはアルバムを、そしてときどきは教養書を膝のラート夫人が一歳、二歳、三歳、四歳の息子クルトといっし 上にのせ、それを繰っていた。そしてこの両書は、どんなに ょに写っているあのスナップ写真に至るまで、たくさんの写