カサンドラ - みる会図書館


検索対象: 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2
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1. 集英社ギャラリー「世界の文学」11 -ドイツ2

なふうをしていたし、かりに今だって同じ態度をとるだろう。 けにもい力なカた。今思えば、それはほとんど慰めのよう にすら思われる。いやほんとうに、あの目はそなたにも見せしかし、彼なりにそのことを考えていたのはまちがいない オレステスがこれらのことについて心の中でもじっさいどう 「オレステスはカサンドラと一度もあったことがないのです考えていたかは、そなたにも到底わかるまい。彼は、父王と ならべて母をも埋葬させた。過去の凶行を忘却にゆだねるた か」とわたしはピュラデスにきいた。 「いや、あるはずもないではないか。われわれが国にかえつめだけか、それともどういう気でそうしたのか、誰が知ろう。 いすれにせよ、それはそれでよい。できれば彼は、カサンド てあの恐ろしい事件が起ったとき、オレステスはミュケナイ ラをも、父のために同じところに葬りたかったのだろう。と にいなかったのだからな。わたしは脱出してオレステスのと し、力し はんぎやくしゃ ころが、あの叛逆者アイギストスは、カサンドラの遺骸に ころへ、つこ。 しオ二人が復讐のためにもどったのはそれから二、 三年あとのことだ。がそのころオレステスはやっと十六か七はひどい扱いをした。それは残飯といっしょにして捨てられ てしまったのだ。それは女王が考えだしたことかもしれぬ。 くらいだったろう。もしオレステスがカサンドラにあってい たら、彼はなんといっただろうか、知りたい気がする。彼ら女王は、しみのあまり、ものにつかれでもしたようなあり さまだった。彼女は、すべての罪はカサンドラにあるという は性があっただろう。夫婦としてびったりというのではない うわ ) カサンドラの方が年上だったからな。そうではなく : : : さあ、噂をひろめようとさえした。むろん、それはばかげたこと だった。クリュタイムネストラはすっとまえからアイギスト どういったらいいか。二人はすぐおたがいの気心が通じただ スと手を結んでいたのだし、そもそも原因は理解を絶するほ ろうと思うのだ」 ど深いところにあったのだ。ところが、どんなことでもあま 「オレステスは父王に似ていましたか」 り長い間ひろまっていると、ついには人々もそれを本気にし 「いやそれが全然似ておらぬ。似ているといえばクリュタイ ムネストラの方だ。知らぬ人は、どうしてもアガメムノンにて、まさかと思う気持にさからってまで、人まねをしてあら ド似ていると思いたくなろうが。ともかく復讐をとげたあとでぬことをしゃべりちらすようになる。いやまったくのところ、 ン われわれは今なんの不安もなく、酒をのみながらこういう恐 サはそんな気がするのだがな」 カ 「オレステスはカサンドラのことを一度もたすねたことがなろしい事件のことを話している。まるでこの事件がわれわれ の酒のさかなになるだけのために起ったみたいではないか いのですか」 「別にたずねはしなかった。そんなことは問題ではないよう今誰かが部屋にとびこんできて、世界が崩壊するなどと叫び

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「それで、もしわたしの勘ちがいで、ただそう思いこんだだ い方だといってもよい。それは神々に憎まれるよりもわるい いったいわれわれは、事態はしか けだとしたらどうだろう。 ことた。。 たが、わたしが今いいたいのはもっと別のことだ。 カサンドラ、 じかだった、とはっきりいえるのだろうか わたしは、そなたの民が滅ばされるために力をつくした。も しそなたがカサンドラでないならば、そなたはわたしをただわたしも結局はそなたと同じことをのそんでいるのだ。わた しは、苦難のあげくトロイに勝ったアガメムノンが、これ以 敵と思わなければなるまい。しかしわたしたち二人のあいだ では、敵味方というありきたりのわけ方はあてはまらぬ。わ上の不運におちいるのをふせぎたいと思うのだ」 「わたくしからなにをお知りになりたいのです」とカサンド たしたちは、それとは別のやり方で話しあわなくてはならぬ。 ラはきいた。 わたしはつねづね思うのだが、われわれ少数者が出あったと 「あれはほんとうにアポロだったのか」 きは、ふつうのしきたりとは別のやり方で話しあうことがき 「そうです」 わめて必要なのだ。われわれは、他の連中には秘めているこ 「そなたの思いちがいではなかったのだな」 とを、たがいに率直に告げあわなければならぬ。というのも、 「アポロについて思いちがえるなどということがどうしてあ もしわれわれの一人があやまったばあいには、ほかの連中の りましよう。だってそれはすぐわかるのです。アポロはオリ あやまちによって生じるささいな害悪よりもはるかに恐ろし ープの林のところにおられました。正午のことでした。 い事態が生じるからだ。たしかわたしも一度は神に出あった でも、なぜわざわざそのことをおききになるのです。あなた ことがあるのだ」 はよくごそんじのはずではありませんか。先ほどわたくしが ( カサンドラがそのときどういったか、父はわれわれに話し てはくれなかった。もしカサンドラが父のいうような女であ入ってまいりましたとき、あなたはすぐそのことがおわかり になったはすです」 ったら、彼女はそのときうなすいただろうとわたしは考えた この一一 = ロ葉をきいて、父ははっきり納得した。カサンドラが い。なぜなら、神々が父の運命に関与し、時には身みずから 話しているあいだにも、彼女の態度にある特殊なものが感じ 姿をあらわして彼の仕事に加わったこともあったということ ナを、今日では誰でも知っているからだ。そのことはむろんカられたのかもしれない カ 「でそなたはどうした」と彼はきいた。 サンドラも知っていたであろう。むろんわたしたちは、とい 「わたくしは逃げだしました」 うのは、わたしと恐らくは母もということだが、当時それに 「アポロがそなたを愛していることを、いったいそなたは知 ついてはなにも知らなかった。 )

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かで、準備していてもらいたい。わたしが宮殿に入り、戸が らずにおわったが、わたしはそれが何にもまして残念に田 5 う。 とざされたら、時を失せず息子のところにかけつけるのだ。 もし父がそれを知ったら、異常な興味を覚えたにちがいない わかったな』かしこまりました。『ちゅうちよしてはならぬだが、父からきいてまだ記 1 し 意こ残っているかぎりで、父がカ ク そ』承知しました。『やむなくそなたにたのむのだ。わたしサンドラとかわした話のことを述べなければならぬ。という サ ノはそなたを信頼しているぞ』アガメムノンは非常にまじめなのも、その話というのは、ビュラデスが話してくれた事件の 顔をして、懇願するようにわたしを見た。彼はカサンドラの以前になされたのだからだ。 そばに立っていた。つまり、あの女は彼のそばにうずくまっ どうしてそういうことになったのか、わたしにはもうたし ていたのだ。あまり近くにいたから、彼の膝に身をもたせるかなことはわからぬ。アガメムノンはもう一度なにかの用で こともできるくらいだった。カサンドラもわたしの方をまじ座をはすした。明日の出発のための犠牲の祭儀について相談 まじと見ていた。そんなことはこれがはじめてだっただろするためだったと思うが、それ以外の理由だったかもしれぬ。 う。ああ、あのときの目が忘れられぬ。いや、アガメムノンともかく、父はしばらく幕舎のなかで、カサンドラと二人き の目もだ。彳 皮の目は灰色で、目つきがきびしかった。たいてりになっていた。カサンドラは、まるで忘れられたようにど まなぎ いのものは、彼の眼差しをまともにうけるとちぢみあがった こか部屋のすみに立っていた。 ものだ。ところがその目の色が変っていた。そう、もっと黒「ほんとうなのか」と父はカサンドラにきいた。「うわさに 味をおびていたのだ。あるいは、あたたか味をおびていたと よれば、そなたは未来を予言できるそうだが」 もいえる。なにか金色めいたものも光っていた。それは故国答えがなかったので父は彼女の方を向いたが、そのとき彼 の岸辺が目にうつっただけだったのかもしれぬ。その話をすはぎよっとした。カサンドラが、または彼女をつつんでいる るのはわたしにはむずかしい。それから彼は、わたしにむか はずのかげがふるえていると思ったのだ。 って親しげにうなすいていった。「それでよい』そしてわた 「なぜ坐らないのか」と父はいっこ。「こちらにきてわたし しはそこを去った。オレステスにこの話をしてきかせたとのそばにかけるがよい。酒を少しのんではどうか」 き、オレステスも「ははあ、なるほど。それでよい』といっ 「ありがとう存じます」とカサンドラは小声でいった。彼女 た。それから数時間もたたぬうちにあの二人は殺されていた は少し近よったが、やはり食卓からややはなれたところに立 のだ」 ヒュラ ったままでいた。ト / 鹿のような女だ、と父は思った。。 ビュラデスがわたしに話してくれたことを、父はついに知デスの話からすると、彼女はずいぶん小柄な女だったろうと ひぎ

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ざカサンドラのことを知りたがるのか。あの女は、長い戦争問わず、他の人の知らぬさまざまのことを見聞する機会をも った。むろん忘れてならぬのは、彼がまだ年はもいかず、た を通じてそんな重要な人物ではなかったではないか。すると めに正しい判断をなしえぬことも多々あったということだ。 あの男はいっこ。 こうして彼は、戦争も終るころ、ことに、アガメムノンやカ 「一片の雲もなく晴れわたった真昼どき、遠い平原のかなた かんばく に、あるいは灌木のしげみの間から、突然青灰色のほそい煙サンドラと同じ船で故国にむかったとき、彼女をも知るよう になった。この偉大な王が、そして彼とともにカサンドラが、 がたちのばるのが見えることがあるが、ちょうどそんなもの なのだ。煙は光輝く空のなかに消えていく。それを見ているギリシアの土をふんだとたんにアイギストスによって殺され と、あそこで目に見えずに燃えている火はなんだろうといぶたときにも、ピュラデスは手を出すすべもなくそこにいあわ むほん せたのだ。この謀叛には女王も加わっていたという説がある。 かしい気がしてくるのだ」 たと あの男がいったこの喩えをわたしは忘れることができぬ。おそらく女王はアイギストスのロ車にのせられたのだ。この イタカだってほめられた話ではない。貞節わが母のごとき 多分そのとおりであろう、がまたそうではないかもしれぬ。 そういう喩え話や、そこここで耳にするいろんな話のつじっ女はまれだというだけのことではないかそういうことはロ こんないまわしいことが起るのも、もと にしない方がよし まをあわせて、結局、事実はこうだったろうと考える。とき はといえば久しい戦争のせいにすぎぬ。神かけてこんなこと には、自分もそこにいあわせたと思いこんでしまうことだっ が生ぜぬようにしてもらいたいものだ。オレステスとはわた てある。してみれば、もうずっと昔に父や他の人からきいた ことを、今正確に述べるなどなかなかできそうもない。そのしは直接知りあったことがない。王として彼が衆望をになっ なかには、わたしがただ勝手に想像していることだってありていることは大方の評判だし、人はあえて過去にかかすらう ことはしないものだ。それにしても、もしわたしが彼と知り うるのだ。 。しかなかったろうと思う。そ さてカサンドラのことだが、 わたしがこの女について知っあっても、たがいにしつくりま、 ラ ていることは、たいてい父ではなくピュラデスからきいたののころわたしはギリシアじゅうを旅して、諸国の王とよしみ それは、父がふたたびわたした 皮を通じようとしていた、 ナだ。オレステス王の親友だったあのピュラデスのことだ。彳 カ はオレステスより二つ三つ年上で、あの戦争の終り頃には自ちのもとを去り、わたしが父にかわってイタカをおさめてい がそのときも、わたしはミュケナイで彼 らこれに加わった。 若年の身で、戦地にあるアガメムノン王たころのことだ の側近として配されていたのだ。だから彼は、陣営と幕舎をにあうことができなかった。むろんそのころは、もうとうに

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お相手なんかごめんこうむって、この女のところへいきたか った。人目につかすにぬけだすにはどうしたらいいか、わた しはそんなことを考えていた。父はそれをちゃんと見ぬいて いたにちがいない。父の目をごまかすのはなまやさしいこと ではなかったのだ。 だが、晩のだんらんのときなど折にふれてそういう質問を 「カサンドラのことなどどうでもいいではないか」 父がこういったときの顔をわたしはまだはっきりおばえて父にしてほしいと、わたしは母にたのまれていたのだ。ゆく ししゅう いる。父は暖炉にあたりながら、刺繍に余念のない母とむかえもしれなかった父がそれでもとうとうトロイからかえって、 いあっていた。わたしは広間をあちこち歩きながら、おおかわたしと力をあわせてイタカを平定してから二、三カ月たっ そうじしムう た頃のことだ。あらゆる苦難と騒擾ののちに、本来なら今 た暗がりのなかにいた。あのときわたしは、カサンドラのこ こそわたしたちは平和にくらすことができたはすだ。ところ とを父にたずねたのだった。はじめは、わたしの問いが耳に が、父にはなにかしつくりしないものがあった。とにかく、 入らなかったのではないかと思われた。やがて父は顔をすこ しあげたが、わたしの方へはほんのわずか向きをかえただけ母は父のことが気がかりでたまらなかったのだ。あの人は退 だった。そのとき、父が目をほそめると、顔じゅうに無数の屈をもてあましている、あの人はなにかしらそわそわしてい しわができた。このしわはいつものことで、ものを鋭く見する、と母は思っていた。父は晩になると、母を前にして何時 すわ 間も一言もいわずに坐っていることがよくあった。それから えようとするとよくあらわれた。ところがそのときは、それ 急に目をあげて、母の刺繍をさしながら、それはなにをつく がさかんにびくびくと動いて、かまどの火がまぶたのほそい だれ 裂け目のなかに映った。父にこんな目で見られると、誰でもるのかときくのであった。母の仕事に興味をもっているよう 度を失ってしまう。父がどういう気なのかいっこうにつかめなふりをしているのはむろんすぐわかった。 十年も戦地にいっていた人間はたいていこうなるというこ ドないからだ。 サカサンドラのことなど、ほんとうはわたしにだってどうでとを、わたしたちはその頃まだ知らなかった。こういう人た カ ちは、二度と故国の生活になじむことができなくなっている もよかったのだ。わたしは二十歳の若者だった。下の港そい に知りあいの女が一人いて、夜になると、こっそりこの女ののだ。父はそれよりもずっと長い年月世界じゅうをさすらっ ところへ出かけることにしていた。そのときだって、両親のたのだから、事情はもっとわるかった。じじつ、こういう内 ころ

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カサンドラにはわれわれの話がきこえたのだから、こんな た。出発を目前にしたこの日には、陣中の秩序もひどくゆる ときにその話をもち出すのはいかにも心ないことだった。アんでいたのだ。と、わしはカサンドラの顔が思わず苦痛にひ ガメムノンは全然別のことを考えていたから、ちょっと目をきつるのを見た。トロイの女たちが、こんなにやすやすギリ あげてカサンドラをちらと見ただけだった。 シア兵となれあうのが、彼女の心を苦しめるのだろうとわし 『あの女はわたしがえらんだのではない、わりあてられただ は思った。千年前もそうだったし、千年後もかわりはすまい だ』彼はメネラオスに無愛想に応じて肩をすくめてみせた。わしはそういって彼女をなぐさめてやろうとした。勝ったも カサンドラはそれまでヴェールで顔をおおっていたが、まるののところに人はあつまる。それもやむをえぬことだ。われ でぎよっとしたように顔をあげ、アガメムノンをつかのま見われにはそれをどうすることもできぬ。カサンドラはしばら 、 : やがてこういった。「こんなありさまにな く黙ってしたが、 つめていたのがわしにもわかった。それからわれわれはそこ はえ ったこと、そして、さまぎ、まに色をかえる大きな蠅どもが、 を去った。 わしはあとでカサンドラに、そなたはなぜあのとき幕舎のトロイが焼けおちて以来ところかまわずさわぎまわっている こと、これがなによりもおそましいことです』 外にたったひとりで坐っていたのかときいてみた。あの女は いったいわしがなぜあの女と話したのか、おまけにまるで 答えた。「女たちのにおいがたえられなかったのです』いや それは大変な暑さだったのだ。 これはどうも失礼したな、あの女を問いただすようなことまでしたのか、それをいって しか きかせようか。カサンドラが、呼ばれもしないのにアガメム ベネロペー。そんなことをいう必要はなかったな。 ノンの幕舎にやってきたとき、わしは一瞬疑いをもった。こ しカサンドラは王女であって、身分のちがう女奴隷といっし ょにいるのはたしかにがまんできなかったということも考えの女はどうにかしてアガメムノンを殺そうとたくらんでいる ふくしゅ、つ のではないか なくてはならぬ。 。トロイの没落の復讐をするためであれ、そ その後わしは、アガメムノンの幕舎でカサンドラと二人だの他なんのためであれだ。そういう女のことは誰しもきいた 一フ ことがある。むろんわしは、二言三言とかわすうちに、この けで話す機会があったが、わしはそのときもっと別のことに ナも気がついた。二人が話しているあいだ、 わしは坐って女は到底そんなことをやれはしないと確信した。今思えば、 カ いたがカサンドラはすっと立ったままだった。彼女は坐ろうそんな疑いをいだいたことがおかしくてならぬ。疑心暗鬼を としなかったのだ どこか外の方から、兵士にだきすくめ生むというやつだ」 、一うし。よ、つ 父は含み笑いをしてしばらく口をつぐんでいた。母は刺 られた女が悲鳴をあげたり哄笑したりするのがきこえてき

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た。「アポロがほれこんだのだから、カサンドラが美しい女 「なるほど、そうかもしれぬ。若い娘は自らをたのみ、みだ といっても、アポロにあっ だったのはいうまでもあるまい りに人のいいなりになってはならぬ。いつわり者の術中には がそれにしても、このばあたときのカサンドラがどうだったかはわしもむろん知らぬ。 えてしておちいりやすいものだ。、ゝ あの女がややおどおどして、よそよそしい態度をとるように なったのはそれからあとのことだろう。いや安心するがよい、 「あまり好奇心にかられてはよろしくありませんわ」と母は テレマコス。あれはしよせんおまえの相手としてふさわしい って、このエを . 打ちきりにしょ , っとした。 「いかにももっともだ。若い女の気持を察してみたところで、女ではなかったよ。あかるいばら色の肌をした女たちのとこ ろにいるがしいさ」 われわれにはなんのたしにもならぬ。だが、カサンドラは、 わたしは暗がりにいたから、まっかになったのを見られな 自分にい、よったのがアポロだということを疑いはしなかっ かったのはさいわいだった。母も微笑をうかべた。父が上機 「どうしてそれがおわかりになりますの、オデュッセウス。嫌で、わたしに冗談をいったのがうれしかったのだ わたしが一番ふしぎに思ったのは、事もあろうにこの父が、 あなたはカサンドラとじかに話しでもなさったのですか」 「そうだ。われわれがトロイを出発する前日の午後のことだ。アポロのこの事件に特別心をひかれているらしいことだった。 アガメムノンの幕舎のなかでだった。わしはカサンドラにこわたしにはまったく思いがけなかった。もし父がなにか話し てくれるとしたら、カサンドラがどうしてアガメムノン王と のことをきいたのだ。ちょっと奇妙な問いだったにはちがい ともに殺されるようになったのかということだろうとわたし しかしいざとなればわしはあの娘の父親になったかも しれないのだ。なにしろあの戦争だし、カサンドラはとらわは考えていた。事実をだいじにしろ、背後の理由をたすねる な、というのが、いつも父が与えた教えの一つだった。思う れの身だったのだ。そんなときはふだんとちがって、あまり よけいなことに気をつかわないものだ。それに、あの女はわに背後の理由などありはしないのだ、と父はいうのだった。 目に見えるたしかな事実から目をそらすと、行為にのり出す ドしのぶしつけな問いにこたえてくれたのだ」 ン べきよい潮時はかならす見失われる。風がしかじかの方向か サ「いったいカサンドラはどんな女でしたか」わたしはつい問 カ ら吹いてくる。だから帆をしかじかにあげねばならぬ。風が いかけすにはいられなかった。 なぜこう吹いて、こうではなく吹かぬのか、そんなことをせ 「ほはう、テレマコスよ、ばかに熱をあげおったな」といっ て父は笑ったが、母にしてみればそれは間のわるいことだつんさくしてもなんの役にもたたぬ。目をあけているかぎり、

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彼とピュラデスは国を平定していた。その革命さわぎで、か っそり目くばせした。それは、事がめんどうにならなかった わいそうに彼の母クリュタイムネストラも命をおとした。そのでほっとしたためだったろう。わたしは、このつぎからは れからオレステスは久しいさすらいの旅に出たが、ゆくえは もっと重にふるまおうと考えた。ところが、父は突然また ク ッようとして知られなかった。その間ピュラデスが彼にかわっ 目をあげて母にたずねた。「説明してくれぬか。わしは男だ ノて王国をおさめていた。 からわからないのだ。若い女が神に求婚されて、それをこば わたしはビュラデスとすぐ親交をむすんだから、旅の予定むというのはどういうわけだろう」 もそっちのけにして三週間もミュケナイにとどまることにな「神にですって」と母はききかえした。母には、父のいう意 った。日がくれるときまってわたしたちはいっしょになり、味がとっさに理解できなかったのだ なにかと語りあった。父についても、もしそんな機会でもな 「神にえらばれたと思うのはなんといってもすばらしいこと かったら終生ききえなかっただろうことを、彼の口からたくではないか。・ とうしてそれに反対などできるのだろう」 き、んきくことができた。。 ' ヒュラデスは、ムフはもう八十の坂を 「ほかにすきな人がいるとしたら」 ずっとこえた老人である。今でもよくわたしたちは、おたが 「そうかな」 あいさっ いの客人をとおして挨拶をかわし、なにかと贈り物をしあっ 「それはそうですわ」 ている。 「その神がアポロだとしてもか。アポロを見ると、他のすべ さてあの夜、わたしはふとカサンドラのことを口にしたのてのものは影がうすれてしまう。これまで価値のあった一切 だが、父に問いかえされてとっさに答えるすべもなく、ひどを忘れ、思い出とともに生きるよりはこの神とともに死にた くどぎまぎするところだった。折よく母が助け舟をだしてく しと思う。そうは考えぬか」 れて、彼女の方からたずねてくれた。 「わたくしなどにどうしてそれがわかりましよう」母はそう 「でもカサンドラはもうそんなに若くはなかったのでしよう。 いって、暗い広間をちらと見まわした。「そのようなことを どうしてあの人は結婚していなかったのかしら」 話題にするのはよろしくないと思いますわ」 「トロイの王女はたくさんいたのだから、嫁入りさせるのも 「だがカサンドラのことを知りたがったのはおまえたちでは 、ゝ 0 楽じゃなかったんだろうよ」と父ははきだすようにいっこ。 っておくが、カサンドラには別にすきな男はいな それからまた黙りこんでしまったが、 わたしたちはすぐ、そかった。だからどうもわからないのだ」 のことはもう父の念頭にないのだと思った。母とわたしはこ 「アポロがその人だとは田 5 わなかったのでしよう」

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しはやっとほっとすることができた。 ヘレナがスパルタに住んでいる。まるで戦争なんかなかった しかしわたしはさらに父にきいてみた。父がわたしたちに のと同じだ。それを思うと少しばかりあき足らぬ気がする。 いろいろ話してくれたあの夜ではなく、その翌日のことだ。そういうしあわせな人たちもいなければならぬ。それに文句 ク さいカ 母はその場に居あわさなかった。わたしたちは武器庫にいてをいおうとは思わぬ。しかし、この恐ろしい災禍のほんとう サ ノ武具類をしらべていた。わたしは父にきいた。出発前にもうの結末は、なんといってもあの別の一組なのだ」 一度アガメムノンにあったのですか、と。 その父自身が伴もつれずに乞食に身をやっして故国にかえ 「そうとも」と父はいった。「われわれは別れをつげたのだ りつくまでに長い年月を要したこと、その後も戦争の不安は 彼の心を去らす、ふたたび放浪の旅への衝動にかられていた 「でカサンドラは」 こと、それらについて父はなにもいわなかった。 「カサンドラは彼のうしろに、まるで彼の影のように立って 原題 KASSANDRA 「それで」 「わしはカサンドラの方を見てうなすいた。それからアガメ ムノンは歩み板をわたって船にのりこんだ。カサンドラはそ のあとを追うようにして彼に従った。それがすべてだ。久し く戦いをともにした戦友はめそめそしないものだ。あるいは、 ともかくもそうではないようなふりをするのだ」 しかしわたしは、これがすべてだと考えることはできなか ったし、父もそれに気がついたようであった。少したって、 わたしたちは窓ぎわに立ってイタカの島を見おろした。港が 見える。船が、あおい海が見える。一羽のかもめが、鋭い叫 び声をあげながらすぐそばをとんでいった。餌がもらえると 思ったのだ。 父はまた話しはじめた。「あの幸福な夫婦、メネラオスと えさ 一只三上カサンドラトロイの王プリアモスの娘。予言の能力をもって いたが、アポロの求婚をしりそけたため、予言の能力は奪われなかった が、誰にも信ぜられぬという罰をうけた。 一 0 会上アガメムノンミュケナイの王。トロイ戦争におけるギリシア 軍の総大将。 一只四下オデュッセウスイタカの王。トロイ戦争におけるギリシア方 の智将。トロイ滅亡後苦難の末故国にかえりつく。 一 0 会上クリュタイムネストラアガメムノンの妻。夫の出征中アイギ ストスと通じアガメムノンを殺したが、息子オレステスによって殺され る。 訳注 とも

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突然彼は、広間で話し声がするのに気がついて、魔法にで の気持からぬけきれぬさまには、心を動かされるものがあっ もかけられたように立ちどまった。 こ。「故意にやったのではない」と彼は何度もことわった。 「カサンドラの言葉はわたしにはききとれなかった。彼女は 「そう考えてはもらいたくない しかし、二人が幕舎で話し 、 ' とちらかといえばつぶやきに近 ていると気がついたとき、わたしはすぐそこを去ることもでごくひくい声で話してした。。 い。だがそれはなんという奇妙なつぶやきだったろう。幕舎 きたのだ。だがわたしはそこにじっと立ちどまったままで いた。そうなのだ。それはわたしとしてなんといってもほめのしきりがそのためにゆれ動いたようにわたしは隸う。とい られたことではない。わたしはたしかにどうかしていたの うのも、その日は風がまったくなかったからだ。わたしは考 えた。めまいのせいだろうか。もしかすると、昼のうち、日 ともか照りのなかをあまりかけまわったためかもしれぬ。そんなこ 王の大きな幕舎には入口が二つあったに相違ない 奥の方には小部屋があって、そこは物置などにつかわれとはかってなかったのに、と。わたしは、しきりの亜麻布に いた。ピュラデスが寝たのもそこである。彼は、用事があそっと手をふれて、ほんとうにそれが彼女の声でふくらんだ 一はきき るとすぐとびだせるようにしていた。この部屋をとおって外のかたしかめてみようとした。それなのに、 から幕舎に入ることもできた。父とカサンドラが話をした直とれないのだ。それから急になにもきこえなくなった。 後か、それともすっと夜がふけてからのことだったか、それられぬほど静かな長い時間だった。そもそも、話し声よりも はどち一らで・もよい ピュラデスは、なにか仕事をかたづける合間の方がはるかに長かったのだ。自分の思いちがいだと考 ために、なに気なしにこの小部屋に入った。別に音をたてぬえたとき、急にアガメムノンのたすねるのがきこえた。 「それからどうしたのだ』 ようにしてもいなかっただろう。そんな必要もなかったのだ。 しかしそれには答えがなかった。 「わたしは、他の仕事がいそがしくて、そういう事柄はすっ 『そなたがわたしに話すことはそれでおしまいか』彼がもう かり忘れていた。出発のために考えておかなければならぬこ 一度たずねたのはそのためだったろう。がカサンドラはやは ドとが山はどあったのだ。それはそなたにも信じてもらえるだ ン サろ , つ」挈よっ いいながら、ピュラデスは今でも、自分のいるこり黙っていた カ こもそのことをいっ 『ではも , つよろしし 、。—J を、おう。が誰し とが気づかれなかったのを不思議がっていた。「考えてもみ るがよい うすい天幕の仕切りがあるだけだったのだ。二人てはならぬそ』わたしはアガメムノンがそういうのをきいた。 こうしてカサンドラは退出をゆるされた。わたしは、彼女が はすっかり話レ こ夢中になっていたにちがいない」